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October 30, 2016

日曜の朝

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月曜日の二つの講義の短いレポートが日曜の朝までに届く。今年はそれをきちんと全部読んでノートにメモることにした。そして明日の授業で面白いものは披露する。そうするとレポートを書くのも少し張り合いが出るだろう。
レポートを読んで9時に始まるジムで汗をかいて、10時に始まる庭園美術館でボルタンスキーを見る。美術館が近いのが四ツ谷の利点である。ギャラリー間まで4駅、 リクシルギャラリー6駅、銀座のギャラリー 4駅、 庭園美術館6駅、国立新美術館 森美術館 5駅、 上野の美術館 5駅、 国立近代美術館4駅、 オペラシティギャラリー3駅、東京都現代美術館8駅、都内の主要美術館にドアツードアで概ね30分で行けるこの住まいは,偶然住むことになったけれどとても重宝している。配偶者もよく今日は3軒梯子なんて言っている(飲み屋ではなくギャラリーなど)。あえてこの場所の欠点をいうならば、この場所自体に美術館が無いことくらいである。マンション住まいは第三の人生を始めるまでにやめたいのだが、できれば四ツ谷は離れたくない。

October 29, 2016

補綴性

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ベルナール・スティグレール浅井幸夫訳『偶有からの哲学——技術と記憶と意識の話』新評論2009
人間の記憶には3種類あって一つは遺伝子に託された種の記憶。二つ目は経験によって脳に刷り込まれる記憶。そして三つ目は技術によって外在化された記憶。それは本であり、レコードであり、映画であり、いや単なるメモやノートだってそれに当たる。人間はそもそも補綴性というべき不完全性を生来持っている。入れ歯だ義足だ補聴器だというようにどこか悪くなるとなんらかの技術でそれを補う。頭に記憶仕切れない内容をノートに書き留めておくのも同様の補綴性と言えなくもない。動物たちには補綴性があるのかもしれないが、それを技術で外在的に補うことはできないのである。
というわけで人間は技術と合体して一つの存在になるといっても過言ではなくそれゆえに技術は人間の運命を決めいていく極めて重要な哲学的思考の対象なのだというわけである。技術を過小評価してはいけない、、、、当然かな?

October 28, 2016

宮くんの新刊

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配偶者の小学校の同級生で僕とは中高が同窓生で、未だに年末に美味しいワインと料理をご馳走してくれる宮正樹くんが本をかいた。新たな魚類大系統という本で3万種ある魚の特に深海魚の新たな分類学を確立して話題となっている。前書きに高校時代大学時代のことが書いてあるが、授業をさぼって釣りしに行っていたとは知らなかった。いい時代だったなあ。だからこういう人間が生まれるんだよなあ。管理社会はあかん。

デッドパンの実在性

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シャーロット・コットン (著), 大橋悦子 (翻訳), 大木美智子 (翻訳)『現代写真論 新版 コンテンポラリーアートとしての写真の現代写真論 』晶文社2016は現代写真を7種類に分類している。傑作はDEADPAN(ポーカーフェース)。ジュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャーから引き継がれたオブジェクティブな写真の流れはここに分類されている。名前は忘れたが他の分類は、アート作品、現代社会のシミュレーショニズム、生活、などであった。それらは主に対象の問題なのだが、デッドパンだけは撮り方の問題であるところが異色である。人の顔でもデッドパンでとるかライフで撮るかでそれはぜんぜん違うものになる。
しかしデッドパンで撮ると言うことはただ無表情にとればいいのではないだろう。きっとその被写体との本質的な会話がなされるはずである。表情というものは刹那的な現れであり無表情こそが内面(実在)を示すのだろうと思う。

October 27, 2016

garcon anrealage shiohara sakamoto

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『服の記憶』アーツ前橋2014とうい展覧会カタログの展覧会の趣旨とはなんの関係もないのだがその中に出ている文章の中に気になることが二つあった。
西洋コンプレックスの解消
一つは西谷真理子さんが書いていたコムデギャルソンのこと。それは川久保がパリ進出のときに最も注力したことは「日本人に根強い西洋コンプレックスを解消する服でありたい、身体が平べったくても丸くても、手足が短くても長くても、着られる服」という部分である。この西洋コンプレックス解消がヨーロッパ進出の優先課題だったというのは建築家にもあてはまるのではなかろうかと感じた。
日本の建築や都市が外国の視線に認められたのは言わずと知れたタウトによる桂であり、次はメタボリズム。まちがっても東京が美しいとは言われてはこなかった。そんなぐちゃぐちゃの東京にコンプレックスを持っていた建築家がそのコンプレックスを解消するために「カオス」という概念を持ち出したとみるのは穿っているだろうか?もちろんそれを最初に言いだしたのは篠原一男であろう、彼は醜い東京で建築を作らざるを得ないという東京コンプレックスをなんとかひっくり返したかった。金閣を愛する篠原が東京を「美しい」と言うことは諦めていたが、凄いとは言わせられるのではと直感的に感じ取っていた。アフリカのぼろぼろの集落と同じレベルで東京を語れるのではないかと考えた。そしてその概念は思いのほか彼の数学者としての思考の中にあった。と考えるのはそれほど穿った見方ではないような気もする。
日常の裂け目
もう一つはアンリアレジのブランド名のこと。その昔からアンリアレイジの服が好きだし、このブランド名がrealをもじったものだということも知っていたがその意味を真面目に考えたことがなかった。
このANREALAGEは「A REAL」,「UNREAL」,「AGE」の組み合わせでその意味するところは「日常の中にあって、非現実的な日常のふとした捩れに眼を向け、見逃してまいそうな些細なことからデザインの起点を抄いとる」なのだそうだ。それってほとんど坂本一成さんの言う日常の詩学である。これは驚きである。

October 26, 2016

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スティーブ•シャピロ上野俊哉訳『モノたちの宇宙--思弁的実在論とは何か』河出書房2016はメイヤスーを読む前に読む概説書とも言えるが、ホワイトヘッドを思弁的実在論から読み返す本である。昨今の幾つかの名前で呼ばれる哲学的潮流(思弁的実在論、新唯物論、物質指向存在論)に共通するのは、反相関主義、反人間中心主義であると言う。つまり共通の目標は自分の外に出ること、異なるのはその出方だと言う。一体僕らは自分の外にどうやったらでられるのだろうか?ちいさい頃よく相手の気持ちになって何て言われたけれどそれぬは限界がある。しかしそうした自分の殻以上に自分を規定しているのはまさに言葉だという気がする。そう考えると、規定されている自分の外に出るには、違う国の言葉で考えることである。英語か?もう少し勉強してスペイン語か?

言葉と建築10年たって三刷

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Adrian Forty`Words and Buildings`2000の監訳『言葉と建築』は出版とほとんど同時に重版となった。あれから10年経って三刷になったと聞いた。と言っても全体として3000にも至っていないのだが、5000円する本がそれだけ刷られるのはありがたいことである。いまだに自分自身教科書として使っていてやはりそれなりの手応えがある。同様の内容を持つ本はもとより類似本さえ見あたらない。2005年の年末から2006年の年始にかけて事務所に共訳者と缶詰になってこの仕事をした。雪の中近くのピザ屋に夕食を雪の中買いに行って大転倒してピザがぐちゃぐちゃになった。ついでに年始の家族との食事会にも行けなかった。でもこうなるとやってよかったとつくづく思う。

October 25, 2016

表現のポジション

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グラフィックチームで建築家のポジショニング議論をしました。中野さんがそのマトリックスにグラフィックデザイナーのポジショニングを乗せてくれました。表現とはジャンルが違えどいろいろな共通点があるものだと痛感します。さてこれがどう展開するものかしないものか??

October 24, 2016

武道館のイベント

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毎朝武道館の前を自転車で通る。ほとんど毎日違う看板がかかっている。それは柔道大会だったり、コンサートだったり、大学のイベントだったりする。コンサートの場合武道館で出来る人はかなりメジャーであるから、僕でもだいたい知っている。今日はコブクロである。

October 23, 2016

サスティナブルな生息地

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恒例の年末国際ワークショップの今年のゲストはブエノスアイレス国立サンマルチン大学教授で建築家のロベルト・ブスネリである。先日ワークショップ用の課題書が送られてきた。なんと16ページ。こういう書類を丁寧に作るのが彼らの伝統である。テーマはSustainabe habitatー passive and low enery architecture for social housing(持続可能な生息地 にエネルギーがかからないソーシャルハウジングを作る)である。2013年の1月に彼らが国際交流基金の助成できた時もスラムの改善をやったのだが、その時にはサスティナブルの意識はなかった。今回はそれが取り入れられた。加えて、敷地はサンマルチン地区という工場地帯でありスラムである。そこにできれば工場の廃材なども使いながらデザインしようというものである。
大学院の学生は環境建築をやっているし、3年世はレンガの屋根をやっている。どちらもこの課題には繋がりそうで面白いものになるのではないだろうか。

October 22, 2016

中村敏男氏逝く

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中村敏男さんの訃報が届いた。これで今年建築学会賞をとられた方お二人がおなくなりになった。お二人とも表彰式の日は元気に見えたのだが。
中村さんは僕が大学院の頃A+Uの編集長をされていた。ディビッドスチュワート先生が僕らの卒論(当時スチュワート研は3人いて3人ともル・コルビュジェ論を書いた)を中村さんにお見せになったのだろう。中村さんにある日呼ばれて行ってみたらA+Uの後ろの方に2〜3ページあげるからル・コルビュジエのことを好きなだけ書いてごらんと言われたのである。これが僕の文章修行の始まりである。スチュワート研の助手みたいなことをしてくれていた篠野さん(現東工大名誉教授)が徹底的に赤入れをしてくれたおかげでどうにか人に見せられる文章となった。辺見、藤田と3人で計5回コルビュジエの話を書かせていただいた。ありがたい経験だった。その後は中村さんと直接会ってお話をする機会はなかった。そして学会賞をおとりになられ我が事のように嬉しかった。授業があり授賞式後のパーティーに出られなかった。出ていればお祝いを直接言うことができたのに、、、残念である。

October 21, 2016

とある建築家の死

青山に僕と同い年だった(現時点では)建築家の葬儀に行った。生前それほど深い親交があったわけではないが、要所要所で忘れられない記憶がある。私が大学を出て最初にお酒を飲んだ有名な(すでに有名だった)建築家であった(その時何を話したかは全く覚えていないが)。僕の作品集に率直な感想を話してくれた数少ない建築家の一人だった「ああいう考え方はとてもいいと思う」と。理科大に来た時に「建築家先生も6年経つとただの人なんだ」と言い残し別の大学に去って行った。この人の生き様を見ていると建築家人生が楽しく、そしてまだまだやれる(健康なら)という気になってくる。徹底してやりたいことだけをやった彼の人生はお手本である。
改めて今日しみじみとそんなことを感じて青山を後にした。ありがたい。

October 20, 2016

二つのアメリカ

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Radio AmericaというIPhone アプリがある。ここにはなんと800近いアメリカのラジオ局が登録されている。大学への往復に聴いている。というのもアメリカ大統領ニュースをききたいからである。今日は3回目のディベートだったが、ついに彼はこの選挙が仕組まれたいんちき(rigged)で負けてもそれを認めない(refused to commit to accepting the election result if he loses)ここまでくるともう子供のケンカである。空いた口がふさがらない。なのに、トランプがこのディベートに買ったと考える人が4割近くいるのである。
以前ニューヨークで友人にブッシュの悪口を言っていたら。共和党を支援するアメリカの真ん中あたりは違う国なのよと言っていた。どっちがアメリカなのかは知らないが、両端と真ん中は違う文化(国)なのは確かである。

October 19, 2016

レネと会う

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デンマーク王立アカデミーの先生をしているレネ・クーラルと最後に会ったのは3年前の夏。ヤコブセンが設計した彼の家でディナーをご馳走になったのがつい昨日のように思い出される。今東工大の5週間のスタジオのために来日している。2年前に彼のために買っておいた自転車のアート作品をプレゼントしてあげた。
彼は2012年の冬に理科大の学長招聘助成金で来日して、理科大の3年生と院生を相手に自転車のまちづくりというワークショプを行った。文京区役所で自転車を借りて皇居を一周した。飯田橋の混み合った歩道を数十人で走ってこの町は自転車に乗りにくいと実感した。今年は東工大で自転車ではなく高齢者のための公共空間というワークショップをやっているそうだ。
食事をしてコーヒーを飲んでいるときに彼が「僕は大学辞めるんだと」というので驚いた。どうしてと聞くと、本を書くための賞金に応募して獲得できたのでゆっくりと10冊目の本を書くのだという。大学の職をあっさり辞してそういうことやる勇気がすごい。その後どうするのと聞いたら別にという顔をしている。あきれるというか凄いというか、、、、

哲学と建築の整合

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言語論的転回以降の3つの転回の一つと言われている自然主義的転回の理解に信原幸宏『シリーズ心の哲学1人間編』勁草書房2004を読んだ。やや専門的すぎて話が込み入ってくるとわかりずらいが要は人間の心が心身二元論から解放され、科学の分析対象となってから(80年代くらいから)何が解明されてきたかが書かれている。茂木健一郎で有名になったクオリアの話も出てくる。
さて言語論的転回以降の三つの転回で建築の思想も分類できると踏んだのだが、どうもこの自然主義転回は誤解していたようである。これは哲学の意識の部分に哲学的特権を認めないということであり、科学で解明できるという考え方なのである。はてそうなると人工知能なども関連するが、そうしたことをベースに建築を考えている人はどこにいるのだろうか?世界のファブラボを探せばいそうだが、名前がうかばない。また野毛啓一は哲学を⒋象限に分けていた。実在軸と自然主義軸である。ここに当てはめるのも良さそうである。しかしそうなるとメディオロジーが抜けてしまうのだが、、、、メディオロジーは建築に直接的な影響はないとして、アルゴリズミックを自然主義に入れるという手もあるのだろうか????

シンゴジラ vs 市民

紀尾井町ガーデンというビルが近所に出来て東京はまだまだ巨大資本が町を更新していることを実感する。なんだかシンゴジラを見ているようである。キャピタルダーヴイニズムが弱肉強食の理論で東京を更新している姿は凄いものである。生物の自然淘汰は時間をかけた競争によってバランスされたものであるが東京のキャピタルダーヴィニズムは短期間で進み、バランスという状態とは程遠い。思うに、何かが起こる時にそれに競争するアイデアが登場しないのがまずい。葛藤、競争がないとダーヴィニズムにならないしバランスしない。例えば元の赤坂プリンスを使ったオフィスの提案とか集住の提案とかが出てきてしかるべきでそれと競争させるべきである。おそらくそういう案がどこかの時点で誰かが作っていたのだろうが、誰も見ないうちに捨てられたと推測する。それは一つの会社内で行っているからである。対抗するアイデアは公が行うべきである。そしてその決着は市民を巻き込み決めるべきである。シンゴジラの自由は認めるがそれと市民が戦う仕組みをつくるべきである。

こっちが変わればいい

洗濯機需要が減って食洗機需要が増加した。だったら中古洗濯機を食洗機にコンヴァージョンすればいい。でも水の出し方だ、食器の並べ方だとか考えていると費用はどんどんかさむ。だから洗濯機を改良せず洗濯機に放り込んでも割れない食器を使えばいい。
建築も同じように考えてもいい。ホテルが多いからオフィスにとか、オフィスが多いから老人ホームにとかいう建築的要望をマジで受けているとどんどん金がかかる。だから壊しましょうという話になる。いやちょっと待って。壊さないで大した改良もせずにそのまま使えばいい。建築を変えるのではなく使う側が変わればいいというわけだ。ホテル→オフィスを考えるなら、もう大きな部屋で仕事をするのを皆でやめ、個室単位で仕事をすればいい。ただ入り口ドアを取っ払って、4室に1室くらいを壁とって打ち合わせコーナーにすれば出来上がりだ。オフィス→老人ホームというのもほとんど車椅子の方ばかりなのだから個室の仕切りも天井まではいらない。それも厚い布地でも問題ない。耳が遠い老人のプライバシーの建築的基準も健常者とは違うはずである。
建築は壊さなければ使えないという発想はやめた方がいい。建築を使う側が変わることだって十分考えられる。

October 18, 2016

人間も物も同等に扱うこと

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Marukus Gabriel のWhy the World Does Not Exist (原書はドイツ語2013)2015 Polity press は痛快な本である。彼の新しい哲学は形而上学と社会構築主義を合体する。彼の比喩で言えばべスビオ火山をソレントから見るアスリットがいてナポリから見る私がいて、ナポリから見るあなたがいるとする。形而上学では誰がどこで見ていようとベスビオ火山は一つしかない。しかし社会構築主義ではこれがソレントからアスリットが見ているベスビオ火山と、私がナポリから見ているベスビオ火山とあなたがナポリから見ているベスビオ火山と3つある。しかしマルクス・ガブリエルの提唱する新しい哲学ではこの両方つまり4つのベスビオ火山がある。そういう前提にたつと、全てを包含する世界というものは存在し得ない。なぜなら世界はそれを感受するフィールドの中に成立するのだが、そのフィールドがいくらでも存在してしまい、世界がいくらでも存在してしまうことになり、全てのことが起こる一つの世界という程定義に矛盾するのである。世界以外の全ては存在するがその全てがいっぺんに収まる世界は存在し得ないというのが結論なのである。
その結論は置いておいて、実在としての物もあり、感覚で受け取られる物もあるという双方の考え方を認めること。これはとても新しい考え方のような気がする。言語論的転回と実在論を共存させることが実は普通の感覚なのだと思うからである。

October 17, 2016

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医者から走るのは少し控えてと言われてから、自転車に乗っている。走っていたときは20分で3キロ走るのが目標。自転車だと皇居一周して帰るとだいたい10キロである。これを30分ではしれると、時速20キロでミニ自転車だといい成績だがまだ実現したことはない。だいたい40分くらいかかる。とくにいい景色があるといちいち止まって写真とるからますます時間がかかる。

October 16, 2016

建築学部

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先日上越トークインで山代悟さんに会ったら、芝浦工業大学の先生になりましたと言って芝浦のパンプレットをくれた。そこには建築学科に3コースあり先進プロジェクトデザインコース(定員30名)、空間建築デザインコース(定員105名)、都市建築デザインコース(定員105名)である。山城さんはプロジェクト先生だそうである。定員30名というのがなんかいいね。全部で240名というのはちょうどサンチアゴカトリカ大学建築学部と同じくらいの人数である。
そばに木下庸子さんがいたので工学院の定員を聞いたら300人くらいと言っていたような気がする。ついでに建築学部になってなんかいいことありますか?と聞いたらあまりないというような返事。会議とか減るでしょうと聞いたけれどそうでもないという。

人口問題

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高校の地理の岩淵先生がマルサスの人口論を論破するという授業をやっていた。吉川洋『人口と日本経済—長寿、イノベーション、経済成長』中公新書2016を読んだら似たようなことが書いてあった。岩淵先生はマルサスは人口が増えると飢えるやつがでるというが人間は技術革新するから飢えないというものだった。吉川先生は人口が減ると経済成長が減ると社会は滅びるというが技術革新すれば経済成長は低下しないというのである。双方技術革新という変数を重視している。まあそういう要素はあるだろうけれど信じきっているとしっぺ返しを食うぞというのが僕の直感である。

京都で阿部さんと邂逅

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毎回建築意匠論勉強会は面白い今日は京都大学で3人のお話を聞いたがそれぞれとても身近な話題につながった。
塩崎太伸(東工大)さんは上から思考、下から思考として最後は下から思考が千葉雅也の切断につながった。おおそう繋がるかというのがスリリング。つぎは阿部大輔(龍谷大学)さん。阿部さんは『バルセロナ旧市街の再生戦略』の著者であった。この本超が3つ付くくらい建築の本としては(建築じゃないか)面白い。特にバルセロナの旧市街に出入りしていると実感が湧く本である。
こういうことってあるんだ。そういう著者にばったりあって懇親会でしっかり話ができた。彼はコロンビアにも出入りしているそうなのでラテンアメリカ協会のメンバーがまた一人増えた。最後は山口敬太(京都大学)さん。彼は中村良夫の弟子の弟子という方。僕は中村良夫に修士論文でお世話になっていたので景観とは見えるものか見たいものかかと自問していたが答えはその混合であるということで得心した。2時から6時まで4時間勉強したらぐったり。京都でいっぱいやって9時ののぞみで東京へ戻る。

October 15, 2016

ご冥福をお祈りしたい

日建入りたての頃、建築家と飲みたくて最初にお呼びした建築家が小嶋さんだった。20代で既に建築家だった。

『フレームとしての建築』を上梓した時、内容に共感すると最初に言ってくれたのが小嶋さんだった。とても嬉しかった。

理科大に来た時に建築家教員も6年経つとただの人になるんだよと言ってYGに去って行った。

大先輩だと思っていたが享年は同い年僕の2倍才能があり、3倍仕事をした人だと思う。本日仕事で母校に行くがご冥福をお祈りしたい。

October 14, 2016

作品選集

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内の家学会作品選集の現地審査してもらったのは1ヶ月以上前。一向に電話がないから佐河君とダメだったねえと話していたら、事務所の端に封書が届いていた。それもだいぶ前に。
この建物僕らの自信作なんだけれどよく落ちる。今回やっとご理解いただけてとても嬉しい。現地審査員が一流だったからだな。

October 13, 2016

グラ本3刷り

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ボブディランがノーベル文学賞というのには驚いた。でもそんなこともあるのだろうか。ところで建築グラフィック本の三刷りが決まったそうだ。これは嬉しい。これからまた卒業設計のシーズンである。大いに活用していただければ幸いである。

October 12, 2016

HATRA

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HATRAというブランドがあってその昔西谷真理子さんに展示会に連れて行ってもらった。その展示会で表象文化学者の星野太君に会ったのが印象的だった。彼もHATRAのデザインが気になるようだった。それ以来DMが来ると展示会を覗くようになった。今年もDMが来た。毎年デザインが異様に凝っている。今年はジップロックのビニール袋に試着時の女性用フェイスカバーが入っていた。そのフェイスカバーに案内が印刷されていた。

寺西おめでとう

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中学の同級生寺西真人君がパラリンピックの水泳選手を育てている。筑波大付属盲学校の先生なのだがそのうち水泳コーチもやるようになり自分の家に泊めてあげながら河合選手や小林選手を育て上げた。実は私の連窓の家3のクライアントでもある。というわけで中学高校の同級生が集まれるだけ集まってお疲れさん会をした。世界を股にかけたツアーガイド、JCOMの女性お偉いさん、朝日新聞のパブリックコメンテーター、東京大学の言語学の教授、歯科医、小児科医、プラント屋さん、放射線科部長、主婦、アド街ック天国で6位になったしゃれた漬物屋さん、みずほ銀行の副頭取、3月に転職が話題になったアジア開発銀行の女性エコノミスト、実践女子大の美術史の女性教授、女性書家、ジャパンソサエティニューヨークの女性芸術監督、建築家。頭使っている人は若いね。加えて女性が頑張っているのが我々付属のいいところ。

October 10, 2016

感覚の建築 ハラスマ

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パラスマPallasmaaの「The eyes of the skin –architecture and the senses」wiley 2012が届いた。今度の翻訳本候補でもある。けれどサンチアゴに行った時ディエゴがあの本はね、ちょっとねと言っていたので来るのを待っていた。まあ確かに目次を見るとよくある話に見えなくもない。第一部:視覚と知識、視覚中心主義の危機、ナルシスティックでニヒリスティックな目、話す建築見る空間、視覚の建築と柔軟さの喪失、視覚イメージの建築、物質性と時間、アルベルティの窓の否定、新しい視覚と感覚的バランス、第二部:中心の身体、多感覚の経験、影の重要性、音響的親密性、沈黙と時間と孤独、匂いの空間、石の味覚、触覚の形、石の味覚、筋肉と骨のイメージ、行動のイメージ、肉体的同一性、肉体の模倣、記憶と想像の空間、感覚の建築、建築の目的。

October 9, 2016

宇喜世

IMG_3252%E5%AE%87%E5%96%9C%E4%B8%96.jpg上越トークインは本日昼に終了。毎年同じ先生とこの時期お会いするのがだんだんクラス会のように懐かしくなってきた。渡辺真理さん、木下庸子さん、トムヘネガンさん、今村雅樹さん、安原幹さん、山代悟さん、西澤高男さん、宮晶子さん、高橋真さん、今年もありがとうございます。
今年はトークインの内容自体がとても僕にとっては実りがおおかった。というのも学生が考えた雁木カー(動く雁木が屋台にもなる)のアイデアが僕が今科研やPDとの研究でやろうとしている、「ローカリティーを保存するマイクロ・サステイナブル・アーキテクチャー」のアイデアに見事にマッチしたからである。この際この例も来年に継続するようにして入れこもうかな?
昼に終わったトークイン学生、先生は高田で140年の歴史を持つ有形文化財の料亭「宇喜世」で昼食打ち上げとなった。

October 8, 2016

資本論をどう読むか

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父の書斎には私が子供のときからマルクスの資本論が並んでいた。そして今でも並んでいる。その間、様々な本が増えては消えたがこの本が消えることはなかった。彼の人生の支えとなったこの本に何が書いてあるのかを聞いておきたいと思っている。と言うのもマルクスの著書は色々な人が色々な読み方をしてその読み方のアクチュアリティを競う対象のような本だからである(アマゾンで資本論と入れると1459件ヒットする)。
そんな解釈本の一つにフレデリック・ジェイムソン野尻英一訳『21世紀に、資本論をどう読むべきか』作品社2015(2011)がある。80になる気鋭の思想家がどう読むのか知りたく朝早く起きて読んでみた。しかし、正直言うと前書きと後書きを読み、本文を読み、場所を新幹線に移し長野を過ぎたら眠りに落ちた。なのでいい加減なまとめだが、この本のポイントは『資本論』は失業のほんであり、ネオリベラリズムの21世紀にますます、資本主義が加速氏、人々が働けば働くほど失業者が増える。これが『資本論』の結論である。資本主義の矛盾は、よく格差であるといわれるが格差は矛盾ではなく結果。労働が労働を消失させるというメカニズムが矛盾なのである。恐ろしいことである。親父が隅田川あたりでホームレスと話すのが大好きだと言っていたが、彼もジェイムソンと同じように資本論を読んでいるのかもしれない。

Serendipityやepiphany

大隈教授のノーベル賞への祝辞に「serendipityにも恵まれて、、、」という言葉を見かけた。村上春樹は最初の小説が書けたのは「Epiphanyがあったからだ、、、」と言っていた。偉業を成し遂げるにはどちらも欠かせない。そして凡人は天才の運をうらやむ。しかし実はどんな普通の人にもepiphanyやserendipityはやって来ているのだと思う。ただそれらをそう感じられる感性と、それらをつかんで離さない腕力があるかどうかで生き方は変わる。epiphanyもserendipityもそうしょっちゅうやってこないのだから。

October 7, 2016

製図2ーb

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今年の3 年後期の製図は少数精鋭で履修者は少ないが、休む学生も少ない。非常勤とそのテーマはq、高橋エレメント、帽田 青山のコンプレックス、横山 構造、渡瀬 、坂牛、常山、レンガねのパプリックルーフ。

October 6, 2016

日本人は分人的である

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平野啓一郎の分人主義を知ったのは何かの本に引用されていたのを読んだ時でそれがいつだったかは思い出せない。それが新書になっているので買って読んでみた『私とは何か「個人」から「分人」へ』2012、6万部売れているというのにはびっくりした。というのもこの分人主義とは個人がいくつかの人格をもつことで人付き合いなどで苦しい人間関係を持たなくて済むという考え方だからである。そこではともすれば多重人格的な側面も現れきっとこんな考え方を肯定するのは特異なことだろうと思っていたからである。6万部のロングセラーということはこの考えを支持する人が多いということである。しかし分人主義というのは生きるのが楽になる考え方なのだろうか?僕は人格の多様性を肯定したいだけなのであるが、、、、

ところで個人という概念はin divisual(分けられないもの)という意味であり、この考え方は西洋的であり、キリストに使える人は一つの裏表ない人格だというところから個人が生まれたという説明は分かる気がする。となると日本人は多神教なのだからそれぞれの神に使える人格があるということもできるのだろう。つまり日本人の方が人分的だということである。

坂本一成作品集

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坂本一成先生の作品集が出版された。少し前にいただいた。今日はその記念パーティー。錚々たる方がおいでになり面白いお話をされていた。石堂さんがこんな作品集はめったにない。編集者としてはやられたという感じだとおっしゃっていた。一体なぜ?と思うだろうが見ていただくとわかる。レイアウトのルールをことごとく破りバラバラにものが並んでいるからである。田中 功起 の『必然的にばらばらなものが生まれてくる』やティルマンスの展覧会を想起させたりもする。何れにしてもこんなの見たことがないのである。それはもちろん坂本先生の世界観の表れなのである。なんでも受け入れますよというあれである。伊東さんが祝辞で坂本さんは一貫性があるというようなことをおっしゃっていたがそうだと思う。敢えて言えばinclusiveな姿勢をexclusiveに貫くのが坂本流である。

October 5, 2016

いま世界の建築家は何を考えているか

篠原研究室の先輩である山田さんに「いま世界の建築家が考えていること」を示す本はないかと聞かれたが答えがうかばない。調べてみたけれどなさそうである。そこでもし作るならどうするかと考えてみた。3つのアイデアがある。
① 言語圏ごとの建築思想圏を描く
② ジオポリティクスが作る建築思想圏を描く
③ 現代哲学の3つの流れから生まれる建築思想圏を描く

どれも可能だが③が興味深い。現代哲学の3つの流れは岡本裕一朗によればポスモダニズム以降、3つ生まれているという。ポストモダニズムはカントに始まる言語論的転回に支えられているがその後の3つはこの言語からの転回が図られている。

1) 自然主義的転回:言語から心への転回
2) メディア技術的転回:言語から語用そして新しいメディア技術への転回
3) 実在論的転回:言語(人)から物への転回

であるこれに即して世界の建築家の思想を3つに分類できないかと考えてみたのだがどうだろうか?
1) に属すのは、身体論、雰囲気、現象を大事にする建築家
(伊東豊雄、東工大の人たち:坂本先生、アトリエワン、、、、)
2) に属するのは、映画、ネット、ヴァーチャル、コンピューテーションを大事にする建築家
(世界のファブラボ建築家:ニールデナーリ、、、竹中さん、松川さん)
3) に属するのは、マテリアリティ、存在を大事にする建築家
(ヒスパニックの建築家:アラベナ、ソラーノ、モネオ、、、スイスの建築家:ズントー、、、早稲田の人たち:入江先生、平瀬さん、、、)

さあどうだ、これから抜け落ちる建築家はいるか??ちなみに僕は1)と3)のハイブリッドである。

October 4, 2016

マルクス•ガブリエル

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岡本裕一朗さんの説明では(『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社2016)新実在論はポストモダン(言語論的転回)以降の3つの転回の一つと位置付けられている、因みにたの二つは自然主義的転回、メディア技術的転回である。さて新実在論では一般にカント以来の人間中心主義を嫌い物自体を復活させる。だけかと思っていたのだがマルクス•ガブリエルは人間に映る物も人間がいない物も存在するという前提である。これは中庸を標榜する僕の考えにもっともしっくりくる。Why the world does not exist2015 を読んでみたい。

岡本裕一朗さんの説明では(『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社2016)新実在論はポストモダン(言語論的転回)以降の3つの転回の一つと位置付けられている、因みにたの二つは自然主義的転回、メディア技術的転回である。さて新実在論では一般にカント以来の人間中心主義を嫌い物自体を復活させる。だけかと思っていたのだがマルクス•ガブリエルは人間に映る物も人間がいない物も存在するという前提である。これは中庸を標榜する僕の考えにもっともしっくりくる。Why the world does not exist2015 を読んでみたい。

October 3, 2016

身の回りはライトに

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さあこの月曜から本格的18分講義の始まりである。話すことはかなり入念に推敲し論理的に端的に効率的に話す。テッドを見習い18分以上は連続して話さない。間に常に質問、ディスカッションを入れる。パワポの後にテキストを見る、授業間は授業ウェブ上でQ&Aを行い学生に優秀解答を選ばせる。話し、聞き、書くのである。このシステムを考え実行するようになり、自分はどれほど時間を無駄にしていたか反省させられる。また人のレクチャーも準備不足はすぐ分かるようになり、聞いてられない。また効率重視で早口になった。スピードはとても重要。そのために身の回りはライトに。

October 2, 2016

オリオンのテレビ

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テレビを買った。結婚してからしばらくテレビがなく、最初に買ったテレビはAQUOSが出たての頃でなん年前だか覚えてない。サイズは20インチ。先日WiMAXを解約して家のWiFiを光にしたのでついでに光テレビにした。うちのマンションはBSアンテナが立っていないので外国のニュース(BBC やEuro News)を見ようとすると光テレビしか手段がないのである。ところが光テレビのチューナーがきてみると主たる端子はHDMIであり昔のAQUOSにはそれがないのである。というわけで半ば仕方なく、新しいテレビを買うことにした。少し大きくして30インチ。しかし余計なものはいらないと思ったので大手テレビメーカーのoem製造をしているオリオンという会社の何もないテレビを買うことにした。普通30インチだと4万以上はするようだが、オリオンだと2万5千円である。綺麗に写るし不要なものがないからスッキリしているしおすすめである(地デジの録画はできませんが)。

October 1, 2016

ミッシェル・ブラジー

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銀座でシンゴジラを見た。痛快エンターテイメントだった。でも横で配偶者は眠っていた。見終わってジャックランシエールの「政治的芸術のパラドックス」の話をしたら納得していた。政治的ステートメントは上手く入れないと表現の強度は弱まる。また日常性はどうかというとこれも下手をすると危うい。しかし問題は表現者の表現形式とメディアと受容者の受容形式の距離感である。例えば坂本先生の建築は日常性と言ってもしっかり距離感が保たれているので圧倒的に強度がある。これがあまりに近しいと受容側に何の精神の高揚も起こらない。エルメスでミッシェル・ブラジーの作品を見たが、タイトルはLiving room 2である。人間の生活と生物の関係を形にする関係性のアートの一種である。でもここにも表現形式とメディアと受容形式にはある距離感が保たれているように思えた。結構ぎりぎりではあるが。

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紋切り型スペクタクルが蔓延する現代社会において主体としての観客は可能か?この本の中の「政治的芸術のパラドックス」はブリオーの『関係性の美学』への批判として書かれているが読んでみるとブリオーの名が出てくるわけでもなくやはり関係性の美学は射程に入っているかもしれないが直接的な批判書ではない。単に芸術の政治化の無力を質しているのであろう。そしてそれに僕は賛成でもある。一言で言えば政治的ステートメントを持った芸術は実に紋切り型に見えるし力を感じない。そんなもの作る暇あったらデモにでも行ったほうがいい。