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2005年11月27日

建築家の持久力

渡そうとしたバトンが落ちたまま拾われないので再び拾い上げて第一走者が三周目を走ります。

先日今村君が信州大学に来られた時に、講評会の後私の研究室の学生全員と食事をしてこう言いました。「プロスポーツに比べれば、建築世界など甘いものだ、徹夜してコンペ出して、酒飲んで浮かれて、何日か建築のこと忘れて遊んでいてはいけない。松井やイチローは一年365日、24時間自分の肉体を管理し、この継続的な自己管理と鍛錬が最高の結果を出しているのは言うまでも無いこと。これは建築だって同じである」。うんその通りだと思う。
思わず僕もサーリネンの逸話を話した「サーリネンは朝食の食卓に出されたバター壷の中のバターで建築の形を考えていて離婚されたそうだ」。

さて昨日朝東京画廊の山本社長と話して面白いことを聞いた。「アーティストの寿命は20年なんです。でも稀に20年を超えられる人がいる。そういう人に共通するものは何か?それは好奇心なんです。いつまでもいろいろなものを見たり聞いたり食べたりする意欲です。村上隆もこれからが勝負でしょうね。でも彼はそれがわかっているから芸祭で若い人を集めて勉強し続けているのです」うーんそうか。

この持続性ということを言えば、昨日午後、芸大に吉村順三展を見に行った。昨日の上野はすごい人。芸大の美術館は初めて行くが素敵だなあと思った。(先日は表象学会の立ち上げシンポジウムということで東大駒場に共通一次試験以来、25年ぶりに訪れて「ああいいキャンパスだな」と思ったところだった。芸大といい東大といい古い大学のよさが滲み出ている)

さて吉村展は建築家の展覧会とは思えぬ人ごみであった。しかし僕としてはこの展覧会はちょっと期待はずれであった。軽井沢、南台、池田山、と言った吉村の名住宅4~5軒と愛知芸大など少し規模の大きいもの数軒が展示されていた。それれらは、木製の模型と原図の展示が実にリアルにその建築の成り立ちを伝えるのであるが、僕が見たかったことはそれではない。僕がここに来ようと思った理由は一つ。それは238の住宅を生涯作り上げたその過剰なまでの生産力の根源を知りたかったからである。先週の日曜美術館の予告に吉村が取り上げられ「・・・・・・・生涯238の住宅を設計し・・・・・・」と聞いたとき一瞬耳を疑った。普通信じられない数字である。ライトと同等?

さてその238の生産の足跡とそのエネルギーを展覧会からうかがい知ることはできなかったが、唯一そのヒントとなるように見えたものがあった。それは彼の手帳であった。名刺版程度の小さな手帳にぎっしりとスケッチが描かれているのである。その手帳が6つくらい展示されていた。その手帳以外にも多くのスケッチがあった。吉村自身も写真よりスケッチが重要と語っていたようだ。コルビュジェの手帳を思い出す。彼の手帳もそう大きくない代わり常に持ち歩いているようでなんでも書いていた。もっと言うとダヴィンチもそうだったようだ。

スケッチを多くしていれば生涯200以上の住宅が設計できるというものではないし、200以上作ることがすごいけれどすばらしいことかどうかも分からない。ただ、生涯尽きぬエネルギーは賞賛に値するし、それを持続する方法が何であったかは興味深い。それはもしかするとやはり、山本社長がおっしゃっていたような、好奇心だったのかもしれない。それは手帳を見れば分かる。

さて、研究室の人も、ofdaの人もそして何より自分に対して、建築家のコンディショニングということを考えていかなければと思っている。僕はイチローや松井のことは分からないけれど、数十年前に少し楽器をやっていて、芸大の高校に行くかどうか考えていた。その頃は本当に1年365日練習していた。嘘ではない。家族とスキーに行くときスキー場に楽器を持っていってそこでも練習していた。気が狂っているようだけれど、1日やらないと戻るののに2日かかる。だからはずせない。建築を同じ土俵で芸事として語れるとは思えないし、そんなノーテンキな肉体鍛錬と同じではなくもっと知的で(ということが昨今批判されているが)ニクタイとノーミソを同等に鍛錬していく営為なのだ。しかしそれならそれで、その運動神経と反射神経を常にとぎらせず持続的にトレーニングしなければいけないし、常に最高のプロテインのごときものを飲み続けなければならないのかもしれない。

そう感じたこの2日間でした。

2005年11月21日

伊藤君の近作に見る都心居住の二つの典型

このコラムのルールを破ってしまいました。本当は木島さんがスレッド立てる順番なのでこれは増刊号という位置づけでお願いします。

昨日伊藤君の駒沢大学の家を見てきました。少し前に見た経堂の家ともどもなかなか伊藤君らしいストイックな建築で興味深いものでした。そして、その両方の特徴がとても現代的な社会状況を表しているような気がしました。
忘れないうちに少しメモっておきます。

それは一言で言えば、駒沢は垂直的で経堂は水平的でということです。

この二つの性質が現代的な社会状況を表しているというのは、次のようなことです。

先ず現代社会は今2極分化して貧富の差が広まってきていると言いますが、これは正確には4極分化だそうで。縦軸に上昇志向、横軸に仕事志向(対概念は男は趣味志向、女は主婦志向)そうすると四つの象限が現れ、男は、右上から半時計周りに、ヤングエグゼクティブ(若くしてお金持ち)、lohas(lifstyle of healthy and sustainable:上昇志向が強くステータスも金もそこそこあるが、やりたいことをやるために、生きる人たち、文化人的な人はここにはいるようです)、フリーター、spaとなるそうで、一方女性は右上から半時計周りにミリオネーゼ(女ヤンエグ)、お嫁、ギャル、、かまやつ女(個性尊重仕事女)となるそうです。

この分析は元アクロスの編集長してた三浦展によるもので最近出てる光文社新書の『下流社会』という衝撃タイトルの本にでているものです。

さて彼の本は当然さまざまな方から激しい批判を受けているようですが、私の実感では7割がた的を射ているように感じます。

それでこうした階層の中で僕らに仕事を頼んでくるクライアントは大きく二つの傾向を持っているのです。一つはヤンエグ、lohas,ミリオネーゼ系の方たちで、このひとたちは自力で資金を調達して何とか都心に土地を購入し建物を建てるのです。仕事であろうと趣味であろうと、上昇志向の強い人にとって時間はかけがえのないものだから、決して郊外には行かないのです。

しかるにいくら資金潤沢といえども都心に買える土地の広さは限界があるのでせいぜい30坪(連窓の家#1も30坪)そこはたいてい50/100の一住であることが多くそこに容積いっぱいに建てます。その建ち方は必然的に縦方向に伸びていきます。まして都心的状況では隣地も混み合ってますから、視界は上に抜けていきます。

さてもう一つ我々に仕事を頼んでくる人たちがいます。その方とはこのどこかの階層に特定される方ではなく、どの階層か分かりませんが、自分たちの親と共同、あるいはその土地の一部、あるいは下手をするとその祖父母の場所に共同で住むという形態です。一般論で言えば、独立一戸建てはヤンエグ、ミリオネーゼ系によって作られるとすれば、この共同型はそれ以外の階層の方の住居である場合が多いかもしれません。いずれにしても、そのような共同が可能な場合は当然、親、あるいは祖父母の土地が十分な広さを持っている場合が多いのでそこにできる建物はある程度水平的な広がりの可能性を持つことが多いようです。もちろん共同だから常に土地が潤沢とは限らないでしょう。場合によっては都心狭小型となんら変わらないこともあります。ただそれなら新たな土地を探すという行動に移る場合も多々あります。あくまで傾向としてということです。

話は少し長くなりましたが、伊藤君の連作にそうした典型的な都市住居の昨今のパターンを感じました。もちろん自分の仕事にもこれは当てはまります。それはまたいつか説明します。

2005年11月09日

最初に

setenvの並々ならぬ努力おかげでやっとofdaのホームページも新たになりました。そしてこのコラム欄というのを作りました。これは普段一緒にいながらもなかなか建築の突っ込んだ話ができずにいる状態解消して些細なことでも少し口に出してみよう、というのが主旨です。使用のルールですが、基本的に(坂牛)と木島、伊藤、で毎週なんか言います。その言い方のルールはまあできれば前の人のを少し連歌のように受けてもらえればありがたいけれど受けきれない時はご自由に。そしてスタッフの方その他だれでもそこに関連して何か言う場合はコメント欄からどうぞ。
まあどうなるか分かりませんが、とにかくやってみましょう。楽に。

最初のお話は僕が最近気になっていてちょっとしらべてみようかなと思っていること、某建築一般誌『a』の研究動機について記します。

私は某新書の編集長と2年くらい前から昨今の建築について何か書く話をしております。
その大きなテーマは建築がエンターテイメント化されてきた(つまり付加価値化されてきた)時にそれを「いい」「悪い」言う言葉を教えてあげようというものです(した)。つまりワインにはソムリエがいて「甘い」「辛い」とか、「重い」「軽い」とか言葉があり、それを雑誌やテレビで覚えて楽しくそれを使います。それと同様に、建築を見てそういえる言葉を勉強しようというものでした。実はそれは建築のモノサシ10と称して、10の対語を選んで東大の授業で教えたものだったのです。

さてその後実は『言葉と建築』というイギリスのデザイン史家が書いた本を翻訳してまして、やっと翻訳が修了して12月25日頃鹿島から出版されます。この本は建築のデザインは建築家のデザイン力によって作られているというのは幻想で、その時代の言葉がその時代の空気や社会や文化や科学を象徴しておりそれが建築を作るときの基礎になっていると主張するのです。つまりは言葉が(ということは社会が)建築を作っているという内容です。この話しは読めば読むほどなるほどと思わせるもので、やはり建築は言葉に左右されると感じているのです。

さてそんな中この4月から信州に来て、2年ほど前から考えている建築と言葉を翻訳の知識をもとに考え直しつつ、もう少し基礎的な研究をしようと考えました。そこで先ず、建築が付加価値化している現状とは何かを考えてみます。そうすると90年代に10冊以上に及ぶ建築一般誌と呼ばれるものが創刊し建築専門誌と呼ばれるものが数誌廃刊したことに思いが至ります。これは二つのことを意味しています。ひとつは住宅を建てようという人が増えさらにそうした人が専門家に投げちゃうのではなく、自分で考えようとしていること。一方、住宅を建てるというのとはあまり関係なく、ファッション紙やグルメ紙を楽しむ乗りでアーキテクチャーを楽しむ人がいるということ。

こうしたアーキテクチャーを楽しむ人、そしてそれを対象としたメディア、更にそれを見るデザイナーというこの三角関係は昨今の建築家の創造のメカニズムの一端を担っているなと感じているのです。それはもう少しかっこよくぶった切ると、文学でもアートでも音楽でもそうであるように、シリアスとポップの分離が建築でもおこることの予兆なのです(そうじゃや無いかもしれないけれど)。でも伊東さんあたりから、確実にポップアーキテクチャの匂いはしますよね。それで僕はこの建築における遅ればせのポップの到来を告知したのが某雑誌『a』という風に区切ってみることができるのではないかと感じているのです。

さてそれでは雑誌『a』をどう分析するのかですが、一つは言説分析です。それは、建築家の建築論を分析して時代ごとに何が重要テーマかを抽出してカテゴリ分類することで時代性を明確にするというような分析です。それを『a』にあてはめ言説分析を行います。次『a』に出ている建物はたいてい専門誌にもでておりまして、『a』と専門誌の言説、写真の双方を比較するということも面白いと思います。少し自分のもので試してみると、それぞれが主張している部分が異なっていることが分かります。そこにポップへの分岐点があります。『a』は当然ポピュラリティとガップリ四つです。そしてデザイナは玄人受けを狙います。しかし、ポピュラリティの枠組みがデザイナを引きずり込むことも多々あるのです。その現象がこの分析から得られないかと期待しているのです。

最初に楽にと言った割りには多量に書いてしまった。すいません。
ということで次は木島さんよろしく繋げてください。
コメントたくさんください。スタッフのみんなの意見大歓迎。