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2006年12月29日

球体写真二元論

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細江英公の「球体写真二元論・細江英公の世界展」を見た。細江は義兄の師であり、義兄が舞踏を撮り続けていたせいもあり、土方を撮ったカマイタチなどの作品は見たことがあった。しかしそれ以上の作品に触れることはなかった。そんな時、展覧会と同名の著書「球体写真二元論」を読みその考え方に共感した。その主旨は、写真とは記録性と表現性という2つの極となるような特徴があるが、自分の写真はそのどちらかというものではなく(例えばキャパの写真は記録性が強いというような意味で)、その2つを両極とする球体の表面を彷徨というものだった。
そして、実は彼にこの一般的に言われる写真の二極性を突きつけたのは三島由紀夫だったようである。細江のデビュー写真集である「薔薇刑」は2年がかりで三島を撮ったものであり、その写真集の序文は三島自身が記したのである。細江は三島が写真の本質は証言性と記録性だと述べていることを紹介し、そして自分はそのどちらにも傾倒したくないということから、この球体写真二元論へと自らのコンセプトを傾けていったと記している。
展覧会場では薔薇刑の写真の撮り方はbaroque mannerであると書かれていた。何を持ってバロックであるのか、そしてバロックという言葉で何を言いたいのか定かではないが細江の初期の写真(薔薇刑とか男と女)では人体の輪郭線のコントラストあるいはその曖昧性がとても重要な表現要素になっている。そうした輪郭線の取り扱い、肉体の流動性、そして写真全体の持っている妖気のようなものをもってバロックなのだろうか?と記した人の思惑を想像した。
さて展覧会に来たのは、この『薔薇刑』が手に入るのではという期待も手伝っていた。確かに薔薇刑は売っているのだが、洋書判であった。三島の序文もそれゆえ英語である。証言性と記録性のところはこう書いてあった。
`It seems to me that before the photograph can exist as art it must, by its very nature, choose whether it is to be a record or a testimony. ・・・・・Hosoe`s art is, supremely, that of the  testimony 
「写真は証言性か記録性のどちらかを選ばざるをえず、・・・細江の写真はまさしく証言性である」と三島は断言しているのである。細江は少なからずこの言葉に抵抗を感じたのであろう。初期の肉体写真から後には写真絵本のようなももあり、その趣向をある位置に定めるのは難しいのは確かである。しかしそうは言っても細江の写真は三島の言うようにtestimony的性格の強いものが多いと私には感じられた。

2006年12月24日

日本絵画の近代

美術館に行くのも久しぶり。近代美術館で「揺らぐ近代」なる展覧会が開かれている。日本の19世紀後半から20世紀半ばくらいまでの絵画が並んでいる。三つほど好きな絵があったので紹介する。
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展覧会のカタログにも書いてあるが、黒田の「湖畔」は皆が日本画と思い違いをする。陰影表現から来る立体感がないから。加えてこの淡さと立体感の欠如がなんとなく日本画を思わせるのである。しかしこの立体感の欠如こそ時代がモダニズムに入り込む一つの関所のようなものだったと言えないこともない。黒田はパリでその臭いを嗅ぎ取って日本でそれを無意識に描出していたのかもしれない。

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浅井忠はフランス留学時代にアール・ヌーヴォーの影響をひどく受けた。それはこの絵を見れば一目瞭然であるが、なんともこのアールヌーヴォー経由の琳派の金に浮遊する農婦の姿は現代的である、黒田より一歩現代に近づいて来ている。

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そして熊谷の猫である、黒田、浅井から半世紀。もうモダニズムも終わる頃だが、対象の徹底した抽象(とはいっても猫の姿はあるのだから、そんな徹底したというほどでもないが)はマチスのようでもある。しかし素描に長けた熊谷の抽象とそのわざとちょっとうまへたな線は分野は異なるが、ミッドセンチュリーのフランクゲーリーという感じでもある。思わず笑いがこみ上げる。
しかし日本美術も世界と連動しているという展覧会の主旨は伝わってくる。

2006年12月10日

cosmosとしての秩序

orederという言葉を岩波の哲学事典でひくと順序という訳がでている。数学の<構造>概念を構成する重要概念の一つ。と記されてる。一方佐々木健一の美学辞典ではorederには秩序の訳語があてられ美の重要な要素となる。しかし一方で秩序という言葉は混沌の反対語でもある。混沌とは荘子の寓話ではノッペラボーの姿をした中央の帝であり、この帝は空間と時間を象徴する南北の帝によって目鼻口を穿たれたところ、死んでしまうのである。つまり、原初の無秩序(カオス)状態に秩序が働きかけて無秩序が消え秩序が残るという寓話なのである。そこでは秩序はcosmosである。
秩序という訳語はどうも2つの言葉、orderとcosmosに割り当てられている。そしてorederの方がどちらかというと配列や順序をしめす具体性を持っている。一方cosomosは人間環境秩序としての宇宙を示すものである。それゆえ建築の秩序は普通orderのことになる。またこのorderはアリストテレスのtaxisに由来すると言われている。アリストテレスは美の根源を秩序(taxis)、均斉、限定(大きさの)としたのである。
さてではこのcosmosの方の秩序は建築には馴染みの無い言葉なのであろうか?鶴岡真弓の装飾論を読むと、人間は星座に美を見出し、そこに人間が宇宙との関係性を感じ取ったのであり、その関係性の認識が装飾の起源であると記していた(ように思う)。最近僕はこの人間と宇宙の関係性の発露ということに興味がある。装飾の起源がそこにあると言われ、ヴォリンガーの『抽象と感情移入』によって理論付けられた装飾における抽象衝動の根っこはどうもこのcosmosにあるのである。
フォーティーによればモダニズムはorderをそれまでとは違う形で重視したのだが21世紀に重視すべき秩序はorederではなくこのcosmosのほうなのではないだろうか。

2006年12月03日

Rachel Whiteread

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Rachel Whitereadは1963年ロンドン生まれ。僕より4つ年下である。所謂デミアン・ハース等を含むYBA(young British Artists)の一人である。最近では昨年のテートギャラリータービンホールでのEmbarkmentが話題のようだ。
この作品も見てみたい気がする。しかしここでは彼女の違う側面についての話。
2002年にロンドンで行われた個展のカタログに掲載されたChristiane Schneiderの文章に注目してみる。シュナイダーは‘The Body and The City` と題した文章の中で、Whitereadの作品のスケールに触れている。シュナイダーによれば、Whitereadの彫刻はプロポーションに注意が払われていて、決して、建築的スケールの作品(House という実物大の建物にコンクリート充填したような作品)をミニチュア化しないし、家具スケールの作品(下図バスタブ等)をオルデンバーグのように巨大化したりはしないと述べる。

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続いて60年代の彫刻家ロバート・モリスの言葉を引用する。

自分の身体より小さいものは大きいものより本物とは異なって見える。物はサイズが小さくなれば身近に感じられ、大きくなれば、公共性を増す。

そしてシュナイダーはこう続ける。しかしWhitereadの作品は既述の通りスケールの意図的な変化行わない。そしてその作品はサイズと公私の関係が相対的であることを示しているという。その理由として彼女の作品が作品の独立性に依拠せず、常に周囲のものとの関係性の中に存在していることをあげるのである。

モリスの言うことも頷ける一方シュナイダーの分析はより現代的であるかもしれない。常に関係性の中でものを見ると言うこの現代の視線である。サイズが公私を分けるかどうかは曰く言い難い。バスタブ一つも見る側の意識の中では公かもしれない。しかしこの関係性という言葉が少々曲者でもある。全てはこの関係性という言葉に回収されかねない。そうした疑心暗鬼な向きには、テートの作品は何か新たな展開を見せてくれるのかもしれない。この馬鹿げた大きさにである。そしてこのホールにはWhitereadに限らずここだからできる巨大アートがよく並ぶ。この馬鹿でかさに触れてみたい気もする。残念ながら日本でこれほど大きなものを陳列できるギャラリーは無いのだろうが。