僕は読んだことが無いのだが、青木淳さんの『原っぱと遊園地』という本はとてもいい本だと想像する。みんな面白いという。amazoneではこう紹介されている「あらかじめそこで行われることがわかっている建築(遊園地)から、そこで行われることでその中身がつくられていく建築(原っぱ)へ」。
さてそれとよく似たことが書いてある本に出会った。桑子敏雄の『風景の中の環境哲学』。基本的にまったく同じことが書いてある。近代は風景を概念化し単機能かしていった。その風景の中で人々も概念化されその風景概念に適合する身体を強要される。という話である。
なるほど。
この話は痛いほど分かる。まったく異論はない。
そこで僕等はいつどこでそうした強要から解き放たれて自由なのだろうかと自問する。青木さんが言うように原っぱにいるときだとは思えない。それは一つの比喩である。桑子さんが言う様に、空間の多重機能化された場所?それはどこ?
もっと個人に引き寄せて考えてみる?僕にとって本当に強要されない場所とは?例えば、新宿の雑踏の中でさて紀伊国屋に行くか、伊東屋に行くか、飯を食うか、ただぶらぶらするかとだらだらしている時?これはかなり自由だ。長野に行く前の30分無目的に丸善を徘徊しているとき。これもかなり自由だ。新幹線の中は?ここは一般的に強要がないようだが、僕の中では、新幹線の中は仕事したり、本を読む時間に割り当てられているのでかなり強要される。つまり僕にとっては風景が強要的かどうかはその風景が決めることではなくて、こちらの心のあり方に大きく起因している。それは設計とか景観操作よりも大きなファクターだろう。しかしそういうと身も蓋もない。
まあ青木、桑子の考えを一言で言うと、わざとらしい空間はストレスフルということなのだ。このわざとらしさを撤廃する方法は何かということがアフタモダンの最大のテーマなのだが、それが難しいのは、僕のように、風景の中にその因子がまったく無いような人間もいるという事実も説明付けなければいけないからである。