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大塚英志に共感

午前中のアサマで軽井沢へ。学会選集の現地審査で3つの建物を見せて頂いた。別荘と商業施設と企業の寮である。昨年もそう思ったが、建築の表現のレベルでの好き嫌いは置いておくとして、設計者とクライアントと施工者(は立ち会ってはいないが)の良好な関係がなければできないだろうなと思う点が多々あった。見終わってもう一人の審査員であるYさんとお茶を飲む。二人で感想等を雑談。上田まで車で送っていただきアサマで長野へ。そして研究室。雑用を終わらせてから読みかけの大塚英志の『大学論』を読み終えた。著者の教育方針は読めば読むほど僕の考えに近いなあと感じた。それは彼の「まんが」教育の非常に重要な部分にある制作のプロセス論である。プロセスと言うのは広い意味でのそれである(大塚はそんな言葉は使っていないが)。つまり、まんがのコンテンツを考え、それをどの様な構成でヴィジュアル化させ、そして編集され、どのような雑誌媒体に載せて世に知らしめ得るのかと言うところまで含めてまんがを捉えている点である。昔読んだ大塚の本にも物語はどのように書くべきかということが書かれてあったように思う。つまり内容ではなく方法にこだわっていた。まんがでも同じで、何を描くかよりもどちらかというとどう描くかに重点が置かれている。そして最終的に社会でそれを表現できるところまでを教え込む。だから彼の授業ではインターンシップが重要な役目を持っているようである。
建築意匠の教師は多かれ少なかれインターンシップを重要に思っているだろう。実践が第一。大学で教えられることなど限りがあると。だからその点を持って大塚と意見があうと言ってもあまり意味が無いかもしれない。そうではなく僕が大塚と似ていると感じることは建築意匠の教育にも方法論があってよかろうと思う点である。その昔の建築教育とは何も教えず、勝手に教師の真似をしろ的な考えが多かった。篠原一男も清家清や谷口吉郎は何も教えなかったと言っていた。しかし篠原一男と言う人は彼らを反面教師としたからか、建築を言語化しながらわれわれに教えようとした当時としては稀有な人だった。もちろん構造的に、機能的に、設備的にデザインの理屈を語る人はいたかもしれないが、純粋意匠を言葉にした人は少ない。単に「いいねえ」などと印象批評的な言い方でお茶を濁すようなことを避けようとしていた。そうした影響なのかどうかわからないが、僕が意匠を教えることになった時、同様の気持ちが自分の中で芽生えてきた。デザインの好き嫌いは別として、普段感覚的に納得したり拒否したりしていることが一体何なのか、それを体系化して学生に伝えたいと考えた。それが『建築の規則』を生み出す一つの動機でもあった。加えて建築意匠なんてやっていて将来どうやって仕事をする環境を獲得できるのだろうかということをもっと現実的に話して聞かせたいとも考えた。クライアントという人はどこからやってくるのか?設計料と言うものはどれだけもらえるのか?設計期間はどのくらいあって工期はどのくらいかかるのか?監理と言うのはどう言うことなのか?などなど。どうもそう言う話を概念的な建築論と平行して語って行かないと将来社会に出て仕事をし始める時に戸惑うし、大学で習ったこととの大きなギャップを感じ、結局意匠を止めてしまうかやっていても大学で考えたこととはまったく連続しない違う何かをするはめになるのである。多分その点はまんがも同じなのだろう。その意味で大塚がまんがを教える大学で先ずはそうしたプロセスを教えようとしてきたことに共感する。
アメリカにいた時にまさに設計プロセス論なる教科書があり、かなり有名な建物の設計料から工費からスケジュールから全てのデーターが網羅されていた。日本にはなかなかこんな本は無い。なければ作れと思い僕も『フレームとしての建築』を作った。まあこれは単なる僕の作品集ではあるが設計過程のスケッチや模型を載せられるだけ載せてそのプロセスを表わそうとした。僕はこれを教科書に製図の最初にシラバス外のことだが、数作品ずつこうした設計プロセスを語っている。クライアントは?工務店は?設計料は?本に掲載するのははばかられる内容もとにかく話す。でもそれもトータルに建築家という職能を分かるためにははずすことができないことなのである。

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