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便所飯

早朝のアサマで大学へ。今日はスペインが勝ったので真っ赤なポロシャツ。この夏は赤だと力みながら、しかし外は雨で結構涼しい。
数ヶ月前、早稲田演習のブログレポートの中に「一人でランチを食べていると友達がいないと思われるので、それが怖くてトイレで食事をする学生がいる」。と書いた学生がいた。ジョークと思って読んでいたのだが、先日あゆみbooksで『なぜ若者はトイレで『ひとりランチ』をするのか』(和田秀樹、祥伝社2010)という本が目にともった。あれあれ、冗談でもなさそうだ。ゆとり世代の教育方針が競争から平等、点取り虫ではなく仲良しこよし、独創性より協調性を目指したことが原因の一端だと書かれている。で、こうした教育を受けた高校生が大学に行くとどうなるか?昨今の大学では出席取る先生が多いので昔のように唯我独尊は通用せず、クラスの和を保つ協調性路線を歩むことになる。クラスメートとは常に一緒に行動し(特に理工系では授業の選択肢はそうない)クラスの和を乱さないように皆びくびくする。KYな人はそのクラスの輪から外に追いやられる。能力より協調と言う価値観を植えつけられた彼らにとってクラスの輪の外に葬られるのは死に等しいと著者は言う。その帰結が便所飯だそうだ。やれやれ。と思う。確かにそう言われると今の学生はすぐつるむ、競争を嫌う、その理由がこれだと言われれば否定する理由も浮かばない。さらにひどいことに、彼らが社会に出た時にそこに待っている評価基準は残念ながら、点取り能力であり独創性であり競争力だと言うわけだ。なぜなら社会で待ち受ける大人たちはそういう価値基準で育てられたからである。あれあれ。なんとも可哀想なものである。
著者の観察や分析が100%正しいのか僕にはよく分からないが、教師をやっている実感から頷く部分は多々ある。著者は人間性の強調し過ぎはいいことない。もっと大事なことがあるだろうと警鐘を鳴らす。僕もそう思う。人間性を捨てろと言うわけではない。でももっと自分勝手にやるべきだと思う。人に迎合し過ぎるのはなんとも痛々しい。KY結構である。自分の主張を曲げて空気を保つなんて何の意味も無い。ただ、こんなことを言うのは少し不安でもある。仲良しこよしへの反動が、本田のようなスターをネタにあっという間にジャーナリスティックに喧伝されるかもしれないから。著者も主張しているが、ゆとり教育を宣伝したのもジャーナリズムなら、それを批判するのもジャーナリズム、その時々の流れにただただ乗っかって売れそうなコピーを考える彼らの片棒を担ぐのは本意ではない。

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