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December 31, 2009

大晦日

今日も本棚整理。処分すべき本、大学に送るべき本、探していた本、今やっていることに使えそうな本などなど発見。ヴァールブルグは頻繁に本棚整理をやっていたそうだが、これは確かにとても生産的な作業である。一段落してから、12月頃読んでいた本で「建築の条件」に使えそうな本4冊分くらい、スキャンしてノートをとる。やっと12月までの作業のけりをつけられたような気分。続いて条件第一講義である男性性vs女性性の関連項目として先日買ってきたロバート・オールドリッチ(Aldrich, R)田中英史+田口孝夫訳『同性愛の歴史』東洋書林2009を読む(眺める)とても図版がきれいで図版だけ見ていても楽しい。ギリシア、ローマ、中世、近代、中近東、北アフリカ、アジアと語られる。洋の東西を問わず、歴史の今昔を問わず存在する同性愛とその罪悪視は考えてみればとても謎である。先ず言えるのは同性愛が生物学的な生殖活動ではなくとも(ないからこそ)無くならない(存続する)この事実。一方でそれが生殖活動ではないゆえに単なる快楽行為ということで罪悪視するその見方がまた2000年間無くならないこの事実。2000年間同じことが世界中で繰り返されているのである。まあそれはいいとしてこの同性愛を行う固有の空間が生まれなかったのかを探していたのだが、どうもこれぞという発見が無い。残念。
大晦日。今年は静かに家で過ごす。ワインを一杯飲んで寝よう。

December 30, 2009

古本

南洋堂からの電話に起こされる。昨日送った本が8000円だそうだ。えっ結構高く買い取ってもらえるものだ。ルイス・カーンの作品集(似たような作品集が3つもあったので)と磯崎新の『建築の解体』(本棚を整理していたら2冊あることに気付いた)が入っていたからか?それにしてもいい値段。やはり専門書は専門のところへ売るのがこつか?昨日の日本酒のせいで頭がくらくらする。そこで御正月の食材を買いに近くのスーパーにかみさんとでかける。人が多い。しかもこの辺りは老人が凄く多い。その昔上北沢に住んでいたころはスーパーにも子供がたくさんいたものだが、ここ四ッ谷には全くいない。その代りその分だけ老人がいる。そして結構男性の老人が一人で買い物に来ているのが目につく。『おとこおひとり様』(上野千鶴子の新刊)は確実に増えているのかもしれない。帰宅したら頭のぐらぐらがとれた。読書をしたり掃除をしたり。

飲み納め

年賀状を郵便局に持って行く、切手を張る元気がないので、味気ないが料金別納にする。近くの郵便局に電話をすると別納スタンプ機械が壊れており、はんこう貸すので自分で押してくださいと言われた。四谷駅前も同じ。400通も手で押すのは勘弁。曙橋は動きますよというのでそこへ持って行った。ところが、、、「これは年賀ですか?」と聞かれ「はい」と答えると「では年賀のスタンプを押してください」と言われた。「えっ年賀じゃなくてもいいのですが、、、」と言いかけたらすでに局員の方が押し始めている「半分ずつ押しましょう」と明るく言われた。
午後部屋の中の本の整理。建築系の不要本は段ボールに入れて南洋堂に送った。それ以外の本は家族に欲しいものをとらせ残りを事務所で欲しい人にあげる。やっと1メートルくらいの空いたスペースができた。
夕方今年最後の恒例忘年会。東工大のO、T、筑波のK女史、伊東事務所のH、竹中のH、建築家Y,夫妻、K女史。飲み納め。

December 28, 2009

ポスト消費社会

午前中自転車で六本木へ。ジョギングしようと思ったが昨日の歩き疲れで足が痛い。新国立美術館を覗こうとしたら、1月5日まで休館だそうで、森美術館まで行く。「医学と芸術展」http://www.ofda.jp/column/を見て帰りに四谷丸正でパンを買って帰る。ブランチをとってから年賀状に署名していく。一言書きいれようと思ったが、余りの量にうんざりして大部分は署名のみ。 夕方『ポスト消費社会のゆくえ』を読み続ける。辻井の実感では60年代に始まる大衆消費社会が終るのは80年代半ばだそうだ。その頃電通の』藤岡和賀夫が『さよなら大衆』を著し、大衆から分衆の時代を宣言する。しかし上野によればそれは単に階層消費の兆候と読めたと言う。まあ僕の感じでは会社勤めが始まった80年代の半ばにまだ階層消費は感じられなかったし、一方で分衆化がそんなに顕著だとも思わなかった。80年代は概ねバブルの風にのって十分皆大衆的だった(もちろん分衆化や階層化が潜在的に胎動していたのだろうが)。しかしここで参ったと思ったのは90年代確実に始まる階層消費に対して西武は既に80年に無印を作る一方でグローバルブランド(エルメス等)のライセンス契約をとっている。つまり階層消費の両側をしっかりおさえポスト大衆化時代を迎え討つ準備をしていたのである。商売人にはなれないなあとつくづく思う。建築なる商品(?)をこの時代にはめ込んでみると大衆消費社会の建築と言うのは結局プレファブメーカーだtったのだろうか?建築家と言う職能はなかなか大衆と相いれない。やはり基本はオートクチュールである。プレタポルテあるいはそのシステムを建築家は考案出来なかった。しかしそれでも数少ない関心を持った建築家の中に、伊東豊雄や坂本一成がいた。もちろん彼らが本当の意味で大衆消費的建築を作ったわけではなかったし、彼らの大衆消費を意識した方法がその後の建築の方向性を変えたわけでもない。あれはあの時代の処し方だったのではなかろうか?そしてその後分衆あるいは階層化の時代に入ることでまた建築が本来の一品生産的な特性を保持しながら安定した(ように見えてしまう)。建築は結局この時代の社会の流れから何も影響されなかったのだろうか?何事もなかったかのような21世紀?
もう少し冷静に考えてみたいところである。

December 27, 2009

いろいろ我慢

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街角の生け花。ほっとする。
冬にしては暖かい京都である。朝一で楽美術館に行ったら休みだった。仕方なくタクシーをつかまえ富小路の町屋を改造したカフェでお茶して京都近代美術館に行く。ボルゲーゼ 美術館(ベルニーニがたくさんあるので有名な)の展覧会を覗く。本物のを知っているともの足りない。作者不詳作品ばかり並んでいた。建物は久しぶりに見たがぐっと魅力が半減している。それはこちらの見る目が変わったからなのだが。京近美を通り抜け南禅寺の山門の手前の金地院を訪ねる。一昨年京都造形芸大の植南先生に勧められて一度来た。小堀遠州の八窓の茶席を是非かみさんに見せたく訪れた。八窓席は遠州好みの綺麗寂といわれるもの。「綺麗寂ってなんだ?」と問うと「明るいこと」と妻の返事。「明るくって寂ってなんだ?」もちろん明るいといっても他の茶室に比べての話。窓も実際八つついているわけではない。それにしても茶室デザインのいい加減さってなんなんだろう。デザインを律するものがない。前回来た時あまり意識しなかったが、この八窓席の手前に長谷川等伯のあの有名な猿候掟月図がある。これは本来国宝級の作品。等伯の松林図屏風は国博のガラスケースの中にあることを考えると未だ寺の襖として使われ、手を伸ばせば触れるようなところにあるのは奇跡に近い。それを言えば、まあ八窓の茶室だってそうなのだが。靴を脱いで寺の中を歩き回ったら体が芯から冷えた。そばを食って体を温めるが効かない。清水の坂を登った少し温まる。茶わん坂とそこから分岐した小道沿いのギャラリーを眺める。陶器に漆をかけた盆、すごく欲しかったが重いので我慢。柔らかい瓜のような形をしたカップ5点。実に欲しかったが嵩張るので断念。小さな佃煮のような蟹の焼き物を手に入れた。玄関に置こう。夕方ののぞみで東京へ。車中、辻井喬(堤清二)、上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』2008を読む。広尾に住む妻の知るロシア人が、近所の堤家の邸宅がある日突然跡形もなく解体されマンションになったのを見て、日本人はいいものを簡単に壊すと嘆いていた。この本によると、彼は自宅を売り、100億強をセゾンが傾いたときにつぎ込んだようだ。
9時に東京に戻った。有名人が外国に行き24時間程度の滞在で濃密な(超駆け足な)旅行を楽しむと言うテレビ番組がある。それを真似たつもりはないが、今回の我々も思い立って東京を出て京都に着いたのが昨日の夕方6時。そして今日、京都を出たのが夕方6時。ぴったり24時間。濃密な旅立った。

December 26, 2009

京都

朝のアサマで東京へ。今年の長野の仕事はすべて終り。帰宅してかみさんと話していたら二人とも今日明日の予定が無い。こんなことは一年中探しても滅多にない。その上、娘はクラブの合宿でいない。どこか行くか?と話し冬の京都行こうということになる。この季節、京都で特別のものが見られるわけでもないがワープすることにした。ブライトンの部屋が空いていた。京都ブライトンは日建の設計。その昔出来た時に見学しに来たことがある。
新幹線の車中堤清二の『消費社会批判』を読み終える。消費社会の商品の特徴が三つ書かれている。リゾーム、ガジェット、ファッション化。商品のグレードは生産者が決めるものではなく消費者が決める。それゆえにそのグレードのヒエラルキーは極めて曖昧になる。それをリゾーム化と呼ぶ。そして、それゆえに役に立たないようなおもちゃのようなもの(ガジェット)が商品としての価値を生む。更に商品はファッションアイテム同様流行のサイクルが短くなる。これは多分そのまま建築にも当てはまるだろう。消費社会の建築の像が少しずつ鮮明になってきた。
ブライトンにチェックインしてから御所の近くのイタリア料理屋に行く。行く前に予約して行ったのだが、行ったら客が誰もいない。やはり冬の京都に人はいない。しかし実に美味である。この美味しさでこの値段?東京の半分である。ホテルに戻りバーへ。東京のブライトンは僕のボスだったYさんの設計。ラフロイグを一杯飲みながら故Yさんのことを思い出す。いろいろと教えてもらった人である。今年も一年大学も事務所も仕事は終り。自分で自分にご苦労さん。

夜景

研究生と2時間ほどコンペの打ち合わせ。2コマ目はデザイン論。午後製図。夕方obが研究室にやってきて数名で食事。駅前の背の高いビルの上にあるお店。以前何回か来たことがあったが窓際に座ったのは初めて。長野の夜景が一望できる。以前長野に現場があった時は宿にしていたホテルが高層で長野と言えば夜景の印象だったのだが信大に来てから高いところに登らなくなり夜景の印象がすっかり消えていた。10年ぶりに夜景の記憶が蘇った。

December 24, 2009

イブの都心

研究室の院生二人が留学を申請していたブエノスアイレス大学から留学許可の正式書類がメールで大学に届き転送されてきた。普通、留学の申請など個人が行い個人に送られてくるようなものなのだが、アルゼンチンのシステムはそうではない。授業料が限りなく0に近いためラテンアメリカやヨーロッパからの申請が多く学力もなく流れこむのを防止するための策なのかもしれない。学生がしかるべき教育機関に所属していることを担保するためにその所属教育機関に書類を送るわけである。あやふやなスペイン語の知識で読んでみたが大したことは書かれていない。あっさりしたものである。事務所でポートフォリオの最後のチェック。後は印刷。と言っても年末のお休みに入るので出来るのは年明けになりそうである。昨日読み始めた『住まいと家族をめぐる物語』を読み終える。文化人類学者の見る建築は文化的視点が強く常に主張を裏付ける当時の映画が示されていて興味深い。著者の主張は一言でいえば日本の住宅は男的「いろり端のある家」からやはりまだ男的「茶の間のある家」そして女的「リビングルームのある家」となり性別の無い「ワンルーム」となったというものである。僕の体験では生まれ育った団地が「茶の間のある家」で、これは親父支配であった。小学生で引っ越した一軒屋は「茶の間」と「リビング」の過渡期のような家で、これもやはり親父支配だったと思う。そして結婚して住んだ家は「ワンルーム」夫婦二人しかおらずなんとなくユニセックスな家だった。その後子供が出来て引越しを繰り返し現在の家はリビングのある普通のマンションで女が一人多いせいか女的な家かもしれない。こう書いてしまうと建築の属性ではなく、住んでいる家族の属性になってしまう。双方が融合する地点での属性が問題なのだが??
夜のアサマで長野に向かう。クリスマスイブの都心は何となく人が少なく感じる。でも皆足早にどこかに向かっているようにも見える。車中堤清二『消費社会批判』岩波書店1996を読む。彼がこの本を生むまでの間にいくつかの大学に呼ばれて講義を重ねたそうだが、そのひとつに信州大学も入っているのには驚いた。なかなかの人を呼んでいるわけだ。日本の消費社会の誕生の流れが家電に始まり、自動車に移行し情報産業へ転換するその流れが見えてきた。こんなことは経済学の基礎なのだろうが、しかしその中で住宅が立ち遅れていることが指摘されている。消費社会が建築に与えた影響を調査中なのだが、やはり建築は消費社会の脇役にもなれていないようである。いいことなのかもしれないが。

December 23, 2009

色鉛筆

気になっていた『マスメディアとしての近代建築』(ビアトリス・コロミーナ著、松畑強訳鹿島出版会1996)をチェックした。やはりこの本の最後の2章の初出がSexuality and Spaceである。つまり92年に刊行されたSexuality and Space で書かれた論考が96年のコロミーナの単著(『マスメディアとしての近代建築』)に再録されたというわけだ。
この季節、お歳暮やら、クリスマスやら、なにかと郵便物が届く。両親からも何やら届く。孫可愛さだろうがありがたい。では何かお返しと思いかみさんと伊勢丹へ向かうが、歩行者天国で手前で降ろされた。ちょうど世界堂の前である。それならちょうどいい、色鉛筆とスケッチブックに決め、カステルの一番柔らかい色鉛筆50色セットとスケッチブック二つを購入。何か絵を描くのを強制しているようだがまあいいや。食事をしてから昔住んでいた方南町に行き散歩してから四谷へ戻る。年賀状のあて名刷りを行う。400枚終了。出さない人から来ないことを願う。夜、西川祐子『住まいをめぐる物語』集英社新書2004を読む。著者の専門はジェンダー論。ジェンダーから建築を語るという僕のテーマにかなり被っている。そして僕の授業のストーリ「日本の近代住宅は男性性から女性性を持つようになりそして中性化する」が、どうもその通り書かれているようである。これはビックリ。わが意を得たりでもあるがまるで同じとはちょっと参った。西川さんの方が早いし。

忘年会

朝一でマンションコンペの打ち合わせ。その後5キャンパスのテレビ会議。終って東京へ。今日の長野は快晴。山は真っ白。まるでスキー場にいるような気分。午後東京へ。丸善で本を宅配。いつもは見ない西洋史のコーナーに行く。食事、愛、同性愛の通史など興味深い本に遭遇。悪書に手を出すなと決めているのだが、ついつい食指が動く。一度帰宅して事務所へ。今晩は事務所の忘年会。先ずはフランスパンをつまみにアルゼンチンワインを飲みながらアルゼンチンの報告会。続いて先日事務所を退所したKさんが行って来たプラハとウィーンのスライド会。事務所OBOGもやって来た。9時から場所を荒木町「よつやこくてぃる」に移動して飲み会。今晩の荒木町すごい人出である。今日が忘年会最後の盛り上がりだろうか?

December 21, 2009

コロミーナ

朝一で会議、ゼミ、午後一で会議。図書館問題の会議だが東工大の新しい図書館の図面が出てきた。これかあ!!安田さんが設計しているのは。なかなか綺麗なデザイン。巨大ブレースにガラスの箱が載っている。だがどこかで見たことがある。この場所はその昔東工大の100周年記念館の設計候補地であり、学生だった僕らも案を作らせられたのだが、自分が作った案の一つがこれによく似ているのを思い出した。同じ穴のムジナだろうか?図書館会議の後に別の会議が二つ。これで今年の会議は明日の最後の一つを残すのみ。夕食後Beatirz Colomina ed. Sexuality and Spaceの中のColominaの論文The Split Wall: Domestic Voyeurismを 読む。前半はロースの内外部空間の決定的な差について書かれている。後半はコルビュジエである。前半しか読めなかったが、どうもこの論考はどこかで日本語訳を読んでいる気がする。『マス・メディアとしての近代建築』の中にこの論考がそっくり載っていたのか?それとも類似した論考が載っていたのか???探したが研究室にこの本が見つからない。

英語が入らない日

午後の勉強会のことをすっかり失念。H君から電話「今日は長野?」と聞かれ「いや東京」「今日は勉強会ですが」と言われあわてる。急いで事務所へ。今日のパートは面倒くさい箇所が数か所あり全然進まない。6時ころ帰宅して夕食をとり、さあ長野へ出かけねばならないのだが、ついつい家で時間を過ごし遂に最終の時間。意を決して家を出る。車中ウィグリーのジェンダー論を読み続ける。今日は一日英語漬けだがなんだかあまりすらすら入って来ない日である。

December 19, 2009

大掃除

午前中のアサマで東京へ。今日は事務所の大掃除。カタログ庫の整理、不要物廃棄。材料部屋整理、不要物廃棄。模型室整理、不要な模型は写真撮影して廃棄。各自の机の周り整理、不要物廃棄。ここまで来ると事務所の前にゴミの山。毎年この量に驚く。どこにこれだけあったのさ?そして床のワックス落とし。これが腰にくる。そして水ぶきして乾かしてからワックスがけ。これも腰にくる。そして夜になる。毎年大掃除のあとに忘年会なのだが、今年は22日。後が詰まってないとついのんびりやってしまうのか、なかなか終わらない。

朝一ゼミ、講義、午後製図。長野は昨晩から雪。今晩も降り続きそうである。

December 17, 2009

身体能力

今日は二人のリクルーターの方にお会いした。数人の求人のために地方へも足を伸ばしていただき感謝である。午前午後と四年生の卒論のゼミ。夕方センター試験のリスニングテストの講習会。もうこれを受けるのも4回目。何事も起こりませぬように。夕食の後マークウィグリーを読み続ける。しばらく読んだりスキャンしてテキストにしてノートにしたり、飽きたのでgoogle booksのダウンローダーをダウンロードして試してみた。これは確かに本がダウンロードできるのだがなんたって画像データーだから滅茶苦茶重いし時間がかかる。検索して必要なページだけ落とせるのなら使えるが。疲れたので思想地図のvol4想像力を読む。序文で東浩紀がつまみ食い的に自分の好みの想像力だけ読んではいけないと書いているので最初の中沢新一、東、白井の鼎談から読む。途中まで読んだら飽きた。つまみ食いはいけないが全部読まなくともよいと書いてあるので次の仲正論文を読む。これは一気に政治論。オバマの話で始まる。これも2ページ読んだら飽きたので次の村上隆、黒瀬陽平、東の鼎談に移る。うーんあまり面白くないが、芸術は身体能力だと言うのは納得がいく。これは本当にそうだと思う。いろいろな意味で。体が動かない人間には芸術は無理だ。建築も無理。芸術も建築も僕の中ではやっぱりスポーツに近い。そういうとメディアアートのようなものはちょっと違うのだろうが、だから村上もメディアアートをあまり評価していない。僕は評価をするけれど芸術だとは思っていない。あれは違うもの。まあなんというかあれは術ではあるが芸はつかないというか。敢えてつけるなら電。電術。

December 16, 2009

Sexuality and Space

午前中ややこしい電話の対応に追われ書類を作る。無理難題を押し付けられるが立場が弱いとノーと言えない。2時のアサマに乗らないと行けないのだがこういう時に限っていろいろと面倒くさいことが起こる。東京駅で駅弁を買って車中食べながらBeatliz Colomina ed.Sexuality and Space Princeton University press1992の中のMark Wigleyの論考‘Untitled : The housing of Gender`を読むウィグリーは言説空間の中のジェンダーの役割 とジェンダー言説の中の空間の役割の関係を辿ると述べ、アルベルティの建築論における家父長制を紹介する。そしてその由来をクセノフォンの言説に求める。そして女性のセクシュアリティがルネサンス建築空間において(初めて)生産されたと述べる。ふむふむやっと見つけた西洋建築の意味論上の(使い勝手上の)ジェンダー論。これはフォーティーのジェンダー論にはなかったもの。彼の議論はあくまで視覚的な形状の男女性だったと記憶する。次にウィグリーが俎上に上げるのはゼンパーなのだがその章に入ったところで長野。急いで市役所へ。市民会館建設検討委員会に遅れて出席。今日は大詰めの議論でテレビが三社くらい入っていた。4時に始まり終ったのは9時である。自転車で大学へ。今日は一段と寒い。零下だろうか?途中でサンドイッチを買って研究室でほおばる。朝の続きの書類を作って事務所にメール。これからマンションに行くと冷蔵庫状態である。帰るのが怖い。

驚き

午後東工大のすずかけ台にS先生を訪ねた。僕の修士生をこちらのドクターに受けさせる予定。S先生は中東の建築史を専門としており、今まで何度かこれらの遺跡調査報告書を戴いたことがある。写真が美しく、実測図面がまた素晴らしい。うちの学生もここに来たら実測調査なのだろうと思っていたが、今や実測ではなく写真撮影で図面になるのだという。200万で買ったソフトを使い、撮影データー(市販のデジカメで十分と言う)をコンピューターに入力すると自動的にワイヤフレームの3次元データーに変換されるという。そんな便利なものが世の中にあるのかと思い、気になって事務所に戻ってそのプログラムを検索するとなんと建築だけではなく(当たり前だが)地形だって写真にとれば3次元データーに変換できるものである。驚きである。http://www.kurabo.co.jp/el/3d/kuraves_g2_01.html
今日はもう一つ驚いたことがある。それはグーグルの書籍検索である。これは2004年から行われておりなんとなく知っていたが実際にそれを使ったことはなかった。何故そこにアクセスしたかと言うと友人の専修大学の先生からもらったメールで彼がグーグルの著作権無視の無断スキャンを訴えていると知ったから。そこでこの機能にアクセスして驚いた。自分の気になるコンセプト(言葉)が登場する本を検索できるのである。例えば「消費の空間space of consumption」が本文中に出てくる本を検索すると、ル・フェーベルの『空間の生産』を筆頭に347冊検索される。例えば「女性的建築feminine architecture」を検索するとマルグレイブの『建築理論』を筆頭に81冊出てくる。そしてその本文中のその言葉の登場部分を読むこともできる。もちろん多過ぎではあるからこれらを評価するのはちょっと大変だけれど、それでも本の中身があっという間に検索できるこの機能は驚きである。

December 15, 2009

雑用

一日中年末の雑用を片付ける。こういうことはやりだすとたくさんあるものである。午後、日建設計からnikken journal01なる小冊子が届く。日建設計の2009年の活動と副題がついている。どれもこれも技術的レベルが高いのはよくわかる。日建をやめて外から見るとますますこの凄さはよくわかる。しかし相変わらず作る姿勢が同じだなあと感じる。こういうのをよく言えば伝統。悪く言えば旧態依然というのだろう。夕方研究室のobが訪ねてくる。一人は20000㎡くらいの病院を設計中。もう一人は8000㎡のオフィスビルの確認を出し終ったところ。荒木町で野菜鍋を食べる。

December 13, 2009

男建築・女建築

建築の男性性vs女性性を考えている。きっかけは翻訳した『言葉と建築』にそういう章があったから。そして西洋建築はギリシア以来そういう評価の基準がある。言葉と建築で問題視しているのは建築形態である。例えばがっしりとして頑強そうな建築は男性的と言われ古来建築に必要な属性とされた。一方優美で華奢な建築は女性的であり、こちらはあまり評価されなかった。こういう形態の話とは別に、建築の使われ方の男女性について数年前ゼミで考えた。その時は日本の近代住宅が家父長制からその崩壊に合わせて平面が変わっているのに気が付いた。親父の居場所がなくなったというわけだ。つまり、その昔主人は書院で勉強をした、それが書斎になって応接になってついに無くなり、居間と言う名前になって主婦の居場所になったのである。つまり男から女のための作り方になった。というような変遷を西洋の住宅でも見つけられないかと考えた。後藤久『西洋住居史』彰国社2005は住居プランの変遷がエジプト時代から近代まで追いかけている。これを読むと男女性に関して二つのことが分かった。一つは古代エジプトにはハレムがあり中庭を挟んで一番奥に王の部屋があるが中庭の周りには10くらいの女性の部屋があること。二つ目は、古代には比較的小さな家、あるいは集合住宅のような一戸一戸こじんまりと住んでいたのが、中世から近世にかけて金持ちの家が出来彼らにとって応接の場所が重要になる。パーラーと呼ばれるこうした場所が邸宅の一番いいところに作られる。これが近代市民社会になると不要になり、家全体が比較的小さくなり、応接は居間へと変化する。モリスの赤い家などがその嚆矢かもしれない。西洋の住居史なんてあまり気にしたことが無かったが勉強になった。

December 12, 2009

小春日和

昨日の雨とは打って変わっていい天気。ジョギンングしてオペラシティに行く。パントンの展覧会を見るつもりだったが、行ったらICCでもコープヒンメルブラウなどやっていていたのでまとめて全部見た。http://ofda.jp/column/。パントンの次の展覧会予定がセシル・バルモント。オープニングのレクチャーチケットを買ったのだがその日はセンター試験の監督で行けないことが後で分かった。ショック。今日は12月だが17度あり日差しも強い小春日和。新宿御苑の緑がまぶしい。たっぷり汗をかき帰宅後のシャワーが爽快。家族とランチをとりながら、レートショウの映画を誘ったが今日は家にいたいと断られた。
先日丸善から届いた本をはじから斜め読み。昨日来これと思った本以外は時間をかけないようにと心に誓う。原田泰『日本はなぜ貧しい人が多いのか』新潮選書2009。新潮選書は当たり外れが多い。この本もまあ興味深いが所詮それまで書いた原稿の寄せ集めなのでエッセイ集の域を出ない。著者は日本の地方の貧困を指摘したうえでその原因を探る。彼の指摘する格差原因の中で最もリアリティを感じるのは夫婦が共稼ぎするかどうかである。これは顕著である。年収が下手すると倍である。そしてこういう夫婦に限って子供を作らなかったりする。こうなると夫婦の可処分所得は夫だけ働き子供が二人の家族に比べると4倍くらいの差になる。本書掲載の統計値だと、40代より上の年齢層の夫婦では旦那の給与が上がれば妻は働かない傾向があるのだが、30代では逆で旦那の給与が上がると妻の働く率も上がるのである。これってつまり高学歴者は高学歴者とくっつくと言うことである。そしてこういう夫婦は地方に住む確立が低い。なぜなら地方に高学歴女性が高給で働く仕事が無いからだそうである。こうなると今後所得水準の高い世帯はますます都市に移動し、地方の貧困率が上がる可能性が高い。一体これはどうしたらいいものだろうか?
吉村仁『強い者は生き残れない―環境から考える新しい進化論』新潮選書2009。この本はタイトルがスポーツ新聞のようである。強い者は生き残れないという表現はおかしいのではなかろうか?強い者が必ずしも生き残るとは限らないというのが正確な書き方だと思う。八代嘉美『ips細胞』平凡新書2008を読み始める。評判の本だけあってこれはなかなか面白そうだが途中で夕飯。また明日。

December 11, 2009

今後の方針

朝一のゼミ、1時間設計をやらせている間、輪読本『ハイデッガー入門』を読み返す。ハイデッガーが建築に与えた影響の大きさを痛感する。2コマ目の講義。相変わらず堂々と寝ている人間が多いのには閉口。必修ではないのだから帰って寝ればよいのに。昼食をとりながら某委員会。順番で座長が回ってきた。それなりに責任がありそうな役割だけれど僕で勤まるのだろうか?午後製図のエスキス。途中で某先生から電話。大学内の某施設の基本構想をお願いしたいとのこと。最近別の人からも某施設のマスタープランを作って欲しいと言われた。またとある人からは駅周辺の某施設の絵を描いてほしいと頼まれる。しかし色々聞くとそれらはとても出来そうもなく、とりあえず相手との交渉材料に欲しいものである場合が多い。そもそもいまどき公にお金などないわけだから。ダメもと交渉に使われた絵はゴミと化す。そのゴミに報酬が支払われるのであればまだしも、プレサービスと言われて終る。まだ謝意があるならいい方で無報酬でかなりのことをやらされた挙句、もうあなたは結構ですと言わんばかりに大学と親しい設計事務所の図面が出てきた時もあった。そこまで我々の職能を愚弄されて黙っていていいのだろうか?いろいろ依頼がありお願いされるのは嬉しいのだが、どうも設計者にものを頼むと言うことの意味が分かっていない方が多い。頼めば2~3日で手品のように絵が出来ると思っているのだろうか?外注するより安く上がると思うから頼むのだろうか?ある程度設計というものの常識を踏まえたうえで、その仕事には多大な労力が必要であり、多くのエンジニアの協力がいるものであり、そして時間がかかるということを理解して人にものを頼んで欲しい。今後そこへの理解とリスペクトのない依頼には応じない。

December 10, 2009

読書と日記

午前中原稿の足りないところを補って彰国社へメール。レイアウト後最終調整する。午後事務所で仕事。記録のチェック、クライアントへメール、昨日のクライアントリクエストの反芻、建築の条件の昔のカードの読み返し。などなど。夕方のアサマで長野へ。車中読みかけの外山慈比古『自分の頭で考える』を読み終える。この本後半はあまりに日常的過ぎて飽きるのだが、面白い指摘が二つあった。それは読書の否定と日記の否定。本来どちらもこの世代の知識人の義務であろうものだが、前者はやり過ぎるとものを考える時間を減らすことになるし、後者はやったところで気休めでしかない。ということに80過ぎて考え至ったようである。しかし50の僕も最近似たようなことを思う。10年前会社を辞めた頃、やっと暇になったから人文の古典でも読むかと読み始めた。それから早10年。まあ予定通り大方の古典にあたることは出来たように思う。もちろんまだまだ細かいことを言えば至らぬところはあるのだが、しょせん建築屋の人文読書である。さてそうなると最近手に取る本はどれもこれもそうした大きなストーリの重箱の隅をつっつくか、さもなければ何を書いているのか意味不明な独創的過ぎるものが多い。こうなると確かに今後の読書は余生の生産性を落としはしても上げることはないのではと心配になる。新たな本を手にするよりはかつて読んだ古典の中から感銘を受けたものを再読する方が意味のあることではないかと思ったりもする。多分答えは、良質な本を読みつつ、良質な本を再読すると言うことなのだろうと思うのだが、悪書に手を付けないというのは結構難しいものである。さてお次の日記であるが、これはまだ否定の境地には至らない。確かに一体何のためにこんなものを書いているのかと言えばよくわからないが、まあ寝る前の頭の体操程度のことなのかもしれない。読むだけでは頭は働かない。書くことも並行して行えとは外山氏の教えでもある。

公益法人を見直してほしい

2か月ぶりに塩山で打ち合わせ。補助金事業の設計ということもあって、スケジュールが不安定。この手の仕事のこのあまりに理不尽な工程の在り方は一体どうしたものだろうか?午後甲府に移動し新たな住宅の設計の候補地を視察する。計画道路上の現状の土地を収用されるのが新築の理由。候補地は130坪もあり東京で言えばあり得ないような広い土地なのだが、地方に来てこの大きさは決して大きくは見えないから不思議である。土地を見てから甲府の養護施設のクライアントとお茶を飲む。最近の仕訳で明るみに出始めた公益法人の話題となる。厚労省の公益法人に子供に関するものが10近くある。どれもこれも金をかけ過ぎだし役所の天下り理事長は仕事もせずに2千万を超える給与をもらっている。大学の運営交付金が削られるのは甘んじて受けよう。しかしそれなら万とある公益法人のとんでも理事長職を廃止できないものだろうか?それをやらずして大学の給与・ボーナスカット、研究費カットは頷けない。加えてそれに文句しない大学執行部は怠慢ではないだろうか?創立60周年パーティーにお上が来ると喜んでいるようじゃいつまでたっても駅弁大学の地位は向上しない。
帰りの電車の車中綾部恒雄編『文化人類学の15の理論』中公新書1984を読む。15の最初が文化進化論。文化は進化すると言う話は『文化人類学の歴史』でも再三語られる。「進化」という言葉はダーウィンの『種の起源』からの影響と思われがちだが、それは間違いで「進化」を広く伝えたのも「適者生存」という言葉を最初に使ったのも社会学者のハーバート・スペンサーであると言う。建築では進化という言葉はめったに使われないが、よくつかわれる機能も建築より先に人類学で使われたのではないだろうか?結構この学問はいろいろな言葉の宝庫なのかも?

December 8, 2009

文化人類学

午前中のアサマで東京へ。車中M.S.ガーバリーノ(Garbarino, M.S.)米山英明・大平裕司訳『文化人類学の歴史』新泉社1987(1977)を読む。文化人類学とは生物人類学と考古学と社会文化人類学に分類され、さらに一般的に人類学と呼ばれる最後の社会文化人類学は民俗学(ethnology)と民族誌学(ethnography)に分類される。大航海時代に始まるこの歴史の話を何故読んでいるかと言うと「認識人類学」という人類学の一つの方法論について知りたいからなのだが、それはこの本の最後の方、197ページから3ページくらい書かれているだけである。まだそこまでたどり着かない。午後事務所に戻り、打ち合わせしたり、portfolioの内容を見たり。

よく考えて修正せよ

午前中今年最後の学科会議。いろいろあったが今年も終る。午後は修論ゼミ。後2カ月。終るだろうか?去年まではこの時期になると危うい状況にイライラしていたのだが、今年はもうこちらがイライラするのは意味が無いと達観するようになった。先日の早明戦で前半負けていた早稲田の若竹監督はハーフタイムに何も指示をしなかったという。「よく考えて修正しろ」とだけ言ったそうだ。そして逆転して優勝した。「よく考えて修正しろ」これで行こう。夕方学科の忘年会。早速「僕の部屋では今後こういう方針で行く」と言うと、ある先生に「それは早稲田だからでしょう」と当たり前のことを言われた。いやうちも一年かけて底力を付けてきたのだから大丈夫と答えると????の顔をされた。ちゃんと「指導せよ」ということなのだろうが、、、、

December 6, 2009

早明戦

午前中原稿を概ね書き上げたのだが、調べがつかないことがいくつかある、四谷図書館の蔵書を検索したが、ここには無い。紀伊国屋に聞くとありそうなので午後行くことにする。出かけようとしたのだがそう言えば今日はラグビー早明戦であることを思い出す。昨日慶応が負けたので優勝の行方は今日の試合にかかっている。今年の明治は既に5位なので早稲田楽勝と思いきやスイッチを入れると14対3で早稲田が負けている。おっとこれは見ないわけにはいかない。早稲田は主力を怪我で欠いている。しかし後半じりじりと追い上げる。体力差があるのだろうか?ブレークダウンをものにしてトライを重ねた。逆転優勝である。いい気分で紀伊国屋へ行ってお目当ての本を購入し、無印でファイル用品をしこたま買って帰宅。昨日読んだ知的生産の方法の中で一つだけ採用しようと思った方法がある。それは一望監視システム。メモやノートを常によく見えるように晒すという方法である。今まで行っていたカードはボックスに入れてしまうと見えなくなる。そこでなるべくクリアファイルに入れてそれを透明なファイルボックスに立て掛けることにした。さて上手く機能するだろうか?夕食をとってバスで長野に向かう。先ほど買った本を読む。これはアメリカの大学の教科書だけあって実に読みやすいし丁寧に書かれている。

December 5, 2009

how to 本

「建築の条件」なる講義を早稲田で前期にやっている。来年は3回目なので本格的に改訂したい。そしてなんとかもう少し深いものにしてpublishしたいと思っている。こんな時(ちょっと長い文章を書かねばならない時といか、、)いつも僕は先人の知的生産本に目を通す。自分の技がしっかりないのでそうなるのか?人のhow toに興味があるのかよくわからないが。鎌田浩毅『ラクして成果が上がる理系的仕事術』php新書2009、と外山慈比古『自分の頭で考える』中央公論新社2009を買ってきて飛ばし読んだ。前者の著者は京大の理系の先生。内容は実に合理的、無駄をそぎ落とした生産の技術について書かれている。まるで脳ミソをコンピューターのように使う方法を伝授してくれているようだ。徹底したその生産性へのこだわりが参考になる。例えば本にラインを引いてメモを取るときも著者の主張を書き出すのではなく、自分にとって何が使えるかをメモれと言う。一方外山さんの方はなんとも穏やかである。人間はコンピューターと異なり、忘却が特技であると始まり。必要なのは知識ではなく思考だと言う。外山さんは1923年生まれだから既に86歳だがその何気ない言葉が伝える内容は実に奥が深い。
来週締め切りの原稿を今日仕上げようと思っていたのだが、ついもっと先のことに頭がとんでいってしまった。明日は原稿を仕上げなければ。

December 4, 2009

しんどい

朝起きると雪だった。これは参った。乗ってきた車はすべてノーマルタイヤ。飯綱から長野へ下る道は結構ワインディングロードである。しかし朝食をとる頃には雪も止み晴れ間も出てきた。出発できそうである。山を少し下ると既に雨。10時前には大学へ戻れた。昨晩は部屋が暑かったせいか眠れず睡眠不足。2コマ目講義、昼に清水建設のリクルーターが来社して昼食をともにする。午後製図。夜大林設計部のリクルーター(研究室OB)来社。へろへろである。

ゼミ合宿

午前中研究室に就職関係の来客。就職氷河期を乗り切れるか?昼をとってから研究室のゼミ合宿に出かける。と言っても裏山に行くようなもの。車で20分。日建設計の飯綱山荘に向かう。そもそもこの建物は保養所という役割に加えてコンペなどで缶詰に出来るように20人くらいは入れるゼミ室が設けられている。しかし遠すぎてここで研修は多分ほとんどしていない。これはまるで我々のためにあるようなもの。1時から6時半まで3つのテーマでゼミ。夕食後は前回の私の家の即日設計を皆で採点。そこから新建築住宅賞の結果についてディスカッション。夜12時終了。

December 3, 2009

google

一日事務所。12月に入ったので賀状、作品アルバムなどの作成を考え始める。今年は加えて少しキチンとしたcorporate profileそれとは別にportfolioもアップデートすることにしてT君に作成を指示。午後届いた新建築を見ると住宅設計競技に研究室の香川、新宮の共同作品が佳作に選ばれていた。めでたい。しかしなんだか白の家のような住宅である。よくよく見るとやはり白の家だった。明確なコンセプトがあればコピーすることも是とした篠原一男である。天から微笑んでいるに違いない。終バスで長野に向かう。NHKスペシャル取材班編『グーグル革命の衝撃』新潮文庫2009を読む。グーグルに関する本は数多いがNHKの取材本なので買った。NHK取材本は今まではずれたことがない。半分読んでみての驚きは人材確保の方法とその綿密さ。グーグルがここまで成長したのは二人の創業者の眼のつけどころ(検索の新たな方法の探索)によるところが大きいが、それは出発点。その後の急激な成長は人材の確保とその育て方にあるような気がした。とんでもない優秀な人間集団から厳選された人間のみがここで働き、しかし過度な競争が起こる訳でもなく自由にそして自らの研究課題に没頭できる環境が作られている。よく企業は2割の働きで維持されるというが、どうもその常識はこの会社では通用しないように思われる。2割が働き8割がやる気をなくす大きな原因の一つは2割の人間しか偉くなれない会社の階層構成にある。つまり同期入社で課長になれるのは2割だったのである。現在社会はフラット化することで半分くらいは課長(なんていう名前はもう死語かもしれないが)になれる時代ではなかろうか?きっとグーグルというところは更に徹底してフラットな組織であり、加えてとんでもない利益率はもはや職階ごとの給与格差をつける必要もなくその意味でも皆健全に働けているのかもしれない。しかしこういう企業は一発で転げ落ちるような危うさも持っているようにも感じる。もっと効率のよい広告方法を発見した会社が出た瞬間にこの地位は崩壊するのだろうから。

December 1, 2009

民族分類

民族分類学folk taxonomyなる学問がある。Wikiによるとそれはvernacular naming systemとあり、scientific taxonomyと対照的なものと記されている。つまりそれはリンネの植物分類のような対象に即した客観的認識を問題にするのではなく、とある社会集団における精神的な分節システムを発見する学問(と理解した)と思われる。例えば、「母の兄弟の息子と母の姉妹の息子は、日本人にとっては同じ“イトコ”でしかないが、ある民族にとって両種の関係の区別は極めて重要であり、名称上の区別が存在する」とネット上に書かれている。同様に色を示す言葉の種類が多い国があったり、香りを示す言葉の種類が多い国があったりする。その差は現象認識力の差と言っていいわけだ。さて、そう考えるとこの学問はなかなか興味深い。つまり日本人に生まれた僕らの中にはおよそ気付きもしないような現象認識フレームが世界にはあるはずで、そうした認識フレームを知ることが新たな世界に出会うチャンスを秘めているからだ。もちろんこうしたフレームに手っ取り早く出会うのは旅行である。しかもインターネットも届かないような未開の地である。だから人類学者はそういうところに出かけて行くのであろう。しかしこのフレームも全く違うと建築的には参考にならない。ちょっと違う程度がちょうどいい。そのためには隣の異人に出会う程度が理想的(と勝手に僕は思ったのだが)。とは言え隣人の言語を知らないわけで、これではそんな興味も満たされない。