2012年03月31日

杉本博司展とメグロアドレス


安井智貴 繰り返して春 2012

凄い雨だけれど原美術館に行った。そうしたらかつて見たこともないほど人がいた。杉本博司人気だろうか?杉本博司の写真、所蔵の絵画等を通して「ハダカから被服へ」というテーマを見せるもの。
写真というのはおよそ表現というもののなかで必然的に対象があることを避けられない。昔は絵画だってそうだったけれど今では必然ではない。いや具象の絵画や彫刻だって描かれ、刻まれたものが対象を写し取ったかどうかなど分からない。でも写真はどんなに加工されようがそこに対象があることは不可避である。
しかし杉本博司と言う人は写真から対象を消した写真家ではないかとその昔水平線を撮った写真を見ながら思った。そこにあるのは対象ではなく彼自身ではないかと感じた。
今回の写真はマネキンにシャネルに始まる近代モードを歴史のように着せてカッチリ撮るものである。実にドライである。そこにはモデルもいなければ服の躍動もない。死んだ服だけである。そしてその服は高い解像度で刻銘に写し取られている。一体杉本は服に何を見ているのだろうか?

品川から目黒に移動し目黒美術館で目黒在住の若いアーテイストによる「メグロアドレス」という展覧会を見た。安井智貴の彫刻は漆で仕上げられた少女である。リアルな生の人のようでいてもちろん生きているわけではない。動きだしそうで、語りだしそうでいてでも冷たい。ということにふっと思いが至る時に先程の杉本の写真同様に突如「生の無いこと=dead」が浮上する。


2012年02月25日

野田裕示展


国立新美術館で野田裕示の個展が開かれている。ずーっと見たいと思っていた作家である。彼の作品は記憶の断片を蘇らせる力がある。絵を見ると人はなにがしか記憶を刺激されるのだが、例えばミケランジェロや、ルーベンスや昔の人の絵を見てもそんな絵の風景や人に僕は現実世界で出会ったことは無いわけでそうなると、彼らの絵を見ても記憶を深く刺激されることはない。それはどんなに立体的に透視図で描かれていても絵に見える。かといって日本人の同時代人が描いた写実画あるいはや写真はどこかで見たという記憶を生むかもしれないが、それはそれで過去の記憶のどこか一点にとどまる。
野田さんの絵は抽象絵画なのだが、キャンバスを重ね合わせたり、合板を張ったりして表面に微妙な襞や目地が作られその上に何重にもアクリル絵の具が塗り重ねられスクレープされ削り取られている。そのテクスチャーと色の重なりが現実のモノの汚れや風化を想起させる。抽象であるが現実のどこかの断片のように見えてくるのである。つまり記憶のどこか一点を刺激するのではなく記憶のどこかの複数の場所に立ち現われてくる。その重層的な刺激(あるいはこちらの記憶の蘇り)がとても脳ミソを刺激する。
久々にズーンとくる絵を見た。

2012年02月13日

ジャクソン・ポロック展


国立近代美術館でジャクソン・ポロック展が始まった。ポロックはいろいろな企画展でちょくちょく顔を出すし、世界中の近代美術館にも少しずつある。でもまとまった量を一度に見たのは初めてである。彼の歴史がよく分かった。
かの有名なポーリングを使った制作風景がビデオ上映されていたので全部見た。彼は数時間(恐らく一日中)刷毛を缶に突っ込んでキャンパスの上で、垂らす、叩きつける、曲線状に流すという数種類の動作を延々とやっている。見ている方が飽きてしまう。果たして本人は飽きないのだろうか?
もちろんそうした単調な繰り返しがあの多中心で焦点の定まらない画面を作り上げるわけである。それにしても、この繰り返しの途中で缶のペンキを全部ぶちまけたいというような衝動にかられないのだろうか?
実は抽象的ポーリングの次に彼はブラックポーリングと呼ばれる、黒のみ使って余白も見えるやや具象的な墨絵のような時代を迎える。それはポロックの凋落と呼ばれる作品群だそうだ。しかし今回これがとても素敵に見えた。
抽象に飽きた結果がこれである。モダニズムアーテイストは皆抽象に飽きた時に次への光明を見出すのだと僕は思うのだが。

2012年02月04日

LEE BUL展


森美術館でLEE BUL展が始まった。韓国の若手アーティストである。草間彌生に始まり何人かの世界的アーティストの影響も感じられるば作品には迫力がある。コンセプチャル建築模型のような作品もある。学生の卒計でこんなの出てきたらわけも分からず点をいれてしまうかもしれない。

2012年01月22日

今和次郎展


新橋の汐留ミュージアムで今和次郎展をやっている。1888年に弘前に生まれたとは知らなかった。青森なんだ。やはり泥臭い人は東北から生まれるのかなあ。と思いながら素敵なスケッチを見る。その昔早稲田に行っていた叔母さんが建築やるならと言って大学に入学した時に今和次郎全集をくれた。今から30年くらい前である。古本屋に売ったらいけないと言われてなんとなくその素敵なスケッチを眺めていた。今日その原図を見られて少々感慨深い。
彼は育つのに20年、絵に10年、農村に10年、衣服に10年、住居に10年、生活学に10年と自ら言うくらい幅広い人だった。建築が幅広い文化の上に載っかっているという僕の認識は少なからず今和次郎から来ている。建築家の中でこれだけ真剣に服飾のことを勉強して本まで書いているのは彼くらいである。改めて驚いている。

2011年12月18日

オルジャッティ展


先日東京都現代美術館で「建築アートが作り出す新しい環境」展をみてコラムにこんなことを書いた。
「建築の展覧会はどんなに頑張ったって「そのもの」があるわけではないから・・・
① アーティストとなって建築とはおよそあまり関係ないものを創作する
② 建築創作の思想をそれに代わる詩的言語あるいは造形物で代替する
③ 徹底して本物を彷彿とさせる何か(映像だったり巨大模型だったり)を提示する。
この中で①は本当のアーティストには勝てないのでやめた方がいい②は伝わらないのでやはりあまり得策ではない。だから③をやるのが賢明だ」と
そしたら現在国立近代美術館(竹橋)で行われているヴァレリオ・オルジャッティ展で彼が同じようなことを言っていた。
そこにあったのはプロジェクトごとに①1/33という不思議スケールの模型②詳細ドローイング③スライドショーのボックス④彼が啓発をうけた図像学的自伝と呼ぶ写真である。
このセットを見ると実にその建物がよく分かる。まさに建物の再現努力である。
建築の展覧会はこうあるべきだ。

それにしても彼の建物はとてもいい。大好きだ。建物をこれだけ造りこまずにできたら最高だ。殆ど輪郭線だけでできている。間仕切り壁のある建物なんて殆どない
しかしこれらの建物がこれだけシンプルなのは建物用途がシンプルだからだと言う気もする。一体かれが複雑機能の建物を作るとどうなるのだろうか?そんな仕事来たら断るのだろうか?それともやはりざくっと作っちゃえるんだろうか?

2011年12月04日

アーヴィン・ペンと一生三宅展

ミッドタウンの2121ではアーヴィンペンと三宅一生展をやっている。ペンの写真は先日ポーラ美術館で最も素敵だと感じ印象に残っていた。一生をどんなふうに撮ったのだろう?という思いで見にきた。しかしこれは80年代の僕らが学生時代、一生と言えばこの写真と言うあれだった。西武やパルコにはこの写真が溢れていた。とにかく度肝を抜かれた記憶がある。

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