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July 31, 2010

披露宴

朝、四ッ谷駅で人と会う。駅ビルにはポールと言うパン屋があり9時からやっている。9時半から11時までお話をして分かれ、品川プリンスへ中高同級生の結婚式に向かう。同級生だから50歳だけれど。バツ一ではない。彼はW大の建築を出て某ゼネコンの現場に務め現在は営業。新婦は某商社にお勤め。品川グランドプリンスという少し奥まったホテルでの披露宴。今時ホテルか?と少しビックリ。よしんばホテルとしても高貴な彼のお家からすれば大倉か帝国だろうに何故ここ?と不思議に感じていたら新郎来賓のあいさつで謎が解けた。新郎はこのホテルの改修の仕事を営業マンとしてまとめたのだそうだ。やはり50ともなると気を使うんだ。会社の上司がどっと来られているのにも気遣いを感じた。大型ホテルの大きな宴会場の結婚式なんて10年以上はご無沙汰だし、新郎新婦の上司による企業宣伝ぎりぎりのスピーチを聞くのも久しぶりである。タイムスリップしたような感じだが、そう思うのは浮世離れした大学の教員などしている自分だけだろうか?僕が結婚した時会社の人で来ていただいたのは林さんだけ。たまたま僕の仕事の上司だったから。後から聞いたことだが、林さんは「ホテルでやる結婚式、煙の出る結婚式、お色直しをする結婚式には出ない」そうだ。もちろんそのどれにも該当しなかったので事無きをえた。
披露宴が終わったのが4時。例によって2次会というものが同じホテルで行われるため、皆ホテルで一杯やろうということになる。ちょうど4時にバーがオープン。15名くらいがバーの一画を占拠。50前後の大人どもが高校生に戻って大騒ぎ。飲めば飲むほど気持ちはガキに戻る。歳を考えないと。

July 30, 2010

要素主義じゃなくて連続主義

朝八潮市へ行き公園設計の打合せ。5大学の持ち寄る案はそれぞれ面白く、どれも捨てがたく、このままいくと案が収束しない。困ったね。どこかで少し強引な介入しないと。昨晩から風邪が治らず頭がぼーっとする。読み始めた佐々木護の小説が何時まで経っても読み終わらない。風邪が目にもくるのか文庫本の小さな字が疲れる。午後事務所でJIAの優秀建築賞の資料のコンセプトの文章を書く。今年は二つほど出すことにする。夕方塩山のカラースキームの模型を少し見る。1/30の模型に色紙が張り付けられている。いい感じだ。でもまだ僕の意図から遠い。簡単に塗れてかつ効果的でそれで建築の部位を解体する様な塗り方がしたい。例えばデ・スティールは建築の部位ごとに色を塗り分けることで部位を明確化した。だからelementalismなどと呼ばれる。僕はこれに反して部位を不明確化したい。例えばドアを赤く塗るとしたら壁も少し赤く塗る。その分ドアを少し壁色に塗る。ある壁を青く塗るとする。でも壁だけを青く塗ることはしない。壁に連続する天井を少し青く塗る。その分壁の下の方は少し床の色に塗る。などなど。あれはみ出ちゃったよという状態をきれいに塗ってみる。あれどこまで床なの?どこまで壁なの?ドアはどこ?と言う風に塗ってみたい。これを要素主義にたいして連続主義と呼ぼう。要素は常に連続するのである。

July 29, 2010

現場の梯子

くしゃみ連発。坂本先生の風邪うつったかな?甲府行の特急の中はカーディガン着て冷風を避ける。金箱事務所の鈴木さんとスタッフのT君と配筋検査。いつもはたっぷりある指摘事項が今日は少ないと嬉しい悲鳴の鈴木さん。現場所長の望月さんは後で聞いたら実家が鉄筋屋さんで父親が頑固な職人。小学生のころから現場で遊んでいたと言うから筋金入り。綺麗な鉄筋だった。躯体図の出がとても早かったのも印象的だし、基礎打っている段階から内部造作の詳細検討図が出てくるのも嬉しい限り。これからの仕事を予感させる。甲府で昼をとり塩山へ移動。施主を交えた第一回目の定例。先日解体を始めた途端に保存すべきシンボルツリーをちょん切ると言うボンミスをしでかしたのだが、さて要望した書類がどのくらいできているだろうか?書類の出来はその会社の力を示す指標でもある。打合せ記録、近隣状況報告、現場写真、マスター工程、月間工程、懸案事項。それぞれの書類はまあ合格点。とくによく出来ていたのは打合せ記録。記録項目の右側に発言者を書く欄が付いている記録用紙。これはなかなか明快で良い。模型を見ながら図面説明。図面をよく読むようにお願いする。打合せ終わって塩山駅についたら次の電車まで1時間以上もある。風邪が悪化しそうである。

July 28, 2010

地方ゼネコン頑張れ

午前中家の中の整理。本や資料に加え、確定申告から、事務所の経理などなど。午後事務所で学生の成績付けのための出席や小レポートの提出数などをエクセルにまとめる。未だ最終のレポートが出ていないので最終の成績はこれから。夕方打合せ。明日の現場定例の問題点などを話す。住宅の現場は2週間ぶり。明日は配筋検査。月曜日にスタッフが墨のチェックをしに行ったら10センチずれていたそうだ。やっておくものである。塩山の現場は解体工事を始めていきなり保存樹木を施工者が間違えて切った。その対応を話し合わねばならない。こういうミスはどうしたらなくなるのだろうか?地方ゼネコンしっかりせい!
そう言えば昨日長野市の景観賞を審査した審査員の一人が長野市の建設業協会の会長。地方ゼネコンのボスである。この方の仕事は幾つか見たことがある。とても丁寧ないい仕事をする。彼はもともと竹中の設計部にいた。だから当たり前だが建築の造詣はとても深い。昼食の時話を聞いていると大学は早稲田。しかし大学に行かず象設計集団のバイトで殆ど沖縄にいたという。へええ、僕が大学に入る時、尋ねたのが象であり富田さんだったことを言うと。ビックリしていた。しかし象から竹中ですかと聞くと「大事件があって」と答える。そして「竹中やめて地元に戻ったんですね?」と聞くと「大事件があって」とまた同じ答えである。人生の転機に大事件はつきもの?

July 27, 2010

長野市景観賞現地審査

朝一で研究室に寄って長野市役所へ。既に書類選考している長野市景観賞の現地審査。10人の審査員で10の建物を見て回る。幸か不幸か快晴。長野は涼しいと思っている方も多いがそれは軽井沢などの高地。長野市は盆地で昼は東京より暑いこともしばしば。10の建物はホール、事務所、住宅、道、神社、酒蔵、長屋門と長野っぽいモノも多い。去年は社会情勢で出品作が激減したが今年は持ち直した。二つの酒造所を見る。一つは既に酒造機能は無く倉庫と化した。朽ちかけた土蔵に漆喰を塗り直し、なんとか生きている。崩れ落ちそうで崩れない。昨晩レートショーでみたアリエッティの家のよう。下地の見える土の割れ目から小人が飛び出しそうなミステリアスな魅力。もう一つの酒造所は街道に面して営業している。一部はお店でもある。、こぎれいなファサード群は先程のものと比較すれば商業的で陳腐なものである。飯縄(長野オリンピックのモーグル会場のあったところ)で昼食。蕎麦が美味い。ここでは住宅を視察。家主とお話したら東京で事務所をしていた建築家だという。終の棲家としてここへ越して来たらしい。自分の最後の作品だと言っていた。大きな家に犬がいた。建築家やって老後をこんなに優雅に暮らせるのだろうかと審査員一同ため息が漏れた。3時半ころ市役所に戻る。4時から学内で打合せがあるので採点表を渡して大学に戻る。夕方のアサマで東京へ。車中佐々木護『警官の紋章』ハルキ文庫2010を読む。佐々木護の警察ものは内容が正確だとブンヤの友人に言われた。そう思って読むと警察って怖いところだとつくづく思う。この異常な仲間意識。仲間意識が強いというのは守るべき秘密が多いということの裏返しでもある。東京で3人の建築家と会う予定。さてどんな話になることやら。

July 26, 2010

パフォーマティヴなルール

午前中会議。午後の博士論文の審査まで時間があり松岡さんから頂いた本に目を通す。京都造形、京大、京都工繊など京都の建築学科が合同で進めているスタジオの作品をまとめた本である。こういう教育を一つの本にまとめるなんて凄いバイタリティだと感心する。指導者は松岡さん以外に田路さんや朽木さんなどの顔ぶれである。スタジオのテーマは町づくりのルール。京都ならさもありなんである。
時間がないのでとりあえず松岡ゼミの作品と松岡さんの文章を読ませて頂いたがおもしろかった。プロジェクトは町づくりのために一つのルールを作っている。それは建物の各敷地が建蔽率80%に基づき、残りの20%を供出してそれを全て道にするというルールである。つまり日本の家によくある塀と建物の間の30センチくらいの猫しか通れないような空間をすべて供出して道にすることで相互の多様な関係を生み出そうとしている。加えてそれらは全て道と考えて通常より緩い斜線制限をかける。そうするとこの小道がかなり有効な空間として建物周囲に発生するのである。
さて松岡論文はというと、いろいろなことが書かれているが、僕の分かる範囲で興味深かったのは法のパフォーマティブな意味というもの。法はコンスタンティブ(一義的で断定的な)なものと捉えるのではなくパフォーマティブな(使い方によって多様な意味作用を発生する)ものとして捉え、制定しようという考え方である。それは法が歴史的に社会構築的であるという彼の認識を更に一歩進めたものである。この考えはかなり面白い。ルールは必要悪(特に基準法は)という認識に侵されている我々は少し考え方を変えてもいい。その昔ガエハウスを解釈して10+1にそんなことを書いたことがあるがその考えにとても近い。ルールは使い方の多様性を許容しながらその中で様々な表情を生み出す道具として使われるべきである。

July 25, 2010

文章・音楽

午前中千住の方に建物を見に行く。帰りがけ上野から末広町に出て3331 ARTS CHIYODAを見るhttp://ofda.jp/column/そのまま神田明神を突っ切ってお茶の水まで歩き四ッ谷へ。駅のパン屋で予約していたパンをもらい帰宅。数時間の外出で汗だくだく。シャワーを浴び読みかけの竹中労『決定版ルポライター事始』ちくま文庫2006を読む。朝日新聞のMに是非読むように言われた本だ。なるほどブンヤのMがこれを薦める意味がよくわかる。竹中は自らルポライターと呼ぶように、一匹オオカミの文章屋であり、本書では何度となく制度の中の文章屋、要は新聞記者や一流雑誌記者との間の被差別感を強調する。そしてもちろんそう言う人間より自らの文章にかける情熱の高さ、文章の質の高さを示してくれる。僕の友人がこれを読めと言うことは制度の中のブンヤと言う自分への自戒の念が込められているのだろう。そもそも彼もこういうモノ書きを目指していたのだろうが、今ではあっちこっちで挨拶係だと嘆いていた。総局長なんていう肩書はそういう役割を余儀なくされる?まあ人生の悲哀だね。設計事務所も偉くなるとそうみたいだけれど。
午後親戚集まる。甥っ子がバークレ音楽院への留学が決まり壮行会である。彼はドラムスであり学生のころからチャーのバックでやっていたりしたが、本格的に就職を蹴って音楽の道に進むことにしたようだ。めでたい。後はやるしかない。建築と同じだから頑張ろう。モノ書きも音楽屋も建築屋もやるとなったら死ぬまで自分を信じてやるしかない。

July 24, 2010

地域社会圏


午前中テラスの掃除をした。植木鉢を移動して、落ち葉を拾い洗剤をかけてデッキブラシでこする。タイルに染み込んだ汚れはなかなか落ちないのだが表面の土は大分落ちた。汗だくになったので風呂に浸かる。午後山本理顕他『地域社会圏モデル』INAX出版2010を読む。山本さんの主張は一貫して「一家族=一住宅は日本社会が犯してきた大きな間違いである」というもの。先日社会学者の祐成氏を建築学科に招いた時に保田窪団地調査の話があった。保田窪は隣近所の気配が分かりやすく出来ている。よってプライバシーが低く評判が悪い。しかしここで祐成氏はプライバシーが高い団地における老人の孤独死をとりあげ、もし隣近所の気配が分かれば孤独死は防げたはずだと主張した。住宅の性能と住まいの豊かさは比例しないというのが祐成氏のその時の結論である。確かに昨今高齢化社会において一住宅=一家族は意味を持たないだろう。ではそこに現れるのは何なのか??そこで提案されている地域社会圏モデルは興味深い。陽が沈むころ近くに買い物。明日のお客さん用の食材を買い込む。

篠原一男金獅子賞受賞

午前中早稲田の演習。学生の発表。建築のアート性がテーマ。4年生がマークロスコのロスコ・チャペルとロスコの作品について論じてくれた。ロスコ・チャペルはフィリップ・ジョンソン設計でロスコの死後に完成した。外観はよく分からなかったが、内部は殆どロスコの作品に覆われている。もはや建築が空間を作っているようには見えない。絵画が空間を作っている。そういうとフレスコ画で覆われた空間もそうではないか?ということになるが、フレスコ画はあくまで天井、壁という建築の部位が絵になっている。しかしロスコ・チャペルは壁の上にロスコによって描かれた巨大キャンバスが全ての面に取りつけられているのである。この差は大きい。かたや建築と一体化した絵画であり、かたや建築に挿入された絵画である。こんな建物があったんだ。勉強になった。演習後教室を出て建物の外に出るとむっとする。今日の早稲田は(東京は)異常に暑い。正門から舗道に出るとまた一段と暑い。アスファルト地獄。頭がくらくらしてきて息苦しくなりそのまま学生の溜まり場のような食堂に避難。焼肉を食しとなりのあゆみbooksで山本理顕の本を一冊購入。店を出て大急ぎで地下鉄の階段を避難するようにかけ降りる。事務所に戻り来客。その後雑用。打合せ。塩山のインテリアスキームが進む。こう言うのは楽しいな。
夜はとある建築家と会う。彼の話で驚いた。妹島さんが総合ディレクターをしているヴェネティア・ヴィエンナーレでコールハースとともに篠原先生が記念金獅子賞を受賞したそうだ。妹島さんが推したからかもしれないが、一人の推薦では決まるまい。また、この夏のフランス・アルルでの欧州最大の写真フェア、アルル・フォト・フェスティバル2010でも篠原さん撮影の写真(通りと人影)がノミネートされたとか。亡くなってから未だにエネルギーをもらえるようで嬉しい限り。

July 22, 2010

キックオフミーティング

午前中の電車で長野から塩山へ向かう。ところが松本へ向かう特急しなのが単線区間で遅れる。松本乗り継ぎが3分しかなく走る。同様に甲府へ向かう特急あずさが遅れる。乗り換え時間が数分。甲府で走る。ひやひやしたが間にあった。それにしてもこの塩山の暑さ。意識が朦朧とする。しかし迎えに来てくれたクライアントは普通ですよと言う。今日はクライアント、ゼネコン、設計者、構造設計者を入れてキックオフミーティング。金箱さんは最近のコンクリート打設のレベルが低いのを嘆き、コンクリートの打ち方についての注意点をまとめて説明してくれた。後で補修するくらいなら最初に注意しようと言う。言ってみれば当たり前なのだが、それができない。続いて総合図の書き方を説明。総合図とは日建設計時代に使いなれた施工図の一種である。これは平面詳細図に設備系の情報をすべて書き込むものである。これがあるとクライアントとコミュニケーションしやすくなると同時に。設備の矛盾があらかじめ見つけられる。次に既に決まっている修正事項について工事連絡書を出した。さあいよいよ始まる。久しぶりのRCの建物。実は1000㎡クラスの建物でRCは初めてである。4時ころ終り駅まで送ってもらう。1時間あるので駅前の食堂にはいる。新宿までしっかり眠る。今日は疲れた。事務所に戻らず帰宅。

坂本先生語る

午前中アルゼンチンにメール。英語で正確に物事を伝えるのは結構時間がかかる。12時坂本先生到着。僕の部屋で雑談。群馬のコンペの7選に残ったそうだ。めでたい。中国の話も色々聞く。同済大学、南京大学、ハルビン工科大学とあちこちでレクチャ、指導と忙しそうである。雨後のタケノコの如くスカイスクレーパーが立ちあがる中国で住宅作家に熱烈ファンがいるというのが興味深い。1時から坂本先生のレクチャー。学内学外から多くの方が聞きに来られた。タイトルは構成の詩学。お話は最初から最後まで一気に進んだ。「建築は自由でありたい」この言葉が何度となく繰り返された。果たして信大の学生は理解できたか?
その後12名の四年生の講評会。ゲストクリティーク3名に加え全非常勤講師と常勤3人。9名が言いあうにしては時間が短い。どんどん押してくる。坂本先生も多いに語る。コンセプトは分かるが建築になってないという指摘が多い。コンセプトが無いと言われるよりましだが、やはり建築にするところが弱い。12名の発表が終わり投票である。投票で5名に絞り議論をした。布で作る海の家。斜めの床だけで構成される美術館。壊される市民会館の部分保存。斜め線がいきかうコンプレックス。信大コマクサ寮の改築。海の家の柔らかな皮膚感覚はポエティックである。斜め床は理屈は分かるが斜めがきつすぎて建築になってない。部分保存は手法としてとてもチャーミング。保存のプロの先生は既存に対するリスペクトが足りないと不満げだが。コンプレックスはとても上手だが、上手過ぎて強さに欠ける。コマクサ寮は詰めがもう一つ甘い。議論の末に再度、最優秀、優秀の投票。その結果コンプレックスと海の家が同率首位。再度挙手で最優秀を計る。その結果コンプレックスが最優秀。海の家は優秀。別枠で設けた坂本賞を問うと海の家。布で作られる詩的な空間を評価。海の家は2重で受賞。お見事。
夜は今日のプレゼン学生と僕の部屋の学生、ゲストたちで懇親会。岐阜からわざわざ来られたIさん。情報工学科から建築に移りたく建築を学ぶIさん。松本から来ていただいた建築家のYさん。そして松岡さん坂本先生ありがとうございました。去年より今年は少し進歩した気がするし、講評会もゲストや非常勤の先生のおかげで実のあるものになったと思う。これで前期も終了である。

July 21, 2010

理論と感性の折り合い

q朝製図第三の講評会の発表者選び。終って教授会。なんと重い人事の話題。けりがつかず。また来週会議。午後から製図第三の講評会。ゲストは松岡聡。先ずは彼にショートレクチャーをしてもらう。これが結構、目から鱗。「平面に置ける曲線の使い方」というのがテーマ。さすが妹島事務所出身。そう言えば妹島さんの卒論はコルビュジエの曲線の使い方だったそうだ。松岡さんの曲線論はバロック建築の平面図まで登場した。こんな設計の技術論をレクチャーしてくれた人は彼が初めてである。驚いた。それを彼の実作に繋げて語ってくれた。極めてリアルである。前回のゲストは松田さん、その前は藤村さん。同世代なのにこれだけ考えていることが違うということが面白い。その後講評会。今日は意識的に発表者を多くしたので僕はコメントをかなり控え、松岡君に多くを語ってもらったのだが、語ることがとても的確。そして深い。終って各賞の選定をしたが、彼の評価と僕のそれは殆ど一緒だった。
夜は懇親会。松岡さんと話したことは、やはり感性と理論の折り合いのようなところである。彼は妹島時代の同僚である田村さんと共同しているが感性派の田村さんと理論派の松岡さんの微妙なバランスの上で作品を仕上げているようである。そのさじ加減が重要。今そうしたバランスの上でいろいろな事務所が仕事をしているというように思う。明日は坂本さんが来られるが、彼も理論派でありながらそれを嫌う。では研究室でどういう風に設計をしたのだろうか?理論が通じなければ苛立つだろうし、でも出てくる案が理論的だとこれも面白くないはずだ。これはジレンマである。僕もそうである。語る時は概念的だが、スケッチはそうあって欲しくない。

July 19, 2010

八潮サウスゲートパーク

午前中『池袋ウエストゲートパーク』を読み続ける。池袋は若いころ慣れ親しんだ場所なのに、この公園は見たことも入ったこともない。でもテレビでは何度も見た。あまりいいメージで報道されない。悪の巣窟のような感じである。でもそれって逆に言えば誰でも何時でも入れるということの裏返し。よく言えば自由、悪くいえば無法地帯。
午後八潮の公園設計ワークショップ。各大学が5大学で設計を進める方法論を持ち寄ろうと言うプレゼンを行った。各大学15分の持ち時間でそれぞれ少しずつ議論をして進めた。日工大は5つのゾーニングと各ゾーンに他のゾーンの飛び地があるというコンセプトでその実例を見せてくれた。茨城大は5大学のゾーニング方法を分析。それは5つに分けるのではなく更に微分してそれを自由に繋げるような方法論である。神奈川大は大きなコンセプト(山とか丘とか)とエレメントに分けた方法論。建築パビリオンを5つ作るところがみそ。信大は人々の人口密度や速度を風景にして、密度や速度を制御するランドスケープを提示。神戸大は複数での方法論を回避し、大きなコンセプト(いらっしゃいませ、お帰りなさい)を掲げそこから帰結する空間を提示。
さてこれらの発表から次へのステップを議論した。しかしこれはなかなか大変だ。変数が多すぎる。侃侃諤諤の議論となる。でもこれは結構本質的で面白い。僕は5大学の複数性を前提とするかどうかが重要と主張。曽我部は方法論の前に大きなあり方を議論すべき。小川君は大きなコンセプトとかあるべき機能を議論するのは可能性を限定することになるので得策ではないとする。寺内は今回の案の共有点をまとめそれを前提としなければ前へ進めないと主張。槻橋氏は全体を取りまとめながら5大学がコミットする方法論を前提とすることには反対のようである。と言うわけで方向性は出ない。結局これらの議論を踏まえ来週のWSに新たな提案を持ち寄ることになった。
これは難しい。先ず先生たちの議論の共通点をどこに置くかである。なんとなく総括すると皆が多くを受け入れ、可能性を発見する場所だと考えているように思える。敷地の半分はデザインするのをやめようなんて意見も出る始末。でもそれをやると池袋ウエストゲートパークになるんじゃないの?という不安もある。自由と無法は紙一重である。ある規制はいる。それをどういう形にするのかである。
学生の車に便乗させてもらい長野へ向かう。後部座席で来週に向けた議論を始めさせたのだが数分で言葉が途切れた??まあよく考えてくれ。
ところで明後日21日は信大に坂本一成氏をお呼びし、1時から講演会3時から4年生の製図の講評会である。ゲストには京都から松岡聡氏も来られる。なかなか豪華な会となる。長野の建築家も4名。なんと発表者と講評者が同じくらいいるよ。すごいね。長野近辺にいらっしゃる方は是非ご来場ください。http://www.ofda.jp/lab/practice/2010drawing5/lecture_dai5_2010.html

July 18, 2010

オハカの色―メキシコの記憶

午前中ジムでティラピス。僕以外は全員中年壮年老年のおばさん達である。でもこれをやると背骨がすっきりする。ジムの脇にあるsubwaysでサンドイッチ三つ買って家に帰る。作品制作中のかみさんに一つ上げ、出かけようとしていた娘にも一つあげ、自分も一つ食べる。しばらく部屋で石田衣良の『池袋ウエストゲートバーク』1998を読む。池袋のあの辺りが騒がしかったのが98年ころだったのだろうか?もうよく覚えていない。午後六本木に「マン・レイ」展を見に出かける。国立新美術館は連休だからかどうか分からないが、人でごった返している。「オルセー美術館展」の方は長蛇の列で入るのに1時間くらいかかりそうに見える。そのわきから並ばずに「マン・レイ」に入る。たっぷり見ごたえのある量である。一休みしてミッドタウンの「富士フィルムスクエア」に行き「アンセル・アダムス展」を覗く。同時代の作家だがその作風は一見正反対。でもよく見ると似ているのかもhttp://ofda.jp/column/
ミッドタウンの3階にはファーバー・カステルの専門店がある。セールをしていたので、クレヨンとスケッチブックを2冊買って家に帰る。さっそくスケッチブックを開きおニューのクレヨンで色塗りしていたら2冊塗りつぶしてしまった。好きな色を重ね塗りしてナイフで適当に削り落すのである。その昔メキシコのオハカにムーアやリゴレッタと小旅行をした時見た建築群の壁はどれもこれも何重にも塗り重ねられた塗装が年月の経過で欠き落ちて何十の色が見えてきていた。その壁の色がとても印象的でそれ以来、パステルやクレヨンがあるとついその壁を再現してみたくなる。もちろん色味は自分の好きな色なので再現とは言えない、終わって減った色を見ると肌色。肌色好きなんだやっぱり。

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July 17, 2010

学会の北陸支部大会

岩室の朝は早い。宿で握り飯を作ってもらい車で弥彦神社に向かう。17世紀の建物で国の重文。神社の裏からロープーウェイが弥彦山の頂上に向けて出ている。頂上からの眺望は圧巻である。南には新潟市、燕市が見え市と市の間は日本の穀倉地帯。緑のカーペットが敷きつめられている。北は日本海と佐渡。この辺りの日本海はエメラルドグリーン。まるで南国の海のようである。山を降り吉田駅から各駅停車に揺られ柏崎を目指す。車窓から見えるのは先程弥彦山の上か見えた緑のカーペットである。柏崎駅からタクシーで新潟工科大学へ。日本建築学会北陸支部大会のシンポジウムが学会長を招いて行われていた。中越沖地震から3年たち「大学は地域に貢献できたのか?」というのがテーマである。実は3年前この地震が起きたまさにその瞬間僕は柏崎にいた。長岡のコンペ(隈さんが勝った)の敷地を学生と見に行く途中だった。その意味でこの地震は印象深い。シンポジウムでは先日お会いした佐賀大の平瀬君の同級生だった田口先生が司会を進めていた。なかなか見事な手綱さばきで。会場の笑いを誘いながら核心にせまる内容だった。4時から北陸建築文化賞の表彰式。審査部会長という立場で業績賞1つと作品賞3つの選評を述べさせていただいた。その後受賞者が受賞作品のプレゼンを行った。直に説明を聞くと書類や現地審査だけでは分からない新たな点に気づき面白いものである。懇親会は失礼して柏崎に戻り東京へ。梅雨明け間際のとても暑い一日だった。

July 16, 2010

燕三条へ

午前中早稲田の演習。アート的vs原初的という話。20世紀初頭モダニズムはジャンルの純粋性を重んじたのだが、その後どんどん融合して最近は殆ど同じジャンルとさえ言えるようになった。元に戻ったともいえるのだが、、、でも再びジャンルが独立するのではないかというのが勝手な予想である。
今日は後がつまっているので早めに終わろうと思ったのだが、先週欠席した学生がプレゼンさせてほしいとねだるのでやらせていたら終わったのが12時半。おかげで行きたかったあゆみbooksにも行けず一目散と東京駅へ。「とき」に飛び乗り新潟燕三条をめざす。車中S.フリートレンダ―(Friedlaender, S)長倉誠一訳『子どものためのカント』未知谷2008を読む。カントの思想を子供が読んでも分かるように書き変えたもの。そうは言っても、もちろん日本の子供が読んでもとても理解できないだろう。いやいや大学生が読んでも分かるまい。それをドイツでは小学校の教科書にしようなんて考えているのだからビックリである。燕三条から乗り換えて吉田へ。今日はここで一泊。

入札、そして落札

朝のアズサで甲府へ。工務店の望月さんの車で現場へ。遣り方が終わった状態。水道屋さんが新しいメーターを付けている。敷地ぎりぎりまで建物が建つことになるのを再確認してから工務店の事務所に。始めていく事務所だが立派な会社である。これからの工程を確認し基礎の躯体図のチェック図を渡す。ここで昼食を御馳走になった後塩山まで送ってもらう。今日は塩山の養護施設の入札。少し緊張。本格的な入札を取り仕切るのは今までなかったので不調に終わったらどうしようなどといろいろな心配が頭をよぎる。市の立会人の方、クライアントの理事の方総勢11名。そこへ入札のゼネコン四社。四社来る予定だったが一社無断で欠席。こんなことがあるのかと困ったのだが、時間通りことを進める。入札の札を開ける。なんと2社は入札予定価格と全く同じ価格。1社だけ予定価格からほんのわずか少ない価格。それで落札。なんだかあっけない。入札予定価格で札を入れると言うのは言い換えると取る気が無いことの表明。ということは1社しか取る気が無いと言うことになる。これってどういうこと????まあこれが地方の実態ということなのだろうか?もう談合をやめろと言う前に談合を前提とした仕組みを考えた方がいいんじゃないのと言いたくなる。みんなが労力掛けて入札なんていうことをやっていることがアホらしくなる。帰りの車中青木淳悟の単行本『このあいだ東京でね』の最後の短編を読む。タイトルは「東京か、埼玉―家と創作ノートと注釈」。この短編の最初にはこんなノートがついている「この作品は、建築雑誌上での特別企画により、さる個人住宅(設計西沢立衛)への訪問記として書かれたものです」そう書いてあるのだが文章はさっぱり彼の作品ではない。ふと下の方を見ると普通は注釈が付いているような部分にずっと文章が連なる。そこを読むと。ここに森山邸の話が続く。本文はどこかのプレファブ住宅の話である。一体これは何?このはぐらかし方とは???なんて謎なのだがそんなことを考えている暇はない。彼の小説はテープレコーダーのテープ起こしのようである。それは昔キッチンを読んだ時にも感じた。ただしキッチンの場合はあたかもビデオおこしのようであった。昨今の小説に感ずるこの日常の記録のような感じは何なのだろうか?やはり現代は主題より方法の時代ということなのだろうか?まあこれが現代なのかと思うとそうも思うしこの希薄な感じは嫌いではないのだが、、、、

July 14, 2010

日常の詩学小説?

昨日は学会の設計競技審査。出品作28作品から7点の入選を選んだ。昨年より大分レベルが上がったものの、本部に集められた中でどの程度のレベルにはいるのかはよく分からない。なんとか全国入選が一つくらい出れば嬉しのだが。審査が長引き、急げば最終に乗れないことも無かったが一泊した。そのおかげで「のどくろ」や「金時草」などの金沢名物を食すことができた。今朝は8時台の電車で東京へ。車中、青木淳悟『このあいだ東京でね』新潮社2009を読む。久しぶりに単行本の小説を読んだ。青木淳悟は最近注目の小説家だそうだがそんなことを知って買ったわけではない。固よりこの人の名前など全く知らなかった。なんでこんな本を買ったのかよく覚えていない。タイトルが魅力的だったからだろうか???これは最近の傾向なのかもしれないが、この小説も日常の生活がとてつもなく詳細に描かれている。阿部和重の『シンセミア』を読んだときにも似たようなことを感じた。もちろん二人の小説が本質的に似ているという意味ではないが、その書きっぷりが類似する。日常の煩瑣なことが全てデーターベースのように書きとめられている。小説や音楽はあるヤマ(テーマ)に向けて盛り上がりを見せるのが普通だと思っていた。そのためには盛り上がるために必要なことが書かれるものである。ところが彼らの小説はそうではない。何でもかんでもまるでテープレコーダーの記録のように記されている。「でもそれが生活だろう」と言いたげである。日常の厚みのようなもの、その厚みの奥の方を垣間見せる。日常の詩学小説?
金沢は雨だったが東京に着いたら晴れ。しかもとんでも無く暑い。ネットニュースを見ると、東京の梅雨は実質的に明けて、猛暑が続くと言う。事務所に戻り塩山インテリアスキームの打合せ。沢山のスケッチを見ながら方向性を一つ出す。

July 13, 2010

東大S教授が残したもの

学会のコンペ審査で金沢へ。4時間電車に揺られる。車中鈴木博之編『近代建築論講義』東京大学出版会2009を読む。その昔。学部でコルビュジエ論を書いて、同僚2人とその当時の助手の篠野さんと(現東工大教授)金沢工大で発表した時に質問があった。「東大の鈴木です」ドキッとした。「今コルビュジエを研究する意義はどこにありますか」と聞かれた。正確に何と聞かれたかは覚えていない。それに対してなんと答えのかも全く覚えてえていない。それが鈴木さんとの最初の出会いである。そして大学院の時、僕は鈴木さんの珠玉の名作『建築の世紀末』を読んだ。殆ど全ぺ―ジアンダーラインで真っ赤になったその本を先輩後輩に渡してこれは近代まれにみる名作だと宣伝しまくった覚えがある。そしてその本は又貸しの又貸しの末どこかに消えてなくなった。その後鈴木さんは僕の建築の視野から消えてしまった。それは『建築の世紀末』が余りに衝撃的な本であったからかもしれない。しかしこの本を読んで認識を改めたところがある。鈴木博之と言う人は日本で最初に日本のモダニズムを相対化して考えることができた人であり、それをキチント立論出来た人だったということだ。五十嵐太郎と藤森輝信の論はそれを裏付けている。鈴木オマージュ的なこの本の性格を割り引いても鈴木さんのやってきたことは凄いことだと思う。それはあの当時イギリスに留学した鈴木さんでしかできなかったことかもしれない。この本を読みながら鈴木さんの「私的全体性」という概念に興味が湧いた。それは石山も言っている。もし機会があればその可能性についてお聞きしたいものである。

July 12, 2010

便所飯

早朝のアサマで大学へ。今日はスペインが勝ったので真っ赤なポロシャツ。この夏は赤だと力みながら、しかし外は雨で結構涼しい。
数ヶ月前、早稲田演習のブログレポートの中に「一人でランチを食べていると友達がいないと思われるので、それが怖くてトイレで食事をする学生がいる」。と書いた学生がいた。ジョークと思って読んでいたのだが、先日あゆみbooksで『なぜ若者はトイレで『ひとりランチ』をするのか』(和田秀樹、祥伝社2010)という本が目にともった。あれあれ、冗談でもなさそうだ。ゆとり世代の教育方針が競争から平等、点取り虫ではなく仲良しこよし、独創性より協調性を目指したことが原因の一端だと書かれている。で、こうした教育を受けた高校生が大学に行くとどうなるか?昨今の大学では出席取る先生が多いので昔のように唯我独尊は通用せず、クラスの和を保つ協調性路線を歩むことになる。クラスメートとは常に一緒に行動し(特に理工系では授業の選択肢はそうない)クラスの和を乱さないように皆びくびくする。KYな人はそのクラスの輪から外に追いやられる。能力より協調と言う価値観を植えつけられた彼らにとってクラスの輪の外に葬られるのは死に等しいと著者は言う。その帰結が便所飯だそうだ。やれやれ。と思う。確かにそう言われると今の学生はすぐつるむ、競争を嫌う、その理由がこれだと言われれば否定する理由も浮かばない。さらにひどいことに、彼らが社会に出た時にそこに待っている評価基準は残念ながら、点取り能力であり独創性であり競争力だと言うわけだ。なぜなら社会で待ち受ける大人たちはそういう価値基準で育てられたからである。あれあれ。なんとも可哀想なものである。
著者の観察や分析が100%正しいのか僕にはよく分からないが、教師をやっている実感から頷く部分は多々ある。著者は人間性の強調し過ぎはいいことない。もっと大事なことがあるだろうと警鐘を鳴らす。僕もそう思う。人間性を捨てろと言うわけではない。でももっと自分勝手にやるべきだと思う。人に迎合し過ぎるのはなんとも痛々しい。KY結構である。自分の主張を曲げて空気を保つなんて何の意味も無い。ただ、こんなことを言うのは少し不安でもある。仲良しこよしへの反動が、本田のようなスターをネタにあっという間にジャーナリスティックに喧伝されるかもしれないから。著者も主張しているが、ゆとり教育を宣伝したのもジャーナリズムなら、それを批判するのもジャーナリズム、その時々の流れにただただ乗っかって売れそうなコピーを考える彼らの片棒を担ぐのは本意ではない。

July 11, 2010

プロの建築家とは?

午後からA0勉強会。翻訳だけはとにかく粛々とやるしかない。マラソンみたいなものである。今日は事務所がコンペ提出前でバタバタしてそうなので我が家でやることに。自宅の方が静かだし気持ちいい。終わってから選挙へ。四谷駅の脇に建っている廃校になった小学校が投票所。7時でも未だ来る人が後を絶たない。
帰宅して昨晩読んでいた森博嗣『小説家と言う職業』集英社新書2010を読み終える。数年前、娘がこの人の小説が面白いと持って来た。読まずにいたら一カ月たってまた数冊持って来てこう言う。「この人大学の先生だよ」と。凄い人もいるものだと思っていたら、また数ヵ月後数冊買って持ってきた。「この人建築学科らしいよ」という。ますますビックリした。一体どこの大学だか知らないが凄いと思っていたらこんなタイトルの本が並んでいたので大学教授の生態をしりたく興味深く読んでみた。著者はそもそも文学少年でもなんでもなく、ピュアに金儲けをしようと思って小説を書いたらしい。数か月で一冊書きあげ講談社に送ったら数カ月たって出版したいと言われた。その時には既に二作目を書き終わっており、最初に出したのは四作目で次に一作目二作目三作目とだしたようだ。そして問題の収入だが、初年度は三冊出版されその印税は大学の年収の倍。翌年は4倍、3年後は8倍、4年後には16倍になったそうだ。それは一億を超えたということである。凄い。それでも大学をやめてないと言うところが輪をかけて凄い。毎日1時間書いて一カ月に一冊出せるという能力に脱帽。
さてこの本の第二章は小説家になった後の心構えとなっている。これは建築家に置き換え可能と思いながら読んでいた。小説家はデビュー作の後作家であり続けるのが難しいのだそうだ。編集者によると、十年以上続けられる人はほんの一割。もちろん一生作家専業で食べているという人はひどく少ない。それは建築にも当てはまる。一生建築家専業で食べていると言う人はどのくらいいるのだろうか??まあ建築の場合作家と違って駄作を作っても突如売れなくなることは無い。営業で作品の質をカバーしている建築家は沢山いる。そういう輩はまあ除外したとして、建築では兼業して(例えば大学の先生やって)収入の波をカバーしている人たちが沢山いる。そういう人たちは作家の基準から見れば僕も含めて全員プロ失格である。大学で費やしている時間は建築の創作に無駄とはいわないが100%寄与しているとは言えない。つまり事務所で考えている時間に比べれば無為な時間をすごしているわけだ。因みに林昌二はとある大学からのオファーをプロであり続けるために断ったと先輩から聞いたことがある。おそらく磯崎新や伊東豊雄もオファーがなかったと思いにくい。しかしそれを拒否し続けたのだろう。凄いものである。

July 10, 2010

古いOSは取り替えないと

朝、買い物を命じられたので開店の時間に伊勢丹に行く。しかし指示されたモノが今一つである。取り置きしておくので確認に来るようかみさんに電話をする。副都心線で乃木坂へ。ギャラ間でDavid Adjaye を見る。陳列物はパネルと小さな模型。簡素なものhttp://ofda.jp/column/。昼を採って四谷のジムへ。1時間くらい自転車こぐ。さっぱりした。屋外の木陰で読書。
穂村弘という歌人の書いた『絶叫委員会』(筑摩書房2010)を読みながら笑いをこらえる。著者がいたるところで集めてきた面白い(あっと言わせる)言葉とその解説が載っている。
例えば、宮沢りえとの婚約解消記者会見で貴乃花が言った破局の理由。
●「愛情がなくなりました」
「この言葉をきいたあとで、誰か何か云えるだろうか、、、婚約とか破棄とかいうのは社会的なきめごとに過ぎず、愛に手を触れることは誰にもできない。その全てを一瞬で照らし出したのだ、、、、」
●「何歳に見える?」
「たったひと言で、瞬時に無用な緊張感を作り出す言葉だ、、、、、」
●下北の路上でおばさんの声が響いた「日本人じゃないわ。だってキッスしてたのよ」
「私の心に様々な思いが一気に押し寄せる、、、、、彼女の言葉自体はそれほどおかしいわけではない。ただそれを載せているOSが古いのだ、、、、いまどきのOS上では『キッス』って単語、走らないよ。キスでしょ。キス、、、、、」
言葉っておもしろい。凡人は聞き過ごしてしまう言葉にも歌人は反応する。
これを読みながら先日の家族の会話を思い出した。
僕は東京の四谷に住んでおりたまに家族3人で外食する。駅のそばに「三谷」という鮓屋がある。高そうなので入ったことはないがその前はよく通る。先日その前を通った時娘が呟いた。
「ヨツヤだからってミツヤは無いよね!」うっ。
「三谷」はミタニと発音するものと思い込んでいた我々夫婦は理解するのに2秒かかった。そしてかみさんが「これはミタニでしょう?」と娘の理解との差を口にした時には話はすでに次の地点に移動していた。この処理能力の遅れはヴァージョンの低いOSのせい。取り変えないと新しいアプリが動かなくなる。

July 9, 2010

大学教授と言う仕事

午前中早稲田演習。最近早稲田に行く楽しみに終わった後の「あゆみbooks」が加わった。今日も学生の楽しい発表を聞き終えて「あゆみbooks」へ向かう。『大学教授という仕事』(水曜社2010)という本が目にとまった。杉原厚吉さんという元東大教授がお書きになっている。誰向きに書かれているかと言うとこれから大学で職を探そうとしている人である。でも既に大学に職を持つ僕も興味深い。
というのも大学ってところは他の人が何しているんだか全く分からない場所だからである。企業というところは上意下達社会だから誰が何をするべきかが決まっている。ある方の部署とポジションを聞けばこの方が何をしているか、しなければならないかは想像に難くない。しかし大学は違う。もう5年もたつがやはり誰が何をしているのか想像の域を出ない。というわけで昼を食いながら飛ばし読みしたら、ああ想像したこととさほど変わらないということが分かった。なんだ、なんの発見も無いのかよと言われそうだが、想像した通りだと言うことに確信が持てたことの意味は大きい。まあ一言で言えば、大学の先生とはせっせと論文を書き学会で認められ、認められるような論文を学生と共に書くことで学生を教育し、そして余った時間で本を書いたり、講演をしたりして研究成果を社会に還元するということだ。あたりまえでしょう。と言いたくなるのだが僕ら建築意匠の先生というのは論文を作品に置き替えて考えないといけない。もちろん意匠の先生でも論文を書き作品も作る有能な方たちも少なくない。しかし多くは作品にウエイトを置いている。僕もそうである。
さてそうなると建築意匠というこの稀有な専門を持つ教師の「作品」というものは大学の中でどの様に評価されるべきなのか?僕が信大に赴任した当時は工学部長を含めて喧々諤々の議論だったそうだ。つまり論文だってただ書けばいいと言うものではなく学会の査読付き論文誌(所謂黄表紙という奴だ)に掲載されてなんぼのものである。それに相当する作品とは何なのかを決めなければならないのであった。信大に来た時に比較的作品に理解ある先生からも「ただ設計して竣工してもダメですよ。だってそれが坂牛さんの仕事かどうか分からないし、いいか悪いか私には分かりませんから」と言われた。ではどうしたらよいのでしょうか?誰かの評価が付いてないとだめですというわけだ。一番いいのは学会作品賞、選奨、選集である。もちろんコンペやその他の賞もいいが、大学は学会に弱い。JIAはどうかというと「あれは民間団体でしょう?」ってな具合に冷たい。「僕が作ったことを証明する意味では雑誌に掲載されるというのはどうでしょうか?」「雑誌ってなんですか?」「例えば『新建築』とか、外国の雑誌とか?」「それって単なる商業誌でしょう」とこれも冷たい。大学の先生は学会が命である。
では一応評価された作品一つと言うものと論文一本と同じ評価なのだろうか?と思っていたら、先日学会でお会いした村上徹さんが言っていた。論文は勝手に書けるけれど作品はクライアントがいるのだからそう簡単に自分の思い通りにはできない。その意味で選集掲載は論文1.5本分くらいの価値がある。選奨なら3本分(と言ったような気がするが)とおっしゃっていて元気が出た。こういうのはそれぞれの大学の内規とかで決まっているのだろう。
と言うわけで作ったものはなるべく学会に応募してきたのだが、今年からこの学会選奨の審査委員を仰せつかった。これがどういうことかと言うと、この賞への応募が許されなくなるのである。審査員なのだから仕方ないとも言えるが、自分の審査には票を投じなければいいだけであり、応募を禁じるとは何事か。それって他の先生の立場なら論文の審査員だから論文の応募を禁じると言われるようなものではないか!!!(もちろん査読委員の先生だって論文投稿の自由はある)。だから僕は審査員をかたくなに断ったのだが、先輩から有無を言わさず言い渡された厳しいなあ、任期中は業績ゼロだ、、トホホ。そんなことを思いながら事務所に戻るとナカジからメール。「リーテム中国工場がinternational architecture award2010(THE CHICAGO AHENAEUM Museum of Architecture and Designの主催)に入ったみたいですよ」「おお神は見捨てていなかった!!」添付のpdfを開けると審査結果が入っていた。審査委員は公表されていなかったが、今年はリゴレッタがいた。懐かしい。UCLA時代の先生だ。100人くらいの受賞(それこそ世界版学会選集のようなもの)。FOA、モルフォシス、坂茂、スノヘッタ、スティーブンホール、谷尻さん、手塚さん、岡田さん、なんて言う人たちも選ばれていた。作っただけでは業績にならない大学における意匠の先生の立場としてはなんとかやったことを無駄にせずに済んだほっとした。

町おこし

夕方I事務所の高校のクラブの先輩が事務所に遊びに来た。長野の駅前で町おこしをするのを一緒にやろうと言う話。一か月前くらいに会おうと言うメールが来て日程を合わせていたら一カ月たった。先輩後輩だとなあなあになる。でも半分仕事で半分遊び気分がちょうどいい。話を聞くと長野の中心市街地をアートで活性化しようと言う。なるほど結構おもしろそうである。既に信大教育学部のアート系の学生を入れて毎月ワークショップを開いて30回やってきたと言う。へえーと思う。I事務所がこういうことをサポートしているのはもちろん最終的にはそのあたりの仕事に繋がるからとは思うものの10年やっているとはすごいものである。担当のTさんは地方がだめになったら日本はダメになるという信念がおありのようだ。確かにそうかもしれない。僕としては面白い話。地元にコミットするのは望むところである。遊休ビルをリノベして町人文化会館を作る仕事。やってみるか。

July 7, 2010

建築をずーっと好きでいること

午前中ゼネコン質疑の回答をスタッフとまとめる。2社からしか来ていないが他社はやる気が無いか???入札辞退か???午後モケシャ→フォトショで作った外観カラースキームを見る。ふーん!!!しばらく事務所に貼っておくか。最後まで飽きないやつはどれか??
夜石山さんの本を読み切る。面白いねえ。山本夏彦を文章の師匠と仰ぐだけある。建築界では石山と磯崎は双璧だ。石山は大学時代に先生から将来何になるのかと聞かれ「建築家」と答えた。すると父親の職業を聞かれ「教育者」と言うと「建築家は諦めろ」と言われたそうだ。僕も日建設計をやめる時当時の副社長が「やめてどうする?」と聞くので、あまり自信は無かったけれど「独立します」と答えたら「君は血筋がいいか?」と聞かれた。全く同じである。つまり建築家なるものは体制に属し、上流の血が流れ初めて仕事が来るものだという考えがあったわけである。そして今もある。でも石山は巨匠の域になった。
とはいえども世の中に建築設計者はニーズに対して多すぎるだろうし、本気の建築家なんてものはかなりアブノーマルな生き方を実践しなければなるまい。先日藤村龍至君を信大にお呼びしてレクチャーをしてもらったら、学生の頃先生にこのクラスで建築家になれる人などいないと宣告されたと言っていた。僕も学生の頃先生に似たようなことを言われた気がする。さらに僕が信大に来た時とある先生に「才能も努力もしないのにデザインやりたいなんてねぼけている学生に才能が無い!」と進路を間違えないように厳しく言ってやってくださいと言われた。まあそうは言うが、僕も藤村君も「建築家になれない」と宣告されながらもなんとかそれで飯を食えるところまで来たわけだし、石山大先輩は巨匠の域である。一体どうしてよ?と思う。その答えは石山自ら書いている。曰く「・・・それよりもっと必要で、僕も一番難しいと思っているのは、建築や自分の好きなことを30年も40年も好きでいられると言うことへの方法的自覚なのです」。そう言えば同じようなことを山本想太郎君も本で書いていた。曰く「建築家とは建築家を続けられる人のこと」。まったく同感である。これはなかなか難しいことなのだが、どうしたら上手く好きでいられるかをずーっと考えていないといけない。それは配偶者をどうしたらずーっと好きでいられるかを考えることと同じである。相手がいつも魅力的と思えるには工夫がいる。うまく乗せて美味しい料理を作らせるとか、おだてていい作品を作らせるとか、、、そこからオーラが出てくるように操作しないといけない。建築もそうである。建築がいつも魅力的に見えるように工夫しないといけない。心の中の建築の灯が消えそうになる前に名建築を見に行くとか、別に施主はいないのだがひたすらドローイングをして達成感を得るとか、ああやはり建築ってこんなに面白いんだという気持ちをずーっと持続させるためにはそれなりの努力がいるのだと思う。

July 6, 2010

キリンと住む家

朝アルゼンチンワークショップの打合せ。さあ後3カ月。急に学長裁量経費が削減されて予算が納まるか焦る。2コマめM2の修論ゼミ。午後3年生の製図。今日が最後のエスキス。残すは講評会。さてどうなるか?帰ろうと思ったら今月黄表紙を出す学生につかまった。ネイティブチェックを受けた1ページめの英文アブストラクトがよく分からないとのこと。読んでみると確かによく分からない。さて困った。再度書きなおしてネイティブチェックを受けることに。帰りのアサマで石山修武『生きのびるための建築』NTT出版2010を読む。どうして僕は石山修武なんて読むのだろうか?石山修武の建築を一つも見たことないし、ああいう形態に惹かれるわけでもないし、世田谷の展覧会を見に行ってないし、近づくと噛まれそうだし、、、、、でも秋葉原感覚とか彼の本は何冊か読んだことがある。どれも面白かった記憶がある。読み物として面白いから読んでいるのだろうか?なんてもやもやした気持ちで読み始めてなんとなく分かったことがあった。それは川合健二を師と仰ぐテクノロジストであり、流通や金に滅法強い石山がそうした側面と共存させているアニミズムへのこだわりかもしれない。すると僕はアニミズム崇拝なのか?というと僕の感覚をアニミズムというのは正確ではないかもしれないが、建築よりかはるかにそこから見えてくる外界全てに信頼があるという意味では全てに神が宿ると思っているし、全体より部分に信頼を置くと言う意味では細部に紙が宿っていると思うふしもある。そうした意味で石山の語りに惹かれる。ところでこの本の中に出てくるドラキュラの家とアライグマギンの家の話は傑作である。前者は(これは前から知っていたが)ゲイのカップルの家で窓も玄関も無く2階建の高さで1層ワンルーム。室内は鉄工場みたいである。子供部屋の話を始めて呆れられたそうだ。後者はアライグマを愛し、アライグマと二人で住む家。アライグマは窓が好きなのでアライグマの気持ちになってアライグマの好きな窓を考えたが分からなかったと言う。そうだろう。現代建築の様々な与件はもはや大学で習うことなど何の役に立たないところまで多様化しているのだと彼は言う。僕は今「幼児の施設」を大学で教えているが、幼児の好きな窓を考えろと言っても分かるまい。そんなことは調べがつかない。言葉も話せない幼児にアンケート調査することもできないのだから。アライグマと同じである。幼児の施設をやっているのはまさに多様化した現代建築のリクエストにこたえる一つの訓練である。石山はキリンと暮らす人が次に来ないかと期待したそうだが、テレビのCMでは既にそんなことが起こっている。幼児の施設の次は「キリンと住む家」というのを課題に出そうかな?

July 5, 2010

乱読の勧め

午前中学科会議。終わったら昼。午後は院の講義。講義後施主へ送る資料作り。学内委員の雑用を終わらせてからゼミ輪読へ。今日は坂本さんと多木さんの対談『対話建築の思考』。21日のレクチャー前に少し予習をさせておいた。続いてhouse saを素材とした1時間設計。House saの空間の内外の連続性と平坦性を維持したまま螺旋ではない形式を挿入せよというのがお題。これを1時間でやるのは至難の技としりつつやらせてみる。案の定かなりひどい出来だった。まあたまには頭を使わないと。夕食後八潮の公園設計打合せ。出てくる考え方がなんとも凡庸。ランドスケープというとそれだけでもうお手上げという感じである。いくつかのアイデアを与えて来週まで6案作るよう指示。終ってから昨晩読みかけの加藤周一『読書術』岩波文庫(1962)2000を読む。先ず、乱読の弊はない、乱読は人生、乱読は我が楽しみと始まる。わが身を振り返りホッとする。速読術という章がある。同時に数冊、一日一冊読んでいた時期があったと言う。もちろん内容を全部汲み取るなどおよそ不可能。でも数時間マルクスに接したことになるし、数時間親鸞に触れられたことになる。それはそれで素晴らしい。なるほどそうかもしれない、先日の我が家を思い出す。
ある夜帰ると居間のテーブルの上に小沼純一、菊池成孔(きくちなるよし)、レヴィストロース、橋爪大三郎らの本がどーんと山積み。そのそばに菊池成孔のcdが置かれそれを開くと、おっと菊池のサインがあるsakaushiさんへとも書いてある。「どしたのこれ?すげぇー」と菊池ファンの僕は思わず驚く。かみさんが菊池と小沼の対談をどこかで聞いてきて余りに面白いので僕の本棚から二人の本を全部抜きとってテーブルの上に置いたという。因みに菊池が友人の大谷能生とタッグを組んで慶応で行った講義録は『アフロディズニー』というタイトルで売られている。彼の文才は驚くべきものがある。まるで音楽のような文章だ。「それでレヴィストロースは?」と聞くと今度は橋爪の講演会で構造主義を聞くと言う。一体この人どうしちゃったの?この脈絡のない知識欲。でもこれぞ乱読と同じかもしれない。そしてその本をとにかく読もうというこの姿勢は結構すごい。分からなくとも構わないし全部読む必要も無い。『悲しき熱帯』なんてこの大部の書を僕はまだ目次しか目を通していない。それを読もうと言う根性がすごい。まあ読むかどうか分からないけれど出して眺めているだけでもいいではないか。レヴィストロースにお近づきになっている。と加藤氏なら言うのかもしれない。
話しを加藤氏の本に戻す。分からない本は何故分からないかと言う加藤氏の分析が明晰である。先ず西洋哲学の類。これは往々にして訳が悪すぎる。そいうものは読むのを止めるか原文を読めと言う。これは正しい。哲学ではないが、ヴィドラーとかウィグリーなどの哲学的建築論は確実に原著の方が時間はかかっても分かる(とスチュワートさんにも言われた。というかそう言われたのでやってみたら正しかった)。悪訳は時間をかけても絶対分からない。なぜならそれは原文とは違うことが書いてあるから。次に加藤氏があげる二種類の本がある。一つは科学や数学。これは言葉の定義を知らないと読めない。しかしそれが分かれば誰でも理解できるようにできている。(そうは言ってもそれを分かるのが面倒なのだ)もう一つは小林秀雄のような美術評論。これは同様の体験をしていないと分からない。その通りだと思う。小林秀雄のモーツァルトは音楽好きにはすーっと読め、文芸に親しんだ小林ファンには分からなかったそうだ。
加藤氏の文章は実に明晰。こう言う文章を読むと頭が洗われたような気持ちになると同時に我が悪文を恥じる。

July 4, 2010

大塚英志に共感

午前中のアサマで軽井沢へ。学会選集の現地審査で3つの建物を見せて頂いた。別荘と商業施設と企業の寮である。昨年もそう思ったが、建築の表現のレベルでの好き嫌いは置いておくとして、設計者とクライアントと施工者(は立ち会ってはいないが)の良好な関係がなければできないだろうなと思う点が多々あった。見終わってもう一人の審査員であるYさんとお茶を飲む。二人で感想等を雑談。上田まで車で送っていただきアサマで長野へ。そして研究室。雑用を終わらせてから読みかけの大塚英志の『大学論』を読み終えた。著者の教育方針は読めば読むほど僕の考えに近いなあと感じた。それは彼の「まんが」教育の非常に重要な部分にある制作のプロセス論である。プロセスと言うのは広い意味でのそれである(大塚はそんな言葉は使っていないが)。つまり、まんがのコンテンツを考え、それをどの様な構成でヴィジュアル化させ、そして編集され、どのような雑誌媒体に載せて世に知らしめ得るのかと言うところまで含めてまんがを捉えている点である。昔読んだ大塚の本にも物語はどのように書くべきかということが書かれてあったように思う。つまり内容ではなく方法にこだわっていた。まんがでも同じで、何を描くかよりもどちらかというとどう描くかに重点が置かれている。そして最終的に社会でそれを表現できるところまでを教え込む。だから彼の授業ではインターンシップが重要な役目を持っているようである。
建築意匠の教師は多かれ少なかれインターンシップを重要に思っているだろう。実践が第一。大学で教えられることなど限りがあると。だからその点を持って大塚と意見があうと言ってもあまり意味が無いかもしれない。そうではなく僕が大塚と似ていると感じることは建築意匠の教育にも方法論があってよかろうと思う点である。その昔の建築教育とは何も教えず、勝手に教師の真似をしろ的な考えが多かった。篠原一男も清家清や谷口吉郎は何も教えなかったと言っていた。しかし篠原一男と言う人は彼らを反面教師としたからか、建築を言語化しながらわれわれに教えようとした当時としては稀有な人だった。もちろん構造的に、機能的に、設備的にデザインの理屈を語る人はいたかもしれないが、純粋意匠を言葉にした人は少ない。単に「いいねえ」などと印象批評的な言い方でお茶を濁すようなことを避けようとしていた。そうした影響なのかどうかわからないが、僕が意匠を教えることになった時、同様の気持ちが自分の中で芽生えてきた。デザインの好き嫌いは別として、普段感覚的に納得したり拒否したりしていることが一体何なのか、それを体系化して学生に伝えたいと考えた。それが『建築の規則』を生み出す一つの動機でもあった。加えて建築意匠なんてやっていて将来どうやって仕事をする環境を獲得できるのだろうかということをもっと現実的に話して聞かせたいとも考えた。クライアントという人はどこからやってくるのか?設計料と言うものはどれだけもらえるのか?設計期間はどのくらいあって工期はどのくらいかかるのか?監理と言うのはどう言うことなのか?などなど。どうもそう言う話を概念的な建築論と平行して語って行かないと将来社会に出て仕事をし始める時に戸惑うし、大学で習ったこととの大きなギャップを感じ、結局意匠を止めてしまうかやっていても大学で考えたこととはまったく連続しない違う何かをするはめになるのである。多分その点はまんがも同じなのだろう。その意味で大塚がまんがを教える大学で先ずはそうしたプロセスを教えようとしてきたことに共感する。
アメリカにいた時にまさに設計プロセス論なる教科書があり、かなり有名な建物の設計料から工費からスケジュールから全てのデーターが網羅されていた。日本にはなかなかこんな本は無い。なければ作れと思い僕も『フレームとしての建築』を作った。まあこれは単なる僕の作品集ではあるが設計過程のスケッチや模型を載せられるだけ載せてそのプロセスを表わそうとした。僕はこれを教科書に製図の最初にシラバス外のことだが、数作品ずつこうした設計プロセスを語っている。クライアントは?工務店は?設計料は?本に掲載するのははばかられる内容もとにかく話す。でもそれもトータルに建築家という職能を分かるためにははずすことができないことなのである。

July 3, 2010

武田光史さんのコンプレックス

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午後武田光史さんのオープンハウスに伺う。場所は中目黒。この駅に降り立つのは初めてかもしれない。目黒川のほとりにできたコンプレックス。2階までオフィスと飲食、3階から6階まで集住。ファサードに一工夫。オフィスの表情と集住の表情を一つにまとめるためにカーテンウォールでできた手すりが使われ、そこにアクセントとして戸境壁を色つきガラスで薄く入れているところ。これはやられたという感じである。戸境壁はたいていちゃちなパネルでデザイン的には見られたものではない。こんな色つきガラスを使うなんて気が付かなかった。と思って住戸に入ってみると。誤解だった。色つきガラスの奥にもう一枚壁がありそこに隣戸避難の壁がついていた。「ガラスは割れないよ!危ないし」と言われ、そりゃそうだと思う。ユニットにはメゾネットが一つだけ。「メゾネットを沢山作ろうかとも思ったけれど、階段の上下動は疲れるからねえ」と武田さんらしい。さらっとできた大人建築である。帰りは四谷でジム。久しぶりにヒップホップやったら思い切り疲れた。
行き帰りの電車で大塚英志の『大学論―いかに教え、いかに学ぶか』講談社現代新書2009を読む。著者は数年前から神戸芸術工科大学のまんが表現学科の先生になった。その教えぶりと学びぶりが描かれている。大塚さんも僕と同じく東京から通う。帰れなければホテルに泊まる。4時に起きて飛行機とか最終の新幹線で東京など、なんともハードな生活のようである。そして教えるのがとても楽しそうで、教えることへの情熱や、学生への愛情が伝わってくる。きっといい先生なのだろう。ただ5年目くらいまでは物珍しさや好奇心も手伝い教えるモーチベーションは誰でも高い。問題はその後。教えることも自己実現である。教えたことの効果がでてナンボのもの。撒いた肥料やら水で植物が育つのが見えればやりがいを覚える。見えなければさびしいし萎える。大塚氏もそういう感覚を持つ時があるかもしれない?いや氏ならば、効果が見えなければどんどんちがう教え方を考えていくようにも思う。そう、そうありたい。

スイス好き

午前中早稲田の演習。倫理性と悪党性の話。悪党性とは時代の倫理感を批判的に検討せよということなのだが、講義を終えると一人の学生が質問に来た。「ベタに悪党的な建築はあり得るのでしょうか?」思わず笑った。神田に移動しクライアントと昼をとり事務所に戻る。事務所には塩山のクライアントが朝から来ていてスタッフと打合せ中。そこにジョインして6時まで。長い打合せだった。オープンデスクのS君の模型がほぼできたので皆でチェック。写真に撮ってフォトショでカラースキームへ。終ってスタッフと夕食。S君はクセナキス建築へのオマージュを修士設計のテーマにしたのだがその模型の長さは30メートル。凶気。なんでクセナキスと聞いたら「新雄太」の名前が出てきた。彼の影響だと言う。知ってるの?と聞くと彼の修士設計を手伝っていたという。びっくり。世の中狭い。その上建築の好みもカミナダ。スイス好きが多いね。最近。

July 1, 2010

柄谷的な未来はあり得るか?

柄谷の『世界史の構造』は世界史を交換の歴史として読み解く。互酬制の氏族社会、略取再配分の帝国社会、商品交換の資本主義的社会である。さて互酬とは貰ったら返すことが習慣づけられた社会である。ここではどこかに資本が蓄積することも無く、どこかに権力が集中することも無い。略取再配分は命の代わりに金を差し出す社会である。ここには封建制やアジア的君主制も入る。ここでは資本の集中も権力の集中も起こる。そして最後の自由な商品交換の社会では同じく富の集中が起こり得る。柄谷は現状の資本主義的社会の問題を打開していくために再度互酬の贈与の仕組みに注目する。
では現代互酬制を考えることなど可能なのだろうか?もちろん社会の全てをこのシステムに組み直すなど現実的ではない。柄谷も本書で繰り返し注意を喚起していたが、どの社会にもどの交換制度は存在していた。ただどの制度が比較的ドミナントであったかと言う差しかない。つまり現代の互酬制の可能性とはそうした傾向の萌芽が現実社会に見てとれるかと言う問題に置き換わる。
そこで一昨日お話いただいた祐成氏のスライドを思い出す。建築の住まい方の質向上の一方向性として提示されたリノヴェーションとシェアリングである。費用をかけずに気の合う人間で共同生活する姿である。低成長時代、人口減少時代にはリアリティの高い可能性である。そしてこれを可能にする概念の一つは所有の放棄。つまりここには、柄谷の言う交換の第三段階がなんとなく崩れる可能性が胚胎している、あるいは崩さないと社会がダメになると言う祐成氏の読みが感じられる。しかし、これが柄谷の予測(期待)する互酬制に掉さす世界共和国になるのかどうかは僕にはまだ不明である。