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April 30, 2006

sleepy

初夏のような暖かい日。夕方ゆっくりと風呂にはいって、風呂で本を読んでいたら眠くなってしまい、しばし風呂で寝る。去年パーティーの景品でもらったお風呂用枕というのがあって、これを首にあてて寝ると快眠できるのである。何の本?結構ぶっそうな本である『警視庁捜査一課特殊部隊』。なんでこんな本読んでいるか?たまにテレビの『潜入警視庁24時間』なんて番組見たくなるようなそういう気分で東京駅のキオスクで買ってしまうのである。
食後部屋で本読んでいたのだが、また眠くなってきた。いつでも寝られるようにと思いベッドに本を持っていった。『マルクスの●●』『ポストモダンの●●』。1ページ読んだら深い眠りにはいってしまった。気が付いたら12時。
眠いというのは余裕のあるときなので、体が楽になっている証拠。

April 29, 2006

いい加減な制御

いい加減な制御ということを考えているそれは「良い」「加減」の制御ということで出鱈目ということではない。たくさんの、複雑な、ことをコントロールするのにどうしたらよいかという疑問に答えるための概念である。
例えば、街づくりというようなものを制御していくときに、制御する人(役所の人、建築家、街づくりnpo)がいて、制御される側の人(住人、企業、お店の人など)がいたとする。そういう場合、しっかりとしたルールはきっとうまくいかないもの。最初から30%はうまくいかないと考えておくべきである。そこで「しっかりとした」の反対である「いい加減」を持ち出す。いい加減とは何か?制御する側とされる側の柵をなくすことではないか?つまり、役人も住人も一緒に考えるということである。それでは制御ではないではないか?と思わず考えてしまう。しかし自分で自分を制御することだって世の中にはたくさんある。ただそういう制御は甘くなるから制御ではないと思っているだけである。甘くなるのはたくさんいることである程度カバーする。そして、とりあえず第三者もいることで制御の公共性は保たれる。だからこれも立派に制御であろう。
最初から失敗を組み込むことが重要。失敗と不適合が30%までなら、それは失敗でも不適合でもないとするのがいい加減ということである。

April 28, 2006

私営図書館

最近大学の図書館に本が見つからず(工学部の図書館だから仕方ないのだが)東京に来たときに丸善によったり紀伊国屋に寄ったりする。そこで2時間くらい本を読んでいる。まるでここは僕の私営図書館である。そこで気が付くことがあるのだが、一つはやはり本は実物を見て読んでみてまた違うのを読んでみて、そしてまた違うのを読んでみて、そうすると一つ問題について書いてある本でも、著者がよく分かって書いているものと、全然分かってないで書いているものがあるということが分かる。また翻訳本だと経験したばかりかもしれないが、ああこの人理解してないな、と思う本がある(よく出版したなあと感心してしまう)。今日ちらっと眺めたルーマンの本も基本文献だし、訳者も有名だから買おうかなと思ったのだが、やめた。何かいているか理解できなかったから。事務所に着てネットで見たら、この訳はひどいと書いてあったのでああやっぱりと思った。だから本はネットで買うのは余り小難しい本でなく定評のあるものに限った方がいいのかもしれない。さて次に感じたどうでもいいことは、紀伊国屋はうるさい本屋だということ。館内放送が耳障りなのに加えカウンターでけたたましく鳴る電話の音がひどい。やはり古いビルだからなと感じた。立ち読みしているとまるで電車の中で本読んでいるようだ。それに比べると丸善は図書館である。今度は新宿行ったらジュンクだな。

祝優勝

イヤー今回は厳しい。書き直しても書き直しても穴がある。昨日のアイデアはいけてると思ったのだが、まだ弱い??

坂本先生のコンペ優勝案がドイツの新聞に大きく載りました。
素晴らしい案です。今後うまく進むことを期待しましょう。

Werkbundsiedlung Wiesenfeld, München(工作連盟ジードルンク、ヴィーセンフェルド・ミュンヘン)
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April 27, 2006

丸善は朝早くから開いてます

東京駅に9時に着いた。どうしても欲しい本がある。僕の読みたい本は往々にして文系なので工学部図書館にはない。直ぐ読みたいので、松本の総合図書館から出前してもらっている暇はない。そこで丸善へいく。6時57分の新幹線に乗ると、これは各駅停車で時間がかかり9時頃東京駅につく。しかし丸善は9時からやっているので、丸善(図書館)で必要本を読む。買うかどうかしばし迷った本を読んでいたら11時になってしまった。社会学書コーナーの脇にはガラス張りの読書コーナーがあり暖かな日の光が差し込んでいた。読んでいたのは『法理論のルーマン』。読んだ結果購入。そしてブルデューの新著『住宅市場の社会経済学』も購入。ベイトソンは買おうかどうか迷ったが、やめ。
夕方金箱事務所から3名来所。打ち合わせ。今回はそれほど難しいことはない。階段は少し面白くできそうだが、果たして本当に面白いか模型を作る。

April 26, 2006

コンテキスト作り

昨日の情報の続きである。差異を生む差異が情報である。というのは建築の設計にとてもよくあてはまる。クライアントが差異と感じて始めて情報となるのだが、多くの建築家はそこまで行かない(クラインとが分からない)差異を一生懸命作って終わるのである。どうしてそういう悲しい状況が生まれるかというと三つの理由がある。一つはクライアントが鈍い場合。二つ目は建築家が盲目な場合。三つ目はこれが一番多いのだが、クライアントが差異を感じ取るコンテキストがない場合である。およそコンテキストとは教育と先入見で生まれるのであり、建築のそうした教育は一生に一度建築家に出会うまではあり得ないしそれ故先入見の発生の余地はないのである。それ故僕等は一生懸命いろいろとコンテキストを作る。多分コンテキストを複雑に作り続けるのが僕等の仕事なのかもしれない。それなしには仕事を進めることが不可能なのだから。

April 25, 2006

うやむや力

ベイトソンによる情報の定義は「違いを生む違い」A differnce which makes A difference と言うもの。細かいことは分からないけれど、例えば赤いポスターと青いポスターがあるとする。書かれていることは同じ。字面はまったく一緒である。しかしこのポスターから受けとる情報(イメージ)は異なる。つまりあるモノの物理的な差は、受け取られた差になることで初めて情報となるということだ。そうなると情報は生き物であり、人があるモノからどのような差異を受け取るかは無限の可能性を持つということになってしまうのである。同じ「坂」という漢字が印刷された2枚の紙があるとする。肉眼で見ると両方とも確かに同じ字だが、印刷会社が違うせいか200倍に拡大すると最早まるで異なるモノであるかもしれない。あなたはその場合どちらの状況からこの坂を理解するだろうか?それによってこの情報はまるで異なるモノになってしまうのである。
しかし社会はそんな差をうやむやにするように動いている。このうやむやがないと社会は止まってしまうから。しかし難しいのはこのうやむやを使っていい場合といけない場合が暗黙に決まっているということであり、それを探り当て行使する力ーうやむや力が世の中にはある。そしてそれを使える人間が賢いと言われるのである(いいか悪いか知らないが)。

April 23, 2006

岡本はエリートでした

今日は友人に引かれて岡本太郎美術館に行った。「一体岡本みたいなアヴァンギャルドがなんで太陽の塔なんていう国家プロジェクトをまかされたんだろうねえ?」と道すがら話していたのだが、美術館で年譜を見てびっくり。岡本太郎は慶応、芸大、パリという超エリートコースだったのでした。とても「芸術は爆発」する人の経歴としては似つかわしくない。友人は芸大卒だが岡本が芸大などとは知らず、驚いていた。母、岡本かの子がまたとてもハイソである。「太陽の塔のコミッションははまったく不思議ではない」と、友人とともに納得した。
ところでなんで昨今岡本ブームなのだろうか不思議に思って友人に聞くと、「あの単純なしゃべりが若い世代の気を引くのでは」という。ああ「小泉ね」と僕。「そうそう」と友人。

いろいろと

朝から一挙に原稿を書きあげる。とりあえず使う図版を仮スキャンして貼り付け、大体の内容は詰め込んだ。しかし明らかにつながりの悪いところがいくつかあり、それらをつなぐために何冊か本にあたらなければならない。
夕方アトリエワンの新居にお邪魔。塚本、貝島夫婦おそろい。武田さん、ワークステーションの高橋夫妻、坂本先生夫妻に会う。外断熱のALC露出の内壁と桐の仕上げが心地よい。斜線で細くなる上部に行くに従ってスケールダウンする。そしてそれにつれて空間が私的になっていく。その関係がうまく合っているように感じられた。
夜A0のメンバーが事務所に来る。天内君に中国スライドを披露してもらった。青島のドイツ建築という面白い内容。その後ワインを飲みながら、A0でこれから何をするかという議論をする。しかしメンバーのテリトリーが広いだけに、なかなか興味は収束しない。まあ次回ですね。

April 21, 2006

スチュワート研の食事会

朝一のアサマで東京。原稿書き。どうしても確認したい本が、、、研究室。拠点が二つあると本当に精神分裂になりそう。川崎の家。ブラインド色を変えた模型チェック、地味。もう少し差をつけよう。
夜はスチュワート研の集まり。全員集合。小沢も北大から東京へ、秋葉udxでハンバーガーを食べる予定だったのだが、巣鴨に藤田の新しい建物ができたということで、ハンバーガー屋で飲み物一杯飲んで巣鴨へ移動。シンケルのような宗教施設の外観を拝み、フレンチを食す。鹿島岩下も日本に慣れ(笑)、辺見は休日海外出張の愚痴、竹中藤田の次の建物は蒲田だそうで山手線のマイナー駅を転戦するそうだ。小沢は北大で教鞭をとりながら銀座のステーキハウスの内装を手がける。夏に子供をスイスティッチーノのインターナショナルスクールのサマースクールに入れるという。「いくらかかるの?」と聞くと一人45の二人だから90で母親の帯同費を入れると軽く100は超す。こちらが目を回していると辺見は「うちも去年イングランドに子供二人行かせた」とのたまう。
スチュワート研だから国際的なのは分かるけれど、どうしてそうハイソなことができるんでしょうねえ?しっかり夫婦で稼いでいるからでしょうかねえ?

レイアウト

昨日、午後製図のエスキース。蔵春閣のコンヴァージョンに対する企画書(用途を何するか)をA3一枚にちらしのようにまとめさせそれを書画カメラで発表させた。ちょっとちらしの作り方には制限をつけた。『目次のレイアウト』というシリーズの事例本3冊の中から好きなレイアウトを選びそれをそのままコピーして字面と写真を自分のコンテンツに合わせて使ってみなさいというものである。当たり前の話だが、出てくるものはそれなりになっている。今まで平面構成、レタリング、字の大きさなどにまるで無頓着であった彼等のレイアウトが少しは見れるものに変身した。それにつられてかどうか分からないが、内容もそこそこ変身している。それは、それらの本から単にレイアウトだけではなく、コピーのセンスも学んでいるからだろうと思う。しかし逆に言うとああした本のコピーは「モノ」がありそれをある幻想のレベルに引き上げる言葉を探し選び出している。そうであれば今回の学生の作業は幻想のレベルから「モノ」に落としてこなければならず、結構創造性のいる作業が待っている。
コンテンツの中に銭湯とかスパなどというものがあり急に温泉!にはいりたいと思い立った。もちろん大学のそばに温泉があるわけでもないが、ちょっと大きなスーパー銭湯があることを知り、肩こりがひどかったので製図終了とともにそこへ行く。うーん気分爽快。夜は新たに研究室に入った4年生の歓迎会。昨年いた女性二人が卒業して今年は完全な男所帯となった。

April 20, 2006

昨日はずっと色

昨日は朝一の新幹線で k projectの現場へ直行。車中原稿の目次書いた。ワー厳しい。花田さんのブログに原稿は締め切り数日前に天から神が降りてきて啓示を与えてくれるものと書いてあったが、果たして神は来るだろうか?
現場は足場がとれつつあるところ。外観が登場してきた。打ち放しにランデックスのチャコールグレーを塗ってある。今日はこの外観を見ながら大きなガラスにつけるカーテンの色を絞り込む。空色にすることはほぼ決まっているのだが布地をガラスに貼って見てみる。外から内から見る、クライアント主人は空色賛成、奥さんはやや迷う。少しグリーンの方がいいか???
内装はどんどん進む。ここの工務店は正真正銘所長は常駐なので大量の職人がてきぱき動いている。
午後事務所に戻り川崎の打ち合わせ。ブラインド色のスタディをスタッフとする。最初の内装色は却下されたので新しいコンセプトを思案し、床は離れは木、母屋は絨毯、壁・天井は双方ちょっと変わった白いエンボスのビニクロを使い窓にアクセントをつけようとつまりブラインド色なのだが、色検討を延々した。色紙を模型にはること1時間。ちょっと彩度の強めの色。全部貼った。なかなかいいのだが、ちょっと若すぎる。再度色選び直し。くすんだ赤系5色ぐらいを選ぶ。まるで化粧品。でもなかなかきれい。これで模型を修正してと指示し打ち合わせ終わり。家に戻り食事して夜の新幹線に飛び乗ったら、研究室の中尾君にばったり出会う。彼の就活は終わったようであった。

April 18, 2006

新学期始動

昨日筑波の鵜沢氏から℡、『言葉と建築』を教科書にということで16冊も注文をいただいた。あり難い。どなたか他にも教科書でお使いになりたい方いませんか???
今日は新しい四年生を交えての前期最初のゼミ。最初ということもあり、比較的楽な本を読んだのだが時間がかかった。次回は『建築美論の歩み』。3時間で終わるだろうか?うーん。
午後は製図第五。4年生の前期スタジオ。3つの班に分けて、デザイン志望の人たちだけ僕が見るのだが、それでも20名近くいるので、半分はtaに任した。残り半分を一人30分くらいかけてゆっくり見るという方式を今年からとることにした。これは結構いい。こちらもゆったり見られる。結論を急いで適当な憶測で意見しなくてもよくなる。分からないときは無言でも大丈夫。向こうもこっちもストレスがたまらない。
夜は修士2年生のゼミなのだが、就職活動で3人東京に行っていないので既に就職が決まっている一人と打ち合わせ。テーマはカーサブルータス研究。先ずはバルトを読みなさいと指示する。
夕飯食べて眠い目をこすりながら四日田敬子『建築の哲学』、ハイ=ピエール・バルタール『ボザール建築理論講義』を再読。メモをとる。
今日は一日たっぷり学生の顔を見ていた。新学期始動を実感させられる日であった。

April 17, 2006

わざとらしさの撤廃

僕は読んだことが無いのだが、青木淳さんの『原っぱと遊園地』という本はとてもいい本だと想像する。みんな面白いという。amazoneではこう紹介されている「あらかじめそこで行われることがわかっている建築(遊園地)から、そこで行われることでその中身がつくられていく建築(原っぱ)へ」。
さてそれとよく似たことが書いてある本に出会った。桑子敏雄の『風景の中の環境哲学』。基本的にまったく同じことが書いてある。近代は風景を概念化し単機能かしていった。その風景の中で人々も概念化されその風景概念に適合する身体を強要される。という話である。
なるほど。
この話は痛いほど分かる。まったく異論はない。

そこで僕等はいつどこでそうした強要から解き放たれて自由なのだろうかと自問する。青木さんが言うように原っぱにいるときだとは思えない。それは一つの比喩である。桑子さんが言う様に、空間の多重機能化された場所?それはどこ?

もっと個人に引き寄せて考えてみる?僕にとって本当に強要されない場所とは?例えば、新宿の雑踏の中でさて紀伊国屋に行くか、伊東屋に行くか、飯を食うか、ただぶらぶらするかとだらだらしている時?これはかなり自由だ。長野に行く前の30分無目的に丸善を徘徊しているとき。これもかなり自由だ。新幹線の中は?ここは一般的に強要がないようだが、僕の中では、新幹線の中は仕事したり、本を読む時間に割り当てられているのでかなり強要される。つまり僕にとっては風景が強要的かどうかはその風景が決めることではなくて、こちらの心のあり方に大きく起因している。それは設計とか景観操作よりも大きなファクターだろう。しかしそういうと身も蓋もない。

まあ青木、桑子の考えを一言で言うと、わざとらしい空間はストレスフルということなのだ。このわざとらしさを撤廃する方法は何かということがアフタモダンの最大のテーマなのだが、それが難しいのは、僕のように、風景の中にその因子がまったく無いような人間もいるという事実も説明付けなければいけないからである。

あわただしい日曜日

昨日は午前中は娘のオーケストラの発表会。娘の学校は私立の付属なので、このオケが小学校から大学、obまである。圧巻は最後の全員でやった威風堂々。450人で合唱つきである。その後アンコールのラデツキー行進曲。まるでウィーンのニューイヤーコンサート。やー盛り上がる。
しかし冷静に考えるとこの手の曲は、戦士をたたえ、迎え、送り出す曲。この盛り上がりは一挙に国威発揚へつながる。音楽とかスポーツの熱狂はある種の狂信へ簡単に結びつくだろうなあと娘の気持ちのよい曲を聴きながら思っていた。
お友達の両親と昼でも一緒にと思ったが、そそくさと一人帰宅。一休み後、タクシーで迎賓館、絵画館、国会と廻り、都条例で指定されている始点場から写真をとる。その後佐藤淳さんに案内いただいた遠藤勝彦さんの住宅のオープンハウスに。来場者の芳名帳をのぞくと、ofdaの面々が沢山来ている。フラットバー格子に組んだ面を耐震ブレースとして使っている。見栄えのする建物だ。佐藤一家と帰路をともに。佐藤さんの最近のメインの仕事は理顕さんの小田原のホールだそうだ。あの形状をどうしたら幾何学的に定義できるか思案中。ひとつはhpシェルにしてしまうこと。次に忙しいのは各種委員会だそうで、例の構造問題がらみの委員会もあるそうだ。学会は日当もでないのでボランティア活動である。
夕方帰宅。仕事、食事、夜の電車で長野。

April 16, 2006

打ち合わせ

午前中、景観論の本をぱらぱらと読む。その中でも樋口忠彦の『景観の構造』は数少ない体系的で分析的書物。それもそのはず、博士論文であるとまえがきに書いてある。しかしすごいのは手元にあるのは2000年に出た14刷。初版は1975年。25年間読まれ続けているということだ。その意味では景観の古典的名著といっていいのだろう。
夕方事務所に東工大の奥山氏と鹿島松口さん来所。とある企画の打ち合わせ。その後とんかつを食べて、四谷こくてぃるという荒木町のお店で一杯。建築談義に花が咲く。松口さんは鹿島出版会に出向中に『東京発東京論』や『篠原一男のアフォリズム』を担当してくれた人。今は設計部に戻られて九州支店におり、東京出張にあわせてofdaで打ち合わせ。奥山は初めて我等の事務所に来た。話は少し進んだ。うまくいくといいが。

April 14, 2006

文化を嘆く?

辻井喬が芸術院賞を受賞したというニュースを聞いたのは一ヶ月前。もちろん詩人として名を馳せた人だとは知ってはいたが、二足の草鞋でこれだけの賞を取れるものだろうか?と疑問に思っていたのだが同世代のある人が例えば『伝統の創造力』(中公新書)などを読めば彼の才能のに接することができるという。
その本を読むと、日本と西洋の伝統の差をこう述べている。「日本の伝統は、過去のもので静的。一方西洋のそれは現在に生きており、動的で皆が活用していくものである」
日本の経済の衰退と文化の劣勢を嘆く氏はこうした東西の伝統のあり方の差を問題にしている。
この手の本を読むと、もちろんその理屈が正論であることに疑問の余地はないのだが、僕にはそうした危機感がない。何故なのだろうか?昨日林さんと会ってお話ししても思うのだが、この手の上に昇りつめて時間のある人は危機感にさいなまれやすいのではないだろうか。失礼を承知で申し上げているのだが、そうでも考えないと彼等の危機感をというより自分の平常心を説明できない。私とて、様々な問題に、ある種の先の見えない不透明感をもつことは多くある。しかしそれは沸き起こる不安のようなものにはなりえない。とにかく掻き分けていくのが筋であろう。と思ってしまう。その時に、自分ではどうしようもない文化の流れのようなものも感ずるのである。そこをいくら客観的に嘆いていてもそれは時間の浪費にしかならないように感ずるのである。
違うだろうか?

April 13, 2006

林節好調

三沢浩さんの設計した蔵春閣という建物が善光寺脇の城山公園に建っている。40年前の建物である。この建物をコンヴァージョンしようというのが3年生の最初の課題。今日は初日で現地調査。公園噴水前に集合。そこには林昌二の信濃美術館と谷口吉生の東山美術館も建っている。長野の名建築密集地である。
現調し、建物内に保存されていた青図をtaにトレースさせて解散。4時17分のアサマに飛び乗り東京へ。今日は先輩が日建をやめられるということで食事会。ホタルイカに8名ほど集まった。「信濃美術館のコンクリはまだ大丈夫みたいでしたよ」と言うと「そう、軒があるから」と林さんらしい。いろいろな部署の人がいて面白い。環境をやっている人が景観の話をする。都の景観審議会では絵画館、赤坂離宮、国会議事堂の背後に高い建物を作らない条例案ができたと説明。景観法の原稿を書こうとしている私には興味深いのだが、林さんがばっさりと切る。「東京の景観を悪くしているのは石原都知事でしょう。たいした収入もないのにバスや電車という公共のものを一企業の私有の広告でべたべたにするのはなんたることですか。恥ずかしい!!」林節の特徴は常に正論なのである。正論で少し人気のありそうな天狗を攻撃するのである。そこが痛快なのだろう。相変わらずである。

April 12, 2006

フラクタル次元

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一度断ったコンペの審査員やはり引き受けることにした。研究室でやりたいと思って逃げたのだが、こういうことも大事だなあと気が変わった。市の皆様の志が高いから。志が高いからこそ審査員ではなく案を出すべきだと言う考え方もあるのだが、、、、、
午後工学部の図書館で本探し。就任した当時ここの図書館に来て愕然とした。何も無い。もはや入る必要性無しと思っていたのだが、オンライン検索すると結構引っかかるので今日は来た。ゼーヴィの『空間としての建築』、アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』を借りた。いいこと書いてある。
カール・ボーヴィルの『建築とデザインのフラクタル幾何学』を読んだ。目から鱗。彼の調査によるとトルコの山あいの街「アマシア」にある伝統的な集合住宅形状が持つフラクタル次元と山並の形状が持つフラクタル次元は非常に近いそうだ。その次元の近さが厳密に何を意味するか未だ理解しきれていないのだが、形体のある属性の近似性には違いない。そしてその近似性が両者の形体の整合性を生むというのである。
うーむなるほど。昨日の製図で自然と建築の融合をテーマにしている人がいたがその一つの考え方がここにある気がした。

April 11, 2006

入研者決め

昨日から苦しんでいた入研者決め。本日発表。8つくらいのクライテリアから審査をして順位をつけた。しかしそれはそれ、最後はもう一度自分の記憶の中からその人の粘りのようなものしつこさのようなもの、自分の実感を大切にするような心を呼び戻し評価した。そうした部分のほんの少しの差でとりあえず6名選ばしてもらった。授業でも言ったけれど「とりあえず」である。されど差は差。微差だけど差。落ちた人はそのほんの少しだけど大事な粘り、実感を磨き獲得して欲しいと思う。
こんな選抜は自分としては気分のいいものではない、出来ることなら再度言うが全員好きなことをやらせてあげたいと思う。しかし僕の能力にも限界はあるし、実際スペースにも限界がある。その事情も理解して欲しい。

(意匠の先生がもう一人いればなあと思わずにはいられない)

April 10, 2006

研究室振り分け

今日は久しぶりに大学が活気付く。学生が沢山いる。こういう大学の方が楽しくていい。午前2年生、午後、は3年、4年、m2のガイダンス。そして4年生の研究室所属の振り分け作業。3月にアンケートをとった時僕の部屋は12人いた。定員は5名なので確立2倍である(5名も多いよなあ、先日聞いたところだと、東工大は3名だそうだ。ああうらやましい)。今日少し志望が減るかと思ったが増えて13人になった。志望者全員okにしてあげたいところだがそうもいかない。
僕が学生の頃、人気の意匠系篠原研はじゃんけんで入研を決めていたと思う。思うというのは僕は学部では意匠系に進まなかった。デイヴィッド・スチュワートに指導教官をお願いして、コルビュジェ論を書いたのであった。その時篠原研に行った同級生のひとりはあの有名な稲葉なおと。他の2名のうち一人は伊東豊雄の事務所に行き、もう一人は長谷川逸子のところに行った。スチュワート研の3名は院で二人が篠原研に行き一人は平井先生の所に行き、その後僕は日建、他の2名は鹿島と竹中に行った。こうやって見ると、同級生はアトリエからゼネコンまで偏り無く行ったものである。バブル胎動期の引く手あまたの時代だった。だれでも好きな所に行けたような記憶がある。

さて話を5人の絞込みに戻すと、これがなかなか大変だ。
僕はデザイン能力というものをあまり信じない方だけれど、13人の過去の製図を見比べているとあ、これは天性かなと思うようないい癖みたいなものを持っている人が13人の中に一人か二人くらい居る。そういうのは別にすると、後は何を規準に考えたらよいのだろうか?
それは努力する力だと思う。二宮金次郎みたいで古臭いけど、結構こう言うことは大事なんだよなあ。デザインってそういうしつこさみたいなものなんだと思う。

April 9, 2006

現場雑感

昨日は k projectの施主定例。そろそろ追い込みで月二度のペース。やや遅れ気味だったものの、トップライトサッシュは無事設置された。ガラスは来週つく。そうなれば内装仕上げにかかれる。
この時期の現場に行くとすこしそわそわする。自分の想定範囲内にモノができているかかどうか気になり始める。想定どおりで嬉しい場合もあれば想定範囲外で少し面食らうこともある。もちろん想定範囲外で嬉しいこともある。昨日は概ね良好である。特に広さ感が思った以上にある。この広さ感と空間のリゾームのような無目的なつながりは土地の広い郊外型住宅の特徴として狙いとするところだった。
今日は一日家で仕事。川崎のプロジェクトのことを考える。このプロジェクトの狙いjは2つの繭が織り成す目的論的関係、k projectと異なり、広さ感を最初から狙っていない。しかし空間を狙えない場合は余程他でエッセンスがないと建築にならない。自分は創作上は、空間第二論者(空間至上主義ではないという意味)でありながら、自らの経験としては空間が悪いとなかなかその建物を評価しにくいものである。それでも性懲りも無くロジカルな欲望としては、空間以外で勝負してやろうといつも思うのである。しかしこれが結構難しい。今回も繭に加えた何かが欲しいのである。一体それはなんだろうなあ?コスト的には構造で勝負は厳しい、質料かな?

ナカジがクライアントと上海に向かう。僕は明日の新入生ガイダンスのために長野に向かう。

April 8, 2006

藤田展

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昨日東陽町で免許書き換えした後に竹橋に寄って、「藤田嗣治 展」を見た。朝一に立ち寄ったが既に混んでいた。混んでいるのと時間がないのと手伝って、駆け抜けるように見た(僕の前を岡崎さんが駆けていた)。
藤田の本物を見るのは初めて。やはり本物を見ると感じることが違うよなあ。なんたって驚くのは、この絵が油絵?ということ。あまりに画面がさらさらだ。もちろん岩絵の具じゃないけれど、まるでポスカラ。芝さんの絵の表面と近い。あの時もとても油に見えないので「これ油?」と聞いたら、油だけれど何か混ぜているのだそうだ。「ジャスパージョーンズも使っているよ」とそばにいた元美術手帳の編集長の大橋さんが教えてくれた。藤田もそんなものを混ぜているのだろうか?

藤田の先生黒田清輝は藤田の卒業制作である自画像に黒が多用されるのを評価しなかったそうだ。そりゃあ黒田の絵と藤田の絵じゃ大違いだもんなあ。印象派っぽいことを黒田は日本でやり、墨で裸婦の輪郭線を藤田はパリで描いた。アートって異文化交流ツールなんだなあと痛感した。

April 7, 2006

ホタルイカ

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出来立ての『TOTO通信』2006年春号が送られてきた。レストランのしつらえ特集で僕の設計した「ホタルイカ=イル・リストランティーノ」も青山、銀座の名だたるレストランと並んで紹介していただいた。ありがとうございます。

なにがありがたいって、この写真。「すごい」。撮ったのは浅川敏さん。建築界じゃあちょっと有名なカメラマンである。

一月の初め取材の時、たまたまこのお店が紹介されたカーサブルータスが店に置いてあり、失礼にも浅川さんに、「この写真とてもいいんですよねえ」と見せたのだ。カーサの写真は思いっきり露出を上げてハレルぎりぎりの真っ白い今風の建築っぽくない写真だった。それを見せられた浅川さんはにやにや笑ってアシスタントに「おい、こう言う写真がいいんだってさ」とちょっと馬鹿にしたような、こんなの目じゃないよという感じで、自信たっぷりだったのが印象的だった。

それで原稿レイアウトで上の写真(A4見開きなのでA3の大きさ)が出てきた時はちょっとびっくりした。この建物は外国の雑誌も入れれば、既に3つの雑誌に紹介されており、3人のカメラマンに撮って貰っており浅川さんは4人目なのだが、こんなアングルははじめての登場である。みんな建物全体を入れようとしてアングルが上がるのだが、上を捨てて思い切りローから狙い逆に建物内を透過した。その結果この建物の特徴が見事に抉り出された。

いやー本当に脱帽である。

April 6, 2006

フラクタル

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一昨日渡辺誠の 『建築は、柔らかい科学に近づく』という本を読んだ。久々に共感できる楽しい建築の本に出会った気がした。その本で高安秀樹というフラクタルの専門家が「複雑さに潜む合理性を求めて」という序文を寄せていた。
曰く「自然の造形と人問の造形を最も端的に区別するのは直線であろう。人間のつくったものには、直線の断片が含まれることが多いが、自然界の中にまっすぐな部分を見いだすことは非常に難しい」
ちょっと読むと大したことは無いかもしれないが、ここ数日、建築の形態を2つに分類するとどういう概念になるのが妥当だろうかと考えていたところだったので。これかなと思い嬉しくなってしまった。
そんなわけでこの高安さんの別の本も読んでみたくなりamazonに頼んだ。その名も『フラクタル』である。今日東京に帰りがけ学科事務室の僕のポストを覗くともうこの本が届いていた。嬉しくなって帰りの電車で読み始めたら、「うわっかなり専門的ではないか!」数式オンパレードである。と思ったときには深い眠りに入っていた。

April 5, 2006

景観論

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原稿を書くために景観の概説書をいろいろ目を通し始めた。そのうち一冊は景観法それ自体である。つまり法令の解説書。今まで地方の条例レベルだった景観が一昨年法律となった。しかしちょっと変わった法律でこの法律を適用するかどうかは自治体の判断に任されている。そして建物の良し悪しは定量的な許認可ではなく、質的判断をプロがやる(確認さえおろせない行政の人手不足の現況でこんなことできるのか?)。また歴史的建造物の保存とか、重要樹木の指定とか景観地区を定め形態規制までかけられるそうだ。
そんなわけで長野の景観条例は変わったのか(その昔長野で仕事した時は景観条例の事前協議もした)ホームページを見てみたl。しかしあまり変わってはいなかった。保存建築の指定がされていたことくらいか?この法律ができてもドラスティックに何が変わるわけでもなさそうだ。
景観は確かに単体の話ではないから行政に期待するところは大である。大いにやって欲しい。しかしやるならかなり大胆にやらないと効果はない。私の経験で、「ああこれは効いたな」と思ったのは台場の仕事をした時。現在のデックス東京ビーチのコンペの時都は地区計画をかけて建物の形態規制をした。海際の建物高さをぐんと落としたのである。この時は規制をかけられたにもかかわらず納得がいったし、できたものも規制がかかってよかったなと思った。残念ながら、他には行政の効果的な処置を感じたもの(条例でも指導でも地区計画でも)はない。
なぜないか?もちろんちょこちょこと規制があることは知っているが、そんな規制は屁みたいなものである。あったって無くたってアーバンデザインには関係ない。そんなことをするくらいなら、駄目な建築家に仕事をさせないほうがはるかに効果的だ。要は個別のデザインの力にかかっているのである(台場の形態規制はデザインの問題ではない、地区計画などで規制しないとできないことである)。そう思うと法的な景観の議論にはどうも力がはいらない。ただし大掛かりな方策は何度も言うがやればよい。そしてその場合は単なるデザインだけでなく、様々な経済的なバランスと支援も含めてやればよい。そのときはもはや建築家の出る幕ではない。

April 4, 2006

会議

結構大学の会議は好きなのです。こういう教師は珍しいですね。研究室で自問自答している哲学的な時間は息苦しいのです本当は。もちろん逃避願望なのです。そんなことは分かっているけれど、まるでテレビでニュースを見るような感覚で会議の議題を聞いています。月一度くらい工学部教員全体の会議があります。参加者は100名以上います。入学者数の推移だとか、大学の予算配分だとか、まるで社会学の本を読んでいるような楽しさです。しかも3年前のデーターとかではなくて最新のデーターです。新刊の本だって使っているデーターは新しくても去年でしょうから、その意味で実に新しい。しかも一般のニュースには乗らないような極秘データーですからね。これはその辺の新書本よりはるかに迫力ありますよ。その上パワーポイントで丁寧に説明してくれますからね。
夜は懇親会。建築学科は10人ちょっとなので少し寂しいのですが鍋をつつきながら明日への抱負を語り合い先ほど解散。

April 3, 2006

歯痛

うっ歯痛。参った。引っ越して行きつけの歯医者が無くなったために放っておいたのが運の尽き。ほっぺたに飴玉を入れたような腫れ。家族が行っている歯医者へ直行。あごの骨も一部化膿していると言われた。本当は3日くらいかけてやる治療を「あまり来られないのでまとめてやってください」と頼んだら、計2時間くらいかけて、(予約患者の合間を縫って)やってくれた。しかし一遍にいろいろな場所をいじくりいろいろな神経を刺激したせいで強烈に痛い。頓服飲みまくり。そのせいで新幹線の中では睡魔に襲われ、ふと気がついたら大宮。ああ痛い。でも今日行ってよかった。明日は新年度最初の会議、会議、会議、夜は懇親会。偉い先生とも久しぶりに再会。
そう言えば一昨日稲葉のオープニングレセプションで大学の研究室の先輩に会って「今信大で教えています」と言ったら「信大かあ、浅野っているか?」と聞かれてびっくり、いるも何も先輩かつ怖い先生でありますから。「はい」と答えたら、「浅野の下じゃあ大変だろう」と言われて「いえそんなことはございません」と意味も無く答えたのだが、「大変だろう」の真意を聞くのを忘れてしまった。一体どういう意味だったのだろう??

April 2, 2006

びっくりメール

一日家で仕事。天気も悪いし調度いい。
私の中高の同級生に塩谷というのがいる。彼女はニューヨークジャパンソサエティのダンス舞台芸術部門のディレクターというすごい職についているがこんなメールが来た。

「・・・・・Matthew Barney の新しいフィルムーーー金沢21世紀美術館で世界初演したやつ。Drawing Restraint 9 ---を、私のとこ i.e. Japan Societyで、本人Matthewとビヨークを両方呼んで、new York premiere+ Partyをするのじゃ。私がMatthewを個人的に手伝ったせいで、こーゆード嬉しい・ド派手なイベントにこぎつけた・自慢自慢。・・・・・」

という自慢話のメールだが結構すごいねこれ。ちょっとびっくり。いまやアート界のキムタクマシューだが金沢いけずまだ見ていない私としてはやはり見たい。

cd2枚

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昨日は午前中天気もよく、桜上水の小川次郎君の新作を拝見しに行った。内容はコラムをどうぞhttp://ofda.jp/column/。現地で大島さんや山本想太郎さんに会う。帰りちょっと新宿による。ズボンを一本買ってからタワーレコードへ。最近cd買ってない。昨日の2枚は大当たり。タワレコに行くといつも一時間以上なんだかんだと新しい音探しをしてしまう。今日は時間がないので2枚で終わり。一枚はI AM ROBOT AND PROUD、カナダの中国人アーティストShaw-Han Liemのソロ・プロジェクトの3rd。ちょっとアジアっぽい響きのymoという感じ。もう一枚はkashiwa daisukeという日本人のドイツレーベルから出ているapril#02というアルバム。柏はもともとコンポーザー。2004年にはヘッカーと競演している。いろいろなところでべた褒めされている。http://oops-music.com/info/view_news.html?nid=22978ジャンルはよく分からないけれど適度に刺激的な音。
家で引き続き本の整理。ヴァールブルグのようだ(そんな高尚ではないが)。本を整理しながらストーリーを構成しているのかもしれない。目次をいじりストーリーを作り、本の位置を変える。