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2008年04月29日

日光、月光菩薩

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聖観音菩薩立像
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日光菩薩像

国博で行なわれていた薬師寺展を見てきた。昨日はNHKスペシャルで薬師寺とともにこの展覧会が紹介され、以前情熱大陸ではこの展覧会の照明、ディスプレイを担当した木下史青氏が紹介されていた。それ以外にも今後かなりのテレビに紹介されるようである。なかなかspのうまい展覧会である。そのせいかとにかく9時半に開場のところ9時に行ったがもう行列である。後から後から人である。国博の2階は中央階段をあがると左右に二つの展示室がある。登ってみると第一展示室はもう相当混んでいた。そこで第二に入る。こちらにも国宝吉祥天像(A4大の布にかかれた吉祥天の絵)が展示されている。国宝ではあるがこれが目当てで来たのではない。さっさと第二を見て回る。もちろん見たいのは第一展示室にある日光、月光菩薩である。しかしそのメインイベントを見る前に登場したのが、聖観音菩薩立像(写真上)である。奈良時代のブロンズ像で国宝である。この後登場する二つの立像に比べての話だが、真っ直ぐ立っていて、そして、お腹が出てない。この立像は1メートル88センチと人間並みだが、この後登場する二つの立像月光(がっこう)菩薩と日光菩薩はそれぞれ3メートル15センチと3メートル17センチである。そしてこの高さの仏像の顔を正面から見られるようにスロープで上がる高い物見台が作られている。そして木下氏の照明がよいのかとても表情が良く見て取れる。これは博物館だからなせる業である。展覧会なんて所詮出張販売のようなもので今ひとつと思いがちだが、こうした視点や照明は現地では得られぬもの。さてそうして拝見したお顔(思わず「お」を付けてしまいたくなるような)は実にふくよかで優しい。なんとも言えず幸福をもたらすようなありがたさを感じる。こんな形容詞は幾ら並べても効き目がないので是非一度見てみるとよい。数年前、家族で仏像の顔を描きに京都に行ったのだが、こんな顔はあまり無いと思う。さて次に気になるのはこの姿勢である。このS字に曲がった腰を張り出したこの姿勢は独特である。帰宅後なんどもポーズをとるのだが、男の私にはどうも上手くいかない。かみさん曰く、女性がとりやすいポーズだとか。そうなのかもしれない。菩薩は女性ということになっているのだろうか?菩薩は仏像の中でも一番優しい顔をしているし、お腹の皮下脂肪のつき方も実にリアルに女っぽい。

2008年04月27日

ターナー賞

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クリス・オフィリ 「ノーウーマン・ノークライ」1998『英国美術の現在史』森美術館2008より

昨日から六本木の森美術館で「英国美術の現在史-ターナー賞の歩み-」展が開かれている。風景画の巨匠ターナーの名に由来し、賞を主催するテートギャラリーがターナーの作品を多く所蔵しているということでこの名がついている。しかし風景画を対象とした賞ではない。純粋に現代美術に与えられる賞として84年に始まったものである。それほど古い歴史があるわけでもないが、現代美術の賞としては世界的な権威になりつつあるようだ。
僕の好きなアーティストも多く受賞している。86年受賞のGilbert&George。僕は97年頃、パリの美術館で彼等の大個展を見たときから好きになった。ユーモラスな政治風刺が特徴である。91年受賞のAnish Kapoorを知ったのはそんなに古くない。テートの新しいギャラリーに作った巨大彫刻を知ってから好きになった。その後金沢21世紀やフィレンツェのグッゲンハイムなどで彼の作品を見たが視覚を歪ませるような目への挑戦がいつも刺激的である。 93年受賞のRachel Whitereadは壊される建築の内部を石膏でとって保存するなど、空間的な作品が多い。95年のDamien Hirst, は言わずものがな。切断された牛の親子の本物が今回展示されている。衝撃的である。2000年のWolfgang Tillmansの何でも食ってしまうような写真の撮りかたはどこがいいというわけでもないのだが今風である。
さてそんな既知のものに加えGillian Wearingの親子喧嘩のヴィデオ逆回しは岩井俊雄のオルゴールの逆回しを思い出させる。また警察官数十名を1時間静止させて整列させてヴィデオに納めた作品もなかなか興味深い。またChris Ofiliの点描画は普通の構図が繊細さを併せ持ち、惹かれた。
現代美術は極めて個人的かあるいは政治的なイベントと化している。しかしカプーアやオフィリの作品は対象とその技術を見せてくれる。そうした行為ももう一つのアートの形式として、あるいは本来のアートのありようとしてまだ力があることを示してくれる。

2008年04月12日

肌色

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《陽光のなかの裸婦(試作、裸婦・光の効果)》
ピエール=オーギュスト・ルノワール
1875-76年頃 オルセー美術館
© Photo RMN/H. Lewandowski/digital file by DNPAC

リーテム東京工場を設計した時に外装の色を肌色にしようと思った。肌色というのは自然の色でありながらあまり建築には使われていない色ではないだろうかと思ったからである。しかしよくよく観察しているとコンクリートミキサー車とか生コンの工場などで肌色は使われている。しかしのっぺり使うのではなく数色のランダムで使えばもっと自然らしいのではと思い、リーテムでは肌色周辺の色を4色使った。
今日文化村でルノワール展を見た。ルノワールらしい豊満な女性ヌードを含めて人物の肌が気になって肌の色を見ていたのだが、どうも肌色というのは肌色を中心に濃淡の数色で構成されるものではない。肌の色とは肌色と赤と青と白で作られていることがわかった。静脈の青筋が網目のように入ると透き通った肌色の感じになる。白が入ると光あるいは本当に白い肌が生まれる。赤は白の強調になると同時に紅潮した頬の色である。という風に肌の色は肌色だけでは表現できないものであることがよく分かった。