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ベンヤミンはなぜパサージュに未来を見たのだろうか?なぜコルビュジエではなく

1時半から6時半まで翻訳勉強会。始まって気が付いたら6時を過ぎていた。トイレも行かずおやつも食べず。なんだか凄い集中だった。頭の調子がいい時ってたまにある。
訳しているのはコンクリートの文化史なのだが、モダニズムに登場する鉄、ガラス、コンクリートの中で、コンクリートだけはモダンと非モダンの両義性を持っている。これがこの本の結論であり、執筆動機である。コンクリートは長大スパンを作り高層建物を可能にする潜在力を持つ。その意味で視覚的には確かにそれ以前と隔絶した建築を登場させた。しかしこれは言ってみれば泥みたいなものであるし、当初は調合だって、補強だって現場での手探り。決して学術的根拠に裏付けられていたわけでは無かった。
ベンヤミンが未来を見たのが何故パサージュであってコルビュジエの建物ではなかったのか?それはパサージュが鉄だからである。鉄にはモダンがありコルであってもコンクリートはマッドであり未来ではなかったのだというわけである。
確かにラオスで小学校づくりの手伝いした時も鉄は先ず無いし、使える技術者がいない(溶接やらボルト締めやら)でもコンクリートはどこにでもあるし、土蔵の延長みたいなものでだれで粘土細工いみたいに作れてしまう。。
中国の現場もそうだった。労働者は農地収容されて仕事無くなった農家の人たち。そんな人がサッシュつけたり、シールしたり、ペンキぬったりするわけだ。どれもひどいいことになったけれど、コンクリート打ちと補修のモルタル塗りはあまり気にならなかった覚えがある。

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