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January 31, 2012

小布施図書館拝見


新幹線と長野電鉄を乗り継いで小布施まで来た。長野に来るのも久しぶり。小布施に電車で来るのは初めてである。以前来た時は町立図書館のコンペの公開ヒアリングの時。伊東さん、隈さん、新井さん、古谷さんなどのそうそうたる建築家が最終ヒアリングに残りプレゼンした時である。結果は古谷さんが最優秀賞。その作品が去年できて見たいと思っていた。たまたま理科大の小布施町づくり研究所に来る用事があり今日やっと見ることができた。雪に埋もれた小布施も素敵である。
図書館は駅のすぐそば。あたかも樹木のような柱が緩やかなカーブを描く大屋根を支え小さいながらも広がりのある内部空間である。格子の3次元曲線の天井が気持ちいい。
図書館を見てから歴史的修景をぐるりと回り夕刻役所で行われる市民大学講座に参加。講師は理科大の伊藤先生。ミセ空間の発展の歴史を講じられた。とても興味深い。アメ横空間を今年の卒論生が調べたがこんな歴史を知っているともっと研究が深まると思えた。

January 29, 2012

ポーラ美術館アネックスは銀座のお勧めギャラリ―


午後少し走る。今日はとんでもなく寒い。学習院初等科の周りをぐるりと一周して家に帰り速攻で風呂に浸かる。与那覇さんの歴史本を読み終える。
夕方ポーラ美術館アネックスに大森克己の写真を見に行く。僕より4つ下の日芸出身のカメラマンである。3.11以降の福島を撮ったもの。ピンクにぼけているのはピンクのガラス球を持って行ってエフェクトとして使ったようである。
コメントが貼ってあった。カメラマンになったのは自分の見えるものを再現したいという欲求とともに自分の見えないものを写し取りたいという願いからだと言う。今回は見えないもの(放射能)を写したかったのかもしれない。
このギャラリー最近来るようになった。内容はいいのに無料。銀座に来たらお勧めの場所である。
ITOYAによって紙を買って教文館行って新書を5冊買って四谷に戻る。

正しいことを正しいとして通る社会に


朝9時から夕方6時半まで卒論の発表会。判定会議が終わったのは7時15分。さすがに頭がくらくら。四谷のジムに行って少し走る。今日からは下半身だけではなく、上半身も意識的に動かすようにする。
今晩はかみさんがいないのでジムを出てから近くの本屋で文藝春秋買ってとなりのうどん屋で読みながらビールを飲む。
最初の特集は皇室典範。ここぞとばかり登場する安倍晋三は昔から余りに情緒的でついていけない。
特集ではないが被災の話しが2編。安藤忠雄と塩野七生の対談。2人が募金活動していますという話。書籍を売らんとするためにビッグネームで目次を飾るとうのはどうなのか?活動自体は尊いことだがもう少し短くてもよい。
そんなことで紙幅を費やすから次の児玉博による「東電吉田所長かく語りき」という重要なルポが中途半端に終わっている。
吉田氏の食道がんの原因が被ばくによるかどうか、東電は命がけで隠蔽するだろう。まあそんなことはどうでもいい。このルポを読んでも、吉田氏がさまざまな施設改善を訴えたときに本社がコストを理由に拒否してきた経緯がよく分かる。安全性と採算性の天秤が壊れていたということである。その天秤を監視する側に天秤を作った人たちがいたからでもある。山本七平らが言うように誰も正しいことを言えない日本の社会で(上の写真の本に書いてあります)必死に正しいことを訴えてもそんなものは通らないのが日本の社会ということだ。
もういい加減にこんなことをやめにしよう。少なくとも今の学生たちの世代には正しいことを正しいと言いそれが評価され実行される社会になって欲しい。

January 28, 2012

21世紀になっても日本は江戸のまま


夕方事務所で4月のアルゼンチンでの展覧会の打合せをかみさんと行う。日本の文化の一端と言うことで建築だけではなく書も展示する。そのイメージを模型化。

日本文化をもう一度勉強しようと歴史書として読み始めた『中国化する日本』はいろいろと刺激的で面白い。と言っても未だ半分。話題は維新。
明治維新はやっと日本が科挙、郡県、などの宋システムを導入し、自由主義の世界に突入した時代で西洋化ならぬ中国化した時代だった。それなのに明治後半では自由化、競争化を回避して地位の一貫性が低い江戸社会に内実が戻ってしまった。と言う。
この本を少し置いて別の本を手に取る。あのイザヤ・ベンダサン名で『日本人とユダヤ人』を書いた山本七平が1975年に季刊歴史と文学に連載した「日本型民主主義の構造」。この論文は『なぜ日本は変われないのか』桜舎2011として復刊されている。
そこでは日本の組織とは西洋のそれと異なり正当の前に調和と平等が重んじられる。つまり正しくないことが行われても荒波立ててまでそれを排除はしないのである。言い換えると不良パーツが混じることで動きの悪い機械だからと言って、その不良パーツを取り換えることはしないのである。山本はそうした組織を西洋的な「組織」に対して「家族」と呼ぶ。そして明治維新とは一つの江戸的体制からの脱却として不良品を入れ替えた「組織」を目指したものの調和と平等を脱却できず結局「組織的家族」という表面「組織」内実「家族」で終わったと言う。この山本の指摘は上述「中国化」を狙った明治維新が結局「江戸化」したと言う与那覇の指摘と合同である。
つまり一言で言えば結局20世紀後半の日本って未だ結局江戸だったと言うことである。さてそれでは21世紀の今、日本は江戸から脱却できているのか?と言うとやはりダメである。正当より調和と平等なのである。正しいことより空気なのである。国も役所も大企業もそうである。じゃあ江戸からさっさと脱却したらいいのかと言えば話はそう簡単でもないのだが、少なくとも空気に流され正しいことが二の次にされる現状は回避しないことにはちょっとまずい。

January 26, 2012

地位の一貫性が低い社会

中国の近世である宋の時代にはすでに身分制が無くなっていたというのになぜ江戸時代に身分制が残っていたのか?これは大事な問いだそうだ。そしてその答えは、江戸の身分制は「地位の一貫性が低い」身分制で、上の身分でも貧乏、下の身分でもお金持ちという可能性を秘めた身分制だったからと言うのが答え。よって強烈な不満の高まりが起こらず、革命的な力が社会にたまらなかった。というのが与那覇潤の説明である。「武士は食わねど高楊枝」とはよく言ったものである。
逆に宋では、身分制は無いものの科挙に受かり高級官僚となった人物は尊敬され、金も集まり、権力もあるという人間の欲するもの全てが集中する社会。すなわち「地位の一貫性が高い」社会だったという。
さてそう考えると日本と言う社会は江戸の延長のようなところもある。だいたい尊敬される(とされる)職業はとんでもない高給に恵まれない。逆に外資系企業で莫大な資産を築いたビジネスマンがその資産を理由にリスペクトされるかと言えばそんなことはない。
アメリカなどでは(少なくとも僕が留学していたころは)社会で最もステータスの高い職業は金持ちビジネスマンと教科書に書いてあって驚いた。ステータスもあって人から尊敬される人が大金持ちになるという社会は強力なヒエラルキーが生まれそうでちょっと恐ろしいと感じたものである。
江戸的階級性を全肯定はしないけれど地位の一貫性が無い方が何か救われるような気もする。そのために日本では更に政治家(国家公務員)の給与はせめて半分くらいにし威信はあるが金は無いを実践させるべきである(いや逆である。金を餌に人々のしもべになりたいと欲する方を探すことは不可能だ)。
ところで建築家なんて職業は威信も無いし金も無いし最悪である。何がよくてこんな職業が存続しているかと言えば、唯一表現の自由を実践できる可能性があるからに他ならない。だからそれさえも失うなら建築家なんて本当にやる意味ない。

January 25, 2012

くよくよするな

朝一で現場に向かうべく乗った湘南ライナーが新宿出た途端に停まった。池袋辺りで人が線路に降りたらしい。線路点検中とのアナウンスがくり返される。結局50分遅れて古河到着。現場定例はほぼ終了していて分科会から参加。そしたら結構大きな問題が発覚。あれあれ、、、、。構造と設備がごっつんこしている。現場で考えていても名案浮かばず持ち帰り。帰りの電車でT君とアイデアだし。こう言う時に大谷(日建)の言葉を思い出す。「難しい問題が出てくるほど燃える」。凹みそうになる気持ちをこの言葉で奮い立たせる。その問題で発生するマイナス面が10あったら20のプラスを生む解決策を考えよう。そうやってポジティブに考えていると結構いろいろと思いつくものである。
こんなことを考えていたらツィッターで知り合いがピンチの時に母の言葉を思い出すと書いてあった。「命落とすようなことがなければ大概は大丈夫よ」と。それを読んで僕もよくダウンした時にかみさんに言われる言葉を思い出した。「生きているからいいじゃん、くよくよするな!」。

卒計発表会


朝一で整形外科に行って肩のリハビリ。電気マッサージをしてもらう。知り合いのお医者さんからは運動がいいと言われるのだがまだそんな状態でもない。よくなったらスキーにでも行くか?
リハビリ終えて事務所に行って図面チェックして赤入れて説明してから大学へ。来客との話を終えて卒計の発表会場へ。僕の研究室の学生14人山名先生のところから10名。彼らの発表に対して14人の常勤の先生と非常勤の先生10名以上が発表に対して採点をする。とても素晴らしい講評会。
この点数を集計してどういう結果が出るのかはなかなか楽しみである。信大時代は、卒業設計は僕が1人で採点していたわけでそれに比べてはるかに多様な評価が下される。学生にとってもそれはいいことだし、僕もその方が面白い。
まあそれにしても卒計としてそのレベルに達しているのは片手で数えられるくらいである。でもそれが酷いことかと言えばそんなこともない。僕が学生時代だってせいぜい1割。つまり5人である。信大のときだってまあ1割いない。理科大だって24人の卒計発表者だから3人いればいいところであろう。片手いるということはいいできだ。

January 24, 2012

やばい、肩痛い


やばい。1週間くらい前に発症した肩の痛みが再発。この痛み本当に何にもできないくらい痛くて顔がゆがみ「うーーーー」って声が出る。近所の佐々木整形外科に行く。この先生スポーツ界では評判の人(らしい)。なかなか手荒だけれど正確である。僕の腰痛も体操指導してもらって直った。
待つこと1時間。評判がいいので患者が多い。腕を持ちながらどの角度で痛くなるかをカルテに書きこむ。腕を持ちあげられると水平になる前に酷く痛い。思わず「痛ーーーーい」と叫んだら先生もびっくり。自分でもびっくりだが本当に痛いのである。
すぐその場で痛み止めの薬を飲まされてレントゲン撮ったりハンマーでたたいたり。その上更に痛み炎症止めの注射を打ってもらい。座薬を処方してもらった。
注射もしたから痛みもとれるかと思いきや全然。家に帰ってのたうちまわって痛みをこらえる。どんな格好していてもとにかく痛い。夕食後薬を入れてしばらくすると徐々に痛みが引いてきた。痛みをこらえているだけでもうへとへとだったのでよく寝れそうである。外はなんだか凄い雪。明け方目が覚めてパチリ。少し元気が出てきた。昨日の分働かなければ。夜は卒計の発表会だし。

January 22, 2012

中国化する日本

かみさんが早朝着物に着換えて出かけて行った。少しして娘は塾に行った。1人になった自分は読みかけの本を終わらしてから汐留ミュージアムに今和次郎展を見に行くhttp://ofda.jp/column/。その後四谷のジムで走る。少しずつ体調が戻ってきたかな。
帰宅後与那覇潤という若き歴史の先生が書いた『中国化する日本』文藝春秋2012を読み始める。なかなか引き込まれる。
フランシス・フクヤマが冷戦の終了を歴史の終わりと言ったそんな状態は1000年前の中国宋の時代に既にあった。そして中国も日本もそんな1000年前の中国に舞い戻りこれから宋の時代の中国を歩む。ということのようである(なんて単純ではあるまいが???)。
先日国博で北京故宮博物館展を見たのでこの話がダイレクトにつながる。あの博覧会で一番印象的だったのは中国は宋の時代に近世を迎え(それは世界で最初のことでその定義は政治的に貴族制が無くなり官僚制となったこと)それによって世の中が自由になり文化が栄えた。そういうコンセプトでできた展覧会だったから陳列品のほとんどは宋の時代のものだったし素晴らしかった。
その宋の時代を日本が踏襲するというので訳もわからず興奮している。あんな素晴らしい文化が訪れると言うならとりあえず嫌では無いのだが、、、、、

頑張れ学生

朝から二部建築学科の卒業研究発表会。僕はこの手の発表会がとても好きである。大学生が唯一必死になって継続的に長い期間勉強したことの集大成だから。なので自分の専門外でも理解してみたいという欲求にかられる。そしてよく分からないまでも背景と結論くらいはなんとなく理解してその人のそれなりの頑張りを感じてこちらも気持ち良くなる。僕の研究室は二部は全員設計を選択したので論文は0だが来年は数名を論文枠にするつもり。
帰宅後大島寧子『不安家族―働けない転落社会を克服せよ』日本経済出版曲2011を読みながら若い人たちの社会を考える。正直この本に書いてあるようなことは殆ど他のこの手の本に書いてあり目新しい内容は無い。たださまざまなデーターが視覚的に分かりやすく並べてある。
というわけでこの感想も目新しいことではないが、日本の社会保障費に占める、子供、教育費が老人のそれに対して圧倒的に少ないのが日本であることに違和感を感じる。国立大学が5000ドル以上かかる国などこの資料ではアメリカしかない。国立大学でさえそうなら私立大学はもはや終わっている。日本の私立大学が一斉に業務を放棄したらこの国はどうするのか???私立大学がお味噌的なレベルでしなかないらならまあいい。しかし何度も言うが私立大学なしに日本の高等教育は成り立たない現状で私立大学の授業料がこれだけ高いことは論外である。加えて、こうした必要不可欠な私立大学、もちろんレベルの高い国立大学も含め、そこに至るための教育費が高すぎる。それでも日本は生きる選択肢が少な過ぎて、所得の低い親が生活レベルを下げてまで私立小中高等学校や塾に投じるわけである。
こんなでたらめな社会があっていいわけはない。しかしもちろんけっきょく社会保障費を厚くしろと言う主張は(著者の主張でもあるが)財源の問題になる。僕は防衛費や不要な予算を削減しろと先ず思うのだが、著者は消費税増税へと結論づけている。
厳しい若者問題を読んだついでに風呂で宮台真司の『就活言論』太田出版2011を飛ばし読む。腹も立つけれど基本的にこの人と立ち位置は似ている。だから彼の言うことはだいたい正しいし反論する気も無い。その通りである。就職は親の為にするのではない。親が喜ぶところに入るために君の人生があるのではない。国や行政に依存するな。人任せにするな。空気に縛られるな。その通りである。そしてそういうことをしたければ大きな組織には絶対行くな(これは僕の意見)。大きな組織で起こっているのは全部これらのテーゼの逆である。人任せ、空気を読む、行政と国の顔色しか見ない。そんな出鱈目な組織に明日はない。自分の目で確かめて自分で生きる。ここにしか君達の明日は無い。頑張れ学生諸君。

January 20, 2012

魚の群れになるまい

夕方事務所で久しぶりにヤマギワの堀さんとお会いした。ヤマギワが秋葉原から撤退した話を聞いた。リビナが無くなったのは知っていたがヤマギワ全体が姿を消していたとは知らなかった。
夜大塚英志、宮台真司『愚民社会』太田出版2012を読む。先日宮台さんの上から目線に辟易したのでこんなタイトルの本を読むとますます気分が悪くなると思ったのだが、今回はすっきりした。宮台、大塚はかみ合っているのかいないのかよくわからないが、2人はメタレベルでは同じことを言っていると意気投合している。
大塚のあとがきを読むと彼の超がつくほどの上から目線が腹立たしさを超えて快感となる。3.11以降の日本人の(特に知識人の)付和雷同性に苛立ちを隠しきれない大塚曰く「既にもう人々の関心は震災から原発にそして意味も分からないままTPPにシフトして結局サッカーにいく、、、」「今あるのはメディアも知識人もその空気をひたすら読み、ツィートしつつ空気をチェックし発言するさもしさだけだ。僕は誰かと同席するたびに隣でツィッターのフォロワーをチェックしつつ発言する「思想家」たちを見てみんな死ねばいい、とアスカのように思う」僕は3.11後のすべての状況を十把一絡げに大塚的状況だとは思わないし、大塚のように何もしないことが空気に流される「魚の群れ」への批判となるかどうかよく分からないけれど、3.11に何でもかんでもかこつけて話したがる風潮にはついていけない。
現代思想の6月号に有名な建築家が多木浩二の追悼文を書いていた。生きられた家を失った被災者の呆然とした姿に『生きられた家』の意味をこれほどまでに思い起こされる時は無いと結ばれていた。僕にはちょっと信じられないような文章である。『生きられた家』の衝撃的なインパクトが高々(大変失礼な言い方だが)震災で失われた家を思い起こす程度のものだったのか?と。そんなことはあり得ない。80年代にこの本の持っていたインパクトが日本の建築を変えたと言ってもいいはずである。
もちろんこの有名な建築家が震災を前にして大きな衝撃を受けたことを否定はしない。しかしそのことと多木浩二の死は何の関係も無い。
魚の群れには成るまい。大塚に挑発されるまでも無く重要なことである。

January 19, 2012

アイデンティティはその都度選ぶで大いに結構

アマルティア・セン、大門毅監訳、東郷えりか訳『アイデンティティと暴力』勁草書房(2006)2011でセンは人間のアイデンティティの複数性を主張する。そして複数の自分の中から状況によって論理的にアイデンティティを選択することを奨励する。確かに日本に生まれたから日本人と言うアイデンティティがつきまとうだろうか?親父が仏教だから一生仏教徒となるだろうか?キリスト教と仏教のいいとこどりしたらばそれはおかしいことだろうか?
しかしかといって状況で自分のアイデンティティが変化すると一般にそれは「ぶれた」人と呼ばれ軽蔑の対象となったりもする。しかしそれを差し引いても僕はセンの意見に賛成である。もし例えば宗教的な問題であるならば(こんなことは敬虔な信者ではあり得ないだろうが)二つの宗教が共有する論理を自分の信念とすることもできる。日本人であると同時アジア人であるということでも同様である。メタレベルでの自分のアイデンティティを常に考えておけばいい。
センはインドで生まれアメリカで学びハーバードの教授でノーベル経済学賞の受賞者である。小さくしてヒンドゥ―とイスラムの対立も見て育った。インド人でありアメリカ人でありイスラム教だがそれに固執しない。そんな環境がこうした思想を生みだしたのであろう。
振り返って僕のような平凡な日本人がなぜセンの思想に賛同するかと考えれば、それは極めて単純である。日本的なナショナリズムを全く受け入れられないからである。僕は日本人のナショナリティをもっているがアメリカにいるととてもほっとする。ヨーロッパ人は嫌いに思う時も多々あるがそのきらいさ加減は日本人を嫌いに思うのと同程度である。東工大出身だが愛校心は0。今のところ信大の方が好きである。でももう少し理科大にいるとどうなるか分からない。だからと言って東工大を憎んでいるわけではない。言えばどれも似たようなものである。

愛国心に話を戻せばどうして国家と言う単位に固執するのか、それによって得られるメリットの方がそれによって失うデメリットを超えるとは思えないでいる(少し大げさだが)。そんなことを言うと単なる能天気な理想主義者と言われそうではあるが、そう言う言葉は甘んじて受ける。しかし国家のアイデンティティだけではない。家族、コミュニティ、学校そのすべてにおいて適度な帰属意識はある一方でそれによって他を排することに全く意味を感じない。たまにそんなことを感じて騒ぐのはワールドカップぐらいのものだ。しかしこれだってどこかのチームを応援しないと面白くないからジャパン組に入っているだけ。運動会の紅組白組と大差ない。だから僕はアイデンティティはその都度選ぶで構わない。むしろそうあるべきだ。そうなればこの世から紛争は少しは減る。

January 18, 2012

建築家が操作できるのはシニフィアンでしかないのだろうか?

1989年に雑誌『へるめす』で連載された磯崎新と多木浩二の対談が『世紀末の思想と建築』岩波書店2011というタイトルで本になった。まとめて読み返しその昔の磯崎さんの論理を反芻し懐かしくなった。
建築はつまるところ作る論理とできたものが意味を発する論理によって成り立つ。そんな認識の中で万博の絶望を味わいながら意味に寄りかかって建築を創ることの困難を感じはじめた磯崎は作る論理に立ち戻らざるを得なかった。それが「手法」でありそこに多木さんは磯崎の面白さを見出している。
つまり建築家とはシニフィエを気にしようとも結局手を下せるのはシニフィアン。シニフィエを操作したくともそんなものはその時代のコンテクストと見る側の勝手な論理でどうにでもなってしまうと言うことである。バルトではないが作者は文体は作れても意味は作れない。その意味で作者は死んでいる。建築家も形は作れても意味は作れないその意味では建築家は死んでいた。
とは言えシニフィアンに拘泥する時代はとっくの昔に終わったような言われ方をしたりもする。だから建築家という職能は解体されむしろ意味を生みだすコンテクストとよろしくまさに街のコンテクスト作りに奔走する人もいれば、シニフィエの解説に血道を上げる人もいる。それはそれで結構である。建築家などという職能が唯一無二のアイデンティティを保持しうるなどとは思えない。しかしでは再度建築家はシニフィエを操作する力を持てるのだろうか?考えてしまう。僕は建築のシニフィエにこだわり講義をする。でもこれが建築の創作論になるのかどうかは今のところ未だ不明。

January 17, 2012

経済は分からん

話題のTPP反対論者中野剛志の『TPP亡国論』集英社新書2011を読んでみた。正直言って自分の経済基礎知識が余りにお粗末なのでこれが妥当なのかどうなのか判断不能。この本を普通に読んでいておかしいと思うことはあまりない。正しく聞こえる。しかしネットで中野反対論者の反対意見を読むとそれも正しく聞こえる。それって論点が分かってないということでしかない。ということはもはやこのイシューで発言は控えろということである。語れば自分のあほさをまき散らすことにしかならない。経済は分からん。

January 16, 2012

活私開公

山脇直司『公共哲学からの応答』筑摩選書2011は3.11以降の公共性を語る。読んでいると余りに引用が多く眠くなるが一つだけ分かりやすくいいことが書いてある。それは4字熟語の造語「活私開公」と言う言葉。
公共性を謳う四字熟語の「滅私奉公」はよく聞く。私を殺し公に尽くせと言うもの。しかしこれではいけないと著者は言う。目指すは「活私開公」。これは私を活性化させそして公を花開かせるというもの。つまりワタシの個性を重視しながらアナタの価値観も尊重しようというものだ。自らの主張をがんがんせよ。しかし自分の価値に拘泥して人の言うことをぞんざいにしてはいけないということである。
なんか言われてみれば小学生の標語のようなものである。どうしてこんなことを大学の先生が必死になって考えないといけないのだろうかと思う一方でどうしてこんなこともできないのだろうかとも思えてくる。

アラブ独裁国

朝一で大学、センター試験の試験監督。信大時代は毎年やっていたが理科大来てから初めて。会場に行くと事務の方がたくさんいるのでびっくり。私立は事務のサポートが厚い。ついでに言えばお昼のお弁当とお茶は無料で配布され、試験監督の労賃は別に支払われる。国立はヴォランティアだった。この試験は主として国立が使う試験なのだからそれでいいと言えばいい気もするが。
一日何もせずに何ごとも起こらないことを願ってじっとしているというのはつらいことである。しかし肩と背中の酷い痛みが徐々にとれて帰るころにはすっかりとれた。よかった。帰宅後ヨリス・ライエンダイク田口俊樹訳『こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと』英治出版(2006)2011を読む。オランダ人ジャーナリストのアラブ地域特派員の話し。現地にいながら通信社のデーターを使って本国が欲しがるニュースを書く。そうでもしないとニュースが書けない。というのもアラブ独裁国では誰も口を割らないのだそうだ。特派員には常に秘密警察が随行する。これじゃあだれもしゃべれない。北朝鮮みたいな国が世界にはまだまだ沢山あったということだ。しかしそれがこの「アラブの春」によって減ってきた。もしかすると北朝鮮も何かの拍子にこうなるのかもしれない。

January 15, 2012

肩と背中が痛い

午後本を読んでいたらとても首が疲れてきた。姿勢が悪いと思って直していたのだが30分たったらもっと痛くなってきた。1時間たったらとても耐えられなくなってなんだか寝違えたような痛み。もちろん寝ていないから寝違えると言うことは起こりえない。
仕方ないのでお風呂に湯を張ってゆっくりつかり体を伸ばし血行を良くしようとしたが良くなるどころかもっと痛くなってきた。こういうのを五十肩というのだろうか?明日は日曜日だしセンター試験だし、一日耐えられるだろうか??それにしてもこんな運動障害がおこると言うのは実に心外。でもこれが現実。
かみさんがそう言うことは自分も起こり1週間は直らなかったと言う。それでどうしたのと聞くと。アルミホイルをビー玉くらいに丸めて痛い所に絆創膏で張り付けたと言う。なんだそれ?磁力でも出るのだろうか?と聞くのも面倒くさく、僕にもそれやってとお願いして張り付けてもらう。なんだかおまじないのようだ。効くだろうか?

January 14, 2012

マンガ三昧


薬を飲み続けて5日目。毎朝の体温が少しずつ下がってきたけれどまだ微熱がとれない。なんだか喉の奥に小骨が刺さってとれないみたいで気持ち悪い。事務所の打合せも必要最小限にして帰宅。明日は娘のセンター試験なのでうつさないように寝室にこもる。小さい字は頭痛のもとなので娘の漫画を借りて読んでは寝る、読んでは寝る。病気するとこうなるわけだ。寝たきり生活というのも予めしっておくのもいいかも。

January 13, 2012

破天荒な知性

鶴見俊輔が現代思想の上野千鶴子特集に文章を寄せている。大学の先生になると自らの信念を曲げて体制的になる輩が多い。特に東大はそうなので東大は嫌いだと言っている。しかし上野の東大退官記念講演を読むと上野はそうでは無かったと評した。
なるほど経済学、政治学、法学、社会学まで、人文系の殆ど、加えて原子力やら都市計画など国策にかかわる理系のジャンルにおける大学教員=国の理論部隊でもある。これを拒否すれば冷や飯を食うことになる。それなのに上野は無視して尚冷や飯を食わずに済んだ類まれなる才能だと言うことである。
先日対談やシンポジウムはくだらないと書いたがこの人のは別である。予定調和はあり得ない。徹底して論点を明確にし、新たな地平を見せてくれる。どんな人間にもかみつき負けない。破天荒な知性である。
ところで鶴見俊介も大学を転々とした人だが真を曲げなかった1人だろう。小学校が高等師範で中学に行けずアメリカに行ったというのが当時としては破天荒である。そう言う知性はもはや無い。

January 11, 2012

日本の対談とかシンポジウムってだいたいくだらない


現場の行き帰りに某雑誌の対談を読んでいてあほらしく思えてきた。読まなければよかったのだがつい時間つぶしに読んでみてやはり後悔した。僕はシンポジウムとか対談とかいう類のものが嫌いである。かなり豪華なメンバーで行われていてもそれだけの人を集めて行う意義を感じない。自分でもやることがあるのだから無責任な発言だが、できることなら避けたい。
何故かと言うと日本のそれらは出席者が基本的に同じ意見の持ち主でありお互いは同意事項を羅列してYES,YESと言うだけだからである。それなら1人で話す方がよほど理路整然とする。
と思っていたら東工大世界文化センター長のロジャー・パルバースが同じようなことを言っていた。日本の対談で重要なことはただ一つそれは「意見の一致」です。たとえ○○先生の意見に対して××先生がやや異なる意見を持っていたとしても「しかし、、、、」と言ってから控えめに自分の意見を言う。そうすると○○先生は「なるほどそういわれてみるとそうかもしれません」と言うだけ。そしてこのフレーズについてパルバースはこう言う。「あらゆる言語で発明された、いかなるフレーズの中でも、最も無意味なものの一つでしょう」と。
何故かこの方とは意見が合う。

January 10, 2012

また熱か?

土曜日突如上がった熱を薬で下げたのだがまた今朝熱が上がる。かかりつけのお医者さんに行ったら抗生物質飲まないと菌を殺せないねと言われた。注射を打ってもらい抗生物質と風邪薬と座薬の解熱剤を処方してもらい事務所へ。打合せしてから帰宅して昼食。夕方大学行くまでの間眠る。5時~8時までエスキスチェック。半年やっていてこんな状態っておかしいなあと思う。でもまあそれが現実。今日はさっさと帰って寝る。

若者に必要なモノ、大人のすべきコト

東工大の世界文明センター長であり作家のロジャー・バルバースという方がこんなことを言っている。
大人は若い世代の人たちに「夢を持て」とよく言うけれど、その夢とは往々にして大人の夢に過ぎない。大人がすべきことは自分の夢を若者におしつけることではなく、若者が自分たちの夢を育めるような力を与えることだと言う。そしてそれを可能とするために若者に必要なものは反逆精神であると。全く同感である。
『もし日本と言う国がなったら』集英社2011

January 9, 2012

予想外の事実

新年会でもらった風邪菌のせいか突如39度まで熱が出た。インフルエンザかと思い女子医大の救急外来で診てもらう。インフルエンザでは無く帰宅するとすーっと熱がひいた。昼食をたくさん食べて一眠り。
体調は戻ったので何か活動したいがベッドにいないと家の人たちがうるさいので静かに本を読む。鈴木賢志『日本人の価値観』中公選書2012はISSP(国際社会調査プログラム)をもとに価値観世界ランキングをつけている。例えば、こんな質問「自分自身で意味を見つけ出してこそ、人生は意味のあるものになると思うか?」に対して「そう思う」「どちらかと言えばそう思う」人の日本人の比率は全34カ国中6位。因みにアメリカは最低の34位。
ではそうした意味を自ら実現できると思うかという質問に対しできると思う日本人は94カ国中77位でかなり低い。逆にアメリカは14位。主体的に生きたくともできないのが日本人ということか?
また「たとえ余暇時間がへっても、常に仕事を第一に考えるべきだ」という問いに対し79カ国中最下位は日本。これは意外。そう思っていながらよく働くのが日本人ということか。一方「余暇をすごすときあなたは誰かと一緒の方がよいですか。それとも1人でいる方がよいですか」に対し「1人がよい」の世界一位は日本人。へえー家族と一緒とならないのは趣味が一致しないということか?
予想外の事実に気付くのがこう言う調査の面白いところ。

January 7, 2012

東大にも肝の据わった先生がいるものだ

朝研究室に行ったら卒計で寝ている学生数名。後1カ月ちょっと。まあ死ぬ気で頑張ってください。
今年最初の教室会議。年始から思った苦しい話題である。その後グランドパレスで工学部の新年会。そう言えば信大でもそんな新年会があったが一度も出たことが無かったスイマセン。
午後丸善で買い物をして帰宅。安富歩『反原発と東大話法』明石書店2012を読む。現役東大教授が東大原子力工学科を実名いりでまさに「罵倒」している。そして彼らの原発問題での発言方法を東大に蔓延している無責任話法であるとして批判する。その話法は全部で20あるが例えばこんなことである

規則1自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
規則7その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
規則9「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく
規則15わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する

などなどである。確かにテレビに登場する東大教授にはこういう腹立たしい輩は沢山いる。しかし実は東大以外にもこういう先生はいる。この本を読みながら数名の教授の顔が思い浮かんだ。まあどこにでもいるものだ。権力と金にめっぽう弱い人間たちである。一方僕が個人的に付き合っている東大教授にはこう言う方は1人もいない。おそらくそれは金や権力と程遠い学問をされている方たちだからである。少なくとも建築デザインなんて言うのもそういう領域だと思って安心しているのだが。

January 6, 2012

あなたはマキシマイザ―それともサティスファイザー?

バリー・シュワルツという人の書いた『なぜ選ぶたびに後悔するのか』という本によると人間は「マキシマイザー」と「サティスファイザー」に分類できるという。マキシマイザ―は買い物などでモノを選ぶときにそれが最高のものだと確かめないと決定てきない。昔吉松さんが材料を選ぶときには可能な限り全てのカタログを集めないと決定できないと言っていた。彼はその意味ではマキシマイザ―である。一方サティスファイザーはいいと思うものに出会えばそこで決定できる人である。
さてあなたはどちらだろうか?
僕は建築以外では圧倒的にサティスファイザーである。着るものも、食べるものも、人も殆どファーストインプレッションである。なぜそうかと言うとかなりいいものに出会った後はかけた時間に対して向上する質の比率が小さいことを経験的に知っているからである。
しかし建築においては、昔吉松さんにそういう話を聞いて自分もそうなってしまった。日建時代は机の周りが床から壁から材料で埋まって毎年年末の大掃除の時に嫌になった。
しかし最近は徐々に「ほどほど」ということが分かるようになった。それは素材の全体像が分かってきたからだとも言える。本物を見なくても写真でだいたい想像できてしまうようになってしまった。あまりいいことではないかもしれないが、労力掛けて本物見てもこれは素晴らしいと感激する確立は低いことを知ってしまった。
もちろん時と場合によってはそれにかけるということもあるが、徐々に建築の場合もサティスファイザーに向かっているようだ。
もちろんどちらがいいと言う話では無いのだが、マキシマイザ―の方が一般的に後悔する確率は高いらしい(サティスファイザーは能天気だとも言えるのだが)。

January 5, 2012

ネット社会に育った若者は自分の能力を見誤る

佐々木敦『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』筑摩書房2011の中で著者は学生から「テクノに興味があるけれど何を何処まで聞けば極めたことになるのか」というような質問を受けると書いている。これを読んでああ同じことが僕にもあると思った「建築意匠をやりたいのですがどんな本を読んだらよいのでしょうか」という質問である。
佐々木も言う通り僕も学生時代にそういう疑問を持ったことは一切ない。というのは何故かと言えば佐々木の場合はあるミュージシャンを極めようとしても売っているレコードなんて限られていた。僕で言えば売っている、あるいは借りられる大事な意匠の本なんてせいぜい50冊も無かった。そんなもんである。
ところが世の中にgoogleが登場したおかげで聞ける音楽も本も動画もある時突然無限になった(なりそうだ)。その状況に直面した学生は突如自分がとてつもなく有限なモノに感じられる。というのが佐々木の分析である。それゆえ無限のセカイに対する有限のワタシを過小評価してしまう風潮が生まれた。そうなるともう無限のセカイに正攻法で攻めるなんて馬鹿なことはしなくなる。一番おいしいところを誰かに聞いて食ったもの勝ちというわけだ。
さてこれが正しいことなのか?と思わず唸る。多分半分正しいのだろう。でも無限のセカイにたいする自分を相対的に無力と思うことは実はあまり意味が無い。何故か?そんなこと言ったら世界中のすべての人が無力になってしまうからだ。1995年人間は突如無力に成ったわけがない。もしそうなら、古来人間は無力と言うことになる。しかし事実は違う。
つまり有限な人間が無限なふりをして頑張ってきたのである。ネットは無尽蔵なエネルギーを我々に与えるツールに過ぎない。そして結局有限な人間が精一杯頑張って獲得した程度のものでセカイを見渡し何かを発言することで十分なのである。この「十分」というのがとても重要である。決してそれは「完璧」ではない。でも「完璧」である必要性が無いのである。それは人間がそもそもいい加減な存在だからだ。
しかし「十分」ではなく「完璧」が求められていると信じてしまうと急に自分を過小評価してしまう。「十分」以上のことがセカイを動かすと思っている人がいるとすれば、その人たちの考えはとりあえず2012年においては誤りである。後50年もすればそれが正しくなるかもしれないが、少なくとも現在学生である君達にとっては誤りである。君達は有限な力で把握できることをもとに発言する権利を持っている。そしてそれで十分なのである。

January 4, 2012

北京故宮博物院展を見に行った


黄庭堅の自由な書

昨日から頭を使おうと講義パワポの改訂を始める。7回分の手直し。昨年一つ直し、昨日半分直し、今日1.5個直した。でも未だ4つ残る。午後事務所に行って少し打合せ。スタッフのS君は元旦以外出ずっぱり。一年目で図面全部1人で描けば力がつく。がんばれ。
夕方かみさんと国立博物館に行く。ベイフツというけったいな名前の書家の書を見たかった。ベイフツとは北宋時代の4大書家の1人。最近かみさんがこの書を参考にしている。しかし行ってみたら4大書家の別の一人黄庭堅の方が魅力的。ベイフツは固い。黄庭堅は自由である。
ところでこの展覧会はこんなの見るためにあるのではなくもっと超ビッグな展示物があった。それは清明上河図(せいめいじょうかず)と呼ばれる、やはり北宋時代の絵巻物。長さ5メートルほどのもの。待ち時間2時間と言われたが並んでみたら30分。なぜこれがそんな凄いものかと言うと
① とんでもなく細かい描写でまるでロットリングで描いたかのように見事な技術
② これまでに50の写本がありそれが世界中の有名美術館に所蔵されている
③ この本物は北京の故宮でさえ常に展示されているわけではない
④ 中国人の殆どがこの名を知っている

等の理由から中国文化ファンにはとんでもないレアものなのだそうだ。という知識は並んでいる間に読んだ野嶋剛『謎の名画清明上河図―北京故宮の至宝、その真実』勉誠出版2012に書いてあった。それで実際に見て見たが私にはその凄さはまだよく分からない。もちろん細かい描写テクニックは秀逸だが今日見た中にも同様な筆法の絵画もあったようである。

January 3, 2012

エネルギーを選ぶ時代

NHKスペシャル「日本新生」取材班『総力取材エネルギーを選ぶ時代は来るのか』NHK出版新書2011を読むと日本で自然エネルギーがなかなか作られてこない原因の大半は既存電力会社に課せられた電力安定供給の義務とその義務に胡坐をかいた怠慢によるものと理解される。
まあ結局義務と怠慢と言ってもそれを全体でコンとローする法律のメカニズムがよく考えられていないと言うのが結論ではなかろうか?となればそれは役所の知恵不足でありさっさと法律を改正し電力会社が正常な方向へ進むように考えて欲しいものだ。
この本には自然エネルギーへの転換に成功している例としてスペインとスウェーデンがあげられる。日本が自然エネルギー発電が1%程度しか確立できていない現在。スペインでは既に風力水力だけで30%近くの電気を生みだしている。これが可能となったのは自然エネルギーで生み出された電気が「固定価格」で買い取られているからだ。因みに日本はこの部分を法律で競争させている。売りたい事業者多に対し買い取り量小なので価格が下がり事業性が著しく悪い。
またスウェーデンでは電気を火力1KWいくら水力いくら風力いくらという具合に売っている。まるで水のようだ。エビアンいくら、ペリエいくらというように。好きな電気を好きなように買えるシステムを持っている。これは企業としては大きな宣伝効果を持っており、あるハンバーガー屋さんは自然エネルギー電気だけでハンバーガーを作ったら爆発的に売れたとのこと。もちろん自然電気は若干高いのだがこのように回収可能なのである。
もはや電力会社が国有化された日本では本格的にそのメリットを生かして欲しい。自然エネルギーを選択するのはもはや必然でありそのロードマップをつくるのが経産省の義務ではないか?そしてそれをできる状態にやっとなったはずである。

不自然な自然


昨日詣でた須賀神社の吐水口は偶然干支の辰。おっと縁起がいい。そういえば残念ながらdragons は日本一を逃したものの大健闘。竜は幸福を呼ぶ動物。今年は幸多き年であれ。


小川君から素敵な辰を頂いた。センスいいなああ。心和むし幸せな気分になる。
それにしてもこの動物、海の中で縦型に浮いているというのはどう考えたって不自然。世の中不自然な自然もあるといういい例である。周囲とある種の違和を生みながらも、一生懸命生きている風なところが愛おしさを感じさせる。この微妙な祖語というか違和というか??いいねえ。

January 1, 2012

親父、いい表情


朝近所の須賀神社に初詣。おみくじを引いたら末吉だった。昼に親父や兄貴家族と会いオフクロの墓参り。墓地の近所に住む101歳になる母の叔母さんにご挨拶。もうこちらが誰だか分からない。その後深大寺に初詣。おみくじを引いたら凶。やれやれ。スタバで一休み。設計の打合せを少ししてから吉祥寺に出てふぐを食べる。親父はビールを飲んでひれ酒も飲んだ。杖なしでも歩けるようになったし、だいぶ元気になった。表情もあの頃と打って変わって柔和になった。とてもいい表情である。ほっとした。