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原っぱと遊園地のあいだ

民家を改造して作ったグループホームを鷲田清一が称賛していた。そのエッセイに青木淳の原っぱと遊園地の話が出てくる。遊園地は人の行動を先回りして施設計画されているが原っぱとはそこで集まる子供たちの偶然の出会いが新しい営みを生むという例のエッセイである。で、青木さんが称揚する原っぱとは何もないホワイトキューブみたいなものかというと、そうでもない。そこには人の行動を誘発するようなモノがごろごろしているのである。たとえば工場を改造して作るギャラリーを考えてみる。これはギャラリーとして計画されていない以上先回りして計画されたものは何もない。しかるに工場として使われていたさまざまな空間や物質が残っている。そしてそうしたモノの機能性や計画性はすべてキャンセルされる。それでもそうしたモノは消えるわけではなく残滓のごとくへばりつき人を誘うのである。
鷲田が示すグループホームでは、人は民家の生活施設をそのまま継続して使うのだから機能がキャンセルされているわけではないのだが、それらの機能はそこに住む人を想定して作られたものではないのだからあるものはキャンセルされるかもしれない。しかしキャンセルされても上述の通り残滓として人を誘う何かになる。しかし大方は継続使用されるので原っぱではないだろう。しかしでは遊園地かというとちょっと違う。同じ機能でも今までとは違う人が使うし、見知らぬ人同士が使うのである。鷲田はそれを再度「編みこまれる」と表現していた。つまりここは遊園地的な人の行動を先回りする物もない一方で原っぱのようなタブラ・ラーサでもないのである。その中庸をいくようなまた少し新しい場の生まれる可能性の見えるところのようだ。

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