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2006年02月25日

私の嫌いなよく聞く言葉

難波和彦氏がブログの中で東大の卒計について批判的にこう記している
「どこかで見た建築的手法、誰もが反論することのできない正しいテーマ設定、あるいはすでに卒業設計の敷地として使い古されているような場所での提案が多く、自分が戦うフィールドを予め限った上での、こじんまりとした提案が多かったことは残念である。」
この言葉の中で「誰もが反論することのできない正しいテーマ」への批判は共感する。僕の大学でも卒計、修士設計ともども皆先ずここから始まる。これはどう考えても弱気のスタートだ。正に難波氏の言う「こじんまりとした提案」へと向かう第一歩なのである。なぜならこうした倫理的に正しいとされる概念はその言葉が終着点となってしまうことが多い。その言葉以上に論理的に考えを深化させにくいし、安心して発展せず思考停止へと向かうのである。
煮ても焼いても食えない僕の嫌いなそんな言葉を三つほど。

1位:なんと言っても一番嫌いなのは「気持ちいい」。これは「かっこいい」と同程度に幼稚である。あなたの気持ちいいと私の気持ちいいが同じだという保証はない。カントを持ち出すまでもなく快不快の感情は共有できないのである。
2位:次は「自由」。これは下手に否定すると墓穴を掘るのだが「気持ちいい」に続いてあまりに安易にだれでも使う。政治的な含意の正当性が建築において理由もなく適用可能となってしまう。自由は不自由があってこその概念のはずである。野原の真ん中にいることは決して自由ではないはずだ。
3位:「環境」これも反論しようのない正しいテーマである。建築を設計することはどう考えても環境にプラスになることはない。先ずそこを理解したうえでこの手のことは主張しなければならない。さらに環境の様々な要素はコンパティブルとは限らない、つまりこちらを尊重すればこちらが駄目になるものである。評価の方法はかなり複雑。だからかなり条件を限定した評価になることが多い。しかし限定された環境評価など意味はないのである。

先日読んだ仲正昌樹『デリダの遺言』で著者は「生き生きした言葉」が尊重される昨今の社会の風潮を危険視している。生き生きしていればそれでいい、言葉がステレオタイプ化されることへの警鐘を鳴らしている。上記の僕の嫌いな言葉はこの「生き生きさ」につながるところかもしれない。人間は生き生きした言葉や活動をなかなか否定できない。この否定できない正しさは反論できずステレオタイプ化し思考停止を招くのである。しかし上記言葉も本当はとても奥深い概念であり、この手垢のついた状態で葵の御紋のように使うことにイライラするのであり、真摯に思考する対象であることは否定しない。

2006年02月18日

子供力

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六本木ヒルズの展望台のカフェはお勧めである。土曜の12時半なのに200㎡くらいの窓際の細長いスペースにお客さんは6人しかいない。ぼくの座っているテーブル幅4メートルくらいのところには僕しかいない。そこで今日買ったカタログやら本やら広げてパソコンを開いてランチセットのサンドイッチを食べる。前方には幅20メートル180度の視界が広がる。左端に防衛庁と赤坂離宮、よく見れば僕のマンションもあるはず。正面に国会と皇居、やや右に先ほど行った汐留、右端は東京湾である。このワイドビューを独り占めしている快感。1時間半が経過今二時。人は減り、ついに僕一人の個室となった。キーをたたく音が部屋に響く。まるでテレビドラマの一場面のようである。
午前中、汐留の松下電工ギャラリーでやっていたアスプルンド展を見てきた。「森の礼拝堂」の屋根の巨大さが目を惹く。三角形の屋根の高さは屋根下の壁の高さの2倍ある。このプロポーション。このきのこのようなプロポーション。どこかで見たことがある。そう「ガエハウス」である。一昨年、『10+1』にガエハウスのプロポーションはきのこだと書いたが、アスプルンドはその元祖だったのである。そう言えば去年塚本と飲んだとき「アスプルンドいいよねえ」と言っていたのを思い出した。
汐留から六本木は地下鉄大江戸線で5分。ついでなので森美術館の東京/ベルリンーベルリン東京展を覗く。これは19世紀後半から現在までの日本ドイツ交流史展覧会である。内容が多過ぎて消化不良を起こしそうになるのだが、幸い最近ドイツ近世史について書かれた新書本を5~6冊読んでいたので、なんとなく登場人物が馴染み深い。と言っても、別段特に興味のある人間が沢山いるわけでもなく漫然と眺めていた。唯一興味深かったのは「60年代の前衛芸術、フルクサス、ポップ、新表現主義」というセクションに登場する、中西夏之である。名前は聞いたことはあっても別に気にも留めていなかったのだが、今日は目にとまった。白いキャンバス5枚に釘を打って、そこに千個くらいの金属の洗濯バサミをランダムにつけた「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」と題した作品。これがなんだかとても良い。この良さはなんだろうと考えていたら思いついたのが娘の小学校の文化祭で飾られていた小学生の図工の作品である。その共通点は①技術的な稚拙(原初)さ、②主張の非判明性(要は何言おうとしているのか良く分からないけれど熱意だけ伝わるみたいな感じ)、③材料の素朴さ。などである。まあ一言で言うと、「子供力」。小学生のお絵かきとかにたまに強烈な訴求力を感じるときがあるでしょ?あれ。
ところでこの「子供力」先ほど見てきたアスプルンドにも強く感じたのであった。(無理やり繋げているようにも聞こえそうだし、もしかしたら無意識にそうしているのかもしれないが)。アスプルンドにもなんともいえない稚拙で非判明的「子供力」が漂っているのである。
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2006年02月12日

設計行為の意味

先日某プロジェクトのプレゼンをした後で当日来られなかったお年をめしたクライアントの一人からメールをいただいた(この方には出席された方が資料を渡してくれた)。「私の要望がまったく考慮されていない」とのお叱りであった。この手の行き違いはプロジェクトの最初の段階にはよくあることであり、あまり驚きもしない。特に住宅の場合、しかもお年寄りであれば自らの数十年の生活を引きずっているのであり、それを数回の打ち合わせで聞きだせると思うほどこちらも楽観的でもない。
しかしこちらもプロとしての沽券があり、丁重にお詫びをしながらも建築家たるものクライアントの条件を鵜呑みにするものでもなく、潜在的なクライアントの豊かさをも射程にいれての計画であることを知らせる。

さて、こうしたプロジェクト初期におけるクライアントの違和感とはその方の培ってきた個人的な生活に起因する問題なのだろうか?否、そうではない。それはクライアント一個人の習慣ではなく、クライアンをとりまく社会が作り上げてきたたものに起因する。建築史の教科書を紐解くまでも無くある時代には、ある時代のある階層(つまりはある個人をとりまく社会)特有の建物および生活のスタイルがある。そのスタイルは様式などとも呼ばれある一定期間存続することになる。現代はそうしたスタイルが希薄にと思われがちだが確固として存在する。そして家の建て替え時に、クライアントはこうしたスタイル(文化構造と言っても良いだろうが)の再生産をイージーに行う方向に流れるのである。自分にとって最も身近なモデルを規範としてそこに新たなニーズを適応させるというのが最も簡単で楽な方法なのである。
これが所謂構造主義的な事態の捉え方である。そしてクライアント、建築家はそうした文化再生産の一要素としてメカニカルに動いていると言える。しかし一方で、当然僕等建築家、そしてクライアントも社会のそして自らの殻を破りたく、文化構造からの規制を破り、新たな挑戦が行われるのである。社会の慣習的行動(社会構造)をハビトゥスと呼んだブルデューの有名な定式「ハビトゥスは『構造化する構造』にして『構造化された構造』」の意味もギデンズが行為は構造に規制されつつも新たな規則を生み出していくという構造の循環的二重性という概念もみなこのシステムを破ろうとする行為の主意主義的な原理に着目してのことである。
話は原理的なところにそれたが、設計という行為は常にこの住み方やら使い方の習慣がつくりあげた幻想的な善に大きく規定されつつも、そのシステムに対する懐疑、本当に自らの欲するものへの洞察がそうしたシステムを更新するその葛藤の中で行われていくべきものである。そしてそれだからこそ設計という行為の存在意義があることを設計者もクライアントも了解してなければならない。つまり設計者は何に対して対価をもらっているのか、クライアントは何に対して払っているのか、を双方よく自覚して始めて意味のある設計行為が生まれるのである。

2006年02月04日

カワイイ その3

『かわいい論』の参考文献だった二つの異国人による日本文化論を読んでみた。一冊は最近の本でアメリカ人、ドナルド・リーチ著(松田和也 訳)『イメージ・ファクトリー日本×流行×文化』、青土社、2005。もう一冊は20年以上前のもので韓国人イーオリョン著『「縮み」志向の日本人』、学生社、1982である。後者はそのタイトルが示すように、様々なものをダウンサイズする傾向のある日本文化を例示する。盆栽、生け花など。四方田も『かわいい論』で述べていたが、今から見れば別にダウンサイズは日本だけのものではない。ドールハウスなど欧米にもミニチュア志向はあるのだが、20数年前にこの指摘は斬新で、各新聞の書評で新たな日本文化論と賞賛されたようである。一方前者はと言えば日本の映画評論で有名(だそうです僕は知りませんが)なリーチの最新日本文化論で、ファッション、カワイイ、風俗産業、マンガ、パチンコ、ケーターイ、コスプレ等から日本を語るものである。ファッション、マンガなどという名詞と同列にカワイイという形容詞が並んでいるところが、言葉の位相を破ってまでも、見出しとせざるを得ないカワイイの言葉の存在力を物語っている。ここでのリーチなりのカワイイの意味合いは愛らしさであり「子供っぽさ」のようである。そしてこの子供っぽさは西欧では大人が持っていてはいけないものであることから、日本人の独自性として捉えている。
ここで外人日本人文化論にたいするお定まりの批判をするならsmallnessもchildishもkawaiiのある一面だという言い方はいくらでもできようが、そもそも意味が不定形なこの言葉を厳密に追い求めてもどうも空しい。使われ方も意味内容も推移しているようである。小六の娘に「きもかわ」とか「へんかわ」という言葉使いをするか聞いたら、「それはおかしいんじゃない?誰も使わないよ」と言っていた。でも「かっこかわ」とは言うよとのこと。かっこいいとかわいいの合成語らしい。おお新たな「カワイイ語」である。なるほど、と思ったのも束の間。「私は使わないけれど」とも言っていた。
カワイイは変遷する。