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日本の建築教育再考

日本の建築教育において人文系の知がおろそかにされていることは問題である。これは以前からそう思っていたが今日コーネル大学で建築を学んだ方(アメリカ生まれアメリカ育ちで日本に3年前来られた)とお話をしてみてますますそう思うようになった。彼は日本から建築のきちんとした言説を世界に発信したいと考え、僕の『建築の規則』の英訳の可能性を尋ねに来られた。彼は丹下、磯崎、メタボリズム以降日本からのまとまった建築言説が世界に殆ど見られないと言う。その理由は、先ずは発信するモノが無いということと、仮に発信されていても読むにあるいは聞くに堪えないものしかないからだと言う。
例えばとある著名な若手の建築家が海外でインタビューを受けそれが発信されたのだが、あまりに非論理的で聞いている方があきれたと言う。あるいは海外建築ホームページに多くの若い建築家の写真や文章が掲載されているのだが、文章の(英語の善し悪しはおいておいて)内容が稚拙なので作品全体の質が問われると言うのである。
建築は造形であると同時に言葉なのだと僕は思っている。一つの強い論理であるはずだ。しかるに日本では相変わらず以心伝心でふわふわとしたあやふやな言葉の戯れを通してしか説明しない。論理があやふやなことと、あやふやなことを論理的に言うことの差に気付いていない。その責任の半分は学生にあるのだが、もう半分は教育にもある。入学するのに国語も歴史も学ばなくてもいい大学は沢山ある。加えて、中高の国語教育では最も論理性を必要とするライティングをきちんと教えない。
エンジニアになる方は言葉など使わなくても数式と言う言葉よりはるかに論理的なツールを持っているので現行の教育でもいいだろう。しかるにそうしたツールを使わないで建築を作り説明しなければならないデザインや歴史を学ぶ人間が国語も英語も歴史も使えない(加えてそっち系の学生は数理系にひどく弱い、つまり言語的にも数理的にもひどく非論理的)とするならば、戦場に裸で行くようなものである。
たまさか昨晩読んでいた福澤一吉『文章を論理で読み解くためのクリティカル・リーディング』NHK出版新書2012のあとがきにこんなことが書かれていた。アメリカでは文章を読んで理解できなければ、その責任は概ね書いた側にある。日本では逆で分からないのは読み手の責任とされる。そういう風潮があるから書く側が分からない文章(言葉)をまき散らしても許されてしまうのである
グローバル化する世界の中で感覚的な素振りだけで生きる人間を育てることに意味は無い。そういう類まれな才能を持っている人にそもそも教育は不要である。世界と対峙する上で必要なことは創作力に加え、言葉の発信力である。とするならば歴史、意匠の分野ではその教育の仕組を世界水準を見据え再考するか?高校時代に文系志望の人間も受験できかつ建築士への道を敷くか?現行のシステムの上で徹底して不足分を補うか?そのいずれしかないのだが果たしてどれが最も有効で現実的な方法なのだろうか?あるいはこんなこと考えるのはやめて日本のゆるーい論理性を是認していればいいのだろうか?来週再来週と3都市を回り中国、欧米、中南米の建築家や大学教員と議論する予定である。その中でなにがしかのヒントを得られればと思っている。

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