September 3, 2010

マイケル・サンデルを読み、我を振り返りその無意味さを思う

僕が建築を今こういうかたちでやれているのはなぜだろうか?多少建築の才能があったからだろうか?学生時代に製図の成績が上位5人くらいの中にはいたのだから他の人よりかは製図に関しては多少才能のようなものがあったと言えるかもしれない。といったって高々50人のクラスの上位一割である。日本全体で見たらそんなものを才能と呼べるのかは謎だ。しかし僕はその才能のかけらのようなものを努力して磨こうとしたかもしれない。それに関しては多少の自負もある。ちょっとした才能と努力。それが僕の今の基礎にある。ではその才能と努力は僕という人間が保持している輝かしい価値なのだろうか?それによって大儲けして(なんてことは考えにくいが)豊かな暮らしを十二分に満喫したとしてそれは当然のことなのだろうか?職を失って貧困生活に喘ぐ人たちがたくさんいたとしてもそれは才能と努力が足りないといって打ち切れるのだろうか?
ジョン・ロールズの考えに従えばそうはいかない。才能はたまたま授けられたものであり、それは僕が偶然手にしたものである。では努力は?それこそ僕固有の資質ではないか?と思いたいがロールズはそう言わない。努力する資質は育った環境や親の教育によって身に付いたものであり、自分が自ら培ったものではない。つまり才能と努力は偶然と周辺環境によって授けられたものであり、それによって達成されたさまざまなことは僕が自信を持って僕のものだという権利はない。とロールズは言う。しかしだからと言ってそれを全部放棄せよということも言わない。ロールズの格差原理とは「個人に与えられた天賦の才を全体の資産とみなせ」というのである。
塩山の現場定例の行き帰りの電車でマイケル・サンデル『これからの『正義』の話をしよう』を読み終えロールズ理論を我が身にあてはめてみた。天賦の才などあるわけないのだが、思考実験としてあえてあると考えてみた(とりあえず失業して苦しんでいるわけでもないのだから)。しかし仮に僕のちっぽけな才能を社会全体の資産とみなしたところで才を持たない者の状況など改善する余裕はこれっぽっちもない。いや建築なんてやっている人間で才能のありそうな多くの人を想像しても、彼の彼女の才能が全体のものだとしても状況は全く改善されないだろう。というわけででこういう思考実験の対象とするべきはこの業界の人間ではないし、まして僕という人間でもない。

September 2, 2010

野沢北高校で出張講義

午前中のアサマで佐久平へ。小海線に乗り換えて中込。駅前で昼をとって野沢北高校へ。年に数回頼まれる県内の高校へ出向いての出張講義。去年は長野西高校で行った。そうしたら今年の四月の合格名簿みると長野西高校から建築学科に数名入学した。出張講義を聞いた生徒さんなのかどうかは定かではないが、その可能性は高い。それなので今年も僕の講義を聞いて受験してくれればと思ってやってきた。建築の楽しみと題して、自作を紹介しながら、何に苦労して、何に喜びを覚えたか、などなど語る予定だった。30名程度の受講生。プロジェクターとスクリーンを用意して頂いたのはありがたかったのだが、残念なことに、部屋が暗くならいのであった。この良い天気の南の部屋にはさんさんと太陽が降り注ぐ。カーテンはシーツのように白い。スクリーンに映し出された建物はおぼろげにしか見えない。ちょっとショック。高校の先生はあまりパワポなどは使わないのだろう。
終わって今朝来た道をもどり小海線に乗る。うとうとしていたら佐久平を乗り越してしまった。まずい。慌てて降りた駅で逆向きの電車を待つ。もちろん無人の田舎駅。1時間に一本しか電車の来ない単線路線。日陰に入って自然の中でマイケル・サンデルを読む。いやいやこの本ベストセラーになるのがよく分かる。カントの自由と道徳の説明なんて天下一品。やっと実践理性批判が理解できた。

September 1, 2010

ドンキホーテ公園

%E7%94%BB%E5%83%8F-0156.jpg
午後から八潮のワークショップ。5大学がスカイプを駆使して3つの公園基本構想を作成した。遠く離れた人どうしで案を作るというのはなかなか面白い経験だと思う。1.4haの敷地に150あまりのアクティビティを想定して。それぞれの場を作ると言う案がある。これはなかなか凄い。平均すれば一つあたりの面積は100㎡である。住宅の敷地のようなものだ。150の住宅(地)が密集したような公園である。槻橋さんがこれはドンキホーテのような公園と言ったがまさにその通り。人々は公園の中を探検してそれぞれ自分の場所を探し出すわけである。でも人々はドンキホーテ公園を喜ぶか????

August 31, 2010

スイス建築には人がいない

310IkTPNabL__SS500_.jpg
午後必要な本がありGAギャラリーに行く。凄く久しぶりにやってきた。2冊の本を買いたかったが一冊は在庫切れ。一冊買って帰ろうと思ったらオルジアッティの凄い本に出くわして買ってしまった。しかし、、、、この本アマゾンで調べたら買った値段の7掛け位で売っていた。ちょっとショック。本は一期一会なんてそろそろ思わないようにしよう、特に新しい本は。値段はさておき、オルジアッティのプランを見ているとどうしてこうも無造作に(見えるように)線がひけるのか、驚いてしまう。どうしてこんなに考えてないような(に見える)プランなのだろうか?作品集に篠原一男の住宅の外観写真が出ていた。オルジアッティが篠原ファンであることは有名な話だが、篠原のプランの方がよほど生活臭があるし、その空間写真も人の気配を感じる。オルジアッティの空間は(ケレツにもそういうモノを感じるのだが)、人を感じない。スイスと言う場所がそういうところなのかもしれない。僕の短い経験で今でも強く残っている印象はやはりスイスの建築は自然と対峙するものであって人を包むものではないのではないか??

August 30, 2010

ヨーロッパ建築検索サイトのすぐれもの

ヨーロッパ現代建築のロケーションを調べるのは結構骨が折れる。日本語のガイドブックは情報量が少ない。もちろん現地のガイドブックを手に入れればそれに越したことはないのだが、金も時間もかかる。そこでネット。そういう情報がきっとあるはずと思って探し見るとなかなか優れものサイトを発見。MIMOA mi modern architectureという名のサイトである。http://www.mimoa.eu/都市名でも建築家名でも検索可能。住所、オープンアワー、予約の要不要、住所、マップ、行き方まで詳細に教えてくれる。これは便利である。ヨーロッパ全域を網羅はしていないが、行きたい都市が含まれていればこれは使える。
午後事務所で打合せ、壊れたA3プリンターの後をどうするかを皆で議論。新たなコピー機を導入するかという話まで行ったのだが、DELLのダイレクトメールを見ていてLAN対応のA3のオールインワン機が大安売りしているのを発見。これなら、かなりの事が出来そうで一気にその方向で話は解決。それにしてもこのブラザーの製品は3万円台。驚きの価格。安過ぎて心配である。

August 29, 2010

六本木で展覧会二つ

午前中国立新美術館へ。かみさんが出品している「読売書法展」を覗く。3室3階分使っている。それでも出品者の半分しか展示できなくてもう半分は池袋に展示されている。日本の書道人口って半端なく多い。それに読売の向こうをはって「毎日書道展」というのもある。朝日はその双方の先生方を集めて20人展と言うのをやっている。新聞社あっての書道なのか書道人口に支えられた新聞なのか??午後僕は一人で21_21デザインサイトへ。佐藤雅彦の「これも自分と認めざるをえない」展をやっている。若い人たちが沢山いる。体験型の展示なので結構待つ。ある家の中に入る展示があった。10人くらい並んでいたが待って入ってみた。4畳半くらい。背中側に水槽が置かれている。なにもいない。全面側には手洗いシンクその上に鏡とコップ棚。そこには歯ブラシの入ったコップがおかれている。さてこの部屋で何が起きるのか?何も起こらない。水槽を覗きこむ。なにもいない。うーん。仕方なく鏡を覗きこむ。はああ。自分の姿が映っていない。その上後方にある水槽の中に金魚がいる。振り返って水槽をみると金魚はいない????佐藤雅彦流のウィットの効いた展示がいろいろ。楽しめます。
帰宅後やっと柄谷を読み終える。その後マイケル・サンデル(Sandel, M)鬼澤忍訳『これからの『正義』の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』早川書房(2009)2010を読み始める。テレビでやっているハーバードの人気講義というわけで、売れているようだ。アマゾンではSMAPの本に続いて売上2位。功利主義とリバタリアニズムの丁寧な説明から始まる。大学の講義にしちゃカルチャースクールのように分かりやすい。

建築はルールの否定→揚棄という歴史だった

午前中はポルトガル関係の資料や地図を読む。午後勉強会Geoffery ScottのThe Architecture of Humanism の2回目の読み合わせ。残りは僕とI君担当の第7章アカデミック・トラディションのみなので我が家で2人粛々と進める。
アカデミック・トラディションとはルネサンス時代に復活する、ウィトルウィウスの数学的比例などの当時の超越的な強い概念を指している。そしてそれに盲目的に従うことが当時の建築ではなく、それはあくまで一つの指針であり、豊かな感性こそがルネサンスの古典主義を作り上げていることを実証しようとしている。つまり概念ではなく直感ということである。
哲学の歴史を振り返れば、超越的な概念の存在(イデア)がギリシアでは探求された。木田元が言うように20世紀にはいって超越的なイデアを下敷きとしない反哲学が生まれ今ではそちらが哲学となっている。建築でも超越的なルールは常に感性で否定(揚棄)されてきた。スコット言うようにルネサンスがそうであり、最後のイデアであったモダニズムの教条も否定(揚棄)された。概念は否定されるためにあるようなものだ。21世紀の教条であるエコロジーは何を生みそれはどう感性で否定(揚棄)されるのだろうか?

最近のコメント

岡田 on ドンキホーテ公園: 突然のコメント失礼し
牛 on 菅平で建築を考える: 編集を極力減らす努力
oscar on 菅平で建築を考える: 現象をありのままに記
牛 on 田中角栄とコールハース: ありがとうございます
MIN on 田中角栄とコールハース: いつも楽しく読ませて
山田 on 軽井沢のハイソな会でいろいろな人に会う: 中央工学校の名前を坂
===== on 大塚英志に共感: 突然に、また、エント
牛 on 町おこし: はい、その話また教え
鈴木洋一 on 町おこし: 昨日はご来店有難うご
うし on メディアとしての住宅: 久しぶり。君の同窓生