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2008年06月22日

若松事務所の集住

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若松事務所の集合住宅を拝見しに明大前に向かう。どんよりとした梅雨空。明大前の駅から線路沿いに歩くとメールを貰った外観のエレベーションが見えてきた。エレベーションと言っても開口部は殆どないコンクリートブロックがきれいに積まれた壁である。敷地の境界沿いは写真のように幅2メートルのアクセス空間でコンクリート平板を芝生の中に飛び石のようにおいてある。この法的に必要なアクセス路空間がこの密集地帯に風を通しているように感じた。甲州街道と井の頭通りに挟まれ井の頭線に近接するこの敷地が容積建蔽のかなり低い一住とは想像しなかった。そんな条件なのでこうした平べったい建築が可能なのだと分かった。建物は15戸の庭付き戸建が界壁を共有しながら連続する長屋となっている。こう言うプランニングをすると内側の住戸のプランニング(アクセス)が難しくなりそうなのだが、むしろそういうユニットの方が豊かな空間をとれているように感じた。コンクリートブロックを多用することで技術的に難しいところが多々あるようだがすっきりと解決しているように見える。ディテールは爽やかにこともなげに作られている。勉強させていただいた。この手の30平米近辺のユニットが並ぶ集住は全体構成で勝負して各ユニットはその構成に押しつぶされて本当にこれでいいの?と思うような建築がある中で、各ユニットが豊かな外部空間を確保できているというのが、敷地条件とはいえども巧みな解決だったと思う。そしてシンプルで静かな外観は一見電車の保線用倉庫にも見えるのだが、明大前あたりのごちゃごちゃした場所では、好感が持てるものだった。


2008年06月14日

エミリー

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昔オーストラリアにクライアントと建物を見に行った。そこで一番印象的だったのは、シドニーオペラハウスだったが、その次はカンガルーでも、コアラでもなく、アボリジニアートだった。色使いと自然の抽象化に独特なものを感じた。
現在国立新美術館でエミリー・カーメ・ウングワレーという名のアボリジニーアーティストの展覧会が行なわれている。やはり色使いは独特である。美しいのである。こうした民族アートはその歴史的背景や手法の影響関係やらその思想的位置づけなど、一般の西欧芸術などを見るときに頭に浮かんでしまうようなことを一切思い出す必要がない。素直に無心でああきれいだなあと思える。布を大地に広げてどちらが上ということもなく布の四方から書き進めていくのだそうだ。だから展覧会場でどちら側を上にするという指定がなく、学芸員が決めるとのこと。
さて影響関係はないと言ったものの。よくよく見ていると、抽象的な点描の書き方は草間 彌生のようだし、ランダムな線描はポロックのようでもある。また最晩年のべた塗りはデ・クーニングを思い出させる。時期的にはエミリーの制作の方が遅いので、もし影響があるとするなら、エミリーが彼等から受けたということになるが、まあそれは考えにくい。むしろ彼等の手法がある普遍性を帯びており、世界同時的に起こりうるようなものなのかもしれない。

2008年06月07日

青木淳とピーター・メルクリ

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数日前から近代美術館で青木淳とピーター・メルクリの展覧会が開かれている。そこでオープンの日にそれを覗いた。大量のメルクリのドローイングと大量の青木さんの模型が展示されている。メルクリのドローイングはプロジェクトとは何の関係も無いもののようである。言ってみればコルビュジエの絵画のようなものだが、それでも対象は建築だし、A4の紙にマッチ箱くらいの大きさで描いているのだからこれを絵画と呼ぶのははばかられる。では建築が対象なのだから何を表現しようとしているのか分かるのかと言えば、これば分からない。わざとか本気か分からないがドローイングが思いっきり稚拙なのである(と見せているのである)。一方青木の模型は40個近くある。これらはひとつのプトジェクトの進捗過程を示すものである。しかし全て1/100模型でありそれ以外のスケッチやディテール、内観の模型などは展示されていない。プロジェクトの進捗に沿って並べてあるし、そこに青木さんのコメントも載っているのだからそのストーリーが分かりそうなものなのだが、こちらもやはりわからない。何故分からないのかと言うと、Aの模型からBの模型へ移るときに青木さんの説明がなんだかよく分からないからである。理路に沿って展開する意志を放棄しているからである。
なるほどなあ、二人を並べて展示するのは、そうした無目的的な建築の創作というものを示したいということなのかあ!というのが両方見ることでおぼろげながらに感じ取れる。それはまさしく青木さんのものの作り方なのだろうから、その意味でこの展覧会の目的と展示は見事に合致しており見るものに伝えたいことを伝えたということになる。
ここまでは展覧会評のようなものである。一方もう少し私的な感想がある。それは青木さんの建築の作り方への憧憬というようなものである。つまりさっき言ったように、AからBへ移るときのロジックの拒否のようなものに対する憧れである。憧れているなら行動に移せば良いではないか。ということになるのだが、どうもこれは簡単なようで難しい。事務所であろうと大学であろうと、そうした作法は自分の内面では予測可能なのだが、人に託す状況においてはまったく予測不可能なことになってしまうから。それはそれで不安なことである。そんな弱音を吐露しても仕方ないのだが、、、、
つまり青木さんの創造というのはゴールのないマラソンを延々と走るようなものである。そして誰かが「止めたら」という時に止まり、そのゲームが終わる。そんな感じなのである。