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MIYAKE ISSEYの前時代性

IMG_9166%E4%B8%89%E5%AE%85.jpg国立新美術館でMIYAKE ISSEY展が開かれている。ゲーリー展も人が多かったが、ISSEYも凄い人気である。特に中高年の女性が多いのには驚く。プリーツプリーズのヒットがこういう形で現れているということだろう。
ISSEYのデザインは彼がそもそも美大の図案科出身ということもあり、作るものが「図」となって浮き出るように考えられている。布を素材として図を作る(造形している)のが如実に読み取れる。だから布といってもその性能にこだわる。そしてその布が造り得る「かたち」の可能性を追求しているのである。
プリーツプリーズはその典型と言えるだろう。プリーツの性能を利用してどこまで一枚の布が「かたち」となり人に纏いうるかその可能性が追求されている。
作る側が服を「図」として対象化する場合、それは着る人にとってもその服が「図」として対象化されているように思える。「図」として対象化するというのはそれが空気のように纏わり付いているというのではなく、「私は今日は特別な服を着ています」というふうに意識化されるということである。

長々とこんなことを書いたのは最近この「対象化」という概念が少し気になっているからである。ウィーンに行く前に見田宗介の『現代社会の理論』を読み消費化と情報化の転回の必然性を考えている。資本主義は無限の供給と限定された需要という矛盾を解消するために消費化と情報化を取り込んだ。簡単に言えば、毎年デザイン(情報)を変えることで新たな消費を誘発するということである。こうして資本主義の矛盾は解消されたがこの消費と情報は環境問題南北問題をひき起こしてきた。しかしかといってこの消費欲求とデザイン欲求を否定していいかというとこれは人間の本能なので真っ向から否定してはいけない。これそ肯定しつつ転回する方策がないかというのが見谷の理路である。そしてでてきたのが物質消費から精神消費への転回つまり脱物質化である。また(これは私の論理展開だが)対象デザインから関係デザインへの転回つまり脱対象化である。僕の中で今この二つはキーワードである。

話をISSEYに戻すと、つまり私には彼の「図」を作る「対象化」によるデザイン原理がやや前時代てきなヒロイックなものに見えているのである。あえて対照的なデザイナーをあげるならアンリアレイジの森永氏の光との関係で絵が浮き出るようなデザインである。そもそもNON-DESIGNでありある関係性の中で見えてくるデザインである。こうした対象と周りの関係の部分を強調してデザインする態度が今必要なのだと私には思える。対象を特化して差異化するのは再びたた物質消費のサイクルを駆動する力になるようにしか見えないのである。つまり同じものでもその周りとの関係で変化するようなデザインである。

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