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2007年09月29日

風俗・風景の発見

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オランダ風俗画を集めた展覧会が国立新美術館で行なわれている。フェルメールの「牛乳を注ぐ女」がその目玉として展示されている。17世紀オランダは東インド会社を設立し、海上帝国を築いた。これによって巨万の富を蓄え富裕層が生まれ彼らがパトロンとなり多くの優れた画家を輩出したといわれている。そしてそれまでの宗教的モチーフから新たに風景画や風俗画と呼ばれるジャンルが生まれた。
よく言われることだが、こうした新たなジャンルが生まれるということはこうした対象が新たに人々の興味を惹く対象となったことを意味する。例えば風俗画の対象となったものとしてこんなものがある。女性、家族、室内、貧富、酒場、今までどうでもよかった日常の一コマ、あるいは社会現象というものが人々の興味にあがってきたということである。人々が興味を抱くのと画家が描くのとどちらが先かはよく分からない。多分並行的な現象だと思うのだが、いずれにしても火の無いところに煙は立たない。
フェルメールから約400年後の我々は風俗画というひとつの絵画のジャンルを知っていて脳みそのそういうジャンルのひきだしの中に見た画像を記憶するようにできている。そしてそのジャンルの今までの記憶や言説に照らし合わせながら今見たものを鑑賞するようしつけられている。
さて同様に風景というものもこの頃人々の関心の対象となったのであろう。風景画というジャンルもこの頃できたようである。菅原潤さんという方の書いた「風景/風景化と倫理」なる論考によれば風景とは景観を受容者が対象化してそれをその主体として了解することによって初めて生じるものであると言う(和辻論理からの引用であろう)。これは大変な作業である。普通我々はいい風景というものを教育されるものである。世の中にはいい風景というものが決められている。そしてそういういい風景はまた異国のいい景色から学んで選択されていたりするのである。例えば昭和2年日本八景が選定された。この選定を支える美意識は中国の瀟湘八景の焼き直しだと内藤湖南が指摘した(菅原)。これが示すとおり新鮮な風景の発見というものはなかなか無いものである。我々は誰かが発見して対象化したものを一つの価値として受け継ぐようにできているものである。そういう中にあって自己が主体的にある景観を了解して風景化することはこれからの風景論に欠かせない。近年話題のテクノスケープなどはその例である。17世紀のオランダのアーティストが風俗的主題を発見したように21世紀の日本人は新たな風景を発見できるだろうか?風俗画を見ながら風景に思いを募らせた。

2007年09月16日

高さと大きさ

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今年の夏は期せずして、イタリアの古都を巡りそう日をおかず日本の古都を訪れた。イタリアは建築を見る目的だったが、京都は別の目的なので古い寺社を二つ見ただけだった。しかしそんなわずかの時間だが過去は過去を呼ぶ。知恩院の伽藍の中に身を置きながらその薄暗さがサンピエトロの闇を彷彿とさせる。周囲にいる外人観光客を見る自らの視線の向きがイタリアでは逆だったのだろうと想像しながらローソクならぬ賽銭を投じて祈る。そしてカメラを構えながら思う。日本の伽藍は横一の画面でなければ納まらない。彼の地ではだいたい縦一である。縦にしないとあの高さは入らない。言うまでも無く西洋の伽藍は東洋のそれに比べて高い。それは中世近世に限らず、古代を振り返ってもピラミッドと古墳を比べれば前者は後者の3~4倍くらいの高さはあるだろう。もちろん日本にも塔の歴史はあるのだが、塔は空間を作るものではなくシンボルでありランドマークである。
一体この西洋の縦と東洋の横は何が理由なのだろうか?構造的問題か?石の方が木より高さに強いとはなかなか考えにくいのだが?地震というのなら地震の無い中国には背の高い建物があってもよさそうであるがそうでもない。もっと宗教的問題なのか?天との関係がキリストの方がより密接ではある。しかしそれなら宗教以前のピラミッドはなかなか説明がつかない。
知恩院を見た次の日京都造形芸大の植南先生の勧めで南禅寺金地院の庭と小堀遠州好みの八窓の茶室を見た。ここには長谷川等伯のかの有名な「猿猴捉月図」がある。等伯の猿は現在3点現存するそうだがその1つである。更に狩野探幽とその弟の尚信の作と言われる襖絵がある。植南先生曰く、この庭も茶室も襖絵もすばらしいのだが余り知られておらず人もいなくていいとのこと。確かに来ている人は理由のありそうな人ばかりである。静かにゆっくりとこれら貴重文化財を鑑賞できたのだがやはり、日本の近世はイタリアの同時代を蘇らせる。フレスコ画と襖絵が重なるのである。ミケランジェロやラファエロと狩野や等伯の質を比較するのは意味があるのかどうかは別として、両者の大きさが異なるのはどうも客観的事実である。日本の絵は西洋の絵に比べて小さい。せいぜい大きくても二条城の襖絵くらいが上限か?フレスコ画のスケールには及ばない。しかし一方で偶像を禁じなかった仏教では絵ではなく仏像が巨大化したり量がつぎ込まれた。伽藍は絵で満たされなかったが彫像で満たされ、絵は小さく発展したということか?
垂直性と大きさ、水平性と小ささ、そんな対比を感じる京都の一時だった。

2007年09月12日

モダンの並走

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ジョージ・マイアソンが『エコロジーとポストモダンの終焉』野田三貴訳、岩波2007(2001) の中で一風変わった指摘をしている。この本は原著のタイトルはpostmodern encounters ecology and the end of the postmodernityでありポストモダニズムがエコロジー問題に直面してそのポストモダニズム性を終了させたと言うものである。そして本書の内容は原文のタイトルが示すとおり、モダニズムが科学というメタ文化によって駆動していたのに対してポストモダニズムがその科学への一元的な信頼に疑義を提示し、しかしまた現在エコロジーにまつわる科学的言説がメタ文化になりつつあるというものである。ここでメタ文化と言っているのは抗しがたい文化誘導力のようなものである。確かにモダニズムとは文化の様々なジャンルが(芸術をも含めて)科学へ憧れ科学的であることが1つの規範になっていた。そこでは科学は拡大解釈され工業的なものも是となったと言ってもいいかもしれない。それに対し、ポストモダニズムは様々な形で疑義を呈したものの、現在のエコロジーは前世紀の初頭に科学が持っていたと同等な抗し難い力を持ち始めたというのである。著者はそれゆえこうした現在は再びモダニズムであるという言い方をする。時代の命名はともかくとしても科学に対するこうした認識はあながち間違いではないと言えるであろう。
こんな本を飛行機の中で読みながらこの3日滞在した中国を思い出しながら少し考えさせられた。帰りがけ上海郊外の大倉(たいそう)からプードンの空港に向かう途中上海市内を通った。1年前来たときには姿かたちも無かった(と記憶するが)新たな森ビルの超高層がほぼ完成していた。設計者はアメリカのKPFである。これまで上海1高かったジンマオタワーの道路を隔てた目の前に建っている。もちろんジンマオより遥かに高く現在上海1高い超高層になろうとしている。上海に雨後の筍の如く超高層が立ち上がるのはもちろん中国経済の好調の反映であろうが、一方でそれを支えているものの一つは世界的な企業技術の積極的な誘致である。そうした科学技術への期待がこの林立する超高層に滲み出ているように私には感じられた。その意味では中国は「まだモダン」なのである。
一方私の中国滞在の目的であるリサイクル工場の建設地である大倉には数百というリサイクル施設が世界中から誘致されようとしている。ゴミの分別さえ行なわれていない、この国でリサイクルへの国を挙げての積極的な運動はマイアソンが指摘するように、もはやエコロジーが抗しがたい科学的結果として突きつけられていることの証と思われる。その意味ではここで起こっていることは「またモダン」である。と言うことになる。
マイアソンの指摘はモダンに続いてポストモダンが起こり、そして再びモダンが起こるという順番なのだが、ここ中国では最初のモダンと後のモダンが横並びであるかのようだ。中国の現代史を正確に知りもしない人間がなんとなく状況的な事実だけを捕まえて思うことであるが、この横並びを見るとき、一体中国にはポストモダンと言う状況はあったのだろうか?もちろん建築のデザインやなどにはグローバルなデザイナーがその時代を刻印して言った結果としてポストモダニズムのデザインは存在する。しかしそれは中国の思想とは思いがたい。つまりは一貫して科学は抗しがたいメタ文化だったのではないだろうか?
このモダンの並走を見ながらふとそんな気持ちに駆られた。

2007年09月05日

マザッチョ

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ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画の部分だけだが岡崎乾二郎の『ルネサンス経験の条件』を再読してみた。岡崎氏が自らその発見に身震いしたと記してあるその発見はおよそ次のようなことである。このフレスコ画はコの字型平面の壁に2段に描かれ全部で12枚の絵で構成されている。これらの絵は3人の画家によって時期もずれながら完成する。この絵画はおよそルネサンスの巨匠と呼ばれる画家の多くが訪れ、学び、影響を受けたということになっている。岡崎はこの絵画がこれまでイコノロジカルに、あるいは3人の画家の担当部位について分析されてきたことには触れず、これらの絵の左右の4枚に注目する。そしてその4枚のうち左の上下2枚を重ね合わせ、右の上下2枚を重ね合わせる。更に左の上段と右の上段、左の下段と右の下段を重ね合わせる。重ね合わせた図像が単独では持ち得なかった効果と意味について論じるのである。
人間の透視図的な視線が左右の像を自らの表象において重ね合わせるのか否かそれは確たる根拠はないのだがこうした読解の可能性を岡崎は受容の側からではなく、制作の側から分析する。その根拠として岡崎はマザッチョがフレスコ画を描くときに、原寸大の下図を描きそれを壁面にピンで落として込んでいたという事実に求めるのである。その下図が逆側を描いた人間の参考図となっていたのではなかろうかというのが岡崎の読解(推理)である。確かに時期も人間もずれて完成した1つのまとまった壁画において、全体の統一性を3人の画家が求めていたであろうことは想像に難くない。そう考えれば彼の読みが(その真偽は別にしても)にわかにスリリングなものに思えてくる。
やはり本物を見てみないことにはこの手の読解は全くといっていいほど理解できないことである。