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January 31, 2011

哲学というものはとてつもなく本質的だけどつくづくまどろっこしい

現在検討中の某計画のスケッチを構造設備に送りおおよその構造と設備の考え方をまとめ図面の修正と模型の作成を指示して事務所を出る。夜長野に向かう車中高田明典『現代思想のコミュニケーション的転回』勁草書房2011を読む。哲学的転回は認識論的転回、言語的転回、解釈学的転回そして現在コミュニケーション的転回という4つ目の転回を迎えているという話。どこかで聞いたストーリーだと思って彼の前著を見てみたがそこには書いていない。一体どこだったかと思って本棚を探したが見つからない。50にもなると記憶力がどんどん低下する。そんな時このブログと言うやつは便利である。ブログに検索機能がついているのだ(ということをこの間知った)。「言語的転回」と入れて検索すると出てくるではないか。ブログに記した読書メモが引っ掛かるのである。大賀祐樹『リチャード・ローティ――リベラル・アイロニストの思想1931-2007』藤原書店2009にこの3つの転回が述べられていることが分かった。しかし本を引っ張り出して机の上に置いたまま読んでいないのでこの認識がローティー独自ものか、哲学では一般的なことなのかはよく分からない。この哲学的主軸の変遷はすごーく簡単に言えばこうなる。哲学とは物の本質(存在)に到達することが主眼だった。ところがそんなところへ到達するのはなかなか難しい。そもそもそんものがあるかどうかも分からないし、おれとおまえじゃあ頭の構造も違うし、だからみんなでどこか一点に到達するなんていうことはあり得ないだろう。なーんていう状態だから、よく話し合ってみんなでそこへ到達しようぜというようなことである。うーん哲学と言うやつはとてつもなく本質的だと思いつつ、どうにもまどろっこしい話でもある。

社会学の方法論で建築を分析する可能性

稲葉振一郎の『社会学入門』2009を読み返してみると、社会科学とは政策科学であると書かれている。その意味は経済学なら経済発展に、社会学なら社会問題解決に、つまり政策上必要な学問ということである。
では建築に関わる学問は何に寄与するのだろうか?構造設備は社会科学同様に政策科学に近い。構造基準だとかエコ基準だとかは国策なのだから。しかるに計画、歴史、意匠などはどうだろうか?計画は使用者の使い勝手に寄与するものであり、歴史は過去の解明である。では意匠とは何か?ちょっと前まで意匠論とは寄与する何かが無い学問でよいと思っていた。
谷川渥さんが美学と言う学問はその学問によって誰かを喜ばせたり、誰かに貢献するものではない。と言っていたのを聞いて意匠論もそれでよいと思っていた。のだが少し方針を変えて、もう少し何かの役に立ってもいいと思い始めた。
そこで社会学を参考にすべく、稲葉さんの本を振り返り、古典と言われるジンメル(Simmel, G)清水幾太郎訳『社会学の根本問題』岩波文庫(1917)1979を読んでみた。薄い本で読みやすい。その中に社会学が社会を対象化する時の二つのポイントがある。一つは社会とは内容と形式に区別できること、ふたつめは社会とは個人間の相互作用のこと
この二つのポイントはほぼ1世紀後に書かれた稲葉さんの本にしっかり受け継がれている。曰く社会学とは、社会の複数の現象間の因果関係を説明する仮説理論を作り、それを量的調査、歴史研究、ケーススタディのいずれかを用いて立証すること。立証に際し分析対象は社会の素材(内容)であり、目的はそこから個人を集合的に社会たらしめているルール(形式)を炙り出すことだと言う。
ではこうした社会学の構成を建築の意匠に適用するとどうなるか?そのためには先ず建築や都市が生み出している何らかの「結果」が必要である。それはこの場合善悪の価値づけられた状況かもしれないし、単なる特徴程度の感覚的な属性かもしれない。例えばある建築(都市、街路)の固有の感覚的属性をアンケート調査などで言語化してもいいかもしれない。次にそうした感覚を生み出していると思われるルール(形式)を炙り出す。その結果二つの因果関係を説明する仮説理論が生み出され、最期にそれらを立証するわけである。
建築現象と社会現象は気をつけないと似てるところもあれば異なるところもあるのでそう簡単に共通の方法論で解明できるものではない。しかし考え方の骨格を作る上では参考になるところが多い。

January 29, 2011

言葉と建築

午前中ヨガに行った後で六本木に倉又史朗を見に行ったら、2月2日からだった。仕方なく国立新美術館でメディア芸術祭を覗こうと思ったらこれも2月2日からである。帰ろうかと迷ったが新橋に出て白井晟一展を見たhttp://ofda.jp/column/
カタログの巻頭には白井の残したエッセイが並んでいる。ドイツでヤスパースの教えを受けた白井の言葉は建築という狭い世界におさまるものではない。建築の奥底を語ろうとする言葉である。そんな白井の言葉は理性と感性の間を往来する。
建築は言葉である」と大学時代に篠原一男に教わり、縁あってエイドリアン・フォーティの『言葉と建築』を翻訳した。ここでの言葉は白井のそれとは違いはるかに理性的なそれである。そして信大では徹底してこっちの「言葉」について教え込んだ。建築学科でこれだけ「言葉」を詰め込んでいるところはそうは無いと思う。しかし一方で白井の言葉をあげるまでもなく建築は感性でもある。美学においても今や感性の学という言葉が大流行である。そんなわけで4月から赴任する大学でどういう方針で教育するか、「言葉」か「感性」か?信大の連続で行ってもよいものかと少々悩んでいるところだった。
岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』亜紀書房2010を食後に読んだ。これで考えはほぼ固まった。この本はその名の通り現代若者の言葉の貧困を訴えたものである。著者は専修大学の教授でありそこでの体験に因るところが大きい。
学生の言葉の貧困は程度の差こそあれどこでも似たようなものだろうからさほど驚かない。ただ学生の話以外に著者の挙げた言葉の必要性の事例に説得力を感じた。一つはサッカー協会がサッカー教育の一環として論理問答トレーニングを取り入れたという話。つまりサッカーとは記憶に蓄積された知覚のパターンの中で自分の行為を感覚的に決定していくだけではなく、攻撃と防御のパターンを言語化して理性的に次の行動を決めるようにしなければ上達しないという認識である。もう一つは著者自身が入会する写真グループにおいて、センスがとても良い若い女性写真家が言葉を語れないがために作品の質を上げることができないという話。どちらのも技を高めていくのは感性だけでは無理であり、言葉による整理と蓄積という行為があって始めて上達が図られると言う事例である。感性無き言葉は不毛だが、言葉なき感性は空虚だと言うことである。

January 28, 2011

最期に聴く楽曲

事務所で打ち合わせ。作業。夕方SETENV入江君が来所。来年の研究室ホームページ作成の打ち合わせ。その後彼と一緒にMDRの新年会に顔を出す。光岡君、柄沢君、富井君など既知の皆さまにごあいさつ。毎年ご案内いただくが近所なのに(というか、だから)新年会に来たのは初めて。すごい料理とお酒にびっくり。今日はまだ仕事があるのでお茶で歓談。お暇しようとしたら、星野君、有山君、松原さん、松田さんなどなど知り合いが続々やってくる。玄関では鈴木明さんに遭遇。事務所に戻り打ち合わせ。帰宅後先日知り合いが送ってくれた米沢慧『自然死への道』朝日新書2011を通読。雑誌『選択』に3年半連載した死を見つめるエッセイをそのまま時系列に載せている。「2010年いのちのステージが変わった」と彼は言う。脳死問題、体外受精問題など、命の取り扱れ方が変わったということである。まだ実感は無いが確かにそうかもしれない。
そんなエッセイの中で著者がホスピスで問われた質問が印象的である。死ぬ時に聞く音楽は何がふさわしいかという質問である。質問者はバッハの「G線上のアリア」ヘンデルの「アレグロ・ジョコーソ」、パッフェルベルの「カノン」を挙げたそうだ。著者はそれにうまく答えられなかったという。僕ももちろんそんな問いに答えられるとは思えない。あなたの死にふさわしい曲はあっても「死」にふさわしい曲などないからである。ということはそんな曲は私にはわかるはずもない。
僕ならきっと最も若い時の最も記憶が凝縮された曲を選ぶであろう。コレルリのヴァイオリンソナタあたりがいいかもしれない。

どうやったら物を減らせるか

先日宇野求さんが僕は極力もの持たない主義と言っていた。持たないでデジタル機器の中に詰め込むというわけだ。渡辺真理さんが法政ではipadとkindleは大学で買ってくれると言っていた。大学は、もし先生たちが資料をデジタル化して所持してくれればこんな嬉しいことは無いはずだ。施設面積を恐らく3分の1くらい減らせるだろうから。運営費用をぐーんと下げられ、もう文科省にへこへこしなくて済む。
オフィスはだいぶ前から自分の席を作らないという考え方が主流である。自分の席とはイコールごみ溜めだからだ。自席が無ければ人は使わない資料をためこむことがないし、しょうがないからデジタル化して持ち歩かざるを得ないわけである。
先日読み始めた『SHARE-<共有>からビジネスを生み出す新戦略』には電子書籍などの話しは出てこないが無駄な消費を抑制するという意味ではこの本の主旨を体現していることである。
この本では消費抑制の方策として所有から共有を訴える。持つことが大事なのではなく使うことに意味があると言うわけだ。あれ、、その言葉、「使用から所有に」力点が移った現代建築状況に対する坂本先生の批判と同じである。しかし、所有の本質は物が所有者の本質を表す記号にもなり、その時その記号が人からの借り物であって欲しくないという欲望に関係する。
僕にも所有欲が多少ある。それは主として本である。それ以外は全くない。できればすべて借り物で安く済ませたい。着る物住む場所も全部セコハンでいいもちろん車は要らない。そして不要になったらまた再分配市場で循環させたい。しかし本だけはどうもそういう気になれないでいる。古い頭だからデジタルについていけないのかもしれないし。背表紙見ながらいろいろなことを思い出すし、ヴァールブルグじゃあないけれど本を並べ替えていろいろなことを考えたりする。そうして自分の本質が分身としてここに視覚化されているというような気にもなる。
でも僕より先輩たちがipadに熱狂しているのを見ると考えてしまう。デジタルに取り残されないようになんて考える以前に僕の書斎は既に限界にきているのだから。やはり本は電子書籍の時代なのかもしれない。そんな時代はあっという間にくるだろうなあ。後2年???
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本棚は今にゴミため化するか???

January 27, 2011

6年間の講評会を振り返る

朝一で二年生の設計製図講評会の発表者を選ぶ。25名くらい(半分)を選ぼうと思いつついつも20名くらいで終わってしまう。けれども今日はすいすい30名くらい選べてしまった。ずば抜けて良いものは例年に比べて少ないのだが合格レベルのものが多いということのようである。2コマ目にデザイン論のレポート課題を説明して昼飯。午後、講評会のゲストクリティークである平瀬有人さん現れる。先ずはショートレクチャーをしていただく。タイトルは「建築の自律性と他律性」。これはおよそ建築であれば持ち合わせている性格なのだろう。それを彼は山岳建築研究者として山小屋を例に説明してくれた。登山者の到達目標として「目立つ」という自律的側面と風や雪崩に「耐える」という他律的な側面の共存というふうに。また彼のスイス、日本での仕事についても同じように紹介してくれた。
その後30人の講評会である。彼は先ず質問をしてそれへの返答を聞きながらコメントしていくというスタイルをとる。これは無自覚な学生の設計を反省させる的確な方法に思えた。30人の内から平瀬賞、坂牛賞、佳作5つを選び終了した。信大での最後の講評会。これまで来てくれたゲストの方には深く感謝。ちなみに各々の講評会でゲストの方に好評だった作品を並べてみた。先生の個性も見えるし、少しずつ進歩したような形跡も見える。面白い6年間だった。課題ごとに年代順に並べてみる。

2年生住宅

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2005年 今村創平先生 見事な口技に脱剛

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2006年 若松均先生 スケールが悪いとややご機嫌悪し

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2007年 岡田哲史先生 ずっと立ちっ放しで激辛批評

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2008年 福屋粧子先生 やわらかにしかし鋭く

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2009年2年生住宅 藤村龍二先生 キーワードは社会性

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2010年2年生住宅 石黒由紀先生 丁寧な批評


2年生オフィス

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2005年 山本想太郎先生 理路整然

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2006年 中村晃子先生 ゆるーい感じで、でも厳しく

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2007年 阪根宏彦先生 ニコニコしながら相手を追い詰め

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2008年 柳澤潤先生 分かりやすくそして楽しく

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2009年 松田達先生+新雄太先生 理論派VS感性派

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2010年 平瀬有人先生 問いかける批評


3年生コンヴァージョン

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2006年 藤田純也先生 竹中流でせまる


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同上 安田幸一先生 形へのこだわり

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2007年 岩岡竜夫先生 普通のようで普通でない

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2008年 萩原剛先生 やはり竹中流?萩原流?

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2009年 城戸崎和佐先生 エキセントリックな称賛

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2010年 袴田喜夫先生 保存のプロにしめていただく


3年生幼児の施設

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2006年 小川次郎先生 とにかくおおらかに

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2007年 高橋晶子先生 理性の中の感性

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2008年 曽我部昌史先生 具体へのこだわり

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2009年 槻橋修先生 がんがん語る

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2010年 松岡聡先生 ゆっくりと静かに


4年生自由設計

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2006年 奥山信一先生 厳しく楽しくバーベキューも仕切ってました

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2007年 山梨知彦先生 来たと思ったら帰って行った。とにかく忙しい。

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2008年 金箱温春先生 構造が意匠になった案が一等賞

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2009年 山梨知彦先生 亀井さんドタキャンで山梨先生に再度お願い

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2010年 坂本一成先生 真打登場よくこんな遠くへありがとうございました。

January 25, 2011

皆が納得いく美しいということ

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9時から塩山で定例。このところ毎週施主定例だがこの規模の複雑な建物はこうやってできる過程を具に見てもらいながら慣れてもらうことは必須。午後甲斐に移動して事務所検査。おいおい検査だって言うのに「床暖がまだ動きません」は無いだろう。と思ったけれど、引き渡し20日前でほぼ完ぺきに出来上がっているのだから合格点。こんな経験は建築人生で初めてである。終わって大急ぎで甲府からあずさで東京に戻り理科大の卒計の発表会に赴く。
理科大の卒計は技術主義的で合理的な案が多い。批評する先生方も比較的そういう傾向があるだろうか?それにしても非常勤の建築家が10人近く。構造設備の先生も10人近い。学生より先生の方が多い発表会とはなんと豪華なことだろうか?そうした状況を当然だと思っているところが甘ったれと思いつつでも羨ましい。しかし図面や模型に今一つ熱を感じない。来年は我が身。どうやったら熱を伝える制作にこぎつけさせられるだろうか???
各先生のコメント中に後ろからこっそり中座して最終のアサマに乗る。サンドイッチを食みながら小林正弥『サンデルの政治哲学-<正義>とは何か』平凡社新書2010を読む。『これからの正義のはなしをしよう』でサンデルに7割の共感をもっていたところだったのでつい読み始めた。サンデルのコミュニタリアニズムとロールズのリベラリズムの違いなどを深い理解に導いてくれて有益な内容である。しかしそれ以上に面白いと感じているのは政治哲学という分野が昨今重要な学問分野となってきているという点である。それまで政治史や政治思想史というものが政治に関する学問として主流であったものが、政治哲学という政治に対するある種の価値付与の理論が学問として成立してきていることが興味深い。さらに言えば、学問として成立しているからにはその価値付与には客観性と合理性があるわけである。
価値というものは一般に科学としての客観性か、世俗を超越した宗教的倫理観によって成り立つものであると僕は思っていた。しかるにロールズのそれはそのどちらでもない。合理的で理性的でありながら数量的な科学生の持つ非人間性を排除する方法を彼は編み出したのである。それゆえ彼の『正義論』は爆発的な話題となったのである(あんな分厚い本がサンデルのおかげで丸善でも平積みである)。こうした哲学はもしかすると美的な問題にも応用可能なのかもしれないと思い興味が湧く。すなわち教祖的な美の達人が美しいということを盲目的に信じるような美ではなく、まして数量的に割り切れる黄金比のようなものでもなく、だれでもが合理的客観的に考えて到達し、しかも数量や技術に還元できない美の在り方である。長野についたら酒飲んで寝ながら考えてみよう。

January 24, 2011

2010年の気になること

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宮本忠長設計/長野市民会館
このプレコンスクリーンは湊建材が作ったもの。もう作れるものではないと宮本さんがおっしゃっていた。

午前中は経理的雑用。午後事務所で打ち合わせ。明日の現場定例までに決めなければいけない駐輪場の構造がなかなか決まらない。スタッフ同士の打ち合わせではどうも埒が明かないので金箱さんに直接電話して内容を確認。ディテールを決める。
10+1から来ているアンケートの締め切りが今日であることに気づく。あわてて原稿を書く。「2010年の気になる出来事について」という内容。本でも展覧会でもイベントでも建築でもなんでもいいようだ。本を語れば山のようにあるのでこれはやめる。すでに去年末に五十嵐さんや南さん若い人では平瀬君や光岡君が答えていたものであり、メジャーなテーマは大方語り尽くされている感がある。そう思いながら自分のブログやらコラムを見返しながら記憶をたどる。手前みそだがアルゼンチンワークショップのことは自分の中では結構大きな出来事であったと再認識。ブエノスアイレスも長野も既存建築に対する視線は変わらない。そんなことを書きながら宮本忠長さんの市民会館の解体が不快な出来事として頭をもたげた。ワールドカップのパブリックビューをこの建物で学生とともに見た。どうしてこれを改造して使わないのだろうか?新築よりお金がかかってもいいと思う。モダニズム建築の更新が心を揺さぶった一年だったかもしれない。

January 23, 2011

share

読書して散歩して夕食の買い物をする。昨日読んでいた『イマココ』はロンドン大学のバートレットにあるいくつかの興味深い研究所の情報を教えてくれた。一つはUCL Space Syntax Laboratory。言語学の概念であるsyntaxと言う言葉を使って都市を分析しようという意図はもちろん、都市の構成と言語の構成が類似しているからである。このlaboratoryでは都市分析ソフトのシェアを行っている。3週間ほど確認に時間がかかるようだが大学教員は登録すればダウンロードできる。使ってないから分からないけれど、説明からすれば3次元のイソビスタの計測もできそうである。人は広がりのある方向を向くものであり、その方向の視界の容積を計算するソフトである。
ところでこうしてソフトをshareするのはもはや当たり前の感覚だが、コンピューター上以外でもshare感覚が当然の時代が来る(来ている、来た)ことを記したレイチェル・ボッツマン/ルー・ロジャース(Botsman, R / Rogers, R)小林弘人監修解説『SHARE-What`s Mine Is Yoursシェア―共有からビジネスを生み出す新戦略』NHK出版2010を風呂で眺めた。僕らが学生時代下宿をシェアするなんていう考え方はあり得ず、アメリカ行ったらそれが当たり前でその合理性に驚いた。今や日本でもシェアする学生が増えている。皆で使う。何度も使うというのは当たり前の時代である。

居心地感

朝一で九段下の理科大に卒業研究の発表会を聞きに行く。トップは山名研。大高正人さんの図面を資料とした設計の変遷解明が多かった。続いて歴史の伊藤先生、環境心理などの直井先生、構法の真鍋先生で午前は終わり。昼間働いている学生が多いのにしっかりした内容、加えて論旨が明快で聞きやすかった。また当たり前だが卒論テーマは大学ごとに固定化されるもので(先生が入れ替わらない限り)、他大学の発表テーマは新鮮に響くものである。特に直井先生の指導する「視線到達度が居心地感に及ぼす影響研究」なんて僕の興味とぴったりあっているのでびっくりである。その直井先生が僕と入れ違いとは至極残念である。
午後事務所で打ち合わせ。昨日指示した模型がほぼできていた。ちょっと骸骨みたいになってしまったので修正案を考える。
帰宅後コリン・エラード(Ellard, C)渡会圭子訳『イマココ―渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』早川書房(2009)2010を読む。本屋で立ち読みした時に確か「居心地感」という訳語が入っていたような気がしたので積読から引き抜いた。そうしたらやはりあった。第七章「家の中の空間」のなかで「家の居心地はイソビスタで決まる」という節があった。イソビスタとはある場所から家の中の見える領域を言う。それでとある家の中に被験者を連れてきて、特徴的なイソビスタを見せながら空間の性格づけや順位づけをさせたところ次のような結果になったという。
① 心地よい空間・・・・・複雑性と対称性の高い空間 例えばゴシック教会のような
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② 美しい空間 ・・・・・開放的で対称性の高い空間 例えばCSH22のような
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③ 面白い空間 ・・・・・開放的で複雑性の高い空間 例えば瞑想の森のような
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この研究のそれぞれの言葉の定義は分からないのでこの画像は僕の想像でしかないのだけれど。

January 21, 2011

統計のウソ

事務所でスケッチを描いて模型を作ってもらい、そしてまたスケッチを描いて模型を作ってもらう。模型を作っている間ダレル・ハフ高木秀玄訳『統計でウソをつく法』講談社ブルーバックス1968を読む。昨日読んだ『社会調査のウソ』が言っていたことは殆どその原則がここに書かれている。どうもこの本インチキ統計処理の教科書のような本らしい。だいたい60年代の本が未だに丸善に平積みなのだから名誉ある定本であろう。サンプルに偏りがあるとか、平均値と称して中央値を使っているとか、グラフの尺度を変えて針小棒大にみせるとか、同時に起こっているから因果関係と言ってしまうとか。なんと馬鹿げた。と言いたいところだが、考えてみると学生たちは平気でこういうことをやり先生はついつい騙されてしまう。学生は悪意なくnaïveにこういうことをやってしまうから罪が軽いのかもしれないけれど、それを見破れなかったら先生は大罪である。気をつけないと。

January 20, 2011

社会調査、生物多様性、免疫力

谷岡一郎『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ 』文春新書2000を昨晩寝ながら読んだ。なるほどと思うことが多々あった。著者は名指しで新聞発表の社会調査のウソを指摘していく。普段何気なく信じているような記事がなるほど信用ならないことに気づかされる。続きを楽しみにしていたのだがその本をマンションに忘れて大学へ。研究室でM2の梗概をチェックして一人ずつ説明して返す。夕方のアサマで東京へ。車中、井田徹治『生物多様性とは何か』岩波新書2010を読む。この人ジャーナリストだけど文章が平坦で大学の報告書みたいである。生物多様性はとても重要な問題でありそうなことはよくわかるのだが、知らない生物名と巨大過ぎる数字に戸惑う。魚が取れなくなって打ちひしがれる漁民の悲哀なら切実は問題として響くのだが、、、、人間の問題にならないとなあ、、、、、想像力の欠如かもしれない。
東京駅で丸善によって久しぶりにゆっくり本を見る。宅配を頼み一冊だけ持ち帰り風呂につかりながら読む。安保徹『疲れない体をつくる免疫力』2010。およそすべての病気は交感神経と副交感神経のバランスが崩れた時に発生するというのが著者の主張。常に中庸がよく極端がいけないというものである。デザインと同じだ。

January 19, 2011

タイガーマスクが政治を動かす

朝一のあずさで塩山へ。施主定例の後、金箱事務所、テーテンス事務所によるコンクリートの打ちあがりと設備機器の取り付け状況の検査を行う。
この建物は児童養護施設で施設の子供たちは現在近くのマンションを借りて仮住まいをしている。そこにもタイガーマスクは訪れたそうだが、このタイガーマスク騒動で厚労省は今日付けで「児童養護施設等の社会的養護の課題に関する検討委員会」という委員会を設置した。ここでは施設基準の見直しなどを検討するそうである。この仕事を始めてから日本の子供行政はお寒いものだということをクラインとから教えてもらい、本で読み、そして設計をしながら感じてきた。子供の個室の基準は一人当たり一坪である。だから天井を高くして机付きベッドを家具工事で作りなんとか狭い部屋に入れて生活できるようにした。この委員会で検討されればおそらく一人当たりの面積は増えるであろうし、指導員も増強されるであろうし、むろん国家予算も少しは(少なくとも今年は)増えるのであろう。
そうしたことは嬉しいことだし、歓迎すべき一歩なのだとは思う。しかし役所の検討がこの善意の寄付騒ぎによるものだとするとちょっと寂しいではないか。こんな偶然のようなきっかけが無ければ政府は動かないことをあらわにしている。どうも日本の政策にはそういう傾向が多々見られる。常に世論の批判を浴びないように火消し的に政策が打ち出されていくのである。もう少し主体的にヴィジョンを持って政策提示をし、実行して欲しいものである。

タイルは落ちる

先日、日建の元上司Yさんと食事した時に恐ろしいことを聞いた。Yさんの設計した有名な建物のタイルがよく落ちている(た)そうだ。「モザイクタイルはだめだな」とおっしゃる。そうだろう小さなタイルは蟻足も小さいし落ちやすいのだろうと聞いていた。僕がYさんの下で設計した九州のKビルは特注の2丁掛けタイルでこれは落ちることもないだろうと思っていたら「あれも落ちて何度九州まで足を運んだことか」という。えええっ!!あのタイルは蟻足もがっちりしているしなんたってPC打込みだよ。「PC打込でも落ちる」。じゃあどうしたら落ちないの???「タイルは落ちる」これが結論みたいに言われた。
次に防水。「アス防はもはやあまり、、、」と言う。そうだよなあ、だいたい押さえコンがあると漏った時場所が分からないし、直すのに押さえを引っ剥がすのが大変だ。僕もアクアラインの人工島の床直径200メートル塗り防水した。で何使うのですか??「FRP」。えっ??FRPで数回失敗している僕としてはちょっと意外。「まあ要は施工者よ」と言う。もっともですね。どうも建築の技術的な問題を語ると最後はそうなる。しかし毎度施工者の腕頼みなんて、毎回くじ引くみたいで冷や冷やものである。

January 17, 2011

whatever nothing

帰りの新幹線で週刊文春を開いたら言霊USAという英語の話が目をひいた。今週のキーワードはwhateverである。それもイラつく女性が使う場合のそれである。ふがいない彼が彼女のためにこれしてあれして、それで、、なんてずれまくっている時にwhareverと言われたら終わりであるらしい。「どうでもいい」「勝手にすれば」という意味である。もう一つこれに似た怖い言葉がnothingだそうだ。女性の機嫌が突然悪くなりその理由に気づかないぼけ男が「怒っている」なんて聞いてnothingと言われたらこれも終わりだそうだ「べつに」ということである。
さっきまでやっていたゼミでこんな言葉を吐く状況にならなくて良かったとホッとする。昨晩4年生の梗概に赤を入れながら寒い研究室の中でハラワタが煮えくりかえって体が熱くなった。梗概を直さないのは①直す能力がないのか、②直す気が無いのか、③私の言ったことが通じてないのか、のどれかである。①の場合もはや彼らに期待できない、②の場合彼らを改心させる時間が無い、③の場合理解させ書き直させるための時間がない。というわけで昨晩と今朝必要最低限、できの悪い留学生だって書かないような日本語を僕が書き直し、今日のゼミではこちらの言いたいことを1時間言い尽くして終わりにした。もし彼らと対話すると最後にはきっとwhateverとnothingを連発するイラつくアメリカ女みたになっていただろう。賢明な選択だった。

January 16, 2011

センター試験終了

雪のため開始時刻の変更があったけれどセンター試験無事に終了。2日間の監督と言うのはしんどいようにも見えるが、考えようによっては結構楽しい。監督というのはいろいろとやることがあるけれど、一日中すべての時間を試験に集中しているわけでもない。とはいえ、本は読めないし、スケッチは描けないし、cpuや携帯には触れないからあるのは頭だけ。でもその頭が自由にものを考えている時間は結構ある。
建築でも文章でも構想を練る時はスケッチをしたり、キーボードをたたいて、それでちょっと立ち止まり考えるものだ。そしてこの何もせずに考えている時に頭の中が活性化して全体がまとまったり、いい案をおぼろげながらつかみ取ることがあるもの。
そんなわけでこの二日でいろいろと考えていたことが少しだけ前進した。センター試験さまさまかもしれない。さて終わって研究室に戻って学生の梗概を読んだら相変わらずの文章にいやになった。こうなると指導力の問題なのだろうか???帰ろうと思っているのだが外は一向に止む気配のない雪。僕が6年前信大に最初にインタビューを受けにきた時もすごい雪で驚いたがそれを越す積雪である。このまま明日の朝まで降り続くのだろうか?家までの道は除雪されていなければ40センチは積っているだろう。運動靴では心もとない。

January 15, 2011

原っぱと遊園地のあいだ

民家を改造して作ったグループホームを鷲田清一が称賛していた。そのエッセイに青木淳の原っぱと遊園地の話が出てくる。遊園地は人の行動を先回りして施設計画されているが原っぱとはそこで集まる子供たちの偶然の出会いが新しい営みを生むという例のエッセイである。で、青木さんが称揚する原っぱとは何もないホワイトキューブみたいなものかというと、そうでもない。そこには人の行動を誘発するようなモノがごろごろしているのである。たとえば工場を改造して作るギャラリーを考えてみる。これはギャラリーとして計画されていない以上先回りして計画されたものは何もない。しかるに工場として使われていたさまざまな空間や物質が残っている。そしてそうしたモノの機能性や計画性はすべてキャンセルされる。それでもそうしたモノは消えるわけではなく残滓のごとくへばりつき人を誘うのである。
鷲田が示すグループホームでは、人は民家の生活施設をそのまま継続して使うのだから機能がキャンセルされているわけではないのだが、それらの機能はそこに住む人を想定して作られたものではないのだからあるものはキャンセルされるかもしれない。しかしキャンセルされても上述の通り残滓として人を誘う何かになる。しかし大方は継続使用されるので原っぱではないだろう。しかしでは遊園地かというとちょっと違う。同じ機能でも今までとは違う人が使うし、見知らぬ人同士が使うのである。鷲田はそれを再度「編みこまれる」と表現していた。つまりここは遊園地的な人の行動を先回りする物もない一方で原っぱのようなタブラ・ラーサでもないのである。その中庸をいくようなまた少し新しい場の生まれる可能性の見えるところのようだ。

January 14, 2011

風邪から逃げる

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昨日の長い会議で雑菌をもらっただろうか?からだが重い。事務所でボーっとしながらスケッチを書いて模型のスタディをスタッフのS君と進める。午後、甲府出張から一泊して帰ってきたT君が腹痛に顔を歪めている。Kさんは風邪で声も出ない。ここにいるとやばそう、、、危機感!!いくつかスケッチを渡して仕事をやめた。今晩体調を崩すと明日のセンター試験監督が務まらない。こんなことは長野で働き始めてから初めのことだがホテルに泊まることにする。極寒のわがマンションでは確実に体調悪化しそうだから。駅前のサンルートを予約してから事務所を出る。8時半のアサマに乗り車中大竹文雄『競争と公平感』中公新書2010を読み始める。最近弱者救済のストーリーばかり読んでいたのでその逆意見も手にしてみた。週刊ダイヤモンド2010年の<ベスト経済書>と帯に書いてある。日本人はなぜ競争が嫌いなのかとも書いてある。そう日本人は嫌いだね競争が。というか努力が嫌いなのだよ、もはや。

January 13, 2011

村上隆の考えにかなり賛成

午前中事務所で打ち合わせして午後学会で審査。1時から7時半まで。こんな長い会議って滅多にない。終わって皆で食事して帰宅。昨日丸善で面白そうだと手にした村上隆の『芸術闘争論』幻冬舎2010を読む。
現代芸術をめぐる画商とかサザビーズとかクリスティーズの本は読んでも芸術家自身の言葉はあまり読んだことが無かった。でも、やはりアーティスト本人の本音は面白い。その中に現代芸術鑑賞の四要素というのがあった。それらは
① 構図
② 圧力
③ コンテクスト
④ 個性
だそうだ。これ結構建築に近いところもあるなあと思う。まあ僕の考えでは構図はないのだが、圧力はある。これは圧力と言うか僕の言葉でいえば表現の強度というものであり、見る物を圧倒する力である。それは執拗な表現の反復だったり、とんでもない手の痕跡だったり、まあその方法はいろいろあるが言ってしまえば表現の力である。次にコンテクスト。これは建築でいうコンテクストではなく、アートシーンの中での作品の連なりのことである。つまりこの白い箱は少し西沢立衛のようだが窓の開けかたは藤本のようであるというように、デザインがどういう潮流の上にあるかということである。村上が言うように表現とは自分の好きなことを自由にすることではない。あるシーンの上で何が受け入れられるかということである。僕も大学でよく言う、君たちが好きなものを自由に作ってはいけない。小学校のころ国語の先生が作文の時間に「自由に書きなさい」と言い、図工の時間に「好きなものを自由に描きなさい」というのは全く無意味である。そんな指導で言い作文やいい絵が描けるのは奇跡的な天才でしかない。絵だって文章だってその方法を緻密に教えてもらなければ書けないし描けない。そしてその技術がつき、その次に売れるようなものを書いたり描いたりするためには売れるものは何かを考えるしかない。僕も製図の時間に売れる家を設計してくださいという。そのためにはあなたが欲しい家を設計するのではない。と注意している。これは村上の言うコンテクストである。そして最後に個性である。もちろん個性がないことにはどうしようもない。でも個性だけでアートも建築もできるものではないということである。
さてそうなると僕は村上隆に全面賛成かというとそうではない。かなりの部分近いかもしれないけれどやはり違う。その違いはやはりアートと建築の違いなのだと思う。村上よりもう少し長い射程で自分の作品を考えていると思う。

January 12, 2011

ロマネスク装飾発展法則

リーグルは古代オリエント、ギリシアの唐草模様の発展を『美術様式論』において探求した。バルトルシャイティスは『異形のロマネスク』においてロマネスクの唐草模様の発展を導いた。それは波状唐草→それが二つ合わさりハート型→それが横に繋がりX型という発展である。そしてさらに面白いのはこの植物から始まる装飾の発展類型の中に、動物、怪物、人間もデフォルメされて鋳造されたという点である。古代ギリシア、ローマにおいて人間の形で重要なのは比例でありそれが建築をも形づくったわけだが、中世に入り人間の形状はそうした解剖学的な比例を捨象した想像の世界の中に飛翔するのである。それは建築も同じである。もはや比例という概念では作られなくなる。
それにしてもシャイティスのこの本は気が遠くなるようなスケッチの量である。徹底して手で書きとる中にある種の法則性を見つけていった。この方法論に圧倒される。こういうやり方で現代の局面を切り取れたら面白いのだが???

January 11, 2011

稲葉なおと『ゼロマイル』

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大学の同級生で作家となった稲葉なおとの『ゼロマイル』という単行本が最近小学館から文庫本になって売り出されたそうだ。しかも解説をあの重松清が書いているという。そこで新宿に行ったついでに紀伊国屋で買うことにした。小学館文庫のコーナーに行ってあいうえお順に並んだ作家名を目で追いかけた。あ行の最後にいるはずなのだが見つからない。コンピューター検索すると在庫ありと出てくるのでお店の人に聞いた。すると書架を探すでもなくこれですかと手にとって渡してくれた。なんと平積みではないか。すごい。驚き。えらい。そばのカフェで小一時間読んでみる。おおおお面白い。彼は物書きであると同時に写真家でもあり、その写真家としての自分の内面と家族への愛が重なって描かれている。
重松さんの解説にこんなことが書かれている。この小説は写真家の父と小学校2年生の息子がマイアミを旅する話なのだが、親と息子の二人旅は父親ならだれもが夢見ることであり、そして多くはそのチャンスを逃す。だからこそこうして小説の題材として魅力的なのだと。そして娘しかいない父(重松さんも僕もそうである)にとっては見果てぬ夢というわけである。そうである。こんな小さなかわいい息子がいたらなあと思うことしきり。

動物と共生

午前中かみさんが出かけるというので一緒に家を出て森美術館へ。4回来れば元がとれるというので友の会の会員になる。国立新美術館なんかだとちょっと俗な企画が多いのだが、ここは当たり外れが少ないので4回は来るだろう。
午後は家で雑用、早稲田のシラバス書き直し。最近シラバスはどこでも毎年修正以来が来る。大した作業じゃないし、授業を見直すにはいい機会ではあるが。その後ユルギス・バルトルシャイティス(Baltrusaitis, J)馬杉宗夫訳『異形のロマネスク』(1986)2009 の装飾図を見る。「ああ人間は動物や植物とこれほどまでに仲良しだったのだなあ」と思う。われわれの周りに、動物は動物園にしかいない(ペットは別だけれど)し、たまに話題になる動物は常に迷惑もの。もう少し共生する社会にしないとなあ。夜は東京にいる建築の先生たちと新年会。さあ今年もがんばりましょう。

January 9, 2011

北村movementを楽しむ

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北村明子さんのダンスを見にかみさんと鎌倉近代美術館へ。鶴岡八幡宮はすごい人出。参道が動けない。着いたのが2時40分。3時までHITO展を見る。ムサビ名誉教授の麻生三郎という素敵な画家を知る。ペンのラインと色が好みだ。3時ころ1階の彫刻室で最初のダンスが始まる。北村さんとインドネシアのマルチナス・ミロト氏の対話的なダンスである。崩れ落ちるような、体を不自然に捻るような、そんな北村movementが随所に表れていた。対話といいつつミロト氏のジャワ的な動きはむしろ北村さんの動きを無視し意図的に勝手に動いているようにも見える。それに対してそれを追いかけるようなあるいは先回りするような北村さんの動きが興味深い。第二部は場所を少し変えて大谷石の壁に映像を映しながらその前で行われる。ミロト氏はジャワの踊りを始め何事かインドネシア語で語り始める。北村さんはインドネシア語は分からないと言いながら日本語で今回のダンスの作成プロセスを語り始める。このインドネシア語と日本語の語りがどんな関係にあるのか見ているものは分からない。謎かけのようである。その関係が三部の踊りにも現れる。一体二人の動きには関係があるのかそんなことはどうでもよいことなのか。
会場で研究室のOB山田君に会った。9月からシリアに留学するとのこと。頑張れよ!鶴岡八幡を回りあんみつ食べて帰宅。車中上野千鶴子の以前読んだ『おひとりさまの老後』をぺらぺらめくる。『世代間連帯』で何度も登場した本なので来る時本棚から抜き出してきた。これを読むと、やはり未婚でいるのはその人の生き方の選択。それをどうのこうの言いたくはない。その中で無縁社会を回避するにはどうするべきか?と考えるの筋である。

ルーズ縁社会

去年の初めに「無縁社会~‘‘無縁死‘‘3万2千人の衝撃~」というNHKスペシャルがあったそうだ。結構な反響があったようで、本になったので読んでみた。NHK取材班編『無縁社会』文藝春秋2010。無縁社会とは文字通り、地縁、血縁、社縁などの「縁」がなくなった社会てある。そこで人々は最終的には行旅死亡人(こうりょうしぼうにん)となって官報にのって無縁仏専用墓地に葬られるという寂しい世界がルポされている。
もちろんこうした問題は孤独死に代表されるような老人に限ったことではない。未婚率が上がる現在、30代40代にその予備軍が確実に生産されているという。本誌に掲載されていた生涯未婚率の推移グラフを見て目が点になった。2010年現在生涯未婚率は男性19%女性10%である。これが20年後の2030年には男は30%、約3人に一人、女は23%4人に一人が生涯未婚なのだそうだ。もちろん独身でいることは個人の生き方の選択でありそれ自体が問題視されるべきではないが、未婚でいる理由がその人の意志でないとるするならば考えものだ。
本誌によれば未婚男性が増加する理由は4つあるという。
① コンビニなどの増加で一人で住まうことの不便さが減少した。
② 非正規労働が増え結婚する経済力がつかなくなった。
③ 結婚年齢の社会規範がなくなった
④ 女性の経済力が増加し女性に結婚する必然がなくなった。
これらの理由を見ると。個人の意志とはうらはらにという感じである。そして職が不安定ということは明らかに政治の問題である。となれば未婚率の上昇は単に個人の意識の変化として見過ごしていいことではない。
さらにもう一言加えればこれら4つの理由のうち二つは「夫パラサイト妻という旧態依然とした社会状況を前提とした理由である。そんな社会の枠組みを先ずさっさと取り換えなければいけないのだろうと思う。
縁で縛られる社会は、それはそれで息苦しいけれど、無縁は無縁で寒々しい。いい加減な繋がりというのが一番いい、ルーズ縁である。こんな無縁状態の危機感が一昨日に取り上げた『世代間連帯』を生んでもいる。

January 7, 2011

詩人のように人間は住まう

朝から大雪。長野は今年一番の寒さだそうだ。でも雪が降るとそれほど寒さは感じない。朝早く研究室行って、あっちの原稿校正し、こっちの原稿送って、ゼミ本(井上章一『伊勢神宮』)の説明して(と言っても酔っぱらって無くしたので半分しか読んでいない)それから講義。昼は生協のサンドイッチを立ち食いして来客と打ち合わせ。結構重要な話なのだが40分でなんとか終える。午後製図エスキス。これ最終回。あとは講評会。今年は去年に比べ詰めが一つ甘いかなあ?
6時台のあさまに飛び乗る。車中ハイデガーの「詩人のように人間は住まう」(ハイデガー、オルテガ、ベゲラー、アドルノ伊東哲夫、水田一征訳『哲学者の語る建築』中央公論美術出版2008所収)を読む。タイトル「詩人のように人間は住まう」とはヘルダーリンの詩の一節でありハイデガーはそれを読み込む。もちろんキーは「詩人のように」の部分である。曰く「人間の本性とその広がりを測る拠り所となる尺度を受け取るということ」。それを僕が勝手に解釈するなら、動物が巣の中で生きるのと異なり、人間は自らの欲求のままに生きることはしない。排泄はトイレで行うし、食事は横たわっては行わない。つまり人間はおのれの本性と人間化された慣習の狭間で生きているそれが住まうという人間化された状態なのである。しかるに人間化はどこかで息詰まる。どこかで本性に即して生きて行きたくなる。そして想像にふけり自らの動物状態を思い描く。そしてその動物状態と人間化の臨界点を見極め(人間の本性の広がりを測る拠り所を受け取り)ながら人間は住まう。この観察に僕は賛成である。角窓の家を設計した時に住人が炬燵に足を突っ込んで皆が十字に寝っ転がれるような無法地帯、動物的な状態が設計のイメージの中央にあった。そしてそんな無法地帯を住まうという人間化された状態にする作業をしていた。それはまさにこんな臨界点を探すことだったのではないかと思う。
僕の勝手なハイデガー解釈である。全然違うことなのかもしれないが、それならそれでこれは僕の考えである。

普通の国ニッポン

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クローバー型枠のコンクリートも無事打ち上がった

午前中あずさで甲府の現場へ。残りは外構。午後塩山の現場。躯体が打ち終わって上棟。さて残り2.5カ月で仕上がるか?定例が終わると真っ暗。温度も急激に下がる。ああこのまま長野に行くのは凍え死に行くようなものだと思いつつ、あずさで松本経由長野。案の定、長野は=3度。駅で夕食をとり少々アルコールも入れてマンションへ。暖房をつけっぱなしでベッドへ。寒さのせいか夜中腹痛で目覚め、正露丸を飲んで耐え忍ぶ。
長野へ来る車中読んでいた上野千鶴子、辻本清美『世代間連帯』を思い出す。あまり政治の話に強くない僕は常にノンポリを決め込んでいるのだが、久しぶりに文句言うべきところは言わないと世の中住みにくくなり続けるという危機意識を煽られた。
彼女らに強く同意するのは日本はもはや大国ではないという自国の認識。そしてそうであるにもかかわらず、60代以上の政治家や財界のオヤジたちは(経済)大国という幻想としての日本を忘れられないでいるという認識のずれ。(経済)大国という幻想を捨て(経済)普通の国ニッポンとなった時に僕らが目指すのは普通の幸せである。
2001年に大塚英志が『中央公論』誌上で公募した「私たちが書く憲法前文」の優秀賞に次のようの文章があったそうだ。

全くもってタイシタコトのない/世界的に見てソコソコの国がいい。(略)

世界なんていう単位で/立派で一番!になる必要はあるのか。/私たちから見て一番幸せになれる国。/そうなる必要は大いに/有。

景気ばっかりよくって/高ーい車買って/宝石ジャラジャラつけたくって/そんな/目や手や/そんな物で感じる幸せは/ソコソコあれば十分。/タイシタコトナイ平凡な国がいい。/穏やかに過ぎる時に/心で幸せを感じられるから。(略 )

上野は審査員の一人で1こんな文章に驚き感動したそうだ。これを書いたのは17歳の女子高校生。娘と同年齢である。どう思うか聞いてみたい。

January 6, 2011

デザインの明日は誰が何をするのか?

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久しぶりのホタルイカ。学生さんたちがちょくちょく見学に来ているらしい。
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プライベート写真を載せてしまいました。ごめんなさいね。同期のN君です。

新年事務所の仕事始め。新しくやる仕事の打ち合わせ。明日の現場定例の打ち合わせなど。今年もいい仕事をしたい。大学に送る原稿のチェックなどして夕刻日建の同期との新年会。場所はホタルイカ。久しぶりに自分の設計したレストランでの会食。できて5年くらいたったがきれいに使われていて嬉しい。日建同期のYとNが執行役員になったのをお祝いしての新年会だったがYは忙しくてこられなかった。同世代が活躍しているのは嬉しいものである。Nは中学、高校、大学、会社とずっと一緒だった仲である。おめでとう。しかし彼も心配していたが、建設業界は今後どうなることやら?もう量を得る時代は終わった。これからは質を問う時代である。では今後質とは何か?恐らくその一つはグローバルなテーマであるところのサステナビリティである。そしてもう一つは人間の本能であるところの何か。金とか経済原理では代えられない何かである。日建は前者を突き進むしかない。一方で人間の本能の部分は僕のやるテーマである。さてどちらが長持ちするだろうか?

January 4, 2011

ETHの教科書の凄み

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大学仕事始め。朝一で大学へ。教室会議を終えて午後は赤を入れた4年の梗概を渡す。4年の梗概に毎年見られる悲しい事実。
① 自分の意見と人の意見がごちゃごちゃ(小学校の作文で教えることだと思うが)
② ろくすっぽ調べていないのに断定する(中学生の社会科のレポートで注意される内容)
③ 自分だけ分かった気になっている(これも中学生くらいで注意されることだな)
書かれている内容と目指す志は大学生だが文章のレベルは小学生である。まあ今年に始まったことではないし、この大学だけの問題だとも思わないけれど。
夕方事務所に戻り先日届いた本を開く。平瀬君に教えてもらったETHの教科書である。タイトルはConstructing Architecture materials processes structures a handbook
出版社はBirkhauser である。
アマゾンで注文した時はまあ新建築くらいのヴォリュームと思っていたのだが届いたら電話帳である。Hand bookなのだからまあそいうものかもしれないのだが、内容は単なる事例集ではない。タイトルが示す通り建築をいかにconstructするかが丁寧に記されている。まずは材料。組石、コンクリート、木、鉄、断熱材、ガラス。次に部位ごとの説明。基礎、ファサード、開口、床、屋根、階段。次に構造。そしてやっと建物事例が出てくる。それで終わると思いきや最後にその図面の描き方がまた部位ごとに説明される。
これは教科書としてはパーフェクトである。こんな教科書を使ってみたいものである。でもこれを日本の大学のどの時間に誰が教えるべきなのだろうか?そもそもこんな教材がないということはおいておいて、日本では学部時代はかなり総合的な教育をさせている。だからもうこれ以上カリキュラムに何か新しいことを入れ込む余地はないのである。先ずはそこを変えたいところである。やはりどこかの大学のように建築学部ができれば少しは変わるのかもしれない。しかしそれは何時のことやら。隣の芝生を羨ましがっても仕方ない。そうなると残るは院の教育をそれぞれ専門化させることが考えられる。しかるにその場合講義数だけが教員に比例せず増えていくことになり教えられる先生がいなくなる。恵まれた国立大学の余裕のある先生にしかできない芸当である。やれやれ、、、。

January 3, 2011

仕事は何のためにするのか?

年末年始は好き勝手に過ごしていたので、今日はプロジェクトの資料読んだり、学生の梗概チェックしたり、仕事モードに頭を切り替え中。夕方風呂に入りながら上野千鶴子、辻本清美『世代間連帯』岩波新書2009を読む。年収300万というのが妥当な数字だと言わんばかりの二人の論調。上野は言う「年収三00万だと「それじゃ、結婚もできないし、子供も持てない」という人がいますが、そんなことを言うのは、たいがい男。自分ひとりで家族を養おうと思わずに、同じ年収水準の女性と結婚して共働きすれば、合わせて六00万になる、、、」この上野の言うことは至極もっとも。少なくとも設計やりたいなんて言う人は男も女もこう考えないと話にならない。でも疑問を抱く人も多かろう。僕も大学で就職の相談など受けているとそう思うときがある。金を右から左に動かして3000万稼ぐ人と殆ど同じような家庭環境で、同じような教育を受けたのに、たまたま選んだ職業がマックのバイトより儲からないなんてどいうことだと感じる。でも10倍稼いでいる人が10倍幸福かと言うとそんなことはないのである。本当に幸せで本当に楽しいということは何なのか若い人にはなかなか分からない。そしてみな早まってつまらぬ会社でつまらぬことをする。お金などそんなつまらぬことの代償にはならないのに。

January 2, 2011

エロティシズム

エロティシズムをテーマにして卒計を作っている学部生がいるので再度バタイユを読み直したり新たに読んだりしてみた。ジョルジュ・バタイユ、酒井健訳『エロティシズム』(1957)2004ちくま学芸文庫、『純然たる幸福』所収のエロティシズム関連の論考(1955~1957)2009ちくま学芸文庫、森本和夫訳『エロスの涙』(1961)2001ちくま学芸文庫、湯浅博雄『バタイユ』講談社1997。
人間は動物同様の欲求を持っている。しかしその欲求を動物と同様の形で表現するのに嫌悪を抱いた。そこで動物との差別化を図ろうとした。そのため人間は欲求を一度ため込み簡単に外に表出しなかった。それが人間化であるとバタイユは言う。しかし人間はこのため込み=人間化という名の禁止行為を再度拒否しようとした。禁止を乗り越え、ためこんだ欲求を露わにしようとした。それが欲望であり、バタイユの言葉でいえば「侵犯」である。そして人間はこの侵犯を人間たらしめるために理屈を捏ねて洗練した。味を楽しむために食べ、健康を維持するために眠り、愛の表現するために性行為を行った。さてここまでがバタイユの考えである。しかしこの侵犯は人間を人間たらしめる方向のみに行われるわけでもないように思うのである。ここからは僕の考えである。人間を再度動物に引き戻そうとする欲望もありそうである。人間を適度に動物化させる方向。そういうことの方がこれからの時代のエロティシズムという気もするのだが。どうだろうか?

直観は最後に使う

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なぜか僕と娘の名前のまわりにぶつぶつが
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家を出ると東京nobody状態である

2011年元旦。9時起床。家族で朝食。雑煮を食す。おせちなるものは黒豆と栗きんとんだけ。昼ころ娘が賀状をとってくる。お互い様だが義理賀状が多い。義理でももらえばどこで何しているかくらい分かるのでそれなりの意味はある。一通り見てから初詣に出かける。近所の須賀神社。毎年拝むことは一に健康、二に建築、三が家族で変わらない。甘酒をいただき帰る途中スタバコーヒー買って帰宅後天皇杯をテレビ観戦。鹿島強し。サッカー見ながら読みかけのゲルト・ギーゲレンツァー(Gigerenzer, G, 2007)『なぜ直観のほうが上手くいくのか―無意識の知性が決めている』インターシフト2010を読む。直観は論理的思考の対局をいくいい加減な思いつきと思われがちだが、潜在的な無意識が作り上げた知性であり信用できるもの。というのが著者の主張であるが僕はかなり前からずーっとそう思っていたのでここに書かれていることにさほど衝撃は受ない。
ただこれを読みながら人を直観的タイプと論理的タイプに2分するだけでは片手落ちだろうと思い始めた。たとえば自分の人生の岐路に立たされた時3つのタイプがいる。一つは詰将棋のごとく徹底して論理的にシミュレーションするタイプ(論理派)。二つ目はケーススタディはするが最後は直観で決めるタイプ(直観派)。三つ目はなんとなく決めるタイプ(慣習派)。この本ではこの慣習派もなんとなく論理派より正しいかのごとく描かれているようなのだがそれは誤解してはいけない。
直観的が論理的に勝るためには最初にかなりのケーススタディが必要である。それなしのなんとなく決める思考は直観的ではなく慣習的なだけである
なんて書いたのは僕の研究室で直観的と僕が思う学生を思い返してみると、彼らは結構すごい量の選択肢を自分の前に用意してそれから「えぃっ」と決定を下しているように思うからである。
振り返って自分の人生における決定はと言うと実は少々心もとない。もちろんすべては常に最後は直観的である。しかしその直観決定を行うまでに膨大なケーススタディをしたのだろうか???大学受験(象の大竹さんと富田さんの言葉を信じ、あるいは裏切り篠原一男のもとへ)留学(うーん篠原の逆のところに行こうと数ある大学の中からムーアを目指した)、就職(唯一あまりスタディしなかったのがここかもしれない)、結婚(これは時間切れ)退職(これはケーススタディのしようがない)、再就職(これもあまりケーススタディのしようがない)、退職、再就職、、、、、、というわけでこうやってみると表面上ケーススタディがままならぬ場合が多いようにも見えるが実は違う。本当はそういうイベントが起こる前に選択肢がぶら下がっているのである。そのもやもやした時点で実は様々なケーススタディが行われ直観的決定が行われているのである。毎年いろいろな場面でそんな選択肢に出くわすわけでその直観が狂わぬように潜在意識のデーターベースが壊れないように祈っておきたい。