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November 30, 2009

明日の発信場所

午前中にシカゴ建築賞に添付する説明英文を書く。こういうものは自分のやったことを反省するいいチャンス。面倒だがやらざるを得ない。午後SETENV入江君が来所。彼は先日聞きに行った大友良英、ジムオルーク、ライブの企画制作者であると同時に僕の音楽の先生でもある。ジムオルークのCDをいろいろ持参し解説してくれた。加えて来年の活動の方向や未来の希望を話して聞かせてくれた。観客数を減らし、小人数にお茶を出すような(茶席のような)コンサートが出来ないだろうか?と言う。面白いではないか。茶席と同様なスピリットの行きかうサウンドのようである。多少高くてもあなたのためのオートクチュールサウンドでもてなしますという主人と客人の新たな関係というのは面白いのではなかろうか?またそういうサウンドの発信の場所はもはやライブハウスではないというのが彼の考え。ではそうした発信は今後どこになるのだろうか?一体東京に新たな音、アートの発信場所があるのだろうか?という議論になった。マンハッタンが既に新たなアート発信の場では無いのと同様に、真に新しいものはもはや東京の中からは出てこないのかもしれない。そうなると次はどこだろうか?「Y市なんてどう?」と尋ねると「かなりありですね」と食い付きがいい。確かに東京のちょっと外で、しがらみが無く、家賃が安く、白紙の場所がこれからの発信場所としてはかなりいい条件ではなかろうか?理由はないのだが。

November 29, 2009

自由

午前中美術手帳の12月号を眺める。コムデギャルソン特集。川久保の強調する創作における「自由」という言葉が一昨日丸善で見た写真集「ATLIER」を思い出させた。この写真集は会田 誠(美術家)舟越 桂(彫刻家)大野 一雄(舞踊家)草間 彌生(美術家)荒川 修作(美術家)川俣 正(美術家)村上 隆(美術家)宮島 達男(美術家)飴屋 法水(美術家)立花 ハジメ(映像作家/デザイナー)山口 晃(美術家)他のアトリエあるいは仕事場そして炊事場などを撮影したもの。丸善でそれを見ながら(買わなかったのだが)ああいいなあと感じた。それは、創造の場から伝わるエネルギーのようなものへの憧憬ではなく、そこに広がる自由な空気だった。寝ようと思ったら寝られるし、本を読もうと思ったら読めるし、腹が減ったら飯を食えるしという、そういう雰囲気が伝わるものだった。実際がどうなのかはどうでもよい、作られた風景であってもまあそれは関係ない。僕が勝手に想像したそういう場所が欲しいなあと思っただけである。と思った次の日に川久保の「自由」という言葉を目にしたわけだ。ああ彼女にして未だ(やはり?)創造の場に必要なものは「自由」なんだということが身に染みた。そうなんだなあやっぱり。午後A0勉強会。相棒のI君が風邪なので僕は一人で粛々と進める。事務所は何となく寒くて少し風邪っぽくなってきた。終ってチームメンバーと雑談。A君はとある書評集の原稿を一緒に書いている。彼の担当の本はとても厚いと嘆いていたので読まずに書けばと先日読んだピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を教えてあげた。そうしたらH君はこの著者に会ったことがあるとのこと。世の中狭い。

分類

『分類思考の世界』の著者三中信宏は生物、環境工学専攻の教授である。理系的に思われるこの本にはしかし、哲学的思考が散見される。面白いもので著者自身もともとは哲学など愚にもつかない瑣末なもので極力排するべきものだったと思っていたそうだ。しかしある時その必要性に邂逅したという。確かに分類と言う行為はひどく哲学的に思える。建築において類型化は日常茶飯事だが、何を根拠にどうしてこれとそれの差をあるとかないとか言えるのか?そして言わなければならないのか?この疑問に答えるのはやはり哲学だと僕も思う。
菊池成孔『服は何故音楽を必要とするのか』INFASパブリケーションズ2008を読む。読むと言うより読みながら出てくる、デザイナーやミュージシャンをYOU TUBEで聞いたり眺めたりする。ファッション関係者以外でファッションショーが好きだと言う人に始めて出会った。やはりいるものだ。かく言う僕も好きである。チャンスがあれば万難を排し見に行く。しかしこの手のショーはその性格上当然なのだが、公にチケットが売られていることは少なくて、招待者で埋め尽くされる。と言うわけで好きではあるが、数えるほどしか見に行ったことはない。著者同様、テレビで見るのが関の山である。それで、なんで好きになったかと言うとそれは洋服が好きだからではない。これはまた偶然だが、著者が好きになった理由に近い。ファッションショーは聴覚、視覚に訴える良質の混合芸術であると感じたからである。もちろんコンサートも聴覚、視覚と言いたいところだが、視覚的にはファッションショーには勝てないように思う。

November 27, 2009

オアハカ

朝一の1時間設計は清家清の「私の家」がテーマ。この建物の輪郭を使って学生たちそれぞれの私の家を設計せよという課題を出してみた。考えてみれば「私の家」というタイトルはなかなか意味深である。家は私のものに決まっているからである。再度その私性を強調する心はなんぞや?私の問題が皆の問題へ反転するはずであるという清家清の強い自信なのだろうか?
午後は製図。次の課題であるオフィスの説明と敷地見学。自分の設計したオフィス(長野県信用組合)の前に敷地を設定している。自作の本物を見せられるのは何かと都合がいい。夕刻のアサマで東京へ。車中三中信宏『分類思考の世界』講談社現代新書2009を読み始めた。話は学会が行われたメキシコの町オアハカから始まる。この町は実は僕も行ったことがあって懐かしくなった。チャールズ・ムーアとリカルド・リゴレッタ、uclaスタジオの学生10名と一緒に行った。遺跡もあるしスペイン征服後の古い建物も多くある。実に美しい街だった。陽が強くヨーロッパからの留学生の中には白い肌を真っ赤にして日射病にかかるものもいた。遺跡を巡っては4時ころから連日町のプラザの木陰でマルガリータをジュースのように飲んだ。巨漢のチャールズとリカルドはまったく酔わない。夕日に照らされた建物の壁面が赤く色づき酔いが手伝い幻想的な世界が浮かび上がった。しかししらふでもこの町の色は僕の心に強く焼き付いている。長い年月の間に幾層にも塗り重ねられた様々な熱帯の原色が剥がれおち。様々な色の層が顔を出しているのである。この美しい町が町全体で世界遺産になっているとこの本に書いてあった。全く知らなかったが嬉しいことである。

ブレボケ

午前中事務所で原稿を一本書いた。ストーリー構成だけ組んで少し放っておいたのだが、すらすらと言葉やトピックが生まれた。先日読んだ脳の本によれば、寝る前に何かを考えて次の日の朝それを再考するといいアイデアに結び付くという実験結果が出ていたがこれは正しいような気がする。午後上海工場写真の修正が上がりチェック。プロに撮ってもらった写真ではないので空の色やら点景を修正した。もともと粒子の粗い写真だがむしろそれがブレボケ写真の風合いで結構魅力的になった。シガゴの国際建築賞への出品招待が来ていたので出すかどうか迷っていたが、この写真なら出しても良い気になった。
夕方学会で木質バイオマスの委員会。前回はブエノスアイレスにいて出席できなかった。ここにいらっしゃる方たちは環境系や木の専門家たち。僕のような人はひたすらお話を聞く側だが結構勉強になる。日本はこれだけ森林があってまったく使われていないということが数字上でよくわかる。東京駅で食事をして終電で長野へ。終電はいつも満席。今日は初めて立って来た。

November 25, 2009

屈辱

午前中二つの打ち合わせ。図書館をどうするか問題と駅の周りをどうするか問題。このお金が無いご時世にどちらも厳しい話ではある。学生と昼食をとり午後一のアサマで東京へ。『読んでいない本について堂々と語る方法』を読み終える。痛快な本であった。その中に面白いゲームの話が記されていた。そのゲームの名前は「屈辱」。数名が集まり順番に自分が読んだことのない本の書名を宣言し、自分以外でそれを読んだことのある人間の数だけ得点できるというゲームである。このゲームに勝つためには人が読んだことのありそうで自分が読んだことのない本を探さなければならない。例えば建築デザインをやっている人なら、バンハムや、ギーディオンのようなモダニズムの古典を「読んでいません」と屈辱的に宣言するようなものである。このゲームが面白いのは本を読むことが至上の価値であるような空間においてのみである。そこで今度学生の間でやらせてみようかとも思うのだが、誰も屈辱を感じなかったらどうしようかという不安もある。こんな面白可笑しい話ばかり延々と続く本書はとんでもなくいい加減な本だと思われそうだが、そうでもない。こうしたとんでも話は終章へ向けた一つのレトリックに過ぎない。結論は批評とはいかなるものかというところにある。批評とは対象について書かれる説明文ではなく、それを契機とした創作であるべきと著者は言う。そう言われるとまったくそうだと言わざるを得ないし、世の中の名批評とはそういうものであろうとも思う。そして認識を新たにするとそれら名批評の作者は批評対象を真剣に読んでいるのかどうか怪しい気持ちにもなってくる。東京に戻りクライアントのオフィスへ。竣工後の問題解決。いい加減ぼやきたくなるがまあ仕方ない。建築家とは因果な仕事である。

November 24, 2009

こども

朝一で修士の論文中間発表。論文組は粛々と進めている。なんとなく最低限の結果はだせそうなので一安心ではあるが、論文なんていうものはデーターの処理の仕方次第。集まったデーターをどういう風に切るかで面白くもなればくだらなくもなる。これからが勝負である。一方設計組は結構悪戦苦闘である。論文の部分での論理性をたたかれる一方設計の部分での感性を問われる。午後市役所に行き、とある審議会。歴史的重要建造物の改修について意見するために現地調査。新たな改修でひどく雨どいが見えてくるのでその部分について一言意見する。戻ってきてから大学院の異分野連携レクチャー。本日は山梨県立大学の加賀美先生を迎えて子供の社会的養護についての話を聞く。先生は僕のクライアントでもあるのだが、そうした付き合いから日本の子供行政のひどさを知り、ぜひこの話は僕の学生にもして欲しくてお呼びした。2時間半という超特大レクチャーであったにもかかわらず、皆熱心に聞いていた。やはり引きこもり、凶悪犯罪、ニート、ネットカフェ難民など、現代的問題の諸相の根っこにある子供の養育あるいは子供虐待の現場をあずかる氏の言葉には皆好奇心以上の自らの本能を揺るがす何かがあるのだろうと感じた。終って駅前で食事をして散会。もともと早稲田の演劇学科を終っただけあって語り口が半端じゃない。食事会の席でも皆吸い寄せられるように聞いていた。

November 23, 2009

原稿

朝から手をつけていなかった原稿書き。1000字程度の原稿3つだから精神的には大したことはないのだが、原稿書くプロでもないのでささーっと一日で終わるなんてことはない。先ずは何を書くか考えているうちに昼となる。それから関係する本を本棚に探す。これがスムーズにいかない。何といっても研究室と書斎で本が散らばっているからこちらにあるつもりが無かったり、あちらにあると思っているとこちらにあったりする。そして本棚をさまよい歩くのはネットサーフィンのようなもので、つい原稿に関係ない、気になる本を抜いて目を通したくなる。はっと気が付き自分が何の本を探していたのかという肝心なことをすっかり忘れ、またノートを見ながら、「ああ、あれあれ」と再度本を探す。だいたい資料も集まり目を通すとおやつの時間である。コーヒーを飲み終り再開。具体的な文章の構成と細かな順番を考える。まあ1000字程度だからなんとなく必然的に起承転結の構成になる。読者の興味をぐぐっと引くにはやはり転のところにどういうトピックを突っ込めるかにかかっているのだが、ここはとりあえず書く。後は締め切りまでにいいアイデアがあれば入れ替える。とりあえず一本書き、関連図書などの注をつけ終える。二本目の構想を練り必要本などをピックアップしたところで6時半。今日はもう終り。
昨日「いい夫婦の日」の結婚記念日に一日ベターとワークショップにコンサートで何もできなかったので、今日は美味いものを食べようと東京駅で家族と待ち合わせ。そのまま長野に行くのであまり選択の余地なく駅上の大丸に入っているサヴァティーニへ。サヴァティーニも庶民的になったものだと思ったら、味も庶民的。帰りがけに青山のサヴァティーニはまだあるのですかと聞くと、あちらはローマのサヴァティーニでこちらはフィレンツェのサヴァティーニだと言われた。なんだか騙されたような気分だがまあ値段相応の味。そのまま最終のアサマで長野へ。

November 22, 2009

<うちなる書物>

ピエール・バイヤール大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房(2007)2008という本がある。目から鱗の面白さである。大学で文学を教えているという著者が「・・・本を読むことがあまり好きではないし読書に没頭する時間もない・・・」と語り始め、先ず本を読むとはどういうことかと問う。そして『特性のない男』という小説に登場する図書館司書の話を紹介する。この司書は本好きを自称するものの本を一冊も読まないという。その理由は司書という仕事を全うするために個別の本に没頭することを禁じ、本のエッセンスの観念を把握し、その相互の関係性のみを頭の中に構築するためだという。次に著者はヴァレリーがベルグソンの死に際して行った講演録を紹介する。それを読むとヴァレリーは明らかにベルグソンを読んでいないことが分かると著者は言う。本は読む必要もない場合もあれば、流し読みで事足りることも多々あるという。もっと言えば本など読んだ傍から忘れるものであり、よしんば覚えていたとしてもそれはほんのわずかであり、かつそうして覚えていることも思い出したときの自己の投影としてその都度再構築されていくものに過ぎないという。確かに日常のたわいもない読書などそんなものだろうし、もっと厳密な学問的なものであろうとも、古典と言われる書物に数え切れないほどの解釈本があるということがそもそも読書などと言うもののいい加減さを表している。さらにその何百通りもの解釈が存在することの原因を著者は読書する人の中に<内なる書物>が既に存在しているという言い方をする。うちなる書物とはすなわち、読む人の読書記憶であったり、知的生い立ちであったりである。東横線車中でこの本を読み馬車道で降りてSETENVhttp://www.setenv.net/index.php主催のライブに行った。出演はジムオルーク、大友良英、刀根康尚の予定だったが利根さんは急遽体調不良で来日できなくなった。しかしニューヨーク演奏された録音が届きそれに大友とジムが絡むという珍しいセッションも行われた。利根のマシンガンのような音に大友のターンテーブルとジムの音が乗っかる。正直言うと僕は今まで利根さんの炸裂する音を頭で聞いていた。ジムも前回のようなメロディーのあるものはしっくりくるのだが、ノイズ系の音程もリズムもないものは感覚的には受け入れにくかったのだが、何故か今日のセッションはスーッとはいるのである。これは『音楽の聴き方』にも書いてあったように、耳の中に何かの音楽を聴く聴き方の型が出来たからなのだろうと思われる。先ほどの本の言い方になぞらえるなら僕の<内なる音楽>の中にノイズ系の音の層が生まれているということである。セッションを終えて東横線で都心に戻りながら今日午後行われた八潮での市民フォーラムを思い返した。5大学が行ったモデル住宅の発表会後のシンポジウムで自ら言った発言を思い出した。「5大学のモデルは様々ありばらばらのように見えますが、外部との関係性を作り上げるという共通した特徴をもっているのです。まちづくりとは町を発見することなのです」。というようなことを言ったのだが、シンポジウム後、とある人に「あの一言でモデルが理解できました」と言われた。なるほどこれは僕が建築の見方を教えてあげられたからなのかなと理解した。すなわちこの方にはそれまでまだ建築はただとりとめのない建物に過ぎなかったのだろうが、僕の言葉によって、<うちなる建築>を内部に芽生えさせたということなのである。本には「読み」、音楽には「聴き」、建築には「見」があるということである。

すっぽん

早朝のアサマで東京駅経由八潮。10時半には八潮駅に着く。今日の八潮は快晴。気持ちがいい。午後は住宅スクールの最終発表。スクール受講生を前に最後のプレゼン。各校なかなかの力作である。ただ、いまだに学生のプレゼンに元気がない。徹夜続きだからだろうか?5時ころ終了して教員連中は浅草で食事。槻橋さんの神戸大の就任お祝いと(未だ明日があるが)とりあえず今年の活動の反省会。場所は「えびす丸」という名のすっぽんが食べられるところ。始めての経験だったが鶏肉のような、しかしだしに甘みが感じられる珍味であった。「来年はぜひとも夢をかたちにしたい」と語りつつ、で、その具体策は?というあたりで皆力尽き帰宅。

November 21, 2009

北村明子さんから先日のワークショップのお礼のメールが届く。今年度はフランス、トルコ、新国立での公演が終われば一段落と書かれている。大学の先生が最も忙しいこの時期に世界を飛び回るエネルギーには驚かされる。昼に藤村龍至さん来校。製図第二の講評会。12時半からショートレクチャー。タイトルはarchitects2.0彼がいろいろなところで行っているレクチャーパッケージである。凄いスピードで淀みなく飛び出る弾丸のような言葉に驚く。その内容は最近彼がジャーナリズムを賑わしている超線形設計論である。その理論の可能性は9割賛成、1割疑問。でも設計を理論化しようとするスタンスは僕も共有できるところ。僕としてはむしろその設計理論より、彼の言う批判的工学主義に大いに賛同する。それは大手事務所やゼネコン設計部とアトリエ事務所の中間を埋めないことには現実的に社会の建築環境が改善されないという視点である。2時ころから講評会。徹底して寸法にこだわる講評と評価の厳格なクライテリアは彼の設計理論同様なスタンスを感じる。終って駅前で懇親会。明日の八潮ワークショップのため僕の部屋の参加は少ないが2年生が大勢いる。藤村氏は終電で東京に戻る。僕は研究室メンバーと少し話す。

November 19, 2009

「わざ」言語

昨晩悶々と考えてさっぱりいい案が浮かばなかったので、朝から枯れた知恵を絞りなんとか案らしきものを作る。事務所に行ってスタッフに渡し模型化を指示する。中国からは部屋が寒いというメールが届き、その原因究明にあたふた。東京もひどく寒いので中国は想像に難くない。昼のアサマで大学へ。車中『「わざ」から知る』を読み終える。著者の日本の芸、道への精通ぶりに驚いて最後の注を読むと30年にわたり日本舞踊を学んでいたことが書かれていた。なるほどと頷いた。しかし、それゆえ逆に西洋芸術への理解が相対的に杓子定規に響く。
例えば第5章「わざ」言語の役割で、日本舞踊の教授法が説明される。そこでは理論的な指示の代わりに独特な言葉遣いがなされるという。例えば「3秒間その振りのままで」と言う代わりに「ためて、ためて」と言うそうだ。その言葉の意味が納得されるまでにはあるプロセスを経て時間を要する。そしてそれは頭ではなく体で理解されるものとして著者はその意義を重視する。
しかし、こうしたことは僕のやっていた西洋音楽でも結構そのまま当てはまるように思われる。数十年前のことだからだいぶ忘れたが、思い出せる限りで師のジャーゴンを並べてみよう。「走る、飛ばす=早く、アレグロで」「転ぶ=リズムを乱す」「もたつく=リズムを言葉がもたつくように遅くする」「歌う=十分に表現する」「流す=さらっと弾く」「擦る=弓を雑音が出るぎりぎりまで強く弦にすり付ける」「ためる=強い音を出すために弓をあまり使わずにいる」「泣く=悲しそうに」などなどなど。そして重要なのはこれらの言葉がここで簡単に記述されているような意味を遥かに超えた言葉では言い表わせない内容を包含しているということである。しかし謎なのは、これは西洋音楽が日本に入り日本の教師たちがこれら西洋音楽を日本的に芸化した可能性もあることである。因みに僕の師の兄は日本を代表する尺八奏者だっただけにその可能性は強い。
そして著者はこうした「わざ」の言葉が現代では不足しており、教育現場にこうした言葉の必要性を説いている。そもそもデカルトの心身二元論からこの身体的知なるものが抹殺されたと著者は指摘する。そうかもしれない。
この本を読むとちょっと昔まで建築なんていうものもそうだったのだろうなあと感じる。篠原先生から聞く谷口吉郎や清家清はそういう人だったとつくづく思う。これも推測の域を出ないが、西洋から輸入された工学的知としての建築がが日本において日本的に芸化されたのかもしれない。そういう身体化された知のようなものを再度西洋的知に戻そうとしたのが篠原や磯崎だったのだろうか?そして坂本先生もかなりそうしたところがあったのだが、最近またなんだか建築界では(というかこういう本がでるように社会では)芸とか「わざ」を尊ぶ傾向が復活してきたわけである。さて大学教育は「わざ」教育に戻すべきものやら?「俺の背中を見て学べ!」なんて言ったら大学本部に怒られそうであるが。

November 18, 2009

炭素

午前中とある打ち合わせ。午後事務所でプロジェクトの打ち合わせ。方向転換を図ろうと必死にもがくがちっとも進展しない。なんとも難しい。少し放っておこうかな。気になっていた橋爪大三郎『炭素会計入門』洋泉社2008が届いたので目を通す。思ったほどのことは書かれていない。先日読んだ『低炭素革命と地球の未来』以上の情報は無いようだ。

わざ

朝から冷たい雨。事務所の雑用がたまった。午前中は家で、午後は事務所でなんとか終らせ、プロジェクトの打ち合わせ。夜研究室のobと食事。帰宅後生田久美子『「わざ」から知る』東京大学出版会2007を読み始めた。日本の芸、道というものがどの様にして教えられ、そして身につくのか、その過程を分析している。この本は岡田暁生の『音楽の聴き方』に引用されていたものである。そもそも西洋音楽は日本の芸とは違い、楽譜という座標軸の上に一義的に指示されているかのように見えるものの、身体的な言語で語られる場面も多々あるわけで、その説明の為に本書が引用されていた。
著者によれば、日本の芸、道の習得プロセスとは 模倣、繰り返し、習熟という基本のルーティーンがあり、その過程で内面的には師の視線になり替わり自らを見つめ、いつしかそれを好むようになり、師の視線と思っていたものが自分となっていくというものである。また教育プロセスとしては、西洋のそれが難易度の順にあるいは部分から全体へとシステマティックに構成されているのに対して、日本のそれはそうなっていない。いきなりある作品が師によって描かれ(踊られ、奏でられ)それを模倣しろと始まると書かれている。
確かに西洋の芸があるシステムにのっているがゆえに理屈で学ぶ側面はある。とはいえ芸事を学び始めるのは普通極めて幼少でこのような芸の差を知る由もない。やはり西洋の芸も東洋のそれに近く、模倣と、繰り返し、身体化によって学ぶのである。
差が出てくるのはむしろその習得期間ではなく、習熟後である。つまりベテランの域に達してからの発展過程に差が生じる。やや乱暴だが一言でいえば、習熟後においても東洋のそれは個性の発揮が許されず西洋のそれはむしろそれが望まれる。東洋ではベテラン、熟練の域に達してもひたすら身体化に励む。そこには芸の個別性が認められていない。その理由は多分、既述のとおり東洋のそれが師弟関係の中で芸の伝承が行われることに関係する。つまりそこで個性が発揮されると芸事が正確に伝承されなくなってしまうからである。一方西洋のそれは例えば楽譜によってそのオリジナルがある程度保証されている。それゆえ奏者各自の個別性がむしろ望まれるのだと思う。
と書いたものの、推測の域を出ない。日本の芸、道に興味はあれど精通しているわけでもない。その道の人に聞いみたいところである。

November 17, 2009

欺瞞

日曜日の夜にバスで長野へ。『アフロ・ディズニー』のファッションショー音楽の話を読みながらyou tubeで関係する音を聞く。ファッションショーの音楽はハウス系ダンスミュージックなのだが、モデルはそこで踊る訳ではなく歩く。このずれの中にファッションショー特有のシック・エレガンス・スタイリッシュが受肉すると書かれている。なるほどここにもずれがある。この「ずれ」が面白そうなので同じ著者による『服は何故音楽を必要とするのか』をアマゾンに注文した。
月曜の朝から卒論の中間発表(と言っても自分の研究室だけだが)を聞く。ちょっと遅いのが心配。午後から会議。新たな学長と理事との懇談会。人事院勧告に基づく給与問題で厳しい意見のやりとり。新執行部に教職員を欺瞞する発言。大丈夫かしらん?夕刻、市庁舎・市民会館建設市民会議に出席。反対派、賛成派の意見交換。会場は建て替え予定の市民会館。最初に県から建て替え計画のこれまでの経緯が述べられる。賛成派の多くは音楽関係者。反対派はどうして耐震補強では駄目なのか?と疑問を提示。確かに何故耐震補強では駄目なのか?しかも提示されている耐震補強+改修費が恐ろしく高い。合計で坪100万を超えている。そりゃ高すぎるでしょう。こんな額なら全国どこでも耐震補強なんてしないよな。それが分かって怒る市民も現れる。いやはやここでも欺瞞。なんだか今日は欺瞞だらけで気分が悪い。

November 15, 2009

OH・根津・日展

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昼まで『アフロ・ディズニー』を読み続ける。音楽におけるずれと揺らぎがテーマとしては面白いのだが、やはり専門的な部分は今一つ理解が及ばない。想像はできるのだが。午後ofda伊藤君のオープンハウスに尾山台に向かう。3階建200㎡の家。今までいろいろな住宅のオープンハウスを見たがこんな気積の大きい住宅を見たのは初めてである。2階3階への抜けも気持ちいい。オープンハウスを辞して新しく出来た根津美術館に行ったら休館だった。外観だけ少し見てから国立新美術館に行きハプスブルグ家の展覧会を眺めデューラーに心動かされ、日展の書と日本画だけ見て回る。日本画は美しいものが多々あるが、ずーっと変わらないものである。中学生のころ始めて日展を見た頃から全然変わっていないという印象である。書は信大の先生だった、市澤先生のものがとてもよかった。

AIA AWARDS

昨晩は事務所のスタッフKさんの御苦労さん会。7年間に「ホタルイカ」、「ヤマ」、「角窓」、確認まで出して出来なかった「二つの家」木島さんの下で「葉山の家」を担当した。木、鉄、RCとすべての構造を制覇した。御苦労さま。
今日は夕刻JIA会館でAIA JAPAN主催のデザインアウォードの表彰式。スチュワート氏と顔を出す。以前より、彼の家族と今日荒木町でとんかつを食べる予定にしていたらAIAのイベントと重なった。そうしたらまた偶然が重なり、研究室の学生4人がこの賞を受賞した。AIAの学生賞は昨年から始まったものでまだ応募者が少ないようである。今年は明治と芝浦とうちしか出していなかった。明治の田中友章さんにお会いし、エールの交換。来年はもう少し多くの大学が出すのではないだろうか?
事務的な スピーチが続きなかなか抜け出られず遅れて荒木町「鈴新」へ。全日本学生建築コンソーシアムの住宅コンペ30選の最終公開審査も本日。そこに選ばれ審査を受けてきた学生も合流。加えてJIAの卒業設計展の全国大会審査も今日。長野代表に選ばれた学生も合流。学生が6人とスチュワート家族、スチュワート研究室メンバーなど13人で鈴新貸し切り。

November 13, 2009

基礎ができてないんだよなあ

朝一で一時間設計。今日はカーンのフィッシャー邸を覚えてくることになっている。いつもは覚えてきた図面を基に増築しろとか2階建てにしろとか言うのだが、今日は意表をついてこの緑の中の美しい建物をパースで描けというテーマにした。結果は驚愕である。皆凄い絵を描いてくれる。アートとしてはいいのだろうし、想像力をかきたててくれる表現も見受けられる。でもね、建築のパースってムンクの絵のように描いたらダメなのだよ。プレゼンのドローイングとして描くならまだしも、、、、、基礎ができてこそ崩す時も意味を込められる。これはやはり図学を教えていないことゆえの弊害なのだろうか?就職、大学院、なんでもいいけれど即日でパース描けと言われてこんな絵描いたら落とされます。しかしこれだけ正確に描けなくて設計するとき困らないのだろうか?
午後製図の提出を受けて模型写真の撮り方講習会。学生にデジカメを持ってこさせるとマニュアル付きカメラとマクロ付きカメラが少ない。製図用具とともにカメラもスペックを指示するべきかもしれない。夕方のアサマで東京へ戻る。『低酸素革命と地域の未来』を読み続ける。どうもこの本より、この前に橋爪さんが書いた『「炭素会計』入門』という本が面白そうだ。炭素消費を一つの商品のようにして取り扱っているようである。もちろんそれは新しい概念ではないのだろうが、それを様々な意味で具体化していく方法論が展開されているようである。読んでみよう。

dokidokiya

午前中、今年の景観賞の受賞作品の作品ツアー。講師として同行。前回のこのツアーでアンケート調査をすると講師の説明が少ないということだった。そこで今日はバスガイド宜しくあちこちで集めては説明、集めては説明を繰り返す。こちらは参加者がこれらの建物を知らないものと思って話をするのだが、彼らの中の半分くらいは、ほとんどの場所に僕以上に来たことがあるのだ。建物前での説明が終ると、やにわ僕を連れて建物を案内してくれたりする。いやはや大人をからかわないでと言いたくなるが、彼らから見ると僕は子供くらいの年齢なのある。ドキドキである。それでどうしてまたここへ?と聞くと、バスの遠足くらいに考えているようなのである。午後大学に戻りゼミ。夕方八潮の打ち合わせ。夜竹田 青嗣, 橋爪 大三郎『低炭素革命と地球の未来』ポット出版2009を読み始める。橋爪がこの手の問題にまじめに取り組むようになったのは、東工大に「世界文明センター」と言う組織が出来てそこでこの問題を研究し始めたからだという。この組織は理工系の学生に芸術、人文、哲学、歴史といった学問の刺激を与えるためにできたそうだ。どの程度のリアルな研究センターか知らないが(こういうセンターはえてしてヴァーチャルなもの多々あるので)発想はとても共感できる。

November 12, 2009

音楽VS建築

午前中甲府に打ち合わせに向かう。政権交代の影響も少しあろうか半年遅れは確定となった。来春くらいまでこのプロジェクトは塩漬けである。鮮度が落ちないように密閉して保存しておこう。下手に触ると腐ってしまう。
スタッフは東京へもどり僕は松本経由長野に向かう。車中一昨日あとがきを読んだ『音楽の聴き方』を読み始めた。序文を読んで少なからず驚いた。音楽鑑賞をワインティスティングになぞらえている。これは僕が『建築の規則』に書いたことにかなり近い。曰くティスティング(批評する)する言葉が増えればその対象に対する趣味は洗練されていく。同感。そして目次を見てさらに唖然。音楽を感性で捉える次元の一章、次にそれを語る言葉を探す二章、さらに言語としての音楽としての三章と続く。まさにこの建築版をやろうとしたのが『建築の規則』だったわけである。つまり建築を言葉で語るにはどうしたらよいのか?そのヴォキャブラリーを差し上げましょうというのがそもそものあの本の発想である。というのもあの本のネタは東大美学でやった講義ノート。つまり建築を作る人間ではなく語る(かもしれない)人間のための言葉捜しなのであった。そしてもっと言えば『建築の規則』はあんな博論の縮小版としてではなく、こうした体裁の教養書として模索していたのである。うーん音楽版として先に書かれてしまったのは嬉しいやら悲しいやら。こうなったらしっかりこの書き方を見せて戴き建築版を物したい。と思いつつ音楽を感性として感受する第一章を読みながらちょっと違うことが気になりだした。もし建築版を書くとして、こんな風に建築を感性で受け取り、建築と共鳴しようなんていう内容が成立するだろうか?という点である。つまり建築を見る感動と音楽を聴く感動はどうも性質がかなり異なるように思うのである。というか、、、、一言で言うならば建築の感動メーターの振れ幅は音楽のそれに比べて小さくてゆっくりと長い。どこの国だったか忘れたが、荘厳なチャペルに入ってそのステンドグラスの明かりに身震いしたが、その後鳴りだしたパイプオルガンの音には勝てないと思った。鳴った瞬間に勝負あったという感じである。もちろん音楽も建築もいろいろあるから一概には言えないのだが、でもこれは聴覚と視覚の持つ生理学的な機能差によるのではないかと思うのである(そう思わないとなんだかとっても不公平な気がするし音楽へのジェラシーが絶えない)。つまり何が言いたいかと言うと、そう簡単に建築の感性受容の問題は語れまいと思うのである。もちろんゴシック建築をずらりと並べて語るのなら(ゲーテのように)まだしも、現代建築でちょっと厳しい?????

November 10, 2009

右側が重要だということ

人間は左から右に目を走らせるものだそうだ(と視覚心理の本には書いてある中谷洋平編『美と造形の心理学』北大路書房1993)だから絵画などを鏡に映して反転させると大きく印象が変わる。ということを指摘したのはあの『美術史の基礎概念』を書いたハインリッヒ・ヴェルフリンだそうだ。ヴェルフリンは独論で『建築の心理学』(中央公論美術出版)を著しているくらいだから心理学には強いのであろう。それで彼曰く「目が最後に到達する画面の右側に最も重要な内容が置かれると、その重要性が正しく認識される」のだそうだ。ヴェルフリンはこの考えを建築にも応用したのだろうか?したかどうかは定かではない。『建築心理学』に言及部分があったかもしれないが記憶にはない。まあ様式建築では概ね左右対称だからこの考えを応用する場所はないだろう。だからあてはめるとすれば対称性が崩れたモダニズム以降であろう。さあ向かって右側に重要な形やら素材やら色やらが使われている建物はあるだろうか?そう考え始めると思い浮かばない。確かにモダニズム建築は機能に基づく構成をとることで対称性を放棄したのだが、その勢いで対称性に半ば依拠していたファサードという概念もいっしょにどっかにやってしまった。つまりどこかの面が重要であるという方向性も放棄した。だからモダニズム建築は特定のある立面を思い浮かべづらい。僕らがモダニズム建築を思い浮かべるときはだいたいがアクソメ的3次元ではなかろうか?ミース、ライト、コルしかり。そしてファサードがありそうな立面構成が思い浮かぶと案の定、対称性があまり崩れていない。古典性を残している。対称性とファサードは離れられないということか?サボワ、ユニテ、ファンズワース、レークショア、トリニティーチャーチ。うーん皆なんだかしっかり対称である!!何か無いかな?右側に重要な要素が置かれたモダニズムのファサード???

November 9, 2009

吉田秀和賞

締切り迫る学生の論文に本格的に朱を入れた。いやはや大変。しかし自分の原稿だと思えばこのくらいのことはいつもやっていること。そしてここまで来てなんとか筋が通せそうな気になってきた。とはいえどもこれでやっと体裁が整ったという段階。マラソンで言えば最後の5キロ。サッカーで言えば後半30分。これを最終稿にするにはあと2~3回朱を入れる必要があるだろう。そう思うと未だもう少し時間がかかりそうだ。今月出すのは無理かな?
塩山のプロジェクトの1/100の模型ができた。かなりクールハードである。これをぐぐっとソフトウォームにするにはどうしたらよいだろうか?あまりの制約の多さに抜本的な変更はとても望めない。そもそもそういう抜本的な何かということを考えようとするところがハードな思考。もっと対処療法的な思考の方がソフトかもしれない。つまりはあっちではこんな感じ、こっちではこんな感じ。それでいいのだと思う。昨日買ったマーカーでいろいろなスタディを皆でやる。うーん。そう簡単に答えは見つからないか??
岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書2009を読み始めた。先日同じ著者による『西洋音楽史』を読んで面白かったので新刊を買ってみた。あとがきを読むと予想通り編集担当は松室徹である。そして帯を見るとこれは第19回吉田秀和賞を受賞している。松室氏は以前、自分が私淑する評論家は吉田秀和であると言っていた。自分の担当した作品(?)で尊敬する評論家の名を冠した賞を受賞するのは編集者冥利に尽きるというところなのかもしれない。おめでとう。

November 8, 2009

銀座

娘は漢検のテストへ、かみさんは自ら出品している女流「かな」展へ出かける。僕は昨日の『アフロディズニー』の続きを読みながら、エイゼンシュテインやリュミエール兄弟の映像をyou tubeで見る。夕方銀座で娘と待ち合わせをしてかみさんの展覧会へ行く。4丁目の角にある大黒屋ギャラリーである。その昔かみさんが弟子たちとともに展覧会をしたあの同じギャラリー。「かな」の展覧会なのでどこか女性っぽくて華やいでいる。会場を閉じるまで時間があるので娘と伊東屋へ。綺麗な色のマーカーと補充インクを買う。会場にもどり搬出を手伝い、ライオンで夕食。

November 7, 2009

朝の電車で東京へ。昨晩はちょっと遅かったが今朝は爽快。車中カワイイパラダイムを読む。現代のさまざまな事象をこの言葉ひとことで片付けようというのはちょっと乱暴だろうと苛立つ。まあそれは置いておいて結構雑だが面白いところもある。特にいくつかのマトリックスと水玉模様の変容とそれが見る者に引き起こす情動の整理はさもありなんである。しかしこの本厚過ぎるね。この半分でいいでしょう、この内容なら。厚い本は重いしいかさばるしいいことない。
昨晩泊まったので予定が変わって今日はフリー。東京駅で買い物。服の色を迷う。建築の色を考えるより難しい。建築は形式も色もこちらで決められるが、服はそれを着せる対象の形式はアプリオリである。合わせなければいけない。そして往々にして合わない。
帰宅後『知識の哲学』を読み終える。信念と真理がもはや知識において問題にならなくなるかもしれないと結んであった。そんなことは僕のレベルでは常識だが(なんて偉そうに)。風呂に入り菊池成孔・大谷能生『アフロ・デイズニー』文芸春秋2009を読む。丸善でこの本をなぜ買ったのだか思い出せない。著者を知っていたわけではない。タイトルの意味は全く分からない。新聞書評を読んだ記憶はない。ただ目次は見た記憶がある。でもそこに書いてあることは僕があまり関心のない映画のことが多い。何故買ったんだろう?謎だ。しかしまえがきを読んでみると、軽快なコトバのテンポが気持いい。ジャズ音楽家が慶応大学で行った通年講義の記録のようだ。

論文チェック

一日大学でゼミ、講義、製図。夕食後八潮の打ち合わせをして帰るつもりだったが、最終に乗り遅れた。仕方なくメールチェックしていたら研究室の学生4人がAIAデザインアウォードを受賞したとの連絡が届いたhttp://aiajapan.org/e/01about/index.html。学生賞二人、審査員特別賞二人である。スチュワートさんから勧められて学生に出すように促していたのだが、こんなに入るとは!?
今日は帰らないと腹をくくったので、10日に計画系論文集(黄表紙)に出そうとしている院生論文のチェックをすることにした。日本における既存建築の活用設計手法の研究。新建築創刊号から現在までに含まれる莫大な数の言説と写真を分析対象としている。その設計手法を質料、形式、関係性の側面から分析を加えるもの。先月かなりの修正を加え、技術報告集ではなく黄表紙で出そうと決めた。ついては論文の論理構成から関係性の類型化である前編と質料形式の分析を行う後編とに全体を2分した。さらに前編の類型化のヒエラルキーを明確化した。そしてその前編のそのまた前半部分が出来たということで読んだのだが、前回読んでいて気がつかなかった論理的な不整合やら、飛躍を随所に見つけた。いつも思うが、どうして最初からこうした指摘を出来ないのだろうかと自分に苛立つ。しかしどうにもこうにも大きなところを先ず治さないと、ディテールに入れないのはまあ仕方ないことかもしれない。修正方向を議論していたら2時になってしまった。ちょっと眠い。

November 5, 2009

北村ダンスワークショップ

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今日は僕がコーディネーターをしている異文化交流レクチャーの第三回目。信大人文の准教授であり、コンテポラリーダンスカンパニーレニ・バッソhttp://www.leni-basso.com/率いる北村明子氏のダンスワークショップ。
5月頃からこの企画を考えたが、多忙で、そして日本にいない彼女を世界中追っかけまわしてやっとなんとか日時を決め、企画や内容をなんとか煮詰めて今日となった。
北村氏は日本を代表する中堅ダンサーであることは誰もが認めるところである。日本の人間国宝から、アヴァンギャルドまで、とにかく名実ともに日本を代表するアーティストを呼ぶことで有名なニューヨークジャパンソサエティの芸術監督である親友Sが次にニューヨークに招待するのは彼女だというのだからその世界的評価は確かである。
そんな逸材が同じ大学にいるのを放っておく手はない。数か月メールで追っかけまわして(まるでストーカーのように)なんとか長野に引きずり出すことに成功。
ワークショップは学生の作ったオブジェや敷物の上で2チームに分かれて、北村氏の与えた動きを10分割にして、それをランダムに並べかえ、一連の動きにした後でさらにそれをオブジェの制約のもとで再構成するというものであった。3時間かけてそれを3分くらいの一つの作品に仕立てあげた。最初のうちは一体これが見られるものになるのだろうかまったく予想もつかなかったのだが、最後にはある形になった。これにはびっくりである。コレオグラフィーとはこういうものかと驚いた。終って皆で会食をした。彼女はずっと学生たちの反応を聞いていた。北村1ファンの僕としては初めてお会いし話ができ、間近で動きを見られ、感激である。好みの芸能人に一喜一憂している娘の気分とまるで同じである。

November 4, 2009

european design

事務所で打ち合わせ、夕方新宿のホテルでやっているeruopean designの展示会に行く。とある会社から面会したいとのメールがだいぶ前に来ていた。スタッフが行く予定だったが、たまたま僕が事務所にいたので行ってみることにした。面会した会社はサンドデザインなるインテリア装飾で僕には不要だったが、他社を見て回ると結構楽しかった。とあるベルギーの会社は薄いベニヤ板とアルミフレームだけで無限に拡張可能な本棚のパーツを展示していた。これ日本で買えるの?と聞くと来年くらいにMUJIで売りたいと言っていた。確かにMUJIに置いたらコンセプトもデザインもジャストフィットしそうである。ポーランドの照明デザイン会社の器具はすべて、塩化ビニルの風船でLEDが内蔵されていた。軽くてお手軽でちょっとポップである。ドイツのプロダクトデザインの会社はバイオエタノールを燃料に使う暖炉のようなものを展示していた。これは気に入った。燃料がかなり工夫されているらしく、燃えてもススがでないので煙突がいらない。薪がいらない。燃えても燃えカスが出ないから掃除がいらない。アメリカでは暖炉にガスで炎が出るお手軽ストーブがあったけれど、あれより悪いガスが出ないようである。これからはこういう製品がお手軽価格で日本に上陸してくるのだろうか?今のところ外国製のハイデザインはなんでもかんでもとにかく高いのだが、今日見たところの話を聞くとかなり安めの価格設定のようである。グローバル化がこういうところでうまく回りだすとありがたいのだが。

November 3, 2009

チャーミング

雲ひとつない快晴。散歩でもしたくなるような日和だが、空気はとても冷たい。午前中、外山滋比古の『大人の言葉づかい』中経出版2008を読んでいたら、署名のことが書いてある。日本以外の多くの国ではサイン一つでお金が引き出せるわけで、サインの重要性は大きい。人に真似できず、毎回同じように書けると一人前だそうだ。一方日本人はそういう必要性が無いせいか署名がどうもあまり上手くない。下手でもいいから毎回同じように書けるようになりたいものだ(自分に言っています)。篠原も坂本も署名はとても上手だった。
昼は散歩がてら近くでトマトラーメン。午後真壁智治『カワイイパラダイムデザイン研究』平凡社2009を読む。だいぶ前に真壁氏が「かわいい建築論」を新建築に連載していたのは記憶に新しいが、その後の彼の考えがまとめられている(のだろう)。世紀の変わり目くらいから建築において(いや建築に限らず)ある種の価値観の変容が起こっている。この変容を指し示す適当な言葉がないのでとりあえずカワイイという言葉が乱用されている。本書の中に五十嵐太郎氏の「かわいい建築論をめぐって考えておくべきこと」という長いタイトルの論考があった。その中に篠原一男も建築を褒めるときにカワイイと言ったというが、彼はカワイイとはあまり言わなかった。かれの褒め言葉は「チャーミング」である。これ以外にもカワイイを超える素敵な言葉が登場すればいいと思うのだが。僕らの研究室では、こんな変容を建築を語る形容詞の変容という形で分析研究している院生がいる。コトバの変化が作るものを変えているのか、作るものの変化がそれを飾るコトバを変えているのかことの順序は分からないのだが、モノとコトバは常にセットのようである。

November 2, 2009

寒い

午前中会議、午後ゼミ。論文組はかつてのそれとは違い、ある程度の骨格を先輩たちが作ってきてくれたせいか、なんとなく安心して見てられる。設計組はさてどうなるか?まあお手並み拝見だ。ゼミが終って建物の外に出ると気温が急激に下がっている、その上雨である。なんだか昨日から降られる、自転車で駅にたどり着いた時にはもう本当に全身凍りそうである。寒いのは苦手。駅前の電光掲示板の温度計は4℃である。手先など新幹線に乗ってから30分は感覚がもとに戻らない。車中『知識の哲学』を読み続ける。「知る」ということをこれだけ厳密に語ることの理由の一つが「懐疑論」へ対抗するためだという。そこで話は懐疑論で有名なデカルトの『省察』に進む。著者は哲学書を一冊勧めるなら『省察』だという。まあこの人ならそうなろう(と勘繰ってはいけないのかもしれないが)。しかしこの解説はなかなか面白い。何が面白いかと言うと、デカルトが何故ここでこう疑ったのか、ということを逐一説明してくれているから。東京に着いたが東京も結構寒い。いよいよ冬か?

November 1, 2009

M.J.

久しぶりに日曜日の長野である。朝方はいい天気だったが午後からだんだんと強風が吹き、雨がちらつき嵐の様相である。研究室で雑用。『西洋音楽史』を読み終える。この本は稲葉振一郎の『社会学入門』の参考文献に出ていたもの。彼の芸術史のとらえ方に共通するものがあるそうだ。特にモダニズム理解について。稲葉氏の芸術モダニズム理解とは何を描くかからどう描くかを自覚した時代だというものだったが、音楽でいえば何を表現するかから、どう演奏するかを自覚したのがモダニズムだということになる。そしてその嚆矢はこの本では(というかこの本でなくとも)『音楽美』(1854)を著したハンスリックということになっている。彼は、音楽は形式であり内容ではないと主張してワーグナーと対立したのだそうだ。引き続き、稲葉さんのお勧めだった戸田山和久氏の『科学哲学の冒険』が面白かったのでそれに関連する戸田山和久『知識の哲学』産業図書2002を読み始めた。認識論について論理学の基礎のようなところから丁寧に書いてある。物を知るとは何かということを徹底的に書いてあって眠くなるのだが、読み進めるとなかなか面白い。夜、嵐の中、長野シネコンにマイケルジャクソンを見に行く。11月の半ばまでの限定上映だそうだ。クラシックでもリハ風景というのは面白いものだが、これも最後のロンドン公演のためのメーキング過程をまとめたもので頗る興味ぶかい。内容については編集や脚色はあるだろうから、一体何が真実かは良く分からないが(さっき読んだ認識論が頭にこびりついている?)彼の声に痺れるその感性は真実である(と言ってもこの声が本物かどうかも良く分からないのだが)。特にI can`t stop loving youのエンディングの声の表情は涙もの。昨日クラシック史をyou tubeで聞いていて、ハイドンのトランペットコンチェルトはなんともおおらかなやさしい響きを感じて鳥肌が立ったが、ちょっと近い。MJの声とトランペットじゃもちろん違うのだが、、、、