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2006年06月24日

批評家と建築家

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午前中、学生及び、助手のH氏と松本市芸文を見て回った。H氏は日本建築史の専門であり祭りと建築の研究をしている。製図の助手としてすばらしい活躍をしてくれている。しかしH氏と伊東さんの建物を見ながら建築の話をすればどうしたって歴史的視点に偏る、設計者なら気になるようなある部分に入れないのは言うまでも無い。例えば、大道具動線を中央にしている劇場プランの反転性がシドニーと一緒だとか、おにぎりガラスの入っているパネルのシールディテールとか、アプローチの空間がpmtビルを彷彿させるとか、回転移動スロープのきっと高いだろう値段の話とか、ちょっと不思議な色に輝くステンレスhlの仕上げの謎とか、黒いフライタワーはやはり黒だとか、そういうつまりは設計者でないと理解できないようなオタク話しは始まらない。そんなこと当たり前だし、どうでもいいことじゃん。と切って捨ててもよいのだが、やはりこういうことも結構鑑賞の深みである。
同じ日の午後高橋晶子さんと茅野市民ホールを見ながら交わされる会話はやはり当たり前だけど設計者の共通理解の上で始まる。それは作り方を知っているからである。「古谷さんは大手に入ってないのに大手のディテールを知っていてそれを住宅でもできるのが凄い」と僕が言うと、「それが駄目なんじゃない?」と高橋さん。「そうじゃなくて知っていても住宅じゃ使えないものなのにやらせちゃうところが凄いということ」「そうねえ」と答えが返ってくる。
建築設計している人なら分かるこういう会話は別にジャーゴンではなくて、鑑賞のスパイスであり深みである。だから建築を語るというのはこういうこともやはり重要である。制作論なしの批評はやはりどうしたって物足りない。青木さんの言葉が面白いのはそこなのである。あの言葉は制作の言葉であり批評家からは生まれない。
多木さんは設計しない人の中では格段によく知っていた人だから建築家と話しができた数少ない批評家である。制作論がかなり分かる批評家だった。もちろん逆に建築家は批評を知らなければない。批評できない建築家は深みが無いと誹られても仕方ないかもしれない。

2006年06月18日

フラット

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昨日の世界遺産ドレスデンを見ながら高校時代に使っていた世界史年表と世界史地図帳を眺めていた。ドレスデンがアウグスト一世統治の時代、つまり18世紀、このあたりには小さな公国が群雄割拠していた。それがその後ドイツとして統一されたり、東西に分かれたり、そしてまた統一され今ではeuまである。
その地図をもう少し過去に振り返ればその昔歴史地図帳はそんな沢山に分割されていたわけではない。それが歴史とともに細分化されまた統一されているような状態である。そのうち世界は大陸毎に一つの国になってしまうだろうか?100年経ったら地球という一つの国になるのだろうか?
トマス・フリードマン『フラット化する世界』、日本経済新聞社、2006を読んでいたらふとこんな気持ちにさせられた。
建築・アート界ではスーパーフラットなる言葉が十年くらい前に流行ったのだが、デザインのフラットと社会のフラットは厳然と異なるものであるというのが僕の考えだったのだが、この本を読んでいるとこのフラット概念の社会浸透の大きさに少し驚く。
例えばアメリカの小学生の家庭教師はネットを用いてインドに住むインド人が行っているとかアメリカのit関連のコールセンターがインドにあるとか、と言う例はまだ序の口でこんな話が延々と続く。この本によれば、フラットとは情報を誰でもどこでも自由にダウンもアップもできるという状況のことである。確かに外面的には会社の組織が部長、課長、係長から、スタッフとチーフくらいの差しかなくなってきたことをもってフラットと言うこともあるのだが。職階とは何かを考えてみると、情報の供給量の差なのである。

社会に浸透したこの情報に対する公平なアクセシビリティは社会の物理空間をも規定し始めるかもしれない。

2006年06月11日

武満展

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最近音楽を聴くときは、自分の時代のものに興味が湧くし、僕の周りの音楽好きの方たちも最先端の音楽を聴いている。
しかしその昔ヴァイオリンをしていた頃はもちろん音楽と言えばクラシックであり、多少現代っぽいものを弾かなければならなくなると、現代音楽という括りになりそういう目で見ていた。そういう目とはどういう目かというと、ちょっとわけの分からない不気味な音楽という目である。
一体そういう風に思うのはなぜだったかと言うと、先ず現代音楽は不協和音が多く楽器が響かないということがあった。ヴァイオリンは一辺に沢山の音を出すのが苦手な楽器だけれど、3つくらいまでは一度に出せる。そのとき古典音楽は和音のルールで曲が構成されていてその和音は波長状共振するので楽器が響く。逆に言えば響かないときは音程が取れていないということなのである。ところが現代音楽はこの和音のルールからずれているので楽器は響かない。ということはあっているのか否かよく分からないのである。音程が取れる喜びのようなものが無いのである。
次にテンポである。ヴァイオリンはピアノと違うからメロディーしか弾けない。左手でテンポを刻むなんてできない。それゆえテンポを取るのに苦労する。練習の時にはずっとメトロノームが動いているし、アンサンブルでは人が間違えようが、絶対に止まってはいけないのである。心の中でずっと時計が動いている。しかるに現代音楽はこの刻みが規則的ではない、しょっちゅう変わる。それゆえこの時間を刻むのに大変苦労するのである。

今日武満徹 Visions in Time 展オペラシティアートギャラリーに見に行きヘッドホンで武満の曲を聴いているうちにそんな昔のことを思い出したのである。どこからとも無く湧き出る音。関係を拒否する響き。簡単に言えば、一つの曲の中での通時的、共時的な形式(時間の分割、波長の重なり)から音を解放したのが僕にとっての現代音楽だったという記憶が蘇ってきた。
ところで展覧会のテーマは時間の中の視覚であり音を見る、美術を聴くということのようである。僕にとっての音の視覚性は正にこうした形式性である。列柱というのがある。これは正に一つの規則性。正確な刻みである。インターナショナルスタイルの一つのテーゼに規則性というものがある。リズムの形式である。柱の上には梁がありそして床がある。これは関係のルール。音のリズムとルールは例えば建築においてアナロジカルにこう視覚化される。建築は正直に音楽の比喩だと思う。こういうリズムやルールが60年代音楽で武満が崩壊させていたのと同時に、建築では磯崎が解体していた。いやいやまだその後も今でもそうしたどこからとも湧き出る建築、関係を拒否する空間というのがあちらこちらで未だに作られ続けられているようにも思う。

2006年06月04日

歪み、不気味

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A0の教科書にしようかとぺらぺら眺めている本の中にAnthony Vidler のWarped Space 2000 MIT pressがある。

ヴィドラーと言えば『不気味な建築』が翻訳されているがこの本も不気味(フロイトのunheimlich)の延長上にあるようだ。裏表紙の本の紹介を見てみよう。

『歪んだ空間―モダンカルチャーにおけるアート、建築、そして不安』

19世紀後半は広場恐怖症、閉所書恐怖症、の発見に始まり、第一次大戦後のパニックと恐怖、戦争による神経障害がそれに続き、近代生活の精神状態として「恐怖と不安」が見られるようになってきた。それらはメディアやアート、特に建築、都市計画、映画のような空間芸術の中に組み込まれた。この「空間的な歪み」は現在世の中のデジタル化とヴァーチャルリアリティによって再編されている。

アンソニー・ヴィドラーは本書において2種類の歪んだ空間に関心を寄せている。一つ目は精神的空間でありそれは神経や恐怖の溜まり場であり、建築や都市を含み、空ではなくしかし不穏な形が充溢したものでもない。二つ目の歪みはアーティストが新たな表現法で空間を描くことによってジャンルの境界を破壊するときに発生する。
ビドラーは心理学的な空間概念の発生をパスカル、フロイトから、19世紀の広場恐怖症、閉所恐怖症へ跡付け、次にゲオルグ・ジンメル、ジーグフリート・クラカウワー、ワルター・ベンヤミンなどの20世紀の空間理論としての疎外概念を考察する。続いて昨今の状況である、転置、不在、に焦点をあてて、彼は現代芸術家や建築家が新たな空間の歪みを生み出してきた方法で検討する。議論の幅はジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズらの理論家から、ビット・アコンチ、マイク・ケリー、マルサ・ローズラー、ラチェル・フィットリード等のアーティスト、そして最後は建築家でコープ・ヒンメルブラウ、ダニエル・リベスキンド、グレッグ・リン、モルフォシス、そしてエリック・オウエンモス、彼等を新たなデジタル技術の観点から検証する。伝統的な透視図法に頼りながらも新しい技術は、建築の構成、生産、経験、多分テーマそれ自体をも急激に変化させてきている。

宇波彰が『崇高から不気味なものへ』の中でアルチュセール、ヴィドラー、ドレイファス、ハイデガー等を引き合いにだしながら、不気味なものを現代に流通する一般概念として紹介しているが、それは当たり前といえば当たり前、現代社会では精神はどうしても分裂する。その必然の中で、一体表現は何ができるのかということに関心がいく、社会の不気味それ自体はとりあえず建築家にとってはどうでもいいことでしかない。