東大S教授が残したもの
学会のコンペ審査で金沢へ。4時間電車に揺られる。車中鈴木博之編『近代建築論講義』東京大学出版会2009を読む。その昔。学部でコルビュジエ論を書いて、同僚2人とその当時の助手の篠野さんと(現東工大教授)金沢工大で発表した時に質問があった。「東大の鈴木です」ドキッとした。「今コルビュジエを研究する意義はどこにありますか」と聞かれた。正確に何と聞かれたかは覚えていない。それに対してなんと答えのかも全く覚えてえていない。それが鈴木さんとの最初の出会いである。そして大学院の時、僕は鈴木さんの珠玉の名作『建築の世紀末』を読んだ。殆ど全ぺ―ジアンダーラインで真っ赤になったその本を先輩後輩に渡してこれは近代まれにみる名作だと宣伝しまくった覚えがある。そしてその本は又貸しの又貸しの末どこかに消えてなくなった。その後鈴木さんは僕の建築の視野から消えてしまった。それは『建築の世紀末』が余りに衝撃的な本であったからかもしれない。しかしこの本を読んで認識を改めたところがある。鈴木博之と言う人は日本で最初に日本のモダニズムを相対化して考えることができた人であり、それをキチント立論出来た人だったということだ。五十嵐太郎と藤森輝信の論はそれを裏付けている。鈴木オマージュ的なこの本の性格を割り引いても鈴木さんのやってきたことは凄いことだと思う。それはあの当時イギリスに留学した鈴木さんでしかできなかったことかもしれない。この本を読みながら鈴木さんの「私的全体性」という概念に興味が湧いた。それは石山も言っている。もし機会があればその可能性についてお聞きしたいものである。