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2011年11月20日

建築、アートがつくりだす新しい環境


東京都現代美術館で「0年代のベルリン」展と「建築アートが作り出す新しい環境」展をやっている。ここまで来たので両方見た。ベルリン展もそれなりだけれどとりあえず後者の感想。
建築の展覧会はどんなに頑張ったって「そのもの」があるわけではないから美術館でやる展覧会としてはちょっと他のアートとは違う。彫刻家がその写真とコンセプトだけを展示するようなものである。だから建築家は次のどれかをするしかない。
① アーティストとなって建築とはおよそあまり関係ないものを創作する
② 建築創作の思想をそれに代わる詩的言語あるいは造形物で代替する
③ 徹底して本物を彷彿とさせる何か(映像だったり巨大模型だったり)を提示する。
さてそうやってみると①を選択した人は悪いけれど建築家が本物のアーティストにかなうわけないのだからやめた方がいい。なんだか全く迫力が無い。②を選択した人は残念ながら伝わらない。その本物の脇にそうした思想の根源が置かれているならまだしも、美術館に置いて見る側にそれを想像しろと言っても無理がある。だから結局③をとるのが賢明だと僕には思える。その意味で今回の展示物で最も素敵だったのはヴィム・ヴェンダースの≪ロレックスラーニングセンター≫の3D映像である。近未来映画のようなシーンはフィクションとノンフィクションのボーダーに見る者を誘う。

p.s.ニーダーマイヤはポスターにもなっていて凄く見たかったのだが何処にも展示されていないのはどうして?

2011年11月19日

感じる服考える服展


オペラシティのアートギャラリ―で感じる服、考える服―東京ファッションの現在展覧会が行われている。この展覧会、10人のデザイナーの展示それ自体も気分が和らぐ楽しいものが多いのだが、それにも増して中村竜二の会場構成にちょっと驚く。だって目線の高さにずーっと梁がかけられていて先が見えないのだから。いい悪いは別にして展示物より存在感がある。カタログに会場構成の考え方が4ページにわたって載っているのも会場構成の存在をアピールしている。それによれば服は人体あっての服なのだから、展示も場所あっての展示でよいのでは、という発想のもをとに会場を20に区切ることを考えたと言う。それはいろいろな方法があるがその中からこの梁をかけ渡すやり方を選んだそうだ。
これは中村竜二の繊細な技からはかけ離れた無骨でなんのヘンテツモ無い、本当にただの白い梁なのである。ただそれが高さ1メートル50センチのあたりにあるのだ。
僕は展示のファッションを見ながらだんだんと違うものを見ていることに気付いた。それは生身の人の着ているファッションである。
普段僕らはしげしげと人の着ている服をみることはできない。素敵だなと思ったってせいぜい2秒である。それ以上見ていると怪しげな輩になってしまう。しかしこのバーがあるとお互いの目は見えないからしげしげと見ている自分が相手には分からないのである。これは結構不思議な感覚である。面と向かって3メートルくらいの位置でその人の服装をじーっと凝視していても大丈夫である。
これこそが今の東京のファッション観察である。展示が無くても十分展覧会の目的が果たせると言う意味ではこの会場構成は凄いものである。