詩人のように人間は住まう
朝から大雪。長野は今年一番の寒さだそうだ。でも雪が降るとそれほど寒さは感じない。朝早く研究室行って、あっちの原稿校正し、こっちの原稿送って、ゼミ本(井上章一『伊勢神宮』)の説明して(と言っても酔っぱらって無くしたので半分しか読んでいない)それから講義。昼は生協のサンドイッチを立ち食いして来客と打ち合わせ。結構重要な話なのだが40分でなんとか終える。午後製図エスキス。これ最終回。あとは講評会。今年は去年に比べ詰めが一つ甘いかなあ?
6時台のあさまに飛び乗る。車中ハイデガーの「詩人のように人間は住まう」(ハイデガー、オルテガ、ベゲラー、アドルノ伊東哲夫、水田一征訳『哲学者の語る建築』中央公論美術出版2008所収)を読む。タイトル「詩人のように人間は住まう」とはヘルダーリンの詩の一節でありハイデガーはそれを読み込む。もちろんキーは「詩人のように」の部分である。曰く「人間の本性とその広がりを測る拠り所となる尺度を受け取るということ」。それを僕が勝手に解釈するなら、動物が巣の中で生きるのと異なり、人間は自らの欲求のままに生きることはしない。排泄はトイレで行うし、食事は横たわっては行わない。つまり人間はおのれの本性と人間化された慣習の狭間で生きているそれが住まうという人間化された状態なのである。しかるに人間化はどこかで息詰まる。どこかで本性に即して生きて行きたくなる。そして想像にふけり自らの動物状態を思い描く。そしてその動物状態と人間化の臨界点を見極め(人間の本性の広がりを測る拠り所を受け取り)ながら人間は住まう。この観察に僕は賛成である。角窓の家を設計した時に住人が炬燵に足を突っ込んで皆が十字に寝っ転がれるような無法地帯、動物的な状態が設計のイメージの中央にあった。そしてそんな無法地帯を住まうという人間化された状態にする作業をしていた。それはまさにこんな臨界点を探すことだったのではないかと思う。
僕の勝手なハイデガー解釈である。全然違うことなのかもしれないが、それならそれでこれは僕の考えである。