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2009年04月18日

ヴィデオ

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Thomas Demand video stereo colour soud 1:40 2007

国立近代美術館で「ヴィデオを待ちながら―60年代から今日へ」という展覧会が行われている。現代のメディアアートとは少し違うのだろうか?なんたって「ヴィデオ」である。60年代の芸術の終焉とともに芸術からの逸脱として登場としてきた様々な映像群である。知っているアーティストが多い。ヴィト・アコンチ、トーマス・デマンド、ダン・グレアム、ゴードン・マッタークラーク、ブルース・ナウマン、デニス・オッペンハイム、ロバート・スミッソン、リチャード・セラ、ビル・ヴィオラ、アンディ・ウォーホール、
1965年のウォーホールの「アウター・アンド・インナー・スペース」という16ミリフィルム作品がヴィデオアートの嚆矢として紹介されていた。ウォーホールがメディアアートの先駆けと聞くとちょっと驚く。他にも、この人がヴィデオを作っているのか?と思うような顔ぶれが散見される。たとえばトーマス・デマンド。もともと彫刻家である彼は作った模型を写真にとるのだが、ここでは写真ではなくヴィデオである。静止した背景の中で一部(ヴィデオカメラ)が動いている。これは模型ではないのだろうか?鉄の壁の彫刻家リチャード・セラが色をテーマとしたヴィデオを作っている。セラが色?というのも意外な一面。ロバート・スミッソンによる「スパイラル・ジェッティ」の制作風景は初めて見た。これはまさに護岸工事である。巨大ダンプが巨大な石を運んできては湖に埋めていく、その繰り返しである。ゴードン・マッタークラークも同じだが、彼らはできた物がいつか壊される宿命にあるのでヴィデオは作品の重要な一部なのである。会場デザインが西澤君によるものだった。ベニヤ板を主材料として組まれた壁やモニター台、そして椅子のデザインが展覧会っぽくない。説明のキャプションも普通のスチレンボードではなく、壁にテプラ張り。どちらも新鮮な展覧会風景を作っている。

2009年04月05日

巨匠と若手

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東京都現代美術館で池田亮司展が始まった。こんな展覧会が行われるのもの長谷川祐子氏がキュレーターとして移籍したからだろうか?世界的に有名なアーティストとはいえども宮崎駿ほどではない。案の定会場は森閑とした静けさである。この美術館がちょっと前までポピュラーな展示を志向していたころは美術館付近には人があふれていたものだが、今日は誰もいない。また休館日に来てしまったか?と冷や汗だったが、ドアは開いた。人がいないだけだった。
しかし作品は極めて質の高いものに仕上がっていた。巨大な黒い部屋と白い部屋の二つの部屋が用意されている。黒い部屋に10個の白い映像と大変巨大なデーター映像(今まで見たメディアで一番大きいと思う)が延々と流れつつ一定のリズム音が流れている。白い部屋は床まで完璧に白くするために白いフエルトが敷き詰められ靴を脱いで上がるようになっている。純白の空間は巨大写真スタジオのようである。そこに黒いスクエアが10個近く壁にかけられ、黒い巨大スピーカーが5つ並べられまた一定のリズム音が刻まれている。音の詳細は僕にはよく分からないが、例の池田亮二の音である。
音もインスタレーションも一言で言えば(こう言うのを一言で言ってはいけないこのだが)ミニマルである。なんて垢の付いた言葉しか思い浮かばない。加えてカタログの帯に書かれた浅田彰の言葉「多様性の<美>よりも無限の<崇高>へとむかう21世紀の<崇高>美学」を読むとつい安直な理解に誘われる。そしてとても分かりやすく、美しく、心地よいものとして展覧会全体がすんなりと了解されてしまう。そんなんじゃいけないと、もう少し発展的に彼の思考を追っかけてみる。池田が音でも映像でも微小な単位に還元しようとするその方法が僕には何か示唆的である。例えば建築に置き換えるなら、機能的なプログラムなり機能的なディテールを考えるとき僕らはそれをある要素に分解してその構成を考えるものだが、だいたいにおいてその要素の分解は習慣的である。最小単位まで分解して考えることなどありえない。池田の姿勢からヒントをもらうなら、もう少し徹底して細かに還元することもあるのかもしれないとその可能性を感じる。それは少し昔東浩紀が言っていたようなデーターベース的なことかもしれないが、実は僕らの判断プロセスと言うのはよく言えばかなり合理化されているし、悪く言えばいい加減極まりない。本当はもっとさまざまな要素の複合になるはずがいろいろなことを割愛しているものである。そんな反省も含めて池田の映像を読みとることもできるのかもしれない。
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さて白川清澄から大江戸線で六本木に来ると国立新美術館では「アーティストファイル2009」なる若手アーティストの展覧会が行われている。池田のように方法がある程度確立し、評価もそれなりに明らかな人の作品はこちらもその気で見に行くものである。まあいくら白紙で行こうとしても上述の通り、手垢のついた言葉に埋もれて新しい発見はなかなか出来ないのだが、見るのも聞くのも初めての新進アーティストの展覧会は新鮮である。こう言う場所で感じることは二つある。一つは自分の好みである、造形や色遣いに出会い、たわいもなく、心地よく感じること。もう一つはこれまでの様々なアートの文脈にのらなず、それでいて理解不能にならないようなそんな感覚のものやことに感心することである。そしてそうした作品を作る人が次に何をするのかが楽しみになるものである。その意味ではこの中では宮永愛子さんの作品に目がとまった。その理由はまさに今までのアートのコンテクストにうまく乗らずかと言って理解不能ではないということである。次に何を作ってくれるのか楽しみである。