2016年10月30日

ボルタンスキー展

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白金の庭園美術館で「クリスチャン ボルタンスキー」展が行われている。展覧会は本館のアールデコの建物内では指向性の小さなスピーカーから声が聞こえてくる。スピーカーは気をつけてみないとその場所がわからないので人の呟きが耳元で囁くように聞こえてくる。新館では目がプリントされたカーテンが揺れる薄暗い部屋と、枯草がしきつめられた部屋に自然風景ビデオが映し出された部屋が用意されていた。とてつもなく、高校の文化祭のようで愉快だった。このくらいいい加減なアートは実にいい。無料ならば。

2016年10月23日

トマス・ルフ展

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国立近代美術館でトマス・ルフ展が行われている。ルフはアンドレアス・グルスキーなどとともに、ジュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャーにオブジェクティブな写真のあり方を教わった写真家である。巨大なポートレートで有名になったが、今だにこれが一番印象的に見える。顔の持つ力は大きい。

2016年07月10日

Smiljan Radic Bestiary

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ギャラ間でスミルハン・ラディックの展覧会が行われている。ラディックの展覧会は見たかった。というのも昨年サンチアゴでかれの作品を見たときに、多くの疑問がわいたからである。なぜチリにこの時期にこういう建築家が登場したのかわからなかったのである。スペインのインディオの二つの伝統あるいは近隣諸国からの影響からはこのディーテール、空間、光と闇を説明できないからである。もしかするとその秘密はチリの建築家が皆卒業するカトリカ大学にあるのかもしれない。この展覧会は寓話集(bestriary)となっているが文字通りストーリーではなく、模型とドローイングの寄せ集めでこれが彼のepiphanyであり寓話と呼ぶところのものなのである。これらを見て少しわかったのはラディックの執念と信念とひたむきさである。100を超える小さなスケッチブックはやはり見応えがある。
去年訪れた時はブエノスアイレスでのワークショップを終えてから学生に1日遅れて行ったらサンチアゴの飛行場のストライキで行くのが1日遅れレクチャーがキャンセルとなってしまった。次の日到着してチリの建築家ディエゴと坂牛研学生と待ち合わせたたのがラディックの設計したレストラン。そこで地震にあったのだからなんとも運命である。そして今年は2日前にリマから着く旅程を組んでいる。カトリカ大学でレクチャー、クリティークをすると謎が解けるだろうか?

2016年05月05日

シャルル・フレジェ展@エルメス

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銀座エルメスで「シャルル・フレジエ」展が5月15日まで行われている。フレジエは世界の民族衣装を撮影してきており、今回は日本列島58箇所の取材をし、一連の作品に「YOKAINOSHIMA」と名付けた。 カタログに解説を記した港千尋によればそれらはもちろん妖怪とは異なるが祭りに使われる装束を凝視するような普段では起こり得ない視線を敢えて命名するならヨーカイということになろうかということである。
この展覧会の最後の壁はフレジエのヨーロッパでの作品WILDER MANNが展示されている。明らかに日本と異なるのはヨーロッパの装束は動物の毛皮が多く、日本のそれは植物が多いということ。これは狩猟民族と農耕民族の差であると港さんが解説している。

2016年05月03日

謎の階段

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六本木クロッシングが森美術館で行われている。タイトルは「僕の身体、あなたの声」ほとんどが30代のアーティストである。身体というのはジェンダー、人種、民族、大人子供などの差異の現れと言い換えてもいいだろう。藤井光の映像は韓国人学生に日本の戦時中の教育、戦争動画を見せてそれを真似させたり、言葉で表現させるというもの。それらを話し、見る彼らの表情が克明に記録されており思わず全編見てしまった。長谷川愛の不可能な子供はlesbianのカップルにもし子供がいたらという状況をCGで描いている。いずれの作品もわりとリテラルに分かりやすかった。その中では僕が登りかけた階段は一体なんだったのだろうか?

2016年03月21日

MIYAKE ISSEYの前時代性

IMG_9166%E4%B8%89%E5%AE%85.jpg国立新美術館でMIYAKE ISSEY展が開かれている。ゲーリー展も人が多かったが、ISSEYも凄い人気である。特に中高年の女性が多いのには驚く。プリーツプリーズのヒットがこういう形で現れているということだろう。
ISSEYのデザインは彼がそもそも美大の図案科出身ということもあり、作るものが「図」となって浮き出るように考えられている。布を素材として図を作る(造形している)のが如実に読み取れる。だから布といってもその性能にこだわる。そしてその布が造り得る「かたち」の可能性を追求しているのである。
プリーツプリーズはその典型と言えるだろう。プリーツの性能を利用してどこまで一枚の布が「かたち」となり人に纏いうるかその可能性が追求されている。
作る側が服を「図」として対象化する場合、それは着る人にとってもその服が「図」として対象化されているように思える。「図」として対象化するというのはそれが空気のように纏わり付いているというのではなく、「私は今日は特別な服を着ています」というふうに意識化されるということである。

長々とこんなことを書いたのは最近この「対象化」という概念が少し気になっているからである。ウィーンに行く前に見田宗介の『現代社会の理論』を読み消費化と情報化の転回の必然性を考えている。資本主義は無限の供給と限定された需要という矛盾を解消するために消費化と情報化を取り込んだ。簡単に言えば、毎年デザイン(情報)を変えることで新たな消費を誘発するということである。こうして資本主義の矛盾は解消されたがこの消費と情報は環境問題南北問題をひき起こしてきた。しかしかといってこの消費欲求とデザイン欲求を否定していいかというとこれは人間の本能なので真っ向から否定してはいけない。これそ肯定しつつ転回する方策がないかというのが見谷の理路である。そしてでてきたのが物質消費から精神消費への転回つまり脱物質化である。また(これは私の論理展開だが)対象デザインから関係デザインへの転回つまり脱対象化である。僕の中で今この二つはキーワードである。

話をISSEYに戻すと、つまり私には彼の「図」を作る「対象化」によるデザイン原理がやや前時代てきなヒロイックなものに見えているのである。あえて対照的なデザイナーをあげるならアンリアレイジの森永氏の光との関係で絵が浮き出るようなデザインである。そもそもNON-DESIGNでありある関係性の中で見えてくるデザインである。こうした対象と周りの関係の部分を強調してデザインする態度が今必要なのだと私には思える。対象を特化して差異化するのは再びたた物質消費のサイクルを駆動する力になるようにしか見えないのである。つまり同じものでもその周りとの関係で変化するようなデザインである。

2015年12月19日

巨大作品を作るパワー

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森美術館で村上隆の五百羅漢図展を見る。配偶者があの巨大な作品を製作する村上工場の指示書が面白いよと言うので、乃木坂に来たついでに寄ってみた。村上隆はそのコンセプトに惚れる。でも作品には興味が無い。今回もやはり作品それ自体はただデカイだけだと思った。きっとアニメ好きなら分かるのだろうが、僕にはわからない。
しかしこの巨大作品を生みだす構想力と実行力。そしてその緻密さにはとても興味がある。なので見にきた。そしてその厖大なスケッチと工程表とチェック図にはある種の感動を覚える。

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