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2009年01月21日

ジム・ランビー

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原美術館でジム・ランビー アンノウウン・プレジャーズ展が開かれている。数色のカラーテープで床をストライプに仕上げる「ソボップ」や白黒のテープをやはり床にストライプに貼る「ザ・ストロークス」などの作品が有名である。今回はこのザ・ストロークスの手法で原美術館の展示スペースすべてが覆われている。いざ行ってみるとこのビニールテープのような仕上げはその下の床の凸凹やら、フローリングの目地などを上に透かしていることに気付く。普通アーティストは既存の何かに影響されず自己主張しそうなものだが彼のスタンスはそうでもない。つまり何かそこにあったものと新しいテープがスーパーインポーズされているのである。不透明なテープだが重ねられている感があるわけだ。さらにこのシマシマをよーく見ていると原美術館の円弧状の平面とどことなく呼応している。注意深く建物の形を引き立てるように貼られているように見えるのである。そう思ってカタログのインタビューを読んでいると、原美術館の円弧上の平面形について「建物のカーブについて語るような作品にしたかった」と言っている。そうなのだ。彼は既存に自分を重ねていくのである。既存が面白いとまた面白くなるような。まるでリノヴェーションなのである。一見そうは見えないのだがそうしようとしているねじれが彼の魅力のように感じる。

2009年01月11日

石内都

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石内都≪ひろしま≫シリーズより(2007年)「ワンピース」(広島平和記念資料館蔵

目黒美術館で石内都展が行われている。彼女の最新作である「ひろしま」、そして処女作「ヨコスカ」それに続く「連夜の街」、肉体に目を向けた、「1・9・4・7」「爪」「さわる」「BODY&AIR」「SCARS」「INNOCENCE」そして母の形見を撮った「MOTHER`S」が展示されている。展示も充実しているがカタログもまた大ヴォリュームである。展示写真はもとより、これまでの発表作品目録(写真集、単行本、雑誌)が付いている。これが100ページを超える。更に展覧会出品記録が付いている。これも60ページ余りある。毎年一回は個展をしているというのだからこんな分量になるのは当然なのだが、それにしてもそれらをすべて掲載したその表現意欲には頭が下がる。
言わずものがなだが、石内のような写真はその絵としての力に加えそこに写っている対象の意味に訴求力がある。現代アートから対象がなくなって久しい現代において、写真は対象をなくせないものだと改めて考えさせられた。対象はあってもその意味にこだわるかどうかは別問題なのだが彼女の画像からは視覚刺激以上の息苦しいほどの意味が飛んでくる。
先ず、横須賀を30年前に撮った「ヨコスカ」は米軍基地の周辺の英語とアメ車が見え隠れする荒涼とした風景が切り取られている。70年代安保後の米軍基地の存在が問われているし、こうした写真は70年代のこんな現場に立ち会っていた石内さんという存在に惹きつけられる。この風景にあなたは立ち会っていたんだ、僕は生きていたけれど立ち会えなかったという、そんな感慨である。写っていないモノに心動かされるというのはまさに意味のレベルのことである。
次に肉体シリーズ。ここでは病の肉体に興味が湧く。正直言うと興味が湧いたものの正視できない、したくない。自らの肉体の行く末を拒む気持ちと、それを乗り越えこういう画像に安堵を覚えられる日はいつのことかと自分を見つめるもう一人の自分がそこにはいる。その葛藤が結局自分をこれらの写真に惹きつける。
最後は「MOTHER`S」と「ひろしま」。対象は肉体にまとわりついていたいろいろなもの。そしてもちろんその肉体自体はここにはない。母の形見である下着や化粧品。原爆で焼け死んだであろう人々の洋服や靴。母と原爆の死者を同レベルで見るのはおかしいのかもしれないけれど、僕にはどちらも死によって残された何かである。そしてこれらは我々の眼前に登場し、「何故これらのものがここにこうして写真の対象としてあるのだろうか」?そんな疑問を湧かせる物体なのである。そしてその「なぜ」を喚起する物の側面とはその物体のゲシュタルト的な形象はもとより、あるいはそれ以上にそのもののミクロなほつれや汚れやテカリであろうかと考えさせられる。