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March 31, 2011

原理か現実か


午後金箱さん来所。1時から4時ころまで。大枠は固まった。
夕方理科大の山名さん来所。4年生の製図の進め方を議論する。3時間くらい話しただろうか。話しが盛り上がったのは原理をつくるのが現実を見つめるのか?と言う話。
僕:学生の課題として原理を導き出せればそれだけでも価値はある
山名:原理は現実の中にあるはずで、現実を作りながら原理は見いだせる。もちろん原理なき現実は価値が無い。
僕:4年生の段階でそこまで達するのはなかなか難しいのでは?現実に浸ると原理が見えなくなる。
山名:それは分かるけれど、でも原理は原理だけ考えても出てこない。現実を追求する中で原理が見えてくるものだ。
夜鈴木さん来所。
今日はお客さんが多い。

March 30, 2011

ウィキリークス

午後一で栃木県庁打ち合わせなのだが湘南ライナーが運休中なので宇都宮線に乗る。これで行くと結構時間がかかる。いつまでもこの状態が続くのだろうか?
車中菅原出『ウィキリークスの衝撃―世界を揺るがす機密漏洩の正体』日経BP社2011を読む。震災で影を潜めたがちょっと前までは衝撃的な事件だったように思う。これを読んでこの団体のネタは投稿によって成り立っていることを初めて知った。投稿者の秘匿権が憲法で定められているスウェーデンに本拠地を構え寄付者の秘匿権が法で定められているドイツに銀行を持ちと言うふうに国際的な法の網を熟知して作られている団体である。こういう団体の是非は僕には判断付かないが、ノルウェーの国会議員がウィキリークスをノーベル平和賞に推薦したというニュースは記憶に新しい。
宇都宮で餃子を食べてから県庁で打ち合わせ。塩山の施設では役所から設計への注文はまったく無かったのだが、今回は新築ということなので県も心配してさまざまなことを言う。老婆心である。その後役所の会議室を借りて施設長と打ち合わせ。設計への注文が延々続く。事務所に戻り打ち合わせ。今日はとても疲れた。

世界に映る日本の津波

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アルゼンチンの建築家からのメール。彼の友人の建築家であり絵描きであるRoberto Frangellaが描いた日本の津波そして4日ぶりに助けられた赤ちゃんの軌跡

March 29, 2011

ホンマタカシB

美術手帳の4月号がホンマタカシによる金沢21世紀美術館での展覧会を特集している。そこに平倉圭さんが批評を書いているのを発見。彼はアーティストであり教育者でもある。リーテムのアートイベントではアーティストとして参加してくれた。最近『ゴダール的方法』という注目の本も上梓した(いただいたが未だ読めないでいる)。そんな彼の論考は本間の2重人格に触れそのタイトルは「ホンマタカシB」である。もちろんそこにはホンマタカシAが登場する。理性的なAと狂気のBが交叉することを平倉は読み取ろうとしている。そして狂気とはここでは「真と偽の区別あるいは事物の同一性がたんに本当に消えること」と規定している。つまり真と偽の区別が消えるホンマを消えないホンマが受け取るという複雑な構造を平倉は読み取っている。写真は真を写すと書きながら一般にそうならないと言われる。特にホンマのそれはそうならないとは美術館で行われた対談で椹木 野衣も指摘する。しかし一方で妹島和世はこう言っている「ホンマさんは人があるとき、ある場所にふつうに出かけていって体験すること、本来見るモノを・・・写している・・・その時にあるものを撮ってくれる」妹島の感覚ではホンマは真なのである。しかし所謂真実とは違う。普遍的真実ではなく、ある時間のある人にとっての実存的な真である。このある時間のある人にとっての真が平倉の言い方を借りれば狂気のホンマとそうでないホンマの交叉点に現れると言えるのであろう。
しかしそうした概念的な言い方とは別に僕にはもっと技術論に興味がある。一体どういう風に写真を撮ればそういう風になるのだろうか?昨日上田さんと一緒に僕もいろんな写真を撮っていた。それはもちろん建築写真である。しかも設計者がこうありたいと思って撮っているわけである。だからもちろん真実ではありえない。しかも妹島言うところの「ある場所に普通に出かけていって体験する本来見るモノ」でもあり得ない。そう思いながら昨日撮った写真を見直した。駄目だなあ全然。いつかは自分でもそんな虚心坦懐な写真が撮れたらなあと思うのだが、、、
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●こういう建築写真が無意識に陥っている嘘
その①構図。こんなフェンスが優美に曲線を描いて見える場所はある一点である。
その②こんな風にフェンスが光り輝いて見えることは肉眼ではない
その③そもそも冬の寒空のこんな時間にこんな場所に人はあまりいない

March 28, 2011

「機能消費」と「つながり消費」

朝一のあずさで塩山へ。撮影。大きな建物の撮影は時間がかかる。普通は建築的に重要なカットしか撮らないのだが、児童養護施設という発展途上のビルディングタイプなので記録的に殆どの部屋を撮影した。未済工事の工事中で周囲の工事車両をあっちこっちに動かしてもらう。夜景が撮り終わったのは7時過ぎ。しかし朝日で撮りたいカットが残ったのでカメラマンの上田さんにはもう一泊してもらうことにした。
僕は夜のかいじで新宿へ。車中佐々木俊尚『キュレーションの時代―「つながり」の情報革命が始まる』ちくま新書2011を読む。情報革命(ツィッターなどの)がもたらす消費行動の分析が面白い。大衆消費社会が終わりマス情報に規定された記号消費の終焉は既によく言われていることだが、著者はその先として「機能消費」と「つながり消費」をあげている。前者は言うまでもなくユニクロのようなブランド記号の価値を捨象し機能性に特化した商品の消費のことであり、後者はネットなどを通じて口コミで広がるピンポイント的な消費をさしている。もちろん著者は後者が更に伸びていくだろうことを予言している。さてどうなるだろう?衣食住を考えれば食はかなりその傾向があるだろう。理由は食べ物は見本が無いから。では衣はどうだろう?衣は試着できるのだから人の意見はあまり重要でもないのかもしれない。では住は?建築家の優劣がツィッターで呟かれたりするだろうか?良くも悪しくもそれは不気味。

March 27, 2011

「春風や闘志いだきて丘に立つ」   虚子

午前中事務的雑用。メールチェック。母親から久しぶりのメール。転職先に行く私の心境を慮り高浜虚子の詩が添えられていた「しゅんぷうや とうしいだきて おかにたつ」。何時までたっても母親は母親。こういうときにいつでもさりげなくこちらのエンジンにガソリンを注いでくれる。
昼食を家族ととった後デザートにケーキが出てきた。そのケーキの上のチョコレートに「信大ご苦労様、理科大頑張って」と書かれてあった。あれあれ親・子・娘で示し合わせたように、今日は何の日?
夕方中沢康彦『星野リゾートの事件簿』日経BP社2006を読む。軽井沢の星野リゾートを始め。日本全国の経営不振のリゾートを傘下に入れて復活させてきたその実態が描かれている。青森の古牧温泉がそのひとつとして描かれていた。ここは祖母の料亭を贔屓にしてくれていた渋沢栄一の書生杉本さんが創業した巨大ホテルである。祖母はある時期杉本さんの依頼でここの総支配人をしていた。そんなわけで僕も幼少のころここに来たことがある。でもそれきりである。
去年、東さんが設計した星野リゾートの商業施設を見学させていただいたことがある。その時星野リゾートの方が自信を持っていろいろと説明してくれたことを覚えている。働きがいのありそうな職場だなあと感じたが、この本では常になんでも言えるフラットな組織を目指していることが強調されていた。昨日読んだユニクロとはかなり違うようである。リゾートの質は僕には分からないけれど、星野社長が言うように、星野リゾートは日本で日本人の手によって一流のホスピタリティを作る努力をしているのだろう。

March 26, 2011

ユニクロ 対 ZARA

午前中久しぶりに森美術館に行く。天気がいいので家族を誘ったら皆やってきた。僕は美術館をさーっと通り過ぎるように見ることが多いのだが、うちのかみさんは僕より少しじっくり見る。娘は舐めまわすように見てまた戻って見たりする。だから館を出たのは1時を回っていた。昼をとってからヒルズのTSUTAYAの本屋で買い物。この本屋は僕が欲しいものは売ってないのだが、たまには自分の興味のない本を買ってみようと10冊くらいかごに入れて家に帰る。風呂で横田増生『ユニクロ帝国の光と影』文藝春秋2011を読む。ユニクロはGAP, ZARA, H&M, などと同様製造から小売りまで一貫して自前でやる洋服屋である。こういうのをSPA(specialty store retailer of Private label Apparel)と呼ぶそうだ。ユニクロはGAPになりたくて頑張りGAPを売り上げで追い越したが、それを追い越したのがZARAである。ZARAはユニクロの1.5倍の売り上げで1兆を超し。従業員は世界70カ国に9万人いてその8割が正社員。一方ユニクロは3万人の社員の内正社員は3千人だそうだ。ZARAの強みはどこか?彼らは今時の製造会社が行う人件費の安い所に縫製をさせるという方法をとらない。ほとんどすべてスペインの本社まわりの自前の工場で作っているそうだ。そこにデザイナーも集結させてあり、徹底して客のニーズをつかみ2週間で新製品を作り出し、どんどん品を入れ替えていく。そしてその最先端のデザインをユニクロの倍の値段で少量だけ売っていく。ちなみにデザイン変化のスピードはユニクロ1年、H&M40日、ベネトン60日だそうだ。目にもとまらぬ流行の掬い上げで単価を下げないでも売れるということが面白い。

March 25, 2011

私立と国立の違い

午後一で理科大N先生の研究室へ。僕が引き継ぐ場所である。捕手のKさんと新しい捕手のT君も同席して予算のこと、事務処理の概要、残された備品の数々を教えてもらう。
予算は国立大学から比べれば雲泥の差である。残された備品を見ると、6年前に信大に行った時の状態に比べればこれも月とすっぽん。信大に行った時は本当に何もなかった。でも意匠の部屋に別に欲しいものは無かったので構わないのだが、予算が無いのは参った。プロッターはあるけれどインクが買えない状態。学生はお金を出し合ってプリントアウトしていた。毎年年度末は赤字に冷や冷やしたものだがこちらでは黒字に冷や冷やするのだろうか?事務処理の方法はどっちもどっち、やたら面倒くさそうである。民間企業を少しは見習ったらどうだろうか?時間の感覚が教育機関にはない。時は金なりなんだけれど。そして私立の悲しいところは狭小スペース。信大ではB0判くらいの30ミリのベニヤを買って全員の机を置けた。こちらではそれは夢のまた夢。1年目は院生がいないからまだいいだろうけれど来年からはちょっと厳しい。でも都会の私立大学では普通のこと。その中でやりくりするしかない。いろいろな意味で私立と国立は違いがいろいろあるものだ。

夕方事務所に戻りTさんと打ち合わせ。昔ながらの「えぐい」ドローイングを持ってきた。懐かしいなあ。20年前と全く変わっていない。三つ子の魂百までだ。
夜A0メンバーのA君が送ってくれた博士論文の序を読む。タイトルは「分離派建築会の展開」建築学科ではなく美学芸術学科で書かれたものだけに人文系独特の言い回し(まるで佐々木健一の『美学辞典』を読んでいるようだ)で概念規定がきめ細やかである。加えて建築を超えた対象の射程が広そうである。

March 24, 2011

鶴岡真弓さん曰く「装飾とは非現実の追及」

昼に事務所を出て塩山へ。施主検収である。理事長、園長、建設担当の職員3名に3時間ほどかけて見ていただく。キッチン周りに透明シートを貼る。傘立て周りに防御ポリカを貼る。幼児ユニットの出隅にRをつける。などなど指摘事項は結構たくさんあった。しかし最後の講評では多くの感謝の言葉をいただいた。思わず涙。その昔日建の先輩が「設計というのはこの最後の感謝の言葉をもらうためにやっているようなものだ」と言っていた。当たらずとも遠からずである。
帰りの電車の車中鶴岡真弓『装飾する魂』平凡社1996を読む。装飾とは自然界の花や鳥、木や雲などもあれば直線、渦巻き、丸、四角など自然界に無いものもある。これらの装飾モチーフが装飾になるには厳守されるべき鉄則があるという。それは装飾化するとはそれらの事物の非現実的姿を追及するというものである。鳥であればあり得ない鳥の姿でなければならず、水であれば自然の水が作らない形を持ってなければならない。抽象化された形においては無限の反復であったり、という具合である。
このあり得ない姿を藤岡は人間の知覚の臨界と表現している。「知覚の臨界」魅力的な響きである。着物生地の鮫小紋、アルハンブラのアラベスク、キリンビールのキリン、伊万里焼の唐草、北斎の波、などなど、なにかそこには発案者に迫る非現実への強迫観念のようなものが滲み出ている。

理科大非常勤の先生と打ち合わせ

朝の宇都宮線で古河へ。敷地を少し広げてもらい建物が楽に入るようになった。事務所に戻り打ち合わせ。夕方理科大で製図非常勤講師との打ち合わせ。理科大は現在震災の影響で学生がシャットアウトされ大学は静まり返っているが皆さん集まった。2年生の前期 新堀学さん 清水貞博さん 石川淳さん 古見演良さん 中島壮さん 薩田英男さん 三戸淳さん 2年生の後期 上條美枝さん 薩田英男さん 萬代恭博さん 手嶋保さん 柳澤潤さん 3年生の前期 若松均さん 高橋堅さん 宮晶子さん 木島千嘉さん 塩田能也さん 3年生の後期 多田脩二さん 青島裕之さん 川辺直哉さん 亀井忠夫さん。豪華な顔ぶれ。2年では住宅を中心に後期に図書館。3年生は学校、集合住宅、後期はスタジオ制でそれぞれの先生が自らのテーマをつくり、学生は希望のスタジオを取れるようにするつもりである。初めて皆さんと会って話ができたし、全貌が見えてきた。夜は先生方と会食。

March 22, 2011

そして信大最後の日が終わる

4年生担任の僕は朝学務でもらってきた学位記を学位授与式で学科長に渡す係である。一枚ずつ渡し、ふり仮名の入った名簿を見ながら小声で名前の読み方をつぶやく。学部と修士あわせて80人くらい。およそ30分。これで僕の信大での公務は終わった。3月31日までの残りの日は有給休暇をいただくので今日が最後の日である。
信大で教えた6年間いろいろな経験をさせてもらった。印象深い3つのことを記しておく。
先ずは学科内の話。僕が来るまで意匠の教員のいなかった建築学科は、僕の赴任後、意匠を設備、構造、歴史計画と並ぶ4番目の建築学科の柱に据え、それを全面的に僕に一任してくれたこと。それは結果的にとてもありがたいことだった。やっている時は少々負荷が大きく大変だとぼやきもしたが、考えてみればそれによって良くも悪しくも一貫した教育が可能となった。2年3年4年の製図を見て院も見るのだから完全な一貫教育である。加えてゲストクリティークの人選からその審査まで全てをやっているのだから、他者の入る余地は無い。それがある一定の成果の原因であることは明らかである。もちろんそれによる弊害もあるとは思うが。
二つ目は長野という場所に身が晒されたこと。市民を連れて建築見学ツアーを毎年3回やったし、長野市のデザイン関係の委員をさまざま行い、大町、塩尻、佐久などでコンペの審査もした。こんなことをしていくうちに長野という場所の持つ建築的状況、市民と建築の関係、グローバルとローカル、こうしたことを嫌でも考えることになった。このことはかなりの程度僕の建築観を動かすものとなったことは間違い無い。
そして最後は東京長野を往復するという状態。これは精神的にかなりの負担を強いられた。どっちかにいるとどっちかが心配になる。当初1、2年は本当にうつになりそうだった。何冊うつ病の本を買ったことか。何度附属病院のカウンセリングを受けようと思ったことか。しかし結局受けずに6年間が終わった。もちろん時間的な制約もかなりのものになった。しかしこのできた時間によって博士論文が書けた。車内は動く書斎でありその時間が貴重となった。読書量もドラスティックに増えたのはこのおかげである。

6年が終わり今日あたり涙でも出るかと思ったがそうでもなくとても晴れやかな気持である。6年間の間に本を3冊(もうすぐ4冊目の訳書もでる)上梓し、学生も急成長し、そして自らの建築観もとても伸びやかになった。その分事務所の仕事がちょっとおろそかになったのだがそれは仕方ない。6年は調度いい期間だったかもしれない。天に感謝である。
謝恩会の席でとある先生が「信州大学の建築学科がここまでになったのは坂牛先生のおかげであり、一時いい夢を見させていただいた」と言ってくれた。嬉しくもあり淋しくもある言葉だった。悔いが残る。そして文字通り返す言葉が無い。

信大建築学科の素晴らしい先輩後輩の先生方、そして素敵な学生に心から感謝の気持ちでいっぱいである。そしてわが子のように可愛い坂牛研究室のすべての学生には最後にしてしかし最小ではなく御礼したい。ありがとう。

March 21, 2011

僕らを覚醒させるのは震災だけではない

午前中ジムに行ったら、ここも節電のためか営業時間が短縮されプールは水が抜かれていた。午後事務所で明後日の打ち合わせの打ち合わせ。夕方帰宅して食事してから長野へ向かう。車中鹿島茂『『パサージュ論』熟読』青土社1996を読む。
先日誰かがポストモダニズムとは金魚鉢のようなものだと言っていた。もちろん人間を金魚に例えての話である。つまり金魚にとって唯一見えないものが金魚鉢であるように我々にはポストモダニズムは見えないということである。
ベンヤミンがパリのパサージュをきっかけにして資本主義の夢から覚醒したようなそんなきっかけが我々をポストモダンの夢から覚醒させてくれるのだろうか?とこの本を読みながら感じた。そしてそんなきっかけは50も過ぎた人間には到底見つけられないのかもしれないとも思った。ベンヤミンが言うようにそうしたきっかけは子供の持つ再認識力にしか見つけられない。子供は「まったく新しいものの中に『すでにある』アルカイックなシンボルとして認識する」力があるからだ。でもまたベンヤミンが幼少のころシンボル化したベルリンのパサージュのように、僕も幼少のころシンボル化した何かが50過ぎてから蘇りそれがポストモダンの金魚鉢からの覚醒を促す可能性もある。
今世の中は大震災をきっかけにさまざまな反省に促されている。それはとても重要なことだと思う。でもこのことだけが我々を夢から醒ますとは思えない。いやむしろ危険でさえある。こういう時だからこそ覚醒を別の角度から考えないといけない。

March 20, 2011

塩山養護施設オープンハウス終わり

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●エントランス周りのキャンチ下。ヒノキの軒天
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●畑の真ん中なのに要求機能に対して敷地が狭い。プレイルームは敷地ぎりぎり
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●エントランスドアはステンレスドアにヒノキ張
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●プレイルームの天井は格子梁。鉄骨柱で支える

8時半のかいじで塩山へ。今日はオープンハウス。来訪者はこんな時期でもありそれほど多くなく、来られた方とはゆっくり話ができる一日だった。雨だと思った天気もなんとか夕方までもって建物を汚すこともなくほっとした。こうやって一日冷静に見て回ると反省点も見つかってくる。来週は官庁検査と施主検収。
夕方のかいじで新宿へ。今日はこの仕事にかかわった人の労をねぎらい新宿ライオンでビール。この二日立ちんぼで足が腫れてきた。

March 19, 2011

『長野市民会館50年の記憶』が出版される

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●長野市民会館ファサードのトレサリー

朝9時に信大のT先生がホテルに迎えに来てくれて甲府へ向かう。道路は空いている。長野から山梨へ進むと山が急峻になるのを感じる。小渕沢のあたりからは正面に富士が大きく見える。気のせいかもしれないが富士山は山梨側から見ると静岡側から見るより急に見える。検査開始時刻よりも早く着いたので先ずはT先生を案内する。
1時にスタッフのT君が到着。事務所検査を始める。設備検査は事前に済ませていたが、たっぷり3時間半はかかった。しかし全体的に見て大きな指摘事項もなく、未済工事も殆どなかった。よくこの工期で遅滞なくここまで作りこんでくれたことを嬉しく思った。一か月前の住宅の施工者と言い今回の早野組といい、良い施工者良い所長に恵まれたことに感謝したい。
夕方のかいじで東京へ向かう。車中昨晩梅干野先生からいただいた長野市民会館記録編集会議編著『長野市民会館50年の記憶』信濃毎日新聞社2011を読む。長野市民会館は私が生まれたころに竣工した50歳の建物であり。残念ながら今年で閉館となり解体される。設計は佐藤武夫事務所。担当は当時32歳の宮本忠長であった。音響工学で工学博士となった佐藤の技術と早稲田伝統の触視的なデザインが融合された建物である。
煉瓦とPCトレサリー(すかし模様)が印象的な外観である。そのことについて現佐藤総合計画の細田雅春はこう述べている。「(佐藤は)端正な正面性を意識しておられた。正面性を構成する壁面のテクスチャーには、織物の模様のアナロジー・・・・紬や絣模様、タータンチェック、ヘリンボーンなどと言う先生の言葉が今も耳に残る」。
服飾を建築のアナロジーとするのはゼンパーを始め多くの建築家が試みたことであるが表層のパターンに適用したのはあまり聞かない。なるほどと思わされる。

坂牛に貸しを作る会

昼のアサマで大学へ。車中クリストファー・ホロックス小畑拓也訳『マクルーハンとヴァーチャル世界』岩波書店2005を読む。吉見俊哉の解説に彼のヴァーチャル授業の話が載っていた。それは「吉見俊哉をたたきのめせ」と題した授業である。学生は授業前にBBSのスレッドに吉見の論文を徹底攻撃してから授業に臨むというものである。そこで重要なのはスレッドは学生に一覧され学生間に批判のプロセスが共有されるということである。僕は批判をさせないがある共通テーマをBBS上に書かせるということをかなり前から行っている。その狙いは吉見とまったく同じものである。一覧性によって学生それぞれが自らを相対化するきっかけとなる。午後最後の会議。夜は数名の先生たちと食事。「坂牛に貸を作る会」ということでおごっていただいた。今後彼らが東京に来た際はおごり返すと言う約束である。

March 18, 2011

状況に批判的であることと状況を劇画化することは違う

いわきに住んでいる友人の消息が分かった。被害には奇跡的に合わず、社長と言う責任もあるのだろう、原発の被害を考え会社はクローズして、社員には自主避難を命じ、自ら東京の実家に移動したという。英断だと思う。
東京ではもちろん現状の推移を見守るしかない。辛い状況もいろいろある。しかし現状の客観的データーを手に入れながら粛々と生きていくしかない。
状況に批判的であることは重要ではあるが、必要以上にやることはやめよう。悲しくなるほど稚拙でステレオタイプな質問を不必要な抑揚とBGMで味付けする民法のワイドショー的ニュースはやめて欲しい。電波がもったいない。節電したらどうだろうか?あなたたちのやっていることは批判ではなく劇画化である。

March 16, 2011

世界を震撼させている

●五日前、震災の次の日、アルゼンチンの建築家ROBERTOから見舞いのメールが届いた。昨年ワークショップをいっしょにやった親友である。
Hi Taku, we saw the news about the devasting earthquake and Tsunami.
We can see terrible images about that.
I hope you and your familiy are good.
Let me know if we can do anything for you, we are so far away in distance but we feel very close un this moment.

all the best
Roberto.

●二日前にUCLAのクラスメートEDMUNDから見舞いのメールが届いた。卒業後もお互いの国で何度も会い。昨年も夫婦で来日して建築を見て回った仲である。
Taku,
I hope all is well with you and your family, Devan and I were very saddened to hear the news of the earthquake. Please let us know that you are alright.
Our hope and heartfelt concern are with you.

Best Regards,
Edmund

●今日オーストリアの建築家ONDINAから見舞いのメールがきた。7年前OFDAが最初に受け入れた海外からのインターンシップ生である。
Dear taku, dear ofda-team,
I feel so sad about whats happening in your country at this time...
It makes me speechless.
I truly hope and pray that you, your families and your friends are all fine....
I am sure all of the japanese are weighed down with sorrow in this times.
And i truly wish you and all the people in your country not to loose hope.

All the best,
Yours,ondina

友人の暖かさ、優しさが嬉しいとともに、今回の災害がどれほど世界を震撼させているかが伝わってくる。
そして昨日ハンス=ユルグ・ルッフからのメールが武井君経由で届いた。熟慮の末来日を取りやめるというものであった。とても残念な話ではあるが、1か月かけて日本を見ようと考えていた彼にとって交通網の乱れ原発の危険は深刻であろう。おそらく政府の渡航自粛勧告も出されているだろう。それらを考えると仕方ないことである。非公式に流した情報の修正は非公式に行うしかない。ツィッターやブログを見て来日を楽しみにされていた皆さまにはとても申し訳ないけれど、非常事態故のことでありご容赦願いたい。

March 15, 2011

花田佳明さんの松村論にうなずく

花田佳明さんにお送りいただいた『建築家・松村正恒ともう一つのモダニズム』鹿島出版会2011を一気に読んでみた。花田さんの博士論文であり渾身の一冊。600ページを超える大部の書。分厚い装丁に怖気づき、いただいてから一カ月くらい放置していたのだが、予定されていた打ち合わせが震災の影響で中止となったのでここぞとばかりに読んでみた。
勉強不足も甚だしいがドコモモの建築家程度の知識しかなかったわけなので目から鱗。こんな建築家がいたのだと言うことに驚くとともに、本のタイトルであるもう一つのモダニズムと言う言葉がまさにぴったりと当てはまる建築家であることを知る。
ドコモモで有名な日土小学校も素晴らしいのだが、学校建築、病院建築の見ごたえある建物が沢山あることに目を見張る。松村建築の醍醐味はもちろん土浦事務所で鍛えたモダニズム(インターナショナルスタイル)の繊細な幾何学にあるとはいえ花田が言うようにそれを遠ざけるようなアンビバレンスにある。花田はそれを「抽象化の拒否」と呼んでいる。そのアンビバレンスに「もう一つのモダニズム」が見え隠れしている。本物を見ていないので正確なことは分からないけれど、そのアンビバレンスを作り上げるためにはかなり高度な技術力があっただろうことは想像に難くない。
こんな本を読むと世界にまだまだこういう「もう一つのモダニズム」を実践した建築家がいたのではないか?と思わせる。また逆に言うと現代にはもう一つものモダニズムを実践している建築家が大勢いることも了解される。モダニズムの何かを拒否したモダニストである。思い浮かぶだけでも両手に余る。
歴史を掘りおこしながらそんな現代への視座を与えてくれる本である。

March 14, 2011

さあ、頑張ろう

朝歯医者に行ったら先生が未だ白衣も着ずに開院準備であたふたしていた「今日はやりませんか?」って聞いたら「やりますよ」と返事。衛生士のお姉さんが市川から来られないと言う。総武線が止まっているから。先生は地震の時四谷の道を歩いていたそうだ。車が跳びはねるのが目で見え、あっという間に皆止まり、周囲のビルが木立のように揺れていて恐怖におののいたそうだ。治療を終えて事務所に来たら未だ誰もいなかった。今日は皆来られないのだろうかと思ったが、午後になったら三々五々やってきた。皆の無事な姿を見てほっとした。しかしあるスタッフの実家は福島で津波をかぶったそうだ。すぐに行きたいところだが行くすべが無いと言う。なんとももどかしい。実家の父親は電力会社に勤めているそうで家のことは横に置き復旧作業で帰れない日々だと言う。事務所ビルのオーナーのSさんの実家は震度7を記録した栗原市であるが、実家は倒壊しなかったそうだ。「30年前も震度7は来たんだよ」と言っていた。今回はやはりTSUNAMIの猛威に潰されたということか。昼に近くのとんかつやに行ったらカウンターにテレビが置いてあった。余震が来たらすぐ油の火を止めると言う。地震の日には夜寄席をやる予定だったが演者も観者も誰も来なかった。店を開けて帰宅難民を受け入れたそうだ。とんかつ屋の横の割烹では夜防衛省のお偉いさんの宴会が予約されていたそうだが当然キャンセル。
これから山梨の現場の検査が続くのだが、電車が動くのかよく分からない。今日の計画停電の状況を受けて明日からどうなるのか?見えないことが多いけれど生きているのだからどうにでもなる。ありがたい。

March 13, 2011

3000ガル近かった

風呂でだいぶ前にいただいた五十嵐太郎編『見えない震災』みすず書房2006を読む。その中に都市計画家高山英華のこんな言葉があった「もっとも大切な予防的対策の大綱は、天災の起こるようなところに、高密度の人間社会を形成しないようにすること」それなのに日本はそういう場所に町ができる。日本に風水害が多いのは、干拓や埋め立ての土地に都市が形成されるからだそうだ。今回の災害も起こってみればこんな言葉がむなしく響く。さて耐震構造の歴史を読んでいくと1950年建築基準法が制定されたころは水平震度(地震時に構造物にかかる水平加速度の重力加速度に対する比)は0.2という想定だった。それが現在では単純に言うと「約0.1(100ガル)で壊れず、0.4(400ガル)で倒壊せず」という2段階設計になった。この基準の数字を一昨日構造の先生に聞いたのだが、聞き間違えたのかもしれない、妙に低い気がする。というのも一昨日の各地の加速度を見ると最高瞬間栗原市で2933ガル、大船渡市で991ガル、宮城県石巻市で675ガル、東京都千代田区で259ガルだという。ということは上の基準では栗原はもちろん、大船渡、石巻あたりでは限界をこえていた。倒壊である。東京はかろうじて損傷程度。基準ってこんなに低いのだろうか?それともこの地震が400年ぶりの大型地震であることを物語っているのか??

March 12, 2011

テレビはテレビじゃない時見る価値がある

テレビから流れる悲惨な状況に何かせねばという気持ちに駆られる。駆られながらも今ここでどうすることもできないジレンマも存在する。でも湾岸戦争や、9.11の時はそうした切迫した気持ちになはならなかった。遠い世界だからという理由なのだろうと思っていた。しかし和田伸一郎『メディアと理性』NTT出版2006を読んでみたらどうもそれだけではないことが分かってきた。
和田はベトナム戦争の写真と湾岸戦争のテレビを比べ、前者は人を駆り立て反戦ののろしに火をつけたが後者は人を駆り立てないと指摘する。そしてその理由を3つあげる。
① テレビを見るリビング空間とは家族が団欒する場所であり画像に真剣にのめりこむ場所ではないから。
② テレビのニュースは4コマ漫画のようにさっさと画像が切り替わりこちらに思考する時間を与えないから。
③ テレビニュースがしつこいほどに露呈する画像に見る人は慣れてしまうから。
これらはテレビが1世紀くらいの歴史の間になってしまった結果的状況なのだが、それらによって我々はテレビニュースの悲惨な状況に無頓着になり何のジレンマもなく居られるようになってきた。最初にテレビを見た人はきっとジレンマにさいなまれていたはずである。慣れていなかったから。我々は画像の向こう側を見捨て、テレビは我々を見捨てたのである。
そう私は湾岸戦争を見捨て、9.11を見捨てていた。しかし今回はどうも違う。同じテレビではあるが僕は昨夜ホテルの1室でニュースを見ていた。しかも4時間近くである。画像の中にのめりこみ、建築と、人の生活とそして自分の職業について考えざるを得なかった。いくら考えても答えの出ないようなことを4時間考えるはめに陥った。そして分かったのだが、昨晩は①から③が起こらなかったのである。昨晩のテレビはテレビではなかった。状況は予測を大きく超えてしまいテレビはやろうとしたことができなかった。状況に振り回されるだけだったのだ。それが僕をして考えさせたのである。テレビはテレビではなく、やろうとしているこができない時、やっと見る価値を持ったものになれるのである。

March 11, 2011

地震の状況に驚愕

小諸でのプレゼンが終わって、市の都市計画の方とお話している最中に建物が揺れ始めた。余りに揺れが長く二人で建物の外に飛び出した。道路には隣の専門学校の学生がどんどんあふれ出てくる。しばらく寒空の下、動けなかった。建物に戻りテレビをつけた。日本中でとんでもないことが起こっている。帰りたいのだがJRが動かない。仕方なくしばらくテレビを見続ける。この地震による壊滅的な被害が刻々と報じられる。しばらく声も出なかった。
小諸から長野に向かう3セクの電車だけは動いているということなので駅に向かう。2時間かけてやっと長野にたどり着いた。とにかく事務所と家に連絡したいのだが電話が全くかからない。固定電話も駄目である。ホテルでコンピューターメールを送りやっと返信があった。事務所にいる5人はそのまま泊まり。現場に出ている2人とは連絡がとれないとのこと。心配である。
テレビからは連続的に被害状況が累積されていく。さっきまで100人弱だった被害者だが、突如仙台の若林区荒浜で200人以上の溺死者が見つかったとのこと。これから夜中にかけて津波が来るとハードな被害はまだまだ増加する可能性もある。
それにしてもこんな長い時間テレビに釘付けになったのは初めてである。テレビ独特の事件を作り上げる作為を感じないからかもしれない。この手の天災、人災の時に往々にしておこる作られた映像、作られたインタビュー、作られたコメントが少ない。それはこの数時間テレビの予想を超えることが起こっているからのだろう。今回の状況がメディアに事実を不当に脚色する暇を与えないからであろう。
それにしても政府報告に対して相変わらず上げ足を取るようなくだらない質問をする稚拙なジャーナリストが多いのには呆れる。

March 10, 2011

オープンハウスのお知らせ―塩山―

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●明日のプレゼン模型 

朝のアサマで事務所へ戻る。明日のプレゼンの模型が夕方できた。3月末はばたばたである。なんとかここをくぐりぬけて4月へ入りたい。
塩山で工事をしていた児童養護施設が3月末に竣工する。そのオープンハウスを20日に行うことにした。
児童養護施設はご存知の通りタイガーマスク現象で一躍脚光をあびる施設となり、厚労省もあわてて施設基準の見直しを行っている。それにしても子供一人当たり3.3㎡という施設基準はあまりに貧しい(今回の見直しで5㎡弱に広げられた)。そんな基準を前提として補助金が出るから空間も貧弱になりがち。そこをなんとか広がりとおおらかさを持った空間を作りたかった。水平方向への開口を連続させているのもクローズドにならないため。柱型を出さないように壁構造。敷地が実に狭く高さは高圧線で押さえられているのでキャンチの床を多用している。しかしそれを使って広い外部エントランス空間を生み出した。中はふんだんに木を使い外部とのコントラストを作り柔らかな色も破片のように壁に飛散させた。

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●ブドウ畑から見るとこんな感じ

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●エントランスの巨大キャンチレバーの軒下


オープンハウスのチラシはこちらからダウンロードください
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研究室大引っ越し

午前中最後のゼミ。4月から違う研究室に進む学生達の研究方針を聞く。ちょっと不安も残るけれど後は自力で頑張って。午後研究室の大掃除。僕の部屋の中身はクロネコ引っ越し便で東京へ。段ボール31箱と椅子スタンドなど見事に部屋は空っぽになった。ここに来た時部屋中を白いペンキで塗りたくったのだが出る時は原状復帰せよと言われドアだけベージュ色にペンキを塗る。白いままの方がきれいなのに。廊下の壁には散々コンペ案など張ってきたのでペンキがぼろぼろに剥がれているここには白ペンキを塗る。
終わって皆で食事。仙台日本一決定選の様子を聴いた。竹之内10選に残り、植松が24番、松嵜が32番。どんな理由でこの結果なのかは分からないけれど健闘したというところか。来年はもっと上を目指し頑張って。

March 8, 2011

『レコードの美学』を読みながら建築はレコードだと思う

栃木での打ち合わせを終えて大宮から長野へ向かう。車中細川周平の古典的名著『レコードの美学』勁草書房1996を読む。細川の博士論文である。本書は言うまでもなくベンヤミンの名著『複製技術時代の芸術』の啓示のもとにレコードという19世紀末の複製技術について書かれた本である。そして重要なのはそうした複製技術がもたらした芸術の様態を社会学的に考察するのではなく美学的に考察した点である。つまり、レコードからの音楽聴取が受け手にいかなる美学的な変容をもたらすかを探求したところに本書の価値がある。その中で僕が最も興味深かったのは、レコード聴取の反復性とは同じ音を何度も聞くことではなく、一回一回の中に積極的に異なる音を聞き取ることであると見抜いたところである。曰く「レコードの悪しき聴取者とは、そこに機械論的な因果関係しか見ず・・・必然的な循環しか聴かない人間である。・・・良き聴取者にとってレコードをかけ直すことはまさに遊び直す(re-play)である・・・」
これはもう少し分かりやすく言えば、コンサート会場で一回性のアウラを聴くこと以上にi-pod(レコードの現代版)で様々な場所で音を聞くと言う聴取状態においてはその時のさまざまな環境や心理状態の差によって聴きとる音に差異が生じるということである。
このレコードの持つ機会性は実に建築的でもある。僕が常々思っているように建築とは録画なのである。毎回毎回同じものであるという点において録画である、細川の言葉に置き換えればレコードなのだと思う。しかし細川が言うようにそうしたレコードには機会性がありそれを感じ取る良い聴取者が望まれる。ではそうした良い建築聴取者を生みだすためには何が必要なのであろうか?建築はi-podと違って移動はしない。しかし移動しなくとも周囲の環境は変化する。内部の状態も変化する。そうした変化を感じさせてやることが良い聴取者を生みだすはずである。つまりレコード以外の何かが建築を良いレコードにして良い聴取者を生みだすということなのである。そう考えるとやはり建築はフレームでありそこに生まれる機会性の中に建築の持続性があるように思うのである。

March 7, 2011

視覚論の変化

始発のアサマに乗り長野へ。これに乗るにはかなりの早起きである。この時間四谷駅の中央線ホームは未だ開いていない。午前中最後の教室会議。まだまだ学科の仕事はいろいろある。試験、そして卒業式。昼に研究室の備品のチェックをしてもらい、午後一のアサマでとんぼ返り。車中『足が未来をつくる』を読み続ける。映画からテレビに変わった時イメージがビジュアルに変わったという。イメージは見るものであり、ビジュアルはその中に入って感ずるものだと言う。それは録画かライブかという差も関係する。また60年代を境に視覚から眼差しへ視覚論の位相が変わったという。何が見えるか?から何をいかに見るかに変わったというのである。なるほど面白い指摘である。理科大に向かう。研究室所属の面接をする。これまでの製図作品を見せてもらう。皆なかなか面白い。これは少し嬉しい。

March 6, 2011

中世は触角や聴覚の時代だったんだ

朝から原稿の骨格づくり。しかしやり始めてもちょくちょく来るメールに答えたり、思い出した郵便物まとめたり、そんな雑用が仕事を切り刻む。昼を食べてからやっと書き始める。4時ころまでどんどん書いて四谷のジェクサーに行って一っ走り。汗を流して戻ってまた書く。今日長野に行こうと思ったが明日の朝一の電車で行くことにする。
原稿書きながらこの本(人間主義の建築)の著者ジェフリー・スコットが美術史家ハインリッヒ・ヴェルフリンの影響を強く受けていることを痛感。感情移入美学を紹介するだけではなく、建築を空間としてとらえる当時のドイツ形式主義の視覚優先論がここにも表れている。
ところで視覚はフィドラー、ヒルデブラント、ヴェルフリンと繋がるドイツの芸術学者によって形作られそして5感の王様になるのだが、海野弘『足が未来をつくる』洋泉社2004を読むと彼はマーティン・ジェイの『伏せられた目――二十世紀フランス思想におけるヴィジョン非難』(1993)を紹介し視覚の変遷を次のように説明する。「それによると古代ギリシア文化は視覚中心であった。・・・・ところが中世になると視覚は第一の座からすべり落ちてしまう。そして、聴覚や触覚が最も大事な感覚とされていたという」。しかしその後活版印刷の発明、カメラの発明が視覚を感覚の王の座に押し上げたというわけである。
視覚優先の時代はそう簡単に壊れるわけはないのだが、他の感覚も我々の生活を豊かにしているということをわれわれはもっと自覚的になった方がいいと思う。

March 5, 2011

原稿書くための資料読み

朝から『人間主義の建築』の翻訳序文にとりかかる。と言ってもそのために1980年版のディビッド・ワトキンのイントロダクションやその他の文章を読む。ワトキンのまとめではこの本の要点は4つ
1)19世紀に建築を説明したり正当化するのに使われた、倫理、生物学、機械論を否定した。
2)感情移入理論に基づく建築美学を紹介した。
3)バロックを理想的人間主義原理の表現として肯定した。
4)空間に価値を置く建築解釈を展開した。
一般にこの本は2)の意義が強調されるのだが、4)に指摘されているとおり、ドイツフォルマリズムの流れを汲み、特にヴェルフリンの影響が色濃く出ているというのは他の論文でも指摘されている。
まあこうした歴史的位置づけはよしとして、人間主義がどのように現代的文脈で意味を持つかを書くのが僕の役割であろう。それは明日考えよう。
夕方事務所に行きスタディの進行を見て打ち合わせ。夜理科大の先生たちと食事。人数が少ないから家族のようである。

後期近代の眩暈にリアリティを感じる

午後Tさんと設計打ち合わせ。いいこと言うな。スタディが増えるのだが良くなるスタディは大歓迎。ありがたや。
夕方ジョック・ヤング(Young, J.)『後期近代の眩暈』青土社2008を読む。後期近代とは1960年代後半以降のことであり、そこでは社会が包摂型から排除型に移行し始めたという。そしてこの排除型社会の惨状を著者は眩暈(vertigo)と言う言葉で表現している。資本主義の急速な進展とグローバル化は仕事の効率化を生み必然的に人員削減を招き失業率を上げる。加えて構造的世界不況がそれに追い打ちをかける。そこでは経済的に不要とされるアンダークラスが生まれるだけではなく、逸脱行為に対する不必要なまでの不寛容さが蔓延すると指摘する。経済的な崩壊は家庭も壊し、離婚率も上げ、シングルマザーも増加させる。そうした家庭は経済的に困窮しその子供は満足な教育も受けられないという悪循環を生む。そしてそういう子供を排除する社会が生まれていく。そういう子供の逸脱行為は普通の家の子供のそれとは同等には扱われない。
要は世の中の歯車に乗れない多くの人々を排除する社会が構造的に世界的に生まれてきたということなのである。ジャック・アタリの『国際債務危機』を読んだ後だとこの眩暈がリアリティを持って響く。しかし、こんなことがまかり通る社会は断じてまずい。

March 3, 2011

メタ理性

『国家債務危機』を読んでいるとフランス革命だってとどのつまりは財政破綻であることが分かる。金にいとめをつけずに贅の限りを尽くせばああなると言うことだ。
一方フランス革命を哲学的に見ればデカルト的世界(理性的世界)が社会を変えたということになる。しかしそのデカルト的世界が突き進んだ結果はとても理性的とは言えない二つの大戦争を生んだ。そしてそれは経済的に見ればやはり財政危機を乗り越えていくための政治手法だったわけである。
バタイユの専門家酒井健による『シュールレアリズム』中公新書2011を病院の待合室で読んだ。彼らは戦争にデカルト的世界の無力を見出だしそれへのアンチテーゼを突き付けたと記されている。つくづく理性とは何なのだろうかと考える。経済を救えず、そして文化を陳腐化させる。理性は不要なのか?いやそれでも理性はもちろん世の要である。理性を越えたメタ理性が必要だと言うことであろうか?

March 2, 2011

庁舎は神殿か?

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●栃木県庁 日本設計 2007年 97,954 m²

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●群馬県庁 佐藤総合計画 1999年90,191㎡

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●茨城県庁 松田平田坂本 1999年 81,393m²

打ち合わせで栃木県庁に出かける。湘南ライナーで宇都宮まで行く。1時間半も乗るので車内で仕事をしようとグリーン車に乗った。このグリーンはホームでスイカに課金して車内で席の上部にタッチするとランプが赤から緑に変わる仕組みである。この仕組みが面倒くさいと言って怒っているインテリお姉さんがそばにいた。JRは独占企業で競争が無いからサービスが悪い。JALの方がよほどいいと怒っている。スイカをタッチするなんてそれほど面倒なことでもないだろうと思い怒られている若い女性車掌が気の毒に思えた。あんな風に文句を言いたくなる時がこないといいなあと思わず溜息。
宇都宮には来たことがあったが県庁に来るのは初めて。バスで下車して徒歩で近付き驚く。すげーゴージャス。栃木県の人口は長野とほぼ同じ200万位だけれど庁舎は天と地。
建物に入るとまた驚く。巨大吹き抜けで仕上げも石。こりゃバブルの産物かと思い、クライアントに会って聞いてみると「できたのは数年前。無駄そのもの、茨城県庁や群馬県庁に対抗して作ったようなものですよ」とおっしゃる。調べると確かに2007年竣工である。
もう少しなんとかならんのだろうか?それに役所建築ってどうしてどこもかしこも判を押したようにシンメトリーなのだろうか?庁舎は神殿か??

March 1, 2011

これが山梨にある塩の山

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●これが塩山だ

早朝あずさで塩山へ。いつも撮りたい撮りたいと思っていた写真が今日は撮れた。これが塩山である。ある時誰かにこの山は塩でできていて武田信玄がこの塩を敵にやったのだと言っていた。が定だかではない。
午前中午後と定例。後20日。
塩山への往路で『東京都知事』の都財政の章を読む。東京は全都道府県の中で唯一戦後地方交付税を受け取っていないそうだ。つまり地方税の税収が多いわけである。フィンランドの国の予算規模と同程度の12兆円という予算の3割は法人税で賄われている。ということは景気が歳入に大きく影響する。2009年度の税収はリーマンショックの影響で約1兆円減じたというし今後も下がると予想されている。
さて塩山からの復路ではジャック・アタリ(Atari, J.)林昌宏訳『国家債務危機』作品社2011を読み始めた。古来国家とは国力をつけながら(つけるために)債務を繰り返し、それを税収の増加で返済し、あるいはインフレにより解消したという。しかるに経済が下降線の時には債務の返済は不可能でありそれは滅亡へ向かって進むのだと始まった。なんと恐ろしや。しかもここに出てくる国家債務最悪の国としてあげられているのは他なる日本である。サルコジ大統領の政策アドバイザーと聞いてもよく分からないが、欧州復興開発銀行初代総裁と聞くと彼のもとに集まったデーターにはひどく信憑性を感じてしまう。