言葉と建築
午前中ヨガに行った後で六本木に倉又史朗を見に行ったら、2月2日からだった。仕方なく国立新美術館でメディア芸術祭を覗こうと思ったらこれも2月2日からである。帰ろうかと迷ったが新橋に出て白井晟一展を見たhttp://ofda.jp/column/。
カタログの巻頭には白井の残したエッセイが並んでいる。ドイツでヤスパースの教えを受けた白井の言葉は建築という狭い世界におさまるものではない。建築の奥底を語ろうとする言葉である。そんな白井の言葉は理性と感性の間を往来する。
「建築は言葉である」と大学時代に篠原一男に教わり、縁あってエイドリアン・フォーティの『言葉と建築』を翻訳した。ここでの言葉は白井のそれとは違いはるかに理性的なそれである。そして信大では徹底してこっちの「言葉」について教え込んだ。建築学科でこれだけ「言葉」を詰め込んでいるところはそうは無いと思う。しかし一方で白井の言葉をあげるまでもなく建築は感性でもある。美学においても今や感性の学という言葉が大流行である。そんなわけで4月から赴任する大学でどういう方針で教育するか、「言葉」か「感性」か?信大の連続で行ってもよいものかと少々悩んでいるところだった。
岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』亜紀書房2010を食後に読んだ。これで考えはほぼ固まった。この本はその名の通り現代若者の言葉の貧困を訴えたものである。著者は専修大学の教授でありそこでの体験に因るところが大きい。
学生の言葉の貧困は程度の差こそあれどこでも似たようなものだろうからさほど驚かない。ただ学生の話以外に著者の挙げた言葉の必要性の事例に説得力を感じた。一つはサッカー協会がサッカー教育の一環として論理問答トレーニングを取り入れたという話。つまりサッカーとは記憶に蓄積された知覚のパターンの中で自分の行為を感覚的に決定していくだけではなく、攻撃と防御のパターンを言語化して理性的に次の行動を決めるようにしなければ上達しないという認識である。もう一つは著者自身が入会する写真グループにおいて、センスがとても良い若い女性写真家が言葉を語れないがために作品の質を上げることができないという話。どちらのも技を高めていくのは感性だけでは無理であり、言葉による整理と蓄積という行為があって始めて上達が図られると言う事例である。感性無き言葉は不毛だが、言葉なき感性は空虚だと言うことである。