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November 30, 2011

建築学科の女子が元気な理由

何故建築学科で女子学生が元気なのかというと理由はいくつか考えられる。草食男子が増えたから相対的に女子が肉食的に見えているから。女子はまじめなので成績も上がり就職もよくなってきているから。女子学生の比率が増え教室に女子の声が響き渡るから。どれも一理あるが、でも建築意匠的にはもっとしっかりとした理由がある。

僕は前々からモダニズムが形相(形)の革命であり、近代とは形相(形)優先の時代が美学的にセットされ、それゆえ質料(素材)がないがしろにされた時代であると考えてきた。ところが話はそれほど単純ではないことが少し分かってきた。
キャロリン・コースマイヤー(Korsmeyer, C)長野順子他訳『美学―ジェンダーの視点から』勁草書房(2004)2009は古来芸術概念の基軸である二元論がおしなべてジェンダー化されてきたことを跡付けた。
精神vs身体、形相vs質料、知性vs感覚、文化vs自然という対概念の前者が男性、後者が女性と漠然と繋がっており女性的な概念は常に芸術の評価や本質として劣るものとして位置づけられてきたと彼女は説明する。
つまり僕がモダニズムを席巻したと考えた「形相」は彼女に言わせればいくつかある男性概念の中の一つに過ぎないというわけである。だからモダニズムアートそして建築は男性概念によって単に形相重視なだけではなく加えて精神的で知的で文化的なものとなったのである
さてそんな男性概念に文句を言った嚆矢は建築ならポストモダニズムでありアートならポップアートのころである。そうした異議申し立ては初期のころはモダニズム否定にやっきになっていたのだが世紀を跨ぐころになると女性概念に流れて行った。つまり身体的で質料重視、感覚的で自然なものを標榜し始めたわけである。それを過激に展開しているのが
フェミズムアートであり、身体・質料・感覚・自然と言った概念は未だにジェンダー化されており社会の中では女性が担うものなのである。それゆえ建築学科においても彼女たちは元気にならざるを得ないのである。

さてではそうした女性的価値観を全面的に後押しすることが妥当かと言うと僕はそう思っていない。こうした二元論は注意を要する。Aという時代の流れはちょっとしたきっかけでアンチAに流れやすいがそれが長続きしないのは近いところではポストモダニズムが実証済みである。二元論は往々にして中庸に収束するものだと僕は思う。極端な逆暴走は極端な「かわいい建築」を量産するだけである。そういう過渡的な傾向は長続きしない。男性性を破壊しながら女性性に走るのではなく中性へと世の中は流れる。と僕は思っている。

言うは易く行うは難し

午前中事務所で打合せ。そろそろ図面をまとめる時期。残り1カ月。午後大学へ。0時近くまで卒計のエスキス。いやー本当にいい設計をして欲しい。
と言うは易く、行うは難し。
① 考え過ぎて不要なことを考え始める人へ:最初のアイデアが面白いのだからそれに飽きずに進みなさい
② 最初の考えが悪いのにそれに固執する人へ:先生の言うことを素直に聞きなさい
③ 未だアイデアが無い人へ:今日言ったアイデアをさっさと始めなさい
2ヶ月後が楽しみ。

November 28, 2011

アートとは価値を共有できる仕組み?

吉澤弥生『芸術や社会を変えるか』青弓社2011は美術館からマチナカに飛びだしたアートについてルポしている。特に大阪を中心にした追跡である。これを読むまでも無いのだが、読むとなおさら、アートはもはや一昔前のアートでは全然ない。と痛感する。
ご近所さんが皆で集まって毎週道路掃除をして一輪の花を家の前に生けたらもうアートである。つまりそれはある価値の共有だ。
鶴見俊輔は芸術を3つに分けた。プロがプロに見せる「純粋芸術」例えば絵画。プロが素人に見せる「大衆芸術」例えばポスター。素人が素人に見せる「限界芸術」例えば落書き。そして今我々の周りに急増しているアートが限界芸術をベースとした何かである。
それは人を感動させる技のことではなく。沢山の人が価値を共有できる仕組みのことなのである。それをアートと呼ぶのがふさわしいかよく分からないが、倫理と呼ぶには仰々しいし、芸術と呼ぶには貧弱だし、だから残った言葉がアートなのかもしれない。

November 27, 2011

今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか


17歳のとき次のような一節を読んだ。「毎日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずひとかどの人物になれる」。私は感銘を受け、それ以来33年間毎朝鏡を見て自問している。「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」。そしてその答えがいいえであることが長く続き過ぎるたびに、私は何かを変える必要を悟った

これはスティーブジョブズのスタンフォード大学でのスピーチの一節である。

昨晩学生とこのスピーチの話になった。僕はスティーブ・ジョブズ教ではないけれど今朝(というか昼頃)起きると昨晩の酒のせいで今日が人生最後の日のように気分が悪く彼を真似るには絶好のコンディションになっていた。そこで鏡を覗きながら今日する予定のジムと読書を本当にやるべきか?と問うことにした。長考の末これらの予定をキャンセルすることにした。最後の日は何もしてはいけないと思ったからである。そこで今日は何もしないと決めた。

ところがしばらくするとチョコレートを持ったお客さんがやって来た。その方とお話しているうちに何もしないという本日のコンセプトが崩れてしまった。何もしない無の時間を過ごすことができなくなった。こうなると今日を人生最後の日にするわけにはいかない。最後の日は何もしないということに決めたので。

というわけで明日もしっかり生きていくことになった。またいつか人生最後の日が訪れたら鏡を覗くことにしたい。

When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something

卒論発表会面白かった

10時からα方式卒論発表会。理科大は一部(中間部)の学生はα方式、β方式という二つの卒論コースのどちらかを選ぶ。αとは卒論と卒計の両方をやるコース。例年主として計画系、歴史系、構法系の学生がこの方式をとる。一方βとは卒論のみやるコース主として、構造、環境系の学生がこの方式をとる。因みに二部(夜間部)の学生は卒論と卒計はどちらかを選ぶ。
10時から全教員が集まって5分発表2分質疑。40名弱の発表で5時ころまでかかった。しかし内容は全て興味深いもので時間を忘れて楽しく聞いた。各先生方のコメントも多彩で鋭い。僕の学生は今年2人。一人はストリートアクティビティの研究。人を惹きつける物理的要素を数値化した。もう一人は日本版インターベンションの研究。フィールド調査をして新旧のコントラストを数値化した。無理に数値化しなくてもいいのではという意見があった。しかし定性分析のほうが実は難しい。
終わって判定会議を行い、発表者は全て合の判定。後は論文としてまとめ、その後卒計2カ月。最初飛ばして、途中飛ばして、最後飛ばしてやっと終わる。

November 25, 2011

いまこそハイエクに建築を学べ

自民党政権の最後の方に登場した小泉純一郎は社会を自由競争の渦に巻き込んだ。彼の思想は新自由主義と呼ばれその思想の根っこはフリードリッヒ・ハイエク(1889~1992)と言われている。ハイエクの思想を受け継いだミルトン・フリードマンは自由競争経済を主張し世界に自由競争の嵐を巻き起こした。そのフリードマンは世界中の危機的状況に登場しては自由競争社会を組み込んでいった。一般的にはそういう施策は格差を増大させ批判的に捉えられ『ショックドクトリン』というような著作も生んだ。
ところでそんな悪の権化ではあるが実は本当にその思想の根源は悪なのだろうか?ちょっとそんな疑問が湧いてくる。なぜなら自由を渇望することはごく自然なことだからだ。仲正昌樹『いまこそハイエクに学べ』春秋社2011を読むとやはりハイエクの思想自体は頷けることも多いことに気づかされる。
例えば彼のもっとも根源的なテーゼは「設計主義の誤り」という論のタイトルが示す通り、行政が社会的ゴールを設定してそれに向かって緻密な設計を行うことの否定である。彼はそう簡単に人々の共有できる価値を設定することはできないと警鐘をならしたのである。この考えには僕も賛成である。そして現在、社会はハイエクの曲解による新自由主義あるいはリバタリアニズムによってある歪みを生んでいる一方で、「設計主義の誤り」に示される考え方は様々な分野で適当なものとして受け入れられている。
例えば街づくりや建築の設計においてもこの考えは正当な権利を持っている。昨今の設計ではユーザーの自由度を許容しようという発想はどこかに仕込まれている。しかしそうは言っても設計する人間が設計を全面的に否定することは難しい。この理屈を真に受けて何も作れない学生がうろうろしているのはご承知の通り。話を政治に戻せばハイエクもそのことは分かっている。「設計主義の誤り」とは設計を否定しているのではない。何を設計すべきかを示唆しているのである。
そこでハイエクの次に用意されているテーゼは「コスモスを通して考える」というものである。個人の自由を最大限認めたとしてもそこにはコスモス=自生的秩序があるというのが彼の考えである。歴史の中で進化してきた秩序、あるいはこれから生成していくだろう秩序が社会を動かしていくというものである。建築につなげて語るのならば、使われていく中で様々な水準で秩序が現れてくるような設計をすること、又はクライアントあるいはその場所から歴史的に淘汰され残っている秩序を掬い取ること。ということになろう。
ハイエクから建築的に学べることがあるとするならばそれは①作りすぎないこと②多様な秩序の生成の可能性を作ること。③クライアントや場所の中に歴史的な秩序を見出だすこと。ということだと思われる。

November 24, 2011

中国にもう少しコミットしてもいいか?

午後に会議が連続して3つありそしてその裏に別の会議がだぶっていて二つの会議を行ったり来たり。7階と5階を登ったり下ったり。
会議後研究室でメールをチェックすると中国からとても流暢な日本語のメールが入っていた。僕の研究室で勉強をしたいという内容である。今まで見た中国人の日本語の中では出色のできである。内容もきちんとしているし文法も正確である。
4月以降何回か中国からのメールが来る。差出人は異なるのだが内容は日本での勉強。そしてもらうたびに日本語のレベルが上がってきているような気がする。
信大では中国からの留学生が比較的多かった。博士の副指導教官もやったので個人的にも面倒を見た。しかしどうも上手くコミュニケーションできなかった。語学力もそうだが意欲も今一つというのが正直な感想。それに比べると最近もらうメールはだいぶ違う。熱意と能力の両方を感じる。当たり前だけれどこう言う学生もいるのだなと少し嬉しくなる。
中国では5年くらい仕事もしてかなり痛い目にあったのでしばらく遠くから見ていようと思っていたのだが、こんなメールをもらうと少し考えも軟化する。ここ10年くらいでドラスティックに変貌するであろうこの国にもう少しコミットしてみてもいいのかもしれない。

居場所を作る

昨晩講評会ゲストの大賀成典さんが学生時代を振り返りこう言っていた「理科大には溜まり場が無いので学生間のつながりが希薄なんですよ」と。確かにこの大学にはキャンパスが無い。建物出たら公道である。授業終わってうだうだしている場所は無い。学生はある意味可哀そうである。居場所が無い。
しかし問題は物理的な居場所よりも精神的な居場所であろう。例えば自分の例で信大と理科大を比べてみる。信大時代はキャンパスがあるから授業が終われば研究室以外にも中庭のベンチや原っぱでコーヒー飲んだり学生と話したりする場所は結構あった。その意味では理科大より物理的な居場所は多かった。一方精神的居場所はと言うと信大では他の先生と雑談したり方針を相談したり帰りに一杯なんていうことは無く、理科大では同系の先生が沢山いるからそれがとても増えた。つまり精神的な居場所は濃密に変化した。

ところで昨日の卒計に「池袋の公園の周りにサードプレースを作る」というテーマがあった。つまり家庭と職場以外の居場所を作るというものである。阿部真大『居場所の社会学―生きづらさを越えて』日本経済出版社2011も3つ目の居場所を持つことを勧めている。著者曰く「居場所」はいのち綱であると言う。現代では職場も家庭も不安定でありそこに居場所が無くなると精神的ダメージが大きい。そこで第一次セイフティーネットとして3つ目の居場所を確保しなさいというわけである。
はてそう言われると自分はどうか?繰り返しになるが信大時代は大学の居場所が不安定だったのだが幸いOFDAがあったから救われた。もちろん今では大学を含めて居場所はいろいろある。では学生は?彼らは住む、学び、働くという3つの場所を移動し結果的にサードプレースの可能性を既に持っている。とは言えキャンパス、研究室に十分な居場所がある(もちろんそれは物理的な居場所なのだが)信大生に比べ理科大生が不利なのは上述の通り。加えて昨今の経済悪化の中で働くことを余儀なくされる学生の多い理科大では大学くらい安定した居場所であるべき。どうしたらいい場所を作れるのか?


●牛の居場所

November 23, 2011

設計屋とやくざは紙一重

夜卒計の中間講評会。今日のゲストは理科大OBの構造家 大賀成典さん。3回目の中間講評だけれど後2カ月もあるせいか進捗が遅い。「やったるでー」という気迫が感じられない。まあ最後に見せてくれればいいのだが。
でもそれなら11月までは論文でも書かせた方が彼らの為かもしれない。
ぎりぎりまでやらないというのは信大でもそうだったから慣れているけれど世の中にはそうじゃない輩もいてそんな奴にはかなわないのだ。ということを彼らは分かってない。なんてぶつぶつ考えていたら思い出したことばがある。

「バカでなれず、利口でなれず、中途半端でなおなれず」

実はこれはヤクザについて昔からいわれている言葉だそうだ(最近売れている本。溝口敦『暴力団』新潮新書2011より)。でも設計やる人間にもぴったりである。バカは設計できない。利口なら設計を仕事としない。そんでもってやるからには中途半端じゃ無理。

November 22, 2011

いろいろな人がつながりをもって暮らせる町

平山洋介『都市の条件―住まい、人生、社会持続』NTT出版2011は鈴木謙介氏が企画した「真横から見る現代」というシリーズの一冊。日本の家の住まい方を公がどのように作り上げてそれがどのように崩れているかを緻密に検証した本である。
戦後の日本では成人したら就職して結婚したら家を出て最初は借家住まいをしてお金を貯め、戸建を購入し定年までローンを払い続けるというライフコースが作られた。我々の親の世代まではそうするのが普通だった。そして我々の世代では、結婚して家を出るまでは似ているが、しばらく借家住まいしても貯金では家を建てられない人間も現れ始めている。そうすると出戻るわけである。すなわち親と二世帯住宅を作ってコストを折半する。これはある種のパラサイトと言えなくもない。パラサイトシングルという言葉が一時期はやったが、これはパラサイトファイミリ―である。
そしてこれからの若い世代の多くはもはや20世紀のようなライフコースは歩むことはできない、パラサイトする親の持ち家も無い子供たちも増えるのである。一生借家という人も増えるはず。日本は持ち家を推奨するデュアリズムの国なのだが借家を含めて多様な住まい方を用意するユニタリズムの国を見習えと言うのが著者の意見。
例えば現在の日本では持ち家を準備させるための公の借家は殆どが家族向きである。しかしそれだと未婚、離婚、既婚、を問わず単身(その中には離職した高齢単身もいる)の受け入れ先は無いのである。もっと新しい生き方や状況に寛容であれと僕も思う。
そんな本を読んでいたからだろうか、午後某市に行って、「家づくりガイドライン」の打合せを行い少々違和感を覚えた。このガイドライン案は前も見ていたものではあるが「家づくりの3本柱」として1)家族のつながり、2)地域とのつながり、3)街とのつながりを掲げている。そしてその概念をブレークダウンしながら踏み込んだ形態規制をかけている。その斬新さは買うのだが、少々住み方の個性を制限し過ぎ。加えて家づくりの基本に家族があるというのもちょっと窮屈である。単身者や友人同士などというこれから増えるであろう(増えざるを得ないであろう)居住形態が排除されている。そこで「家族のつながり」は「人のつながり」へ変えようとT先生の提案あり。加えてガイドラインと言う言葉が良くない。もっと役所が応援しますというスタンスが欲しい。そこで出たのがパートナーシップ。なかなかいいではないか。TPP(trans pacific partnership)ならぬ、YBP(Yashio building partnership)である。
いろいろな人がつながりをもって暮らせる町。そんな町ができればきっと新しく、楽しい、場所ができるはずである。

November 21, 2011

理科大OBとの交流会

東京都現代美術館に行って建築展と0年代のベルリン展を見たhttp://ofda.jp/column/。その後大学に行くのにちょっと遠い木場駅から東西線に乗る。行く先は九段下。しかしよくよく考えて見れば来る時乗ってきた都営新宿線も九段下は通る。これだけしょっちゅう乗っていても頭にメトロの地図は出来ていない。
大学では建築学科のOBと学生・教員の交流会。信大でもたまにあったけれどそれほど積極的ではないし、だいたいOBが長野に残っていないからそういう企画が成り立たない。それに比べるともちろん東京にあるから先輩も大勢いるし、設計の分野で見ればOBの数は信大の比では無い。名刺交換していて安井設計の社長がOBとは知らなかった。他にも多くの事務所やマスコミ。役所、デベなど幅広い。
考えて見れば僕の日建の同期も理科大卒が3人いた。構造、設備、意匠に1人ずつ。実は同期で一番多かったのは理科大だった。先日日建会で聞いたら理科大は出身校としては4番目に多い学校だそうだ。日建にしてそうなのだから他の会社でも同じである。是非卒業生をよろしくお願いしたい。

November 19, 2011

上から目線族

人間は人を判断する時の尺度を持っている。人間性で判断する人もいれば、金持ちかどうかを見る人もいる。優しさを評価軸とする人もいれば自分との上下関係(年だったり権威だったり役職だったり)を先ずチェックする人もいる。だいたい最後の尺度を持っている人間にいいやつはいない。そんでもってそういうやつの中で劣等感の強い奴は「上から目線」になりやすい。劣位の自分を見せたくないから先ず自分を上の位置に置きたがるわけだ。榎本博明『「上から目線」の構造』日経プレミアシリーズ2011にそんなことが書いてあった。
僕もたまに上から目線だと注意される。そういう時はだいたい虚勢を張ってちょっと格好つけて偉そうにしたいと思う時である。そんな時はすかさず誰かに怒られ素直にやめる。虚勢を自覚的にはっているので、ああ、ばれたかという気持ちとなる。
ところが世の中には自分の上から目線に自覚的ではない人が結構いる。僕の周りにもうろうろしている。そういう人間は既述の通り人間に優劣をつけたがる。それは親のせいだと言ってもいい。常に親が誰かと比較して優劣をつけてきのだ。そしてそういう比較対象の最たるものは兄弟姉妹である。そう言えば僕の周りの上から目線族には大体優秀な兄弟姉妹がいるようだ。可哀そうに何時も比較されて来たのだろう。僕も兄弟がいるけれど幸運にも僕は兄貴と比較されたことはない。されていたら今頃きっと上から目線族であろう。

今日は凄い雨。でも頑張ってオペラシティのギャラリーに「感じる服・考える服」展を見に行った。結構面白かった。中村竜二の会場構成かなりの存在感である。コラムお読みください。http://ofda.jp/column/

November 18, 2011

クリスチャン・マークレィー未だ元気


葛飾キャンパスの建築説明を聞いた。日建と鹿島と管財の担当者総勢10人弱が、教員一人一人に説明してくれた。ありがたいことではあるがこちらもプロだからメールされた総合図を見ればコンセント、空調、ドア等の位置は説明されるまでもない。なんだかお互いに時間の無駄遣いのようである。
銀座で人と会ったついでにオープニングには行けなかったクリスチャン・マークレイ―の新作をギャラリー小柳で見る。ギョッとするようなサイケデリックな掛け軸。そしてリーテム東京工場で展示されたノートブックも掛け軸のように壁に吊るされていた。横トリの話題をさらったマークレィーは70近いが未だ元気。それにしてもこういうよく知った人の新作に触れるのは興味深い。いい悪いとか、感動するしないと言うことを飛び越えて、彼の今の興味を垣間見るだけで大きな刺激である。
ギャラリー小柳まで来たので、表に回ってポーラ美術館アネックスにも立ち寄る。50~60年代のヴォーグやハ―パース・バザーを賑わせたファッション写真の展覧会。リチャード・アベドンのスナップショットとアーヴィン・ペンの白を飛ばしたコントラスト写真が印象的だった。当時の映像が20年代から90年代まで流されていたがやはりディオールの造形力は凄いものだ。
夜事務所に戻り打ち合わせ。お腹空いた。

November 17, 2011

窓はどちらに開けるべきか?


昨晩ポスドク候補のA君と作ったポスドク申請書を大学事務に提出。なんとか通るといいのだが、、、大学院の会議の後しばし研究室で読書。東京工業大学大塚本研究室編、塚本由晴、能作文徳、金野千恵著『Window space窓のふるまい学』フィルムアート社2010を眺めながらどうして西洋の窓は内開きが多いのだろうかと不思議に思った。オルジャッティ、コルビュジエ、マッキントッシュ、そして数多のヴァナキュラーな建物の90%が内側に倒れたり開いたりである。唯一堂々と外開きなのはライトの落水荘くらいである。自分の経験でもヨーロッパの古いホテルに泊まると大体内開きである。でもそれは数百年前の建物で鎧戸がついているので内開きにせざるを得ないからである。でもこの本を見ると近代的な建物だってそうなっている。さてどうして?
たまさかそばにあった浜本隆志『「窓」の思想史―日本とヨーロッパの建築表象論』筑摩書房2011にその答えが書いてあった。ヨーロッパの開口部は玄関ドアも窓も外側から内側に開くものである。それは著者自身が調べてもそうだし、一般にそう言われている。その理由は外敵の侵入を考えた時、内側に家具でも並べれば内開きは開けられなくなるからだと言う。そして靴を脱がない文化では玄関ドアが内に開いても靴にぶつかる心配はない。
一方日本では開口部にさほど防衛能力を求めていない。そもそも夜這い何て言う習慣を持つ日本文化では鍵などかけないことも多かった。そもそも近代までは開き戸では無く引き戸であり西洋建築が流入してきても靴を脱ぐ文化では玄関は外開き。加えて雨が多い風土では内開きは防水性能が悪いと言うわけである。
いやコルビュジエやマッキントッシュの国だって十分雨は多いのだが、、、、やはり防衛本能なのだろうか???

November 16, 2011

リトル・ピープルの時代

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎2011の続きを野木の行き帰りに読み続ける。「リトル・ピープル」とは「ビッグ・ブラザー」と対で使われ、その意味は大きな物語に対する小さな物語とかなり近い。その意味ではビッグ・ブラザーはモダニズムの真理を体現し、リトル・ピープルはモダニズム解体後の小さな物語を紡ぐ個々人ということになる。
と聞けばお決まりのポストモダニズム論かと思うがそうではない。著者は村上春樹を80%称賛しながら、この対概念が村上の中でどのように扱われているかを分析する。それによれば、村上はお決まりのポストモダニズム論に読者を引きずり込むのではなく、ビッグ・ブラザーが壊死した後にリトル・ピープルの紡ぐ小さな神話に引き込まれることこそが最も危険なことであると警鐘を鳴らしていると解説する。
そしてその小さな神話の実例としてあがるのがオオムなのである。そして大きな物語からの安易なデタッチメントではなくコミットメントというメッセージを発するのだが、ではそのコミットメントとは何か?
これが最も難しい。小さな神話が厭世的なカルト物語であるのならコミットメントとは社会的公共的な何かへの取り組みということになるのかもしれない。そして恐らく現代はそう言う方向へ流れている。3.11はそれに拍車をかけていると言えるだろう。しかし、ここで、はたとショックドクトリンの議論を思い出す。社会的なコミットメントであればそれは全てが正しいことなのかと言えばそれはそう簡単に肯定できることでもない。ここにも様々なリトル・ピープルが潜在し目に見えない邪悪なものが潜んでいると僕には思えるのである。リトル・ピープルの時代とはそうした小さな邪悪との闘いの社会であり、それ故にビッグ・ブラザーの時代よりはるかにリテラシーが求められるのだと思う。

一人で飲んでいると起こること

先日荒木町のとある飲み屋に珍しく1人で入って1人で飲んでいた。右隣に私同様1人で飲んでいる恰幅のいい方がいた。私より10歳くらい年上に見える。五木寛之に似たカッコいいオヤジである。だいぶ前に来ていたのだろうか10分くらいしたら帰ろうとした。帰りがけに諏訪出身というバーテンに「諏訪には理科大があるよね、僕は理科大出身なんだ」と言う。あれあれ、それでは声をかけないわけにはいかないと思い。「私は理科大教員で」と言って話始めたら小一時間話がはずんだ。某会社の社長さんをしているそうである。理事長は友達だと言っていた。
そしてその方が帰ると、左隣に座ったおじさん(というにはかなり若い)が話しかけてきた。歳のころは30代である。名刺をもらうとこちらも某ソフトウエア会社の社長だった。社屋を作りたいのだと言う。そして某有名大学の教授もしている有名建築家に会ったそうだがなんともつまらないので彼には頼まないと言う。「それなら私とやりましょう」と言ったら「そうしましょうか」と言う。というたわいもない会話をして名刺を渡して店を出た。
1人で飲むと言うのもなかなか悪くないものである。

November 15, 2011

建築界ネットビジネス

夕方友人の弁護士から電話があり相談にのる。ある不動産屋があるパース屋に仕事を依頼したのだが出来上がったデーターのデーター量が少なくて大判ポスターを作れない。それは契約違反なので金を払わんと言ったらパース屋が訴えてきたという。データー量の仕組みやファイルの種類を教えてあげた。いろいろ聞くとそのパース屋は中国にあるそうだ。
僕もコンペで中国のパース屋を使ったことがある。日建に教えてもらったのである。教えてもらった時の値段と払った時の値段は5割くらい値上がりしているのに驚いた。できは値段相応なので払ったが値上がりの理由は受注量がうなぎ登りに増えているからだそうだ。一度も会ったことがない人間にメールのやり取りだけで仕事を依頼して成果品が届き金を払うと言う世界が到来したことに驚いた。

夕刻僕がアルゼンチンに行った時に面倒を見てくれた日系アルゼンチン建築家のKさんがスタッフと来所。彼はアメリカの事務所とともにこれから日本に建設されるドイツ自動車メーカーのショールーム設計をするとのこと。一体日本までわざわざやってくるほどのことかと思っていくつつくるのか聞いたら200と言う。これは驚きである。数もさることながら、日本につくる世界的に一流な車のショールームを設計するのがアルゼンチンとアメリカの事務所だと言う事実に驚く。頭脳は世界を駆け廻っている。そのうちパースじゃないがネットで注文を受けてネットで成果品を送りお互いの顔も見ずに設計が出来上がるという時代が来るかもしれない。

p.s.
まあ考えようによっちゃあ、コンペなんて敷地も見ずにクライアントとも会わずに優勝して実際できたなんてこともあるわけだ。その意味では既にそんな状態があると言えないこともない.。

November 13, 2011

手形が伝える人生

朝から午後まで、理科大の公募推薦入学試験。応募者は減ったもののとても魅力的な人材が受けてくれることが嬉しい。2部ならではの人材である。終わって四谷のジムで20分自転車、20分ランニング。サウナを浴びてから原宿へ。竹下通りの喫茶店兼画廊で三輪映子さんの新作展。彼女はずっと版画や切り絵そして童話の絵と詩を作る作家だったのだが、今回は「目には目を歯に歯を」というタイトルで、植物の芽や葉を背景として丹念に描き、その上に人の手の形を切り取った切り紙の手形を載せると言う表現を試みている。人の種類は幼児から100のおばあさんまで千差万別。

植物は描くのに3日かかるそうである。全部で36枚近くあるので植物だけで100日。そして36名の手形をとってその上に張り付ける作業が一カ月くらいかかったようである。人の手にはなんだか人生が滲み出る。私の祖母の妹は100歳近くしてまだ生きているが彼女の手だけはなんだか全く他を寄せ付けない妖気を漂わせている。

銀座の夜

午前中、日建のソニーのビルを見に行く予定だったのだが、どうにも疲れがとれず欠席。午後事務所で兄貴夫婦と打合せ。やっと1案に絞られ構造、設備も大方決まる。
夕刻銀座へ。理科大建築の理工学部(野田)と工学部(神楽坂)教員懇親会。数十人集まる。私を含め3人の新任がご挨拶。宴たけなわだったが早めにお暇。
高校のクラス会へ移動。男女数が半々くらい。女子元気。学校の先生をしているY女史はついに孫誕生。某病院の部長先生をしているW女史はかみさんの展覧会に行ってくれたそうでありがとう。出版社勤めのKさんは社屋が賞をとったのだが使いづらいと不満を述べられる(しかし私のせいではない)。女性陣は1人を除いてみな頑張って働いている。Mさんのみピュアな専業主婦。(京大まで卒業されたのに)頭脳がもったいない。男の子たちもみなご活躍中。筑波の先生をしている物理学者のA博士はノーベル賞まであと一歩(本当か?)。毎年数億の研究費を使っているそうだ。そう言う人もいるもんだ。日建のNは私同様すっかり頭が淋しいが今年から執行役員。電通のK君ロンドンから帰国したばかりで佐々木希を知らない。本当に電通の人?
2次会ワインの店を出てきたら。あれ??見た顔が前を通る。理科大教授陣H先生、I先生、Y先生、が3次会の店を探して彷徨っているようである。しばらく立ち話してから別れる。

November 12, 2011

デジタル新聞をとることにした

朝日新聞のデジタル版をとることにした。たまった新聞を地下のごみ置き場に運ぶたびになんだかもったいない気に駆られて。
というのは主たる理由では無く新聞を持ち歩かなくても何処でも読めるし3つの端末で同時に読めるから。加えて重要なのは検索機能。読みたいキーワードを入れておくとそれに引っかかる記事が一望できるし検索も簡単である。
もちろん直観的に記事のヒエラルキーがつかみにくいと言うデメリットはあるのだがそれは慣れの問題だろう。徐々に新聞社側の軽重は読み取れるようにはなるはず。まあそもそも記事の重要度は新聞社が決めるものと言うよりは読者が決めるべきことでありそれがメディアリテラシーというものであろう。
http://digital.asahi.com/20111112/pages/

November 11, 2011

デタッチからコミットメントへ


事務所、大学、会議。今日の会議は長い。結構重要な案件が並ぶ。夕方東京に来ているカナダの友人と再び会う。彼は原宿に二日泊まり、浅草に二日。そして今は池袋。一体どんな場所かを見てみたくその場所を尋ねてみた。西口公園を通り過ぎて駅から歩いて10分。KIM INNという日本スタイルの素敵なホテルのような旅館だった。ラブホテル街の中にあるのでこんな場所に一般人はまあ気がつかないのだろうが一泊4千円くらいで泊まれるコンクリ―ト造の小奇麗な所である。玄関を開けるとティロが上がり框に座っていた。一体どうやってこう言う場所を探すのかと聞くと、世界のヴァナキュラーな宿泊施設がゲスト評価付きで載っているサイトがあるのだそうだ。
岐阜出身の研究室の学生に勧められた飛騨牛の店に行った。静かでゆっくり話のできる気持ちの良い場所である。とにかく会話が止まらない。26年分の尽きぬ話が次から次に飛び出す。時間よ止まれという感じである。言語の壁は全くない。本当にハッピーな時間である。
彼が村上春樹の1984を読んだかと聞く。恥ずかしながら読んでいないけれどどうして?と聞くと、これが日本の現代の感覚だと言うので読んでいるが正しいかと聞きたかったと言うわけである。恐らく正しいと答えた。
そう言えば昨晩読み始めた宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎2011は村上春樹分析で一章費やされている。その中に「デタッチメントからコミットメントへ」という節がありびっくりした。というのもこれは僕がある建築雑誌に書いた短い論考のタイトルと同じだったから。あれ?と思ったのだが、その節を読んでみるとそれは村上の言葉だったことを思い出させられた。それは「関わらない」ことから「関わる」ことへという意味である。思い出した。僕はその頃村上に大きく影響を受けて建築においても「関わらない」ことから「関わること」が可能かを考えていたのである。未だ日建にいたころである。
そして今その考えはもちろん更に強くなっている。とは言え世の中には社会にディープにコミットする人は沢山いる。僕はそんなにコミットすることができる人間ではないし、そういうことが余り得意ではない。あるいは好きできない。でもライトにコミットすることが必要だろうとは思っている。そんな感触が村上なのである。
というわけで友人ティロに村上の考えは現代人の(僕もその1人として)ある側面を確実に表していると思うと伝えた。彼は納得したかどうかは分からない。それは2週間の滞在の中でなんとなく感じ取ってくれればいいことである。
僕のルームメイトで彼の友人でもあったクリスタとミュンヘンかバンクーバーか東京で再び会おうと約束して池袋を後にした。幸せなひとときだった。

November 10, 2011

癒されたいのは大人?


午前中野木の現場を往復。地下水位が高いのには驚く。この辺り田んぼだったのだろう。建物を載せようとしているローム層の上に水みちがあるようだ。
往復の車中読みかけの『日本建築宣言文集』を読み終え、一昨日天内君から送られた仲正昌樹編『批評理論と社会理論1アイステーシス』お茶の水書房2011中の天内論考「ナショナリズムの残余―佐野利器の「反美術的」職能観」を読む。
昨日書いたように明治、大正の建築論は芸術vs技術という2極構造の中に位置づけられる。そして佐野は構造家として技術の極にいた人である。天内君の論考を読むと佐野が19世紀末の戦争のさなかで日本の国力を憂えながら学問へ向かっていたことがうかがえる。そしてその憂いは国力=技術力という戦争を基盤とした強迫観念に結び付いたとも言えるのではないか?そして恐らく当時の学徒たちは多かれ少なかれそうした精神環境の中にいただろうことは想像に難くない。それゆえ当時の建築論が常に一方で技術を極とし、他方芸術においては「日本」の様式がメインテーマであったことも頷ける。つまりどちらの極においても、ナショナルな思考が基盤にあったということである。
ところで話は全然変るが、武藤清の孫にあたる僕の友人は自分の息子に利器と名付け「りき」と読ませている。佐野利器からとったと言っていたが本当だろうか?自分の祖父の師匠の名を自分の息子につけるなんていうことがあるだろうか???もちろん佐野利器の利器は「としたか」と読むのだが。
午後事務所への帰路、傍の公園で移動動物園が行われていた。人が沢山集まっているのだが殆ど大人であることに驚く。子供は動物じゃあ癒されないと言うことか??癒されたいのは大人たち??
夜2年生の製図講評会。新建築の橋本純さんがゲスト。なかなか考えられたレクチャー。そして分かりやすい。さすがジャーナリストである。

November 8, 2011

日本版『言葉と建築』の不可能性

藤井正一郎・山口廣編『日本建築宣言文集』彰国社2011(1973)を読みながら、明治大正の日本建築論の展開は一言で言えば、「芸術か技術か」の二者択一に終始していると感じた。もちろんディテールはいろいろあるし、大正も後半になればマルクス主義的な思潮が建築論にも影響を出し始めるのだが、、、、、
ところで前々から日本における『言葉と建築』が描けないかと思っていたのだが、この本を読みながら、これは無理であることに気がついた。というのはフォーティーの『言葉と建築』の最も重要な視点は西洋の建築論において近代のヴォキャブラリーが何時からどこで使われ始めたかを照射することで近代がどのような価値観の地平(エピステーメー)の上に成り立っているかを明らかにしているからである。言いかえればフォーティー論の特質は空間とか機能という近代になって初めて使われた言葉を採取することでその時代の価値観を浮き彫りにしたのである。
しかるに日本建築においては近代以前に論はないので。近代において輸入された「建築」にまつわる言葉たちはそもそも日本の価値として存在していたのかどうかが見極められない。つまりそれらの言葉が日本の近代建築において初出の概念かどうかが判定しにくいのである。
それゆえそんな作業をする意味も無い。言いかえれば日本の建築論をフォーティ―的に明らかにするとしたならばそれは近代にはないのかもしれない。たとえば20世紀後半の建築概念の変化をそうした視点から分析するのならまだ可能性はある。しかしそれをやる意味があるのかどうか今のところ不明。

November 7, 2011

名刺管理のアイフォンソフト


午前中模型を沢山持ってクライアントのオフィスへ。2時間かけて順調にいろいろなことを説明し決めてもらった。ほっとする。
午後1年放っておいて山のようにたまった名刺を前に仕方なく整理にかかる。と言ってもこれを入力するのも嫌だし、誰かに頼むためにその説明をするのも面倒くさい。KING IIMのスキャナーが結構評判いいと聞き買おうかと思ったのだが、アイフォンのアプリが結構使えるとスタッフが言う。まあだまされたと思ってworld card mobileなるアプリを1000円でDL。なんのことはない、アイフォンのカメラで名刺を撮影するだけ。すると画像として保存されるとともにOCR機能(画像をテキスト化する機能)で95%失敗無くテキスト化される。加えて、ほぼ間違いなく姓名は姓名の欄に、会社名は会社名の欄に電話は電話の欄にデーターが仕分けされる。これはなかなかすごい。名刺管理に四苦八苦されている方、試す価値あり。
実は最初のうちは上手くいかずイライラしていたのだが、10枚くらいやっていたら撮影のコツと操作のルーティーンにはまった。問題はこのデータ―をコンピューターのアドレス帳に上手くイクスポートできるかどうかであるがそれは今のところまだ不明。

November 6, 2011

ヴァンクーヴァーの役人の意識


午前中新宿御苑の茶会に行く。茶室楽羽亭は中村昌生の設計。4畳台目の茶室は使われず、十畳の広間で濃い茶を、椅子席で薄茶をいただき弁当を食べる。雨が降りそうで降らない霞のかかる新宿御苑だが茶室周りだけ華やいだ雰囲気である。
午後26年ぶりにUCLA時代の一番の親友Thilo Driessenと再会。彼は卒業後チャールズムーア、リゴレッタの事務所で働きヴァンクーバーに引っ越す。しばらく設計事務所に勤めていたが経済危機が訪れ全く仕事が無くなりブリティッシュコロンビア大学院に入りランドスケープを学び市役所で街づくりの仕事を開始。現在はBoard of Parks and Recreation のマネージャーである。と言われてもどんな仕事かよく分からんと言うとまあ公園作ってどのように人々を遊ばせるか考えるようなものだそうだ。
そんなわけで彼は余り建築単体に興味は無く街づくりに関心が移っていた。そして彼らの問題意識が日本と同じように街とは計画的にできるものなのか?役所はどのくらい重要なのか?という所にあるのが面白かった。というのも表参道のカフェで会って、青山をぶらついてもこの辺りはきれい過ぎるし、表層的でつまらないと言う。そこで千代田線で根津に行き裏路地をぶらつきながら谷中銀座を歩き日暮里からJRで上野に行き西洋美術館を見せるが反応なし。そこでアメ横に行ってからJRで東京駅へ。丸の内の高層ビル群を見せると典型的な60年代のアメリカの失敗ダウンタウンのようだと言うので、三菱一号館の辺りに連れていく。日曜の夜の歩行者の量に驚いていた。
ビールでも飲むかと誘うとさっきのアメ横に行こうという。路上の丸椅子で焼き鳥食べながらビール。「こう言う場所は役所のプランニングでできるモノではない」という「こう言う日本的無計画なchaos は大好きだが、計画的でconformityのある街(例えば青山等)とどう折り合いをつけながら計画していったらいいのだろうか?一体君のような大学の先生はハイブローな街を優先的に考えるのではないのか?」と言うので全くその逆だと言ったら「wonderful」と言われた。
太平洋の向こうでも同じ意識の人間がいてしかも役人をやっていることが嬉しかった。

November 5, 2011

○○計画の無意味さ

先日読んだ山崎亮『コミュニティデザイン』の中で役所が作る総合計画批判がされていた。というのもこういうものは規格があって、その規格を作り慣れたコンサルに外注されて内容をよく吟味されずにできあがってしまう。よってできたものは当の役所の人間だってよく知らず、もちろん住人はその存在さえ知らない。住人が知らないその町の将来像ってなんの意味があるのかと著者は問う。
そうだよなあと思いながら馬場正尊『都市をリノベーション』NTT出版2011を読んでいたら似たようなことが書かれていた。「戦後六○年、日本の都市計画の主な手法は一貫してマスタープランを描きそれに向け作業を進める・・・・(しかし)・・・都市を取り巻く状況は複雑になりすぎ、・・・能天気に新しい線をひくほど無頓着ではいられない」
山崎住民不参加の計画を無意味と言い、馬場は計画自体を無意味だと言う。山崎はまだ計画に期待をしているが馬場は既に計画を放棄している。
理由はどうあれ2人は今でも役所にはどこでも並んでいる例のあれ、小奇麗にまとまって虫唾が走るような笑っちゃう美辞麗句の並んだ○○計画、とか○○マスタープランを否定している。
何て言う話を先日八潮市役所の方に話したら(彼らは世の中一般の役人ではない。そういう計画を作ることの無意味さをよく知っている例外的な先進的役人たちである)こう言っていた。
「昔は役所のやることは正しいということになっていて住民はそれを聞くことになっていたけれど今は違いますからねえ」と。さすがよく分かっている。

3年製図講評会


朝一で八潮。今日は曽我部さん、小川さんを交え住宅、公園の打合せ。なかなか熱の入った議論。

午後事務所に戻り打合せ。夕方大学3年生製図講評会。最初にゲスト藤村龍二さんのショートレクチャー。Architect2.0という話。信大時代もゲストで来ていただいたがその時よりお話はヴァージョンアップされている。その後4先生の各スタジオ毎に講評。最初は多田スタジオの表参道のオフィスビル。2つ目は青島スタジオのアーバンデザイン。3つ目は川辺スタジオの公共性をとりいれた小学校。4つ目は亀井スタジオの渋谷ターミナル。それぞれ独自の視点から個性的な課題を設定していただいた。3年後期は受講生が40人くらいに減るので作品は全員並べてもらいその中からプレゼンする人を選び講評するという方法をとった。時間はぎりぎりだがそれなりに上手くいった。これだけ幅広い課題だがさすが藤村さん的確なコメント。ありがたい。

November 3, 2011

日展

かみさんが日展に入選し娘と一緒に見に行った。国立新美術館の1階半分と2階3階を日展が占めている。2階の工芸を覗くと素敵な鉄の作品を発見、偶然娘のクラブ顧問先生の作品だった。へえこんな人が高校で教えているなんて恵まれている。チリ―ダのようでもありとても魅力的。

洋画はパスして日本画を眺めてから書道へ。かみさんの作品は第一室のかなりいい場所に飾られている。帖(じょう)=本 や巻子(かんす)=巻物はアクリルケースの中に陳列されている。数十ページ書いても陳列されるのは50センチくらいで少々可哀そうである。

ところでジャンルごとの入選点数/応募点数・入選倍率を見ると、日本画216 / 550 2.5倍、洋画598 / 2136 3.5倍、彫刻115 / 177 1.5倍、工芸美術476 /869 1.8倍、書道 967 / 10346 10.6倍 である。入選数が一番多いのは書であるが同時に最も倍率が高いのも書である。大学受験同様、倍率が高いからレベルが高いとは限らないが、書の場合は手軽なだけに書道人口の多さがこの倍率を生み出しているのだろう。かみさんの作品はなかなか素敵である。紙の色と線の色がとても上手くいっているように見える。

November 2, 2011

コミュニティデザイン

野木の現場往復で山崎亮『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる』学芸出版2011を読んでみた。今や学生必読の書となっていると聞く。これを読みながら都心におけるコミュニティ意識の発見に思いが至る。
先日お会いした日建設計のとある役員の方が家は郊外にあるが、遠いので理科大(九段下)のそばにコーポラティブハウスを建てて住み始めたとおっしゃる。「他の居住者とは建てる前から知り合いだったのですか?」と聞いたら、「欠員が出たので募集しています」と言うチラシを見て入れてもらったそうだ。他の方はその辺りに住んでいた商店のおやじだったりするらしい。それで何かって言うと皆で集まって飲んだり食ったり、祭りと言えば異常に盛り上がるのだそうだ。家族が住んでいる郊外の住宅地ではこういう集まりは無い。郊外の住宅地では感じないコミュニティ意識を東京のど真ん中のオフィス街では感じるのだという。それを聞いて実は僕も同じことを感じた。以前住んでいた私鉄沿線の住宅地ではかみさんはともかく僕は周囲に知り合いもいなければもちろん話し相手もいない。ところが今住んでいる四谷ではマンションの理事をやっているから近隣住民はよく知っている。また仕事場がそばだから昼食、夕食を食べに行く荒木町の飯屋、飲み屋の親父とは友達だ。いや単なる友達では無い。荒木町の街づくりにもちょっとは関わっており、飲みに行かない飲み屋の親父さんやバーのマスターとも友達である。
そしてそういうお店に僕の家族もご飯食べに行ったりするから知り合いである。というわけで僕にとっては四谷荒木町は一つのコミュニティ意識を感ずる場所なのである。
勘所は何かと言うと、職住接近である。日建の役員も九段下の職場から家まで歩いて行ける。飯もその辺で食う。だからその辺りに帰属意識が高まる。加えて、コーポラティブハウスが住人を一体にする。僕も似たようなものである。
オフィス街でもいやだからこそ、コミュニティは作れる。山崎さんが作るような濃いコミュニティは望むべくもないが緩いコミュニティは適度に気持ちがいい。

卒計のエスキス

卒業設計のエスキスをしながら思う。

パターン1:作ることに意味が感じられなくなる輩。
こういう輩は作ることで何が改善されるのか分からなくなってしまう。作る情熱が作ることで起きる問題を凌駕できなくなってしまう。そう言う学生達はすなわち作る意志がそもそも僅かしかなかったのである。こういう燃え尽きた情熱を再燃させるのにはよほどの時間とエネルギーが必要である。まあ建築をやめた方がいい。

パターン2:そこそこ絵が描けてしまう輩こういう輩はある程度自分のテイストの範囲でそこそこ及第点の絵が描けてしまう。彼らはそれ以上の努力をすることを極度に恐れる。自分のテイストを超えたところに出たことが無いから。残り時間を賢く計算しながらできる範囲のことを終わらせようとする。こういう方法は無事卒業はできても卒計の目的を達成することも無く、そして評価されることも無い。

パターン3:とにかく出遅れている輩こういう輩は作る情熱もあるし、無意味に器用なわけでもないので、一生懸命なのだがとにかく手が遅く出遅れている。とは言え模型の一つもあるのでいろいろ話は聞くのだが、情熱と手が空回りしながら形にならない。こういう輩はまあとにかく時間かけて少しずつ形にしていくしかない。

パターン4:政治家に向いている輩こういう輩は「県を、市を、街を良くしたい」と叫ぶ。そのためには「人々の交流と触れ合いを大事にしたい」とこう続ける。話はごもっともだし、時間があればその話をゆっくり聞いてみたい。しかしその話の末に建築ができるとはとても思えない。政治の理論と構築の理論は次元が違う。こういう輩はすぐに職業を変えた方がいい。建築よりも実のある人生が待っている。

というわけで「君は設計をやっていくのにぴったりだ」と言う学生は何故かいない。

November 1, 2011

博士に進む理由?

高学歴ワーキングプア問題は様々語られている。理科大も博士後期課程を充実させるという学長方針が上から回って来た。こんな時期に果たしてそれは正解か?少々疑問もあり水月昭道『高学歴ワーキングプア―「フリーター生産工場」としての大学院』光文社新書2007を斜め読み。
何故この少子高齢化時代に学生数は減らないのか?いやむしろ増加しているのは何故か?それは学部生が減ろうとも大学院生が増えているから。平成3年の「大学院設置基準の改正」に端を発し、以来大学院生が大量に作り上げられてきた。目的はもちろん「日本の研究力の増強であり職業人の能力増大」である。
文科省にも大義はある。しかし著者は次のようにまとめる「大学院重点化というのは、文科省と東大法学部が知恵を出し合って練りに練った、成長後退期においてなおパイを失わんと執念を燃やす‘‘既得権維持‘‘のための秘策だった」要は子供が減って教育を受ける者が減れば文科省の予算も権力もなくなる。それを回避するには教育されるものを増やすしかないということだったというわけだ。
理由はともあれ、先生の甘い言葉に乗って博士後期課程に進んでしまった人にはもはや普通の就職はあり得ない。彼らのまっとうな就職先は研究職である。そしてなんとそこでの失業率はほぼ5割である。新卒の失業率の約10倍。そもそもそんな難関であることを彼らは知らない。よしんば知っていたとして博士をとって研究職に就くことはそれほど価値あることなのかよく考えるべきである。加えて、そんなシリアスな現状を知らせずしてドクターを増やせなどと軽々しく言うべきではないだろう(もちろんそう進むことがふさわしい人はそれでいいのだが)。