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September 29, 2012

マヤ特有の形


マヤ建築はピラミッドと神殿だけではなく住居もあった。中はプラスターが塗られソフトである。ティカルの敷地は30センチ掘るとライムストーンであり、それを焼成してセメントとプラスターを作った。殆ど窓が無いインテリは断熱性と構造によるのだろう。この三角天井は構造的に考えるとぎりぎり持ちそうだが、この木の梁は効いているのだろうか?ガイドに聞いたらこれは装飾だと言っていたが。この天井の形は、スパニッシュコロニアルでもコンテンポラリーでもたびたび現れるグアテマラ特有のシェイプとなる。ヨーロッパには絶対出てこないボキャブラリーだろう。

朝一の飛行機でシティに戻る。パッキングして少し買い物でもして後は帰路と思っていたが、空港に学生が待っていて審査したコンペの表彰会場へ連れて行かれた。このイベントでは写真、ID、エッセイ、そして建築という4つのコンペが行われ、加えて僕やベレン、パブロを国外から呼び、ワークショップにレクチャに集中講義が行われた。この全体がたった一つの私立大学の企画だと言うことに改めて驚く。僕の費用はJAPAN FOUNDATIONが出してくれているのだが、その書類申請は去年の11月から大使館の協力のもとに行われていたそうだ。その作業は僕を迎えに来た学生がやり実に大変だったとのこと。表彰式からコンペ運営から全ては学生が全面的に動いている。
中国でもそう思ったがグローバル化への努力は半端じゃない。それは大学と学生の共通認識である。建築のいい大学が4つ5つしかないグアテマラのような国では、それぞれが国を背負っている。国も期待し予算をかけ人材を集めているのだろう。そうでなければ副大統領が一大学のイベントセレモニーに来るわけもない。ITSMOでそれを仕切っているのはアナ・マリアである。彼女の差配は全てにおいて豪快だったし機敏でありながら優雅だった。お見事である。
表彰式を終え、コンペを仕切っていたITSMOの卒業生エリックが僕と午後を過ごしてくれた。彼はITSMOをトップで卒業し、メキシコに留学し、自分のスタジオを持ちながら、市の都市デザイン課で40人のスタッフを仕切り、なおかつ月刊の建築雑誌の編集をしている。何冊かくれたがその質の高さに驚く。因みに彼は32歳。
グアテマランには二つの伝統がある。マヤとスパニッシュ。君の伝統はどっちだと聞くと、マヤンではないけれどマヤに思い入れがあると言う。そういう彼はイタリア移民の子。こういう状態だから彼らにとってはIDENTITYが頻繁に話題になる。
ランチ後グアテマラモダンミュージアムに連れて行ってもらいそこでベレンとジェフに会う。どういうわけか日本のJAPANFOUNSATIONの主催で日本の陶器がずらりと並んでいた。僕のかみさんも陶器の勉強をしていたけれど家が書道をやっていたから書道家になったと言ったらそういうのを英語でapple doesn't fall far from the treeと言うのだと教えてくれた。ベレン(ラファエル・モネオの娘)もそうだというわけである。
残り2時間。本屋とマーケットへ行くことにする。本屋では英語のグアテマラ建築史の本を探すが見つからない。英語の本が殆ど無い。これはおそらく日本も同じだろう。英語の日本建築史や都市史の本を探す異国の建築関係者は多いはずである。英訳は必須だと感じる。大学にしかない情報は大学の外には無いのと同じ、東京にしかない情報は日本に無いのと同じ。日本語でしかない情報は世界には無いのと同じである。仕方なく英語のテキストがついた歴史的写真集とマヤ織物の色見本帳のようなものを買う。
残りのケツァルをマーケットで使い飛行場に滑り込む。ジェフに言われたAre you sure if your ticket is today?僕がマドリードに行く時切符の日を間違えていた話を前にしていたので一同大笑い。そしたら彼らもしょっちゅう飛行機乗り遅れるそうだ。おっちょこちょいは僕だけでは無かった。
グアテマラから4時間半。ロサンゼルス。12時間の夜中のトランジットはしんどい。寝ないためにキーボードに向かっていら駄文の行列となった。

September 28, 2012

マヤ神殿の層構成


マヤ文明の中心地だったと言われているティカルを見る。読んでいたマヤ文明の本では知り得なかった(いや書いてあったかもしれないが)ことが3つあった。
一つめはマヤ遺跡はその昔真っ赤(一部空色など)に塗られていたと言うこと。その多色性が現在のグアテマラの特徴的な織物になり、それが街のカラフルさの伝統になっている。もちろんスペインの伝統もあるのだが、スペインは内部がカラフルでも外はそれほどでもない。つまり色使いはスペイン征服後にスペインとマヤ文化が融合したというのが皆の言うところである。これを聞くとアルゼンチンのそれはアンデス文明が関係するのか、マヤあるいはスペイン征服後の混合文化が南下したのか?
二つめはピラミッドもテンプルも4層構造になっている。この写真から分かるのは一番外側の三層。長いものでは900年くらいの間に最初のモノの周りに3つの層がかぶせられるように建設された。イスモ大学の先生が、日本はあるインターバルで壊して建てなおすのに対してマヤはあるインターバルで建物の外側に建て増していく。どちらも更新していくところが似ているという。
3つ目はアンソロモルフォロジックな(人体寸法に基本を置く)形態操作。アナがマヤ建築のアンソロモルフォロジーがアンティグアに現れていると言っていた。そこでいろいろなところを図ってみた。すると特徴的な寸法が一つ見つかった。
マヤにはピラミッド(と言っても墓では無い、単に神に近づく台)とテンプルがあるが、ピラミッドの階段は僕が計った限りでは殆どが蹴上踏み面ともに30センチ内外であった(つまり45度である)。階段はひどく急で登りにくい。一尺なのだから当然である。尺は尺骨の長さと言われているので日本の単位系もインチ系とともにアンソソロモルフォロジックなのだが、マヤの階段寸法もそこから来ているのだろうか?

September 27, 2012

建築アイデンティティ議論


○食事前に建築談議で盛り上がり、ライト、コルビュジエジエと話しがはずむ。大使は話の進め方、振り方が見事である。大使夫人も天才的。なのだが、勝手に建築論議論で盛り上がってしまう我々は常識はずれ人種かも。

○副とつくが力は副なしの大統領だと巷の噂。人への溶け込みかたの上手さはさすがである。

○建築のアイデンティティがテーマなので日本建築史を15分で駆け抜ける。

朝からコンペ審査。ジェフ、ベレン、僕で審査する。市の関係者が質問に答えてくれる。視察した現地を思い出しながらなるべく英語で話してもらうように頼みなんとか最終三案を選ぶ。ジェフがアメリカ人にしては奥ゆかしく、僕に一等を決めろと言うのでこれにしょうと言うと異議なしで決まる。
12時に大学を車で出て日本大使公邸に向かう。公邸周辺は完全なゲイテッドになっている。もちろんグアテマラで最も大きな家が集まっているところでありアメリカの高級住宅地の風情である。
こういうことは初めての僕に比べると父親が外交官だったアナはやるべきこと、着るべきものが分かっている。タイを日本から持ってこなかった僕にハズバンドのタイを持ってきてくれた。ありがたや。公邸にはイスモ大学の学長ペレス、学科長アナ、僕の面倒を見てくれているロールドレス、そして佐々木アソシエイツの(やっぱり日本人が創始者だからか?)パブロとロベルト、日本政府の奨学金を申請している学生(名前忘れた)が招待された。もちろん人選は大学がリストを送り大使館が行う。
大使館の建物は自前のモノから借りているものまである。ここは借り物。大使館の家具は赴任中の大使の好みで決まって行くので、長年の間にトータルコーディネーションが崩れると嘆いていた。日本人はインテリアがあっさりしてしまいますねとこれも嘆き。そう言われるとちょっと渡しずらくなったが、拙著2冊を差し上げた。娘さんがバートレットで建築を勉強中とのこと。では是非フォーティ―にお会いくださいと申し上げる。
さすが日本だと感心したが、ペルー料理と日本料理を交互にギャップなく味が繋がるように出してくれる。大使曰く、中南米の食事はペルーとメキシコに起源があると教えてくれた。いやーこんな料理を出されると感性の高い人はしびれるだろうなあ。
3時に公邸を辞して、大学に戻る。アナは再びドレッシーに着替える。やはりヨーロッパ文化だなとつくづく思う。中国行ってから、すぐ旅立つと持ってくる服を間違える。もうアナや副学長の服はパーティードレスさながらである。会場に車で着くと、学生も含めて皆滅茶苦茶おしゃれに着飾っている。やれやれ、、、、
ホルヘモンテスチェアという名の一連の建築イベントのピークが今日であり、会場は400人くらいの学生、建築家、各大学の建築学科ディーンが集まって来ている。6時から始まる副大統領の挨拶が6時半に遅れる。グアテマラタイムだと皆気にしない。副学長、学科長そして副大統領の挨拶。さすがに政治家の挨拶を他と比較すると迫力が違う。そして僕が紹介され建築のアイデンティティについて話を始める。他の国に行って、建築のアイデンティティについて、学生から、日本大使夫妻も前にして語るのは実に難しかった。しかし今回はある程度それを予測しながら、生まれて初めてきちんと原稿を用意してスピーチした。これは本当である。言うべきことをきちんと言えたと思うし、さすがに原稿あると余裕もあって冗談の一つも言えたのだが(最近これは必須である)一方で会場を見ながら原稿に目を戻すとロストしてしまうことが分かった。副大統領はI-PODと手書きのどでかいメモを持ってきてI-PODはどうも万が一の時のために演台の下において手書きを見て話していた。その理由がよく分かった。90分の予定が副大統領が遅れて75分くらいに切り詰められたが無事納まった。
終わってカクテルパーティがあり、学生に頼まれて数十枚一緒に写真をとったが、僕より大きな女性が3分の2くらいはいるのには参った。いや背だけでは無く横にも結構大きいよね。昨日アンティグアで彫刻を見ている時にお腹が出ているかいないかというのが議論になった。出ていることが美の要素である時代もあったようである。11時。明日ティカルに行く僕を慮り、アナに「さあ行くよ」と言われ今日が最後になるモネオの娘ベレン、パブロとハグ。ベレンは本当に可愛らしくて素敵なレディだった。ハーバード出た後、どうしてコロンビアの院に行ったのかと聞くとハーバードのディーンが父親だったからだそうだ。マドリードか東京で是非会おうと言って別れた。パブロはハーバードの院を出てハーバードで教えているとのこと。僕がアルゼンチンに最初に行った時にボカのチケットをすぐ買ったと言う話を皆に言いふらし、そんな男がこんな建築を作っているなんて信じられないと笑いを誘う。彼はワークショップの先生だったが、昨晩夜中に呼び出され最終プレンを見たが、3割くらいがとにかく素晴らしいレベルである。2日しかないのにここまで引き上げる力に感心した。彼と別れるのも淋しいものだ。2メートルくらいありそうなイカス男とハグするのは大変。こっちが背伸びして、向こうがしゃがむ。
部屋に戻り明日の準備。飛行機6時半だから、、、、

September 26, 2012

スパニッシュとマヤのコンバインを見る


○スパニッシュコロニアルがマヤ人の建設者によってマニエリスティックに変形され柱のプロポーションがでぶになった。

○この丸い広場に見えるところには屋根がかかっていた。そしてこの丸い部屋の周りには15個くらいの部屋と思しきものがあり、そこには下水に繋がるトイレがついている。一体ここが何に使われていたのかは未だに分かって無いらしい。

○このコーナーウインドウ組積造文化では珍しい。構造的にはこの格子の後ろに柱は立ってる。出窓にしているところがみそ。

〇この鳩小屋は一般に1階建てのアンティグアの大きな家のロフト的な場所に作られている。この小さなボールトのついた穴が鳩の入り口、とするとこの四角い穴は何なのか議論となった。

○このドーナツ空間はせまい階段を地下に降りると突然開く。狭いところから突如開かれた場所に出るのはマヤのシークエンスだとアナは言う

朝大学でワークショップの様子を覗きすぐに、ベレン、ジェフ、アナ、と一緒に車で1時間ほどの古都アンティグアに向かう。日本に来たことがある先生の一人が、グアテマラシティは東京でアンティグアは京都だと教えてくれた。学科長アナは一般にアンティグアの建築様式がコロニアルスタイル(スパニッシュバロック)と言われることに疑いを持っている。これはヴァナキュラー建築だと言うのである。
グアテマラにはスペインのマスターアキテクトは来ていなくて、インストラクションドキュメントのみがあり(それがどのようなものか会話の中では曖昧だったが)それをもとに、マヤの人間がそれを建設した。マヤの建築はアンソロモルフォロジック(人体寸法を基準に形態を作る)なので彼らはスパニッシュバロックを自らの寸法形態に変えて行ったというのである。
さてそんなものちょっと違ったって僕には分かるまいと思って行ったのだが、果たして全然違うということが一目瞭然だった。しかしこんなマニエリスムは元祖スペインにだってあるだろうと思いマドリードに住むベレン夫婦に聞くとすかさずこんなの見たこと無いという答えが返ってきた。彼らも驚いている。アナがこういうことに注目したのはキューバ―の学者が提唱しているtransculturelizationという学問領域に興味があるからだと言う。
アナが観光客では見られない、見るべきところへどんどん連れて行って説明してくれるので本一冊分くらいの特別講義を聞いた感じである。
建築様式が異なる文化の中で変形するのは多かれ少なかれおこることなのだろう。しかし正直言ってあまり真剣に比較しながら建築を見たことは無かった。
例えば日本建築はどうだったのだろうか?彼らの目から見ると中国建築は日本に入りシンプリファイされたと映る。確かにそれは事実だろう。ではそれはどうした理由に因るのだろうか?理由は無く単なる芸術意志なのだろうか???

September 25, 2012

敷地見たりプレス発表したり


○コンペ敷地の視察 奥の女性がベレン・モネオ、隣が旦那のジェフ・ロック2人でラファエル・モネオ事務所を切り盛りしている

○アナがディズニーランドだと怒っている開発。日本人には分からんな。

○ITSMO大学のチャペル。これを見て思い出すのはバラガンの教会。黄色いガラスはとてもポピュラーなのだそうだ。

○例によってこんなでかいポスターが。僕を読んだ理由は学生の希望と聞き少し嬉しい。

○プレスコンフェレンス。右からシルベリオ:メキシコのランドスケープアーキテクト。パブロ:佐々木アソシエイツ、彼はアルゼンチン生まれなので話がはずむ。ホルヘ・モンテス:グアテマラ建築の父のような人シンポジウムには彼の名が冠されている。アナ:建築学科長。長崎全権特認大使。ベレン・モネオ:ラファエロの娘、気さくで賢くてとてもいい人。そして僕。

グアテマラに来た目的の一つはITSMO大学で年に一回行う建築会議で活動し、スピーチをすること。もう一つはコンペの審査。午前中はその敷地視察。グアテマラシティは旧市街と新市街に分かれている。旧市街は歴史遺産が有るものの少々荒れ気味。例によってそばにはスラムもある。市は復興局のを設置。ダウンタウンが荒れるのはアメリカも同じ。今はどうか知らないが、僕がLAにいた時はダウンタウン開発局があり、その活動の一環で磯崎さんのMOMAができた。僕の修士設計もダウンタウンのインターベンションだった。おそらく何処でも新しい街が隣接あるいは周りにできる場合は古い街が閑散とする(例外は北アフリカのメディナ)。
復興局を先ず訪れ彼らの作業を聞く。かなり高度な作業をしている。彼らの提案はInternational Architecture Biennale Rotterdamで銀賞を受賞したそうだ。彼らに連れられてコンペの敷地である大きな市場とその周りのバスターミナルを見学。驚くべきことにこの視察に警察官が2人随行。案の定ジャンキーおじさんがよって来た。
この審査はBelen Moneo(ラファエロ・モネオの娘)とその旦那Jeff Brock と一緒に行う。彼らはコロンビア大学の同級生で南京のシンポジウムで友達になったReinhold Martinの友達だった。世の中狭い。
昼はITSMO大学建築学科長のアナに連れられ新市街へ。20分行くと突如風景はアメリカの郊外の。こんな調子だから彼らはアイデンティティを語りたいのである。さて昼を食べたところはスパニッシュコロニアル風の開発。飲食物販住居のコンプレックス。彼女はまるでディズニーランドだと怒っている。これってコロニアルスタイルじゃないの?と聞くと全然違うしたとえそうだとしてもナンセンスだと憤る。こんなコピペは僕がいた長野でもあったと言うと、問題はへんちくりんなものを人々が好きだと言うところだと言う。そう言えば中国でも売れるマンションはボザールコピーだと嘆いていた。世界中で同じことが起こっているを知る。
夕方大学でプレスコンフェレンス。大使館から大使と書記官がいらっしゃった。書記官が「最近まで中国にいらっしゃったそうで」とおっしゃるので驚く。ブログを見ているという。プレスコンフェレンスではいきなり振られて焦る。大使が僕の説明を十分にしてくれていたようなので、アイデンティティは難しいと語りお茶を濁す。
それが終わりSASAKIアソシエイツのやっているワークショップを覗く。10チームが全て違う未踏の敷地を選び3000㎡のインフォメーションセンターを設計中。2日で何ができるか楽しみである。
その後8時からは大学と産学協同しているコンクリート会社のエンジニア10人くらいとカクティルミーティング。フォーティーを読むことを勧める。
長い一日がやっと終わる。そうそうミーティングの途中で隣地の動物園からライオンの鳴き声が聞こえたのには驚いた。

September 24, 2012

グアテマラのステーキも美味い、厚い、安い



午前中スピーチ原稿をなんとか完成さえビジネスセンターで印刷してもらう。それを読もうと思ったら時間。ITSMO大学のロールデス先生夫妻が迎えに来てくれた。佐々木アソシエイツのアソシエイトスタッフも一緒である(名前忘れたが彼はアルゼンチン生まれ)。佐々木アソシエイツはすでに創設者の佐々木さんは亡くなったものの250人のスタッフを抱えボストンに本拠地を置く巨大事務所である。現在ITSMO大学のマスタープランを作っているのだそうだ。
ロールデス夫妻が我々を近所のレストランに連れて行ってくれた。彼らは(昨日のアンナもそうだが)とても初めて会った人には思えない人懐っこさ。ファーストネーム連発であっちこっちを見ろ見ろと指し示しながら説明する。そしてレストランではメニューの説明。ここではとにかくステーキを食べろという。おおおアルゼンチンと同じである。そしていろいろな種類の中から一つ選んでくれて残していいから12オンスを食べろと言う。約350グラムである(ちなみに値段は1500円くらい)。この進め方もアルゼンチンと同じ。そして、実にうまい。アルゼンチンといい勝負である。素晴らしい。そして果物野菜も何でも上手い。
初日から食べ過ぎると胃が壊れるので少し残す。食後は旧市街の方をぐるっと回ってくれる。何処でもダウンタウンは少々怖いがここも一人では来たくない感じである。怖いところに隣接してきれいな公園がありそこにはグアテマラ全土の水平方向10,000分の1、垂直方向2000分の1の巨大模型があった。模型を見るための2階建の物見台が二つ置いてある。これを見るとよく分かる。国の中央を東西に山脈が貫いているそしてその中に火山が沢山ある。朝見た富士山のような山もそこにありそれは水の火山なのだという。????どうも火山の裏の高地に湖がありその昔の噴火で山にひびが入りその水が流れ出し周囲の街を水没させたのだそうだ。数日前爆発したのもこれだそうだ。3万5千人が避難したようだが、どうなったのだろうか、滞在中に噴火するだろうか?

グアテマラに富士山発見


例によって時差で朝4時くらいに目覚めるが必死にベッドで寝る努力。7時ころ明るくなったので仕方なく起きてベランダから外を見る。昨日はキッコーマンに驚いたが、今日は富士山そっくりの山に驚く。来る時読んでいたグアテマラガイドブックに街はけっこう危ないと書いてあるのでジョギングしても大丈夫かとレセプションに聞く。このホテルの周りは安全だというので、一回り。しかしホテルのゲートやエントランスには明らかにベルボーイではない風体の屈強な背広姿の男たちがいるし。エレベーターはカード差し込まないと動かない。危険の匂いぷんぷん。ホテルのまわりは何かイベントでもあるのだろうか?広場に子供がたくさんいた。アルゼンチンと違ってヨーロッパ系の顔した人は殆どいない。そう言えば昨日あったAnnaも混血だった。ジョギングから戻り朝食の場所を聞いた受付の女性が研究室のHさんにそっくり。日本人移民が最初に来たラテンアメリカの国はグアテマラだそうだ。

September 23, 2012

グアテマラに減塩醤油あり


中南米に行く時のトランジットはだいたいアメリカだが、いちいち入国してまた出国というこの手続きが鬱陶しい。前回のアルゼンチン同様今回もヒューストン。6時間待って8時の飛行機でグアテマラまで2時間。夜中の10時ころ到着。ISTMO大学の建築学科長ANNA が夫婦で迎えに来てくれていた。ほっとした。今まではずっとロードレスという教授とやり取りしていたのだが今日は学科長。彼女はお父さんが外交官でグアテマラ生まれだが3歳でアメリカ、その後オランダ、フランス、10年前くらいに母国に戻ってきたそうだ。英語がとてもうまい。これからの予定を聞くといろいろと詰まっている。シンポジウムのオープニングにはVICE PRESIDENTも来ると言う。大学の副学長?て聞くとNO!副大統領だとか。一体このシンポジウムって何なのだろうか?そのシンポジウムの基調講演を僕がするってどういうことなのか?謎が多い。
ホテルについてお腹が減っていたのでレストランを探す。二つあって一つは何と日本食。じゃあちょっと覗いて見ようと入るとフレンチのインテリアで日本食。テーブルには減塩醤油ものっているのにはびっくり。

今日のホテルを聞き忘れていた!!!


母子は朝早く墓参りに出かけ、僕はスピーチ原稿を打ち続ける。昼、家を出て成田へ。ユナイテッドのカウンターが厳しくて荷物が規定より2キロオーバーの25キロなので小分けにしろと言う。仕方なくキオスクで袋買ってそれに靴やジーンズを入れて預かり荷物を二つにする。こんな小さな紙袋(ガムテでぐるぐる巻きにしたのだが)遠く中米まで間違われずに届くだろうか??
先週まで中国にいて、その前一週間くらいはその準備で頭が一杯だったので、グアテマラのことはスピーチ以外のことはまったく頭に入って無い。昨日も遅くまでべったり大学にいたのでパッキングもかみさんに任せた。そもそも自分の泊まるホテルも知らない。そう言えば誰が迎えに来てくれるのだろうか???夜着くのにやばいな。治安がいい所でもなさそうだし、、、、あせってメールしたけれど、返事が来ていない。
機中はさっぱり眠れぬまま乗り換え地ヒューストン到着。ひどく眠い。グアテマラシティ行きの飛行機まで4時間ある。一昨年マドリードでゲートで寝ていたら、いつの間にかゲートが変更になって飛行機をミスした苦い経験がある。早めにゲートに行くと危険なので今日は人が沢山いるところでうろうろする(寝ないように)後4時間何したらいいのか?難しい本読むと寝そうだし、酒飲むと寝そうだし、スピーチ原稿推敲するには頭冴えてないし、、、、、、
おっとこの空港ワイファイフリーだ。アメリカでは初めての経験!!!

September 21, 2012

伝統は創作の出発点ではありえても回帰点ではない


昼から近代建築ランチゼミ。2時から4年卒論ゼミ、後期はM1も参戦。4時から講義、今年から始めた一部、二部合体の建築空間論。6時から3年生の製図。今日はイントロ。
夏休みも終わり後期開始。
近代建築ランチゼミは2時間金子君、天内君と徹底討論。と言っても、分離派プロ天内とメタボリズムプロ金子相手に坂牛はそれを結び付ける糸をひたすら質問しながら探すという格好である。中国で感じた徹底討論の面白さを是非日本でも持続したい。話を曖昧に終わらせずに突き詰めていく姿勢を忘れないようにしたい。
日本のモダニズム概念は誰がいつどのように生み出したのか?馬鹿の一つ覚えのように自問自答している。日本はそれを確立する前にそれをマニエリスティックに活用することに走ったのか?いやそれが日本のモダニズムだったのか?例えば丹下さんの桂の美への肉薄はそれを表している。そして篠原さんはそれをはねつけるかのようにこう言った。
Tradition may constitute a point of departure for creation, but never a home to come back to.
篠原さんの象徴空間で有名なのは白の家の柱だけれど、このSDの表紙を見ると、ここにも床柱の象徴性が無意識のうちに入りこんでいるように見える。もちろん回帰点でゃなく出発点として。

紙を読むスピーチ

午前中滞中時の御礼メールをあっちこっちに出していたら事務所から電話、「もう出る時間ですよ」と言われ「あれもう11時」と気付く。あせってパソコンを閉め、中央線で一本、山手線で一本、常磐線でさらに数本メールする。
昨晩家に帰るなり、興奮してかみさんに中国での話をしまくったら、かみさんに言われた僕は何かに刺激を受けて帰ってくると凄い勢いで話しまくると。それは僕もよく自覚している。「中国建築はすぐに日本建築の手ごわいコンペティターになる」と言うことを力説していた。でもそう思った理由は、中国がユウロアメリカンの文化圏において強い存在感の持ち始めたというところにある。なんのことはない。ユウロセントリシズムを思いっきり肯定しているのである。そんな自分が情けないが、、、この気持ちは中国の前近代性に一通り痛い目にあった人間にしか分からない。
帰宅後、ひたすらスピーチ原稿を英語で打つ。いままで日本語のスピーチで原稿を作ったことは無い。紙を読むスピーチは抑揚がないので好きではない。よって自分のスピーチも紙は作らない。当然英語になってもそういうことはしないと心に決めていたのだが、今回ちょっと限界を感じた。というのも今回のシンポジウムにおいて10人以上のスピーカーのうち紙を持っていなかったのはAAのマーク・カズンくらいである。後はMITやコロンピアの教授陣もネイティブのようなチャイニーズも紙を用意していた。そんな中で手ぶらの僕は冷や汗ものだった。だから今回は簡単なペーパーは作っておこうと思いひたすら打ちまくった4分の3くらいはできたのだが、力尽きた。続きは明日早朝。

September 19, 2012

日本の読み変え文化をどう乗り越えるか?


上海行き帰りの機中で豊川斎嚇『群像としての丹下研究室―戦後日本建築・都市史のメインストリーム』オーム社2012を読む。日本の近代概念(建築の)の生まれる現場を見たいのである。そのためには戦前戦後の見えていない糸を見つけなければいけない。そしてそれに応えてくれることが大まかに3つ感じ取れた。
一つ目は戦前の生産力の拡充を巡る企画院、内務省、そして建築家として、前川・坂倉(コルビュジエ派)という緊密なつながりが戦後全総計画を巡り、安本、建設省、丹下研に引き継がれたという事実。にコルの流れは何らかの形で丹下研に血肉化している。
二つ目は戦中西沢らが階級意識を根底に住宅問題を検討していたことに対して、戦後丹下は経済復興を軸にそれを乗り越えていったという事実。つまり戦後の浜口の「ヒューマニズム論」も階級意識を基盤としていたが、丹下は経済合理性を基盤とした。
一つ目と二つ目の事実は明らかに丹下事務所のモデュール設計に繋がり、モデュール設計こそが初期丹下設計のインターナショナルな風合いを作り上げたのではなかろうか。
三つ目は哲学的な知を求める当時の東大建築学科の風潮の中で、立原道造がヴァレリー、あるいはヴェルフリンから建築における現象の重要性を読みとったのに対し、丹下は同じヴァレリーから幾何学を読みとっていたと言う事実。
丹下健三だけが日本の近代(建築)を作っていたわけでは無いにしても、著者が言うように彼がメインストリームであることは明らかであり、彼の戦前からの思考の受容と連続が日本の近代概念(あるとすればだが)の核であることは間違いない。
コルビュジエ、経済、モデュール、幾何学。乱暴に言えば、この辺りが近代概念の核であろうことが、おぼろげに見えてきた。
そしてではこれらは一体僕らにとってどういう意味を持つのだろうか?海外文化の読みかえ(何時も日本はそうなのだが)を僕らはどう消化して乗り越えていくのか?今度はグアテマラで話さないといけない。

同済大の建築学科も落ち着きがあっていい


○同済大の建築学科左、右、奥全て建築学科の建物。日本のどの建築学科よりしっかりとデザインされている。

○MAO事務所の階段がたレクチャーホールでの講演。同済大の部屋よりはるかにいい空間である

○教え子神山君のガラス張り個室

早朝同済大学キャンパスをジョギング。学生が波のように押し寄せ、自転車が縦横無尽に走り回る中をスラロームするようにジョギング。朝食を食べてパワポを修正していたら11時。信大を出て上海のMAO事務所でチーフアーキテクトをしている神山君が迎えて来てくれた。事務所の社長マオさんは坂本研の後輩で今日初めてお会いした。車で上海の倉庫をリノベしたスノビッシュなレストランでランチ。マオさんは坂本研から首都大小林研に移り日本設計で数年働き上海に戻り事務所設立。現在150名くらいの事務所に成長し、3500㎡のオフィスを構えている。凄いものだ。
30年代の食後屠殺場をリノベした商業施設を見る。凄い面白い構成である。2時半にホテルに戻ると通訳をしてくれる同済のリー君が来て打合せ。彼は10月から東工大に留学予定。本日やっとビザがおりたそうだ。3時半からレクチャーをして6時ころまで質問を受ける。坂本先生から同済のレクチャーすると質問が凄いぞと聞いていたのだが、そうでもなかった。同済の建築学科は建物が4棟もありどれもなかなかよく出来ている。6時ころ同済を出てマオさんの車でMAO事務所に行く。できたての巨大事務所は後輩の事務所とはとても思えない広さと優雅さである。そこの階段室レクチャーホールでさっきとはまた違うテーマでレクチャー。急きょパワポを入れ替えてしゃべること1時間少し。そこから様々な質問を受けた。皆積極的で素晴らしい。
全て終わってから神山のオフィスを覗く。彼はチーフアーキテクトなのでガラス張りの個室を持っている広さは10畳くらいだろうか。素敵である。

September 18, 2012

久しぶりに上海


10時の新幹線で南京から上海に向かう。帰りはコロンビアの建築史准教授Reinholdと2人。彼はケネス・フランプトンの教え子。シンポジウムだと余り話せなかったせいで、2時間近く会話が止まらない。
今アメリカ建築の良い建築は誰が作っているのか?と聞くとgood question と言って言葉を濁す。じゃあ誰が学生に最も影響を与えているのかと聞くとやっぱりレム、あるいはクールハースキッズたち。例えば学生がBjake Inglesなんかすぐ真似るけれどひどいもんだと言う。クールハースの形だけ真似て何も考えてない。
じゃあ日本人では?と聞くとかなりSejima。ローザンヌはどう思うと聞くとOKと言い、ニューヨークの美術館は?と聞いてもただOKというだけなので彼自身はまあso soと言うところなのだろう。
アメリカでは昨日までのようなシンポジウムはよくあるだろうね?と聞くと、あるけれど歴史とデザインを一緒に語ることは少ない、そもそも歴史家とアーキテクトだと求めているモノが違うからねと言う。確かにシンポジウムで建築作っているのは2人くらいしかいなかったので僕なんかは結構away感があったよというと、そうだろうねと言う。でも彼もよくスタジオに呼ばれるけれどなんとなく場違いな感じがあるようだ。
なんて、取りとめの無いことを話しているうちに上海。時速300キロで揺れもまったく感じ無い快適な旅だった。
上海には学生の代わりにWANG教授が迎えてくれて、プドンの絶景レストランで昼食。最近の中国の食事は変わったのか彼のチョイスがソフィストケイトされているのかもう残すことも無い。WANGさんはおそらく僕と同じくらいの歳だが東南大を卒業してスェーデンに留学し、そこで働き計12年、その後コロンビアで学び中国に戻ったとのこと。僕の時代に海外に行く日本人が少なかったのに中国人でこれだけの海外経験をしている人なんて稀有だろうと思いきや、そうでもないのが実は日本人の甘いところ。
昼食後同済大脇のホテルに案内してくれた。何とも素敵なホテル。夕刻食事に連れて行ってくれたがこれも今までの大倉の経験とは大違いでとにかく洗練されているのだが、どちらも大学の施設の一部と聞いて唖然とする。日本の大学は淋しいねというかんじである。
食事同席したもう一人のWANG先生は初めて会うのだが僕の建築のことをいろいろ聞く。そしたら日本で僕のArchitecture as Frameを買ったのだそうだ。ありがたや!!

September 17, 2012

中国にも良識人はもちろんいる


シンポジウム二日目。さて今日は昨日のメンバーに加えてModern Architecture since1900の著者William Curtisが来る予定だったが、なんとキャンセル。しかし、原稿とパワポが送られていて代読すると言う離れ業をやってのけた。カーティスのこの本は僕が卒論を書くときにまめに利用した本であり懐かしさもあって一目お会いしたいと思ってわくわくしていたのだが残念である。この本は1982年の初版に続き2版が87年、三版が96年に出ている。それが最近中国語に翻訳されその歴史叙述の方法について議論され、さらに、そこには中国建築は殆ど書かれていないのでこの本はNon-Chinese Modern Architecture since 1900と言うべきだと同済のWang先生が言う。するとAAのマークはヨーロッパ建築だってたいして載っていないのだからこれはExtremely small number of modern Architecture since 1900 と言うべきであると笑わせた。
午後のスピーカーは3人とも中国人。1人はメル大の教授であり残り二人は同済と東南の建築史の教授である。彼(彼女)らが中国建築史を詳細に語ってくれたので僕も殆ど初めて中国建築史を少し知った。彼らは1949年に中華人民共和国ができて徹底した社会主義建築を造った。その特徴はmonumentalization とobjectificaitonだったという。さもありなん。われわれ日本が戦中にやっていたことにかなり近い。僕らは戦後にさっさとそれをやめて民主主義の名のもとにモダニズムを受け入れた(と言っていいのかどうかはまさに今調べているところだが)一方中国はナショナルスタイルをひたすら追っていたのである。
このレクチャーはとても勉強になるのだが、この後のディスカッションは中国建築の明日を巡ってアメリカとヨーロッパの激論である。中国人も入る余地が無い。まして日本人には言葉の問題以前に問題の所在が自分からはかけ離れていた。割り込んで質問をするのに命がけである。
夕食の時に右隣の東南大リー先生に招待のお礼を言い、でも余り話ができなくてスイマセンと謝ると彼女もとてもじゃないけれどこの戦争のような会話に割り込むのは難しいと言う。そうしたら逆隣りに座っていたよくしゃべるイギリス人ピーターがThis is too competitive for you guysと言って彼らも自らの主張を通すのに必死なのだと言っていた。少々見習わないといけないかもしれない。
帰り際に同済大のWang先生が深刻な顔をしてやってきた。彼は僕の同済大での講演会を企画してくれた方。状況がどんどん悪化しているし、僕のレクチャーの日が運悪く18日でかなりまずいと言う。横にいたよくしゃべるピーターがすかさずDoes the18th have special meaning? と聞く。彼らはこういうデリケートな問題にもお構いなしに入って来る。Wangさんも言いにくそうだったけれどThat is the day of Japanese invasionと説明した。満州事変のきっかけとなった鉄道爆破事件の日であり、、、、なんて史実を説明する気もなくただその言葉にドキッとした。英語だとストレートには響かないけれど、日本語にすれば日本が侵略した日ということになる。
部屋に戻ってメールを見ると明日上海駅に迎えに来てくれる同済大の院生から完璧な日本語メールが入っていた。
「・・・・・明日私は上海駅へ出迎えに行きます。最近反日デモが続いているので、他人に目立たないために、英語の『SAKAUSHI Taku』を書いてある紙を記号として使います。
ちなみに私は背が高いので、分かりやすいと思います。こんな意外状況が起こりまして、誠に大変失礼だと思いますが、どうかお許しください。
よろしくお願い致します。」
まるで国外逃亡者の出迎えのようである。しかし良識ある中国人だってもちろん沢山いるのである。

September 15, 2012

日本建築の明日?


○最前列に並ぶゲストスピーカー

○荒木町スタジオのポイントを披露
昨晩は上海で無事に東南大の院生と空港で会えた。空港から新幹線の駅までタクシーで小一時間。なんと切符は完売で南京まで食堂車の廊下でスーツケースに座って2時間。ホテルはなんとキャンパスの中。
今日は朝からタフな時間。今年で3回目となるAAスクール東南大学の共同主催である第三回現代建築理論フォーラムの初日。完全な英語のシンポジウムに参加したのはこれが初めて。テーマは「過去を発明する(Invention of The Past)」というもの。しかも今日のゲストスピーカーと座長は。
Mark CousinsがAAスクール
Adele N. SantosとYung Ho ChangとStanford AndersonがMIT
Reinhold Martinがコロンビア
Donald BatesとJianfei Zhuがメルボルン大
そして僕(汗)。
しかも演題は
History versus Past
Professional Histories
Rational Reconstructions and Architecure
The Style Versus Method
Learning from History: A case study of the Museum Bridge in Anren
ちなみに僕のタイトルはObserving, Preserving, Transforming La Preesitenze Ambientali (preexisting surroundings)である。簡単に言うとデザインに必要なのは過去の歴史だけでは無く既にそこにある何か(歴史的物語がないもの)も重要でそれを見つけ取り入れて変形させることが重要と話した。
このメンバーがこんな演題を極めてtheoreticalに話すわけである。フーコーやらレヴィ・ストロースやら著名な社会学者や哲学者の引用満載である。これを英語でフォローするのはかなり手ごわい。いや、日本語だとしてもタフな議論である。建築の歴史がデザインにどれだけ有効か?なんていうテーマを朝から晩まで話し続けたことなどないではないか!!!
そして全員のスピーチが終わってディスカッションである。司会のDonald Bates が幸運にも私の提示した問題「歴史とは物語りである」をディスカッションイシューにとりあげてくれたのでラッキーと思ったのものつかの間。話が盛り上がって行くともう迷子である。頼むからこの状態で当てないでくれよと思っていたら、話題が建築は写真か?という問題に移動した。そしたらReinhold が僕が何故プレゼンにヴィデオを使ったのかと分かりやすい質問を投げてくれたので事なきを得た。
いやはや今日は考えされられた。先ずこんなメンバーで(明日はこれに輪をかけて凄いのが来るのだが)シンポジウムを中国で行いしかもそれをアメリカ式に本にしてしまうという企画力と資金力。そして東南大学の教授陣がこれらのメンバーに丁々発止渡り合っているという語学力。そして何よりも中国人デザイナーにとって歴史は借り物ではなく自分たちのモノという事実である。最近日本のモダニズムを考えているとどうにも日本のモダニズム概念の希薄さに焦る。そもそも日本の近代化で入ってきた様式建築が借り物なのに、それを乗り越えるために死に物狂いになるはずもない。とするならば21世紀の建築は何を乗り越えればいいのだろうか?一体僕らは希薄な歴史によって何を目指して建築を作るというのだろうか?
金もない、語学力もない、歴史も希薄な日本の状況はかなり危険である。今日のインターナショナルなメンバーにとって世界はかなりフラットなようである。そんな中でMITもコロンビアもAAも昔は日本人もいたけれど今は留学生の大半は中国と韓国だと言っていた。アジアの国の中では日本はかなりドメスティックな国に見えるようである。そうして今後インターナショナルになったChineseは華僑の協力なコネクションのもと(これは僕の推測)世界中で建築を作り始める。Donald Batesが食事をしながら、「今にイギリスの仕事の大半は中国人がやるようになる。冗談じゃない、そんな状況は10年以内にくるだろう」と言っていた。
先日のコーネルの方が言ったように日本人の建築家を彼らはもちろん知っている、安藤、妹島、西沢、伊東は最も有名ではあるが知っているのは雑誌ネットに氾濫している彼らの写真のようである。彼らが何を考えているのかと言うところまであまり知らない。そしてそういうビジュアルは一体どれだけの意味があるのかと言うのが今日のディスカッションの話題でもあった。必要なのはそれを支えるロジックだと彼らは言いたげであった。もちろん今日集まったのは世界のインテリ理論家である。限られたサークルの中だけで世界を見た気になってはいけない。そうは思う。しかしそう思って見たくないものを放っておいていいのだろうか?
昨晩も今朝もCCTVは魚釣島の話しで持ち切りである。朝ジョギングをしようか戸惑い、今週末は上海で大抗日デモがあるというメールに不安がよぎったのだがシンポジウムを終えたらそんなことはどうでもよくなってしまった。

September 14, 2012

学会終えて中部国際空港へ


名古屋大学駅で理科大の熊谷さん首都大の小泉さんにお会いする。そのままデザイン会議の会場へ。研究室の学生は2か所で発表。移動しながら見ようとしたが、司会もあって全部見られなかった。終わって食事の誘いを断り、あせって豊田講堂を初めて拝んでいたら(お恥ずかしい)信大の浅野先生、理科大の郷田先生と会う。
飯を食えず、地下鉄、名鉄を乗り継いで中部国際空港へ。いつもスーツケースを宅急便で空港へ送る殿様旅行をしていたが、今回は名古屋経由なのでガラガラ運ぶはめになった。転がして初めて分かる。世の中バリアフリーになっていないものである。
初めて行く場所は予想通りことが運ばない。チェックインして出国管理過ぎてから何か食べようと思ったらこの空港には何もないようである。飢え死にしそうだ。
ゲートでコンピューター開くと「中国御気を付けて」と言うコメントが10個くらいありちょっと緊張気味である。

September 13, 2012

言葉の選び方が杜撰である。

あれよあれよとあまり準備もままならぬうちに明日の夜は南京。じたばたしても仕方ないのだが、英語のレクチャーはきちんと準備しないとひどい目に会う。日本語では伝えられるような微妙なニュアンスを伝えることはできない。だからと言って話す内容の水準を下げるとただ馬鹿みたいな話になる。つまり小学生相手に話すような内容になる。言葉が稚拙でも奥深いことを語るには、話の枠組みを変えないといけないのである。その枠組みが未だできていない。
なのだが夕刻研究室で出版社の方と学生、助手と打合せ。最初に編集者から内容が上手く伝わってこないという指摘を受ける。そうだろうな。未だ未だだよな。だいぶ直したんだけれど、僕自身未だ良く分からないところが多い。再度頭をクリアにして、自分が何を求めていたのかをよーく考えなおして欲しい。言葉の選び方が杜撰である。もっと丁寧に言葉を使わないと。

Rules of Architecture

The essence of my book Rules of Architecture is as follows

1 Making architecture is defined as the activity which you evaluate some essential elements of architecture on the several design value scales.

2. The essential elements of the architecture based on the current architectural situation according to the historical study are thought to be 物(Things)and 間(Space)

3. As for the design value scales , we could propose firstly 3 axes with the help of philosophers Aristotle and Immanuel Kant. 1)Substance axis 2)format axis 3)Relation axis.

4. These 3 axes are broken down into 9small design value scales
Substans axis
1)Flatness⇔Roghness
2)Colour⇔White
Format axis
3)Transparency⇔Covertness
4)Horisontality/Perpendicularity ⇔Cuvilinearity/Diagonality
5)Bigness⇔Smallness
Relation axis
6)Stratification⇔Planness
7)Integrality⇔Partiality
8)Exclusiveness⇔Inclusiveness
9)IndependencyCooperativity

5. Now architecture is defined as follows
物(Things)and 間(Space) be evaluated on the 9design value scales.

September 11, 2012

建築の規則の効目


同済大学のWang教授は大学院で建築論を教えている(と言ってもまだお会いしたことは無い)。その彼に拙著『建築の規則』について話して欲しいと頼まれた。日本語も堪能なのかと思ったが、HP上に載っている英語のサマリーを読んで興味を持ってくれたようである。
そんなわけで午後自分の本を読み返してみた。この本の後半部分は講義で使っているので頭に入っているのだあ、前半部分は少し記憶が薄れている。
この本は時代によって可変的な建築意匠の指標作りと思いながら考え、「質料」、「形式」、「関係」という3つの軸を紡ぎだした。しかし書き終って、ちょっと違う水準でもっと社会構築的な指標があることに気付いた。そこでジェンダー、消費、他者性、倫理、視覚、グローバリズム等を軸に新たな枠組みを作って一つの講義を作った。それは「建築の条件」というタイトルで後期理科大の一部生向きに講義をする。そんなわけで最近建築の規則は普遍的な建築原理だと人に言うようになっていた。しかし読みかえしてみるとやはりこれらの指標は暫定的だよなと思い直した。
そもそも形式はモダニズム的だし質料はアフタモダンな価値観。関係に至ってはとても現代的である。というわけでやはりこの指標は、可変的、暫定的。そしてその可変性は単に時代に応じるだけでは無く場所にも応じるものであるだろう。ということはこの『建築の規則』21世紀日本の生ものなのであり中国でも旬であるかどうかは定かではない。これはちょっと面白いことになってきた。若い中国学生はどう感じるだろうか?

夕刻Wang教授からレクチャーのポスターが送られてきた。この前のグアテマラのポスターに比べるとシンプル。お国柄でしょうか?

September 10, 2012

理科大生は原子力をYESと言うかNOと言うか?


理科大では夏休みの最後に外部講師をお呼びして集中セミナーをやっている。朝から晩まで3日間。単位も出す。その主催委員をやっており本日はその初日。
今年のテーマは「電力・エネルギーの将来―あなたは原子力発電を選択しますか―」。本日の講師は東京ガスの高木さん、電力中央研究所の原さん、浅野さんである。
高木さんはLNGの話し。非在来型の天然ガスシェールガスがアメリカで採掘可能になったことでアメリカの2020年LNG輸入予測量が3年前に比べて5000万トン近くも減少したという。驚きである。日本の消費量の8割くらいの数字である。石油やガスの枯渇予測年数が数十年前と今と変らないのはこうした新たな技術開発があるからである。高校の地理の先生は一年間こう言うことを教えてくれていたが、彼は正しかった。
原さんは石炭火力発電の話し。石油、ガス、石炭の中で埋蔵量が未だに圧倒的に多いのは石炭。石炭ガスによる火力発電とその時にでるCO2の地下貯留システムは面白かった。石炭は中国やインドでガンガン燃やし空気を汚す厄介者だと思っていたのはひどい誤解だった。もっと勉強せねば。
浅野さんはエネルギーと社会。当然メインは省エネとCO2排出問題。それに関わる建築の話も多い。
都市はコンパクトな方がいい。コンパクトにして自動車に乗らない方がいい。戸建より集住の方がいい。核家族より大家族の方がいい。
ごもっともである。となると親父の家を作ることは☓。兄貴家族と二世帯にしていることは〇。でも親父のために車を買ったのは☓。
60になったら自宅を作りたいと思っていたがやめよう。友人と病院のそばにコオポラティブハウスでも作り、車は持たず助け合って生きる。仕事は市街地中心の集住のみに絞り(絞れるわけ無いけれど)戸建はやらない、、、、なんて、、、、、
さて今日のセミナーで素晴らしかったのは5時から始まった公開討論会。壇上に座った講師めがけ学生300人がひっきりなしに質問を浴びせた。一時間半。極めて高度で)的を射た質問に講師も教員もびっくり。理科大生あっぱれ。
明日は原子力、太陽光、風力。明後日は燃料電池、電量貯蔵用電池、電力システム。これだけ多方面の客観的なデーターをその方面のプロから得る機会はそうないだろう。先ずは事実を正確に把握することが重要である(もちろん原発を考える上でこれだけで十分と言うつもりは無いけれど)。さて3日後に学生は原子力をYESと言うかNOと言うか?

September 9, 2012

日本の建築教育再考

日本の建築教育において人文系の知がおろそかにされていることは問題である。これは以前からそう思っていたが今日コーネル大学で建築を学んだ方(アメリカ生まれアメリカ育ちで日本に3年前来られた)とお話をしてみてますますそう思うようになった。彼は日本から建築のきちんとした言説を世界に発信したいと考え、僕の『建築の規則』の英訳の可能性を尋ねに来られた。彼は丹下、磯崎、メタボリズム以降日本からのまとまった建築言説が世界に殆ど見られないと言う。その理由は、先ずは発信するモノが無いということと、仮に発信されていても読むにあるいは聞くに堪えないものしかないからだと言う。
例えばとある著名な若手の建築家が海外でインタビューを受けそれが発信されたのだが、あまりに非論理的で聞いている方があきれたと言う。あるいは海外建築ホームページに多くの若い建築家の写真や文章が掲載されているのだが、文章の(英語の善し悪しはおいておいて)内容が稚拙なので作品全体の質が問われると言うのである。
建築は造形であると同時に言葉なのだと僕は思っている。一つの強い論理であるはずだ。しかるに日本では相変わらず以心伝心でふわふわとしたあやふやな言葉の戯れを通してしか説明しない。論理があやふやなことと、あやふやなことを論理的に言うことの差に気付いていない。その責任の半分は学生にあるのだが、もう半分は教育にもある。入学するのに国語も歴史も学ばなくてもいい大学は沢山ある。加えて、中高の国語教育では最も論理性を必要とするライティングをきちんと教えない。
エンジニアになる方は言葉など使わなくても数式と言う言葉よりはるかに論理的なツールを持っているので現行の教育でもいいだろう。しかるにそうしたツールを使わないで建築を作り説明しなければならないデザインや歴史を学ぶ人間が国語も英語も歴史も使えない(加えてそっち系の学生は数理系にひどく弱い、つまり言語的にも数理的にもひどく非論理的)とするならば、戦場に裸で行くようなものである。
たまさか昨晩読んでいた福澤一吉『文章を論理で読み解くためのクリティカル・リーディング』NHK出版新書2012のあとがきにこんなことが書かれていた。アメリカでは文章を読んで理解できなければ、その責任は概ね書いた側にある。日本では逆で分からないのは読み手の責任とされる。そういう風潮があるから書く側が分からない文章(言葉)をまき散らしても許されてしまうのである
グローバル化する世界の中で感覚的な素振りだけで生きる人間を育てることに意味は無い。そういう類まれな才能を持っている人にそもそも教育は不要である。世界と対峙する上で必要なことは創作力に加え、言葉の発信力である。とするならば歴史、意匠の分野ではその教育の仕組を世界水準を見据え再考するか?高校時代に文系志望の人間も受験できかつ建築士への道を敷くか?現行のシステムの上で徹底して不足分を補うか?そのいずれしかないのだが果たしてどれが最も有効で現実的な方法なのだろうか?あるいはこんなこと考えるのはやめて日本のゆるーい論理性を是認していればいいのだろうか?来週再来週と3都市を回り中国、欧米、中南米の建築家や大学教員と議論する予定である。その中でなにがしかのヒントを得られればと思っている。

September 8, 2012

ベンヤミンはなぜパサージュに未来を見たのだろうか?なぜコルビュジエではなく

1時半から6時半まで翻訳勉強会。始まって気が付いたら6時を過ぎていた。トイレも行かずおやつも食べず。なんだか凄い集中だった。頭の調子がいい時ってたまにある。
訳しているのはコンクリートの文化史なのだが、モダニズムに登場する鉄、ガラス、コンクリートの中で、コンクリートだけはモダンと非モダンの両義性を持っている。これがこの本の結論であり、執筆動機である。コンクリートは長大スパンを作り高層建物を可能にする潜在力を持つ。その意味で視覚的には確かにそれ以前と隔絶した建築を登場させた。しかしこれは言ってみれば泥みたいなものであるし、当初は調合だって、補強だって現場での手探り。決して学術的根拠に裏付けられていたわけでは無かった。
ベンヤミンが未来を見たのが何故パサージュであってコルビュジエの建物ではなかったのか?それはパサージュが鉄だからである。鉄にはモダンがありコルであってもコンクリートはマッドであり未来ではなかったのだというわけである。
確かにラオスで小学校づくりの手伝いした時も鉄は先ず無いし、使える技術者がいない(溶接やらボルト締めやら)でもコンクリートはどこにでもあるし、土蔵の延長みたいなものでだれで粘土細工いみたいに作れてしまう。。
中国の現場もそうだった。労働者は農地収容されて仕事無くなった農家の人たち。そんな人がサッシュつけたり、シールしたり、ペンキぬったりするわけだ。どれもひどいいことになったけれど、コンクリート打ちと補修のモルタル塗りはあまり気にならなかった覚えがある。

September 7, 2012

建築における自由とは


ホセ・オルテガ・イ・ガゼットが「技術の彼岸にある人間の神話」という講演(1951)で(伊藤哲夫、水田一征訳『哲学者の語る建築』中央公論美術出版2008、所収)「人間とはもともとその本質として選択する動物である」そして人間は選択しなければならないから知的なのであり、「選択しなければならないから自由であらねばならない」とも言う
あのNHKで有名になったコロンビア大学の盲目の教授シーナ・アイエンガーの有名な著書『選択の科学』を読んだ時、人間は選択することで自由なのだというテーゼに共感したが、半世紀前にガゼットもまったく同じことを言うわけである。
そして、では、僕らは建築の中で自由であることはどういうことか?と問うてみると、一つの答えとして建築の中での選択の自由があるということなのではないかと思えるわけである。それにはいろいろな選択がある。でも選択の無い建築はとても息苦しい。今もう一度建築の自由について考えてみてもいい。

September 6, 2012

丹下さん曰く畳が亭主関白を生む

日本短波放送というラジオ局(現ラジオNIKKEI)で一九六〇年から放送された「建築夜話」という番組があった。日刊建設通信社と建設放送社が企画製作したものである。毎回対談形式で何回行われたかは知らないが以下の内容が二〇一〇年に『復刻 建築夜話―日本近代建築の記憶』として日建建設通信新聞社から出版された。少し前に出版した新聞社の津川さんから頂いた。なかなか目を通す時間が無かったが読み始めると実に面白い。
・日本建築の美しさ アントニン・レーモンド 丹下健三
・地震と建築 内藤多仲 竹山謙三郎
・建築の新しさと古さ 佐藤武夫 田中孝
・二十世紀の建築 丹下健三 有吉佐和子
・芸術家の進む道 前川國男 曾野綾子
・明暗と孤独を好む建築家 村野藤吾 幸田文 武基雄
・新興数寄屋建築のあれこれ 吉田五十八 戸塚文子
・彫刻と建築 松田軍平 平田重雄 朝倉響子
・楓河岸の頃 中村伝治 鷲巣昌
・建築と人生 竹腰建造 大江宏
・建築談話 渡辺節 田中孝
・風景と建築 吉村順三 戸塚文子
・建築家の夢と現実 圓堂政嘉 伊藤ていじ
・建築戯評 前川國男 近藤日出造
・下町かたぎの建築家 山口文象 海老原一郎 田中孝
・建築家として生きる 松田軍平 田中孝
・建築風俗誌 藤島亥治郎 佐藤武夫 村松貞次郎
先ずは丹下さんを読んでみる。対談日は昭和三六年、二月八日、一五日、二二日である。ピースセンターを作り、東京計画が正式発表される少し前、もちろんまだ代々木の体育館ができる前である。アメリカ、ヨーロッパを旅行して戻った有吉佐和子が近代主義に対してやや批判的に丹下さんに質問する。それに対して丹下さんがやんわりと近代主義への熱い思いを語るという展開である。伝統論者有吉に載せられて話が地域主義に入りこむと、伝統を近代に活かしてきた丹下ではあるが、もっと大きな問題を解決していかなければならないと言って東京計画を熱く語り始める。これには有吉も圧倒されて「なるほど面白いですね」と静かな感想で終っている。
一方で話しが住宅になり、有吉が寝室は畳にベッドがいいと言うと、丹下さんが自分の家はそうなっていると言い、有吉はややびっくり。そして丹下が畳は一度座ると起き上がるのが億劫になり、つい「おい!」と言って人にものを頼みたくなるもので座式が亭主関白に拍車をかけるのだと真面目に言っているのも愉快である。
鈴木博之が一級の歴史的証言と言っているが確かにそう思う。残りを読むのも楽しみ。

September 5, 2012

スペインはグリッド、ポルトガルはぐにゃぐにゃ

ラテンアメリカのスペイン領の中心都市は多く十六世紀に王権の規則に則り建設されたため基本的に類似の都市景観を生んだと言う。街の中心部に中央広場、それを取り巻きカトリック教会堂と市庁舎、広場に面した一画はアーケードとなり商店が並ぶ。それを取り巻き格子状街路が広がる。南米スペイン語ではこれをクアドラ(cuadra)と呼び、ブエノスアイレスを訪れたル・コルビュジエがそのクアドラの中身を調査したことで有名である。パリもグリッドの町ではないから興味深かったのだろう。一方ポルトガル領ブラジルでは都市計画の規制が緩かったという。
それは本国も同じである。一昨年両国を訪れて痛感した。マドリード、バルセロナが約100メートルの厳格なグリッドの上に作られた都市であるが、ポルト、リスボン、コインブラなどにはグリッドのグの字も見えない。しかしそれは当然でこれらポルトガルの主要都市はアップダウンの激しい丘と海の街なのだから。
さてそうなるとラテンアメリカの都市をグーグルアースで追ってみたくなる。ブエノスアイレスは言わずものがな、サンティアゴ、リマ、キト、ボゴタ、カラカス、グアテマラシティ、ハバナ、メキシコシティ、などなどよほど高地か海沿いでもない限りかなりグリッドがよく分かる。しかも概ね100メートルである。これに対し、ブラジルはリオ・デジャネイロ、サルヴァドル、レシフェ、何処を見てもグリッドは見当たらない。ブラジル都市にグリッドが無いのは規制が緩かったからなのか?それとも地形の問題なのかは行ったことがないので分からないが、起伏の多い場所に都市を作っているのならそれも含めて本国の影響が滲み出ているのが面白い。

September 4, 2012

パラリンピック水泳銀。木村選手、寺西コーチともにおめでとう


昨晩見ていたパラリンピックの放送に僕たち夫婦の中学の同級生寺西真人が突如映った。パラリンピックの木村選手が銀メダルをとった瞬間である。コーチとして木村選手と涙していた。そして本日帰宅して朝日の夕刊を開いたら寺西の喜びの顔が社会面に大きく出ていた。本職は筑波大学附属盲学校の教員だがパラリンピックのコーチをもう十数年続けいてる。彼のひたむきな努力を知っているので僕も思わずもらい泣きである。おめでとう。

イベリア半島人は世界を二分していた

大学で某先生とじっくり打合せ。いろいろと分からぬことを教えていただき少しさっぱりした。
グアテマラ行く前には終えておきたいと思い、国本伊代『概説ラテンアメリカ史』新評論1992を読み始めた。ビギナーのための丁寧な入門書。新書ほど大雑把では無く、専門書ほど細かくは無い。でも話はスペイン・ポルトガルの支配の始まりから具体的な統治の仕組み、独立から近代化へと書かれている。
未だ半分だが前半で面白いのは人種別身分制度の実態である。そもそもイベリア半島人は世界を二つに分けて半分ずつ領有した気になっていた凄い人たちであったが、遠くの場所を自分たちの思う通り統治はできなかった。身分制度一つとっても法と実体にはずれがあったようだ。法律上は上から白人、インディオ、メスティソ(白人とインディオの混血)、黒人、奴隷だったが、実体はイベリア半島人(最初の移民)、クリオーリョ(最初の移民を親として現地で生まれた人)、メスティソ、黒人、奴隷、インディオなのである。つまりインディオは奴隷以下だったということである。
奴隷は高価な品物であり、大事にされていた。よって社会はスペイン人とインディオに二分されたようだ。そしてインディオは虐待され急激にその人口を減らした。もともとインディオが少なかったアルゼンチンやブラジルはさておき、インカ帝国やアステカ文明が栄えた場所ではひどいことが起こっていたのではなかろうか?
人の場所に侵攻するということは結局そういうことなのだろう。台湾での反日感情はそれほどでもなかったけれど、ものの本では1万人は虐殺したと書かれている。それがあまり目立たないのは蒋介石(本土人)がその倍は殺しているからだと言われている。一体どこまでが事実なのかはよく分からないが、、、、

September 3, 2012

台湾の柿


「李下に冠を正さず」「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」など桃や李は中国ではポピュラーな果物。先日台湾行っても小学校の制服や、観光バスなど、桃色はいろいろなところに使われていた。台北国際空港の名前も桃園空港だったし。
なのだが、台北近くの町三峡で発見した素敵なガラスの文鎮は柿だった。残念ながら桃はなかった。この店にはとにかく大小様々なサイズの柿が山のように置いてあった。思わず重いの覚悟で4つほど買った。美味しいのかな柿?食べるチャンスはなかったけれど。

September 2, 2012

成熟した人間は必要とされることを必要とする


「人にものを頼まれたらよほどのことが無い限り断ってはいけない」とその昔林昌二さんに言われたのだが、先日読んでいた東工大教授今野浩さんの本にも工学部の教え7条の第4条に「仲間からたのまれたことは(特別な理由がないかぎり)断らないこと」とあった。僕が独立した時に先に独立した先輩に「頼まれた仕事を断ってはいけない」とも言われた。
3つの教えは全て断るなということなのだが、何故断ってはいけないのか?一番大きな理由は、頼む以上は君の力が欲しいからなのであり、君が必要とされているからなのであり、それを断るとその後君は必要とされなくなるからということのようである。
見田宗介の『現代社会はどこに向かうか』弦書房2012というブックレットを読むと、若い人に起こる問題の根本に生活のリアリティの欠如があり、問題を起こさず上手く成長してる若者にもリアリティの欠乏感があるという。そしてそこに必要なのは君が必要とされているという感覚である。
見田さんが紹介するアメリカの心理学者エリクソンはこう言った。mature man need to be needed つまり「成熟した人間は必要とされることを必要とする」。必要とされることがその人のリアリティを充実させていく。
このことは学生にもあてはまることだと思う。友人や先輩にものを頼まれたら(もちろん真面目なものに限るが)よほどのことが無い限りそれを断ってはいけない。もし断れば君は人に必要とされているという少ないチャンスをドブに捨てることになるのである。自分のやりたくないことを頼まれるのはごめんだと思うならば、自分が必要とされるであろうところに先回りして自ら始めて人にモノを頼む側になってしまえばいい。どちらもやらない人はいつか必要とされなくなる。

やっぱりそうだったか!!


朝のジョギングをするとその日の暑さがだいたい分かる。今日はそれほど暑くない。昼頃家を出て八潮へ。乗るべき電車を逃して10分遅れた。
会場への道すがら先生の一人が来られないと聞く。その理由がその先生の設計した工事中の建物の施工会社が不渡りを出したから。これは驚く。その施工会社はとても有名な建築家御用達の老舗であり、僕の親父の家の見積もりも出していたところ。しかし兆候はその頃からあった。見積もりの最後の詰めのあたりからまったく連絡がとれなくなってしまったのである。あれあれ、何がおこったのだろうか?所詮一見さんは軽んじられているのだろうか?それにしてもちょっとひどい。数ヶ月前の時点で40弱の現場が動いていたのだから仕事は多く回っていたのに何故こうなったのだろうか?しかし、、、僕もちょっとしたタイミングのずれでここに発注していた可能性もあったわけで結果オーライでほっとする。
1時から公民館で家づくりスクール、その後八潮のツカイカタ意見交換会。家づくりスクールは各大学毎に分かれて行ったが、わが東京理科大学はプリントアウトした図面も無ければ、全体模型も無い。やれやれ。今年は比較的学生の自主性に期待しているのだが、、、、、と言うと聞こえはいいがそれって教育放棄ということか?

September 1, 2012

おっ凄いなこのポスター


大学で「日本の建築論」勉強会。ヴィドラーの近著の副題「建築における近代の発明」をもじりこの勉強会は「日本建築における近代の発明」とすることにした。こうなると目標が定まる。終わって卒論ゼミ。4人のうち1人は調査でニューヨーク、2人は腹痛で欠席。出席者は1名。淋しい。終わってアルゼンチンワークショップまとめ打合せ。
先日、来月末にグアテマラで行う建築会議の基調講演ポスターが送られてきた。げげげげ派手。その上この建築写真反転してる!!!ニューヨークからSASAKIassociates, スペインからラファエル・モネオ事務所が来る。60分で何話す?テーマはIDENTITY。