柄谷的な未来はあり得るか?
柄谷の『世界史の構造』は世界史を交換の歴史として読み解く。互酬制の氏族社会、略取再配分の帝国社会、商品交換の資本主義的社会である。さて互酬とは貰ったら返すことが習慣づけられた社会である。ここではどこかに資本が蓄積することも無く、どこかに権力が集中することも無い。略取再配分は命の代わりに金を差し出す社会である。ここには封建制やアジア的君主制も入る。ここでは資本の集中も権力の集中も起こる。そして最後の自由な商品交換の社会では同じく富の集中が起こり得る。柄谷は現状の資本主義的社会の問題を打開していくために再度互酬の贈与の仕組みに注目する。
では現代互酬制を考えることなど可能なのだろうか?もちろん社会の全てをこのシステムに組み直すなど現実的ではない。柄谷も本書で繰り返し注意を喚起していたが、どの社会にもどの交換制度は存在していた。ただどの制度が比較的ドミナントであったかと言う差しかない。つまり現代の互酬制の可能性とはそうした傾向の萌芽が現実社会に見てとれるかと言う問題に置き換わる。
そこで一昨日お話いただいた祐成氏のスライドを思い出す。建築の住まい方の質向上の一方向性として提示されたリノヴェーションとシェアリングである。費用をかけずに気の合う人間で共同生活する姿である。低成長時代、人口減少時代にはリアリティの高い可能性である。そしてこれを可能にする概念の一つは所有の放棄。つまりここには、柄谷の言う交換の第三段階がなんとなく崩れる可能性が胚胎している、あるいは崩さないと社会がダメになると言う祐成氏の読みが感じられる。しかし、これが柄谷の予測(期待)する互酬制に掉さす世界共和国になるのかどうかは僕にはまだ不明である。