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March 31, 2012

ネゴの行く末が見えた

今月はどんより気が晴れない月だったが、今日原因の一つが解消された。二つの着工物件のネゴの行く先が見えてきた。一月の末から二月頭にかけて現説を行い、見積もり上がりが2月後半から3月初旬。今回は有名どころの工務店に声をかけたので(技のいる建物である)忙しそうで、どこも1カ月程度かかってしまった。
毎度のこととなってしまったが、今回も上がった見積もりは予算より2~3割高い。かたや1億近辺、かたや6千万近辺。昔は膨大な査定書を作り根詰めて施工者と話し合った。しかしある時からその方法は結局徒労と感じ、ざっくりグロスでお願いするようになった。しかし今回は数量にかなりのばらつきがあり、加えてて突出した単価(例えばEP塗装が3000円超えるなど)が散見されたので、数量も単価も適度に査定した。最近はいい塩梅を心得たのか、大方の査定を受け入れてもらえる。
もちろんそんな査定だけで追いつくわけもなく、デザイン的にぎりぎりのスペックダウンも行った。そしてなんとか2割~3割削り取り施主予算へ近づけた。
今日事務所に施主をお呼びして説明を行いある方向性を決め、かたや海外出張中から帰ったばかりの社長を電話で追っかけまわし、こちらも指示を頂いた。
4月までどんよりした空気を持ち込まずに済みそうである。考えて見ればネゴ1カ月(終わってないけれど)程度は通常よりは遥かに短い。そう考えればスムーズなのだろうがいつだってこの金計算の時期、気分は晴れない。

March 29, 2012

制度にからめ捕られない生き方

先日吉本隆明が他界した。吉本隆明と言っても若い人は知らないだろう。僕のいる理科大建築学科700人くらいに聞いて知っている人は5%いるだろうか?東大文学部で聞いたって果たしてどうか?まあ皆名前くらいは知っているかもしれないが(それも怪しい)読んだことのある人間が何人いるだろうか?

しかし僕にとってはどうにも気になる思想家であり、もちろん本屋に行けば彼の死を悼み吉本コーナーができている。そんな中にこんな一冊があった。藤生京子『吉本隆明のDNA』朝日新聞出版2009。姜 尚中、上野千鶴子、宮台真司、茂木健一郎、中沢新一、糸井重里の中で吉本とはどういう存在であったか?在り続けているかを描いた本である。
面倒くさい話を抜きにして、彼らの語る吉本すべてに共通し、そして僕の中でもそう感じることは唯一点。吉本の思想が彼の心からの実感と常識に支えられているという点である。こんな思想家は恐らく日本に彼以外にはいない。吉本の文章は、場合によってはとんでもなく晦渋で、ムードしか分からないことも多いのだが、人の意見に安易に立脚したり、時流に流されていないことだけはよく分かる。

こういう時にいつも例に出す吉本の言葉がある。それは脳死問題に対する吉本の言葉。「脳死を語る医者や評論家に欠けていて、そして最も重要な視点は近親者の気持ちである」。こんな普通の視点を科学、倫理、哲学的な議論が蠢く新聞紙面に発見した時の安堵感は忘れられない。

どうして吉本は常に実感と常識という発言の軸をぶらさずに一生を終えられたのだろうか、なんとなく気になっていたこの問いに今日この本を読みながら一つの答えが閃いた。それは吉本が意識的か無意識的かは別にして「制度」から距離を置いていたからではないか?世界が堅固な「制度」であることを熟知していた彼だからこそ彼はそこにからめ捕られないように生きてこられたのである。「制度にからめ捕られない」。言うは易し行うは難し。そんな人はまあそうはいない。

March 28, 2012

マスターアーキテクトって何?

とある行政から「マスターアーキテクト」という仕事をお願いされた。一体「マスターアーキテクト」とは何ぞや?聞けばどうも景観委員会委員とか○○建設委員会委員とかと言う仕事とあまり変わらない(ように聞こえた)。この手のお仕事は信大時代には快く引き受けた。頼まれれば全てやった。右も左も分からずに地方国立大学たるもの地方行政のお手伝いをするのは当然との気持ちでお受けした。しかしこの手の委員会はいくつかの問題がある。一つは委員会に利害関係の対立するメンバーがごっそりいてその対立を解消するためだけの場となること。これだとあるべき姿へ向かった建設的な議論にならない。二つ目は行政が多くの人の意見を聞いたと言う事実を記録として残すためだけ(と言うと言い過ぎなのだが、、、)に行われていて、既に結果ありきの委員会となってしまう。
東京に来てこれだけ大学も沢山あり、先生も沢山いる中で、アリバイ作りや単なる調整のためなら何も自分が引き受ける必要もないだろうなあと思いその旨申し上げた。それなら何をすべきかまで提案してくださいと言う暖かい言葉を頂いた。そこまで言うならご協力は惜しまない。ということでいくつかの提案をさせていただいた。
その昔、経団連会長だった土光さんが臨調(臨時行政調査会)の会長を引き受けるにあたって4項目の申し入れをした。その一つが「答申を必ず実行すると言う決意」だったそうだ。○○答申などというものがアリバイ作りに終わらないためには必須の条件だろうし、これが無かったら答申する方だって真面目にやる気など起こるまい。

March 27, 2012

本を2冊頂いた

今日は本を2冊頂く。一冊は谷川渥先生より届く。『芸術をめぐる言葉』美術出版社2012。149人の芸術をめぐる言葉151項目。見開き2ページに1項目ずつである。その中で僕が最も気になったのはジャン=ジャック・ルソーの次の言葉「音楽において旋律が果たすものはまさに絵画においてデッサンが果たすものと同じである」この言葉には続きがある。それとこれを併せると要はこうだ。絵画で重要なのは輪郭線(デッサン)であり、色は不要。音楽で重要なのは旋律であり、音色は不要。とこうなる。そしてこれが建築に来ると建築で重要なのは形であり、素材は不要。とこうなったのがモダニズム建築なのである。
しかし音楽だってもはや旋律が無く純粋に音だけに拘ったものが存在する。絵だってそうである輪郭なくメデイウムだけに拘ったものがある。ポロックなんてその典型である。しかしどういうわけか建築ではなかなかそう言うものが現れない。形を消して素材だけが前景化する建築ってあってもいい?

もう一冊は新聞社の友達から頂く。あらたにす編『2030年の日本へ「新聞案内人」の提言』日本経済新聞出版社2012この本は朝日、日経、読売が08年から今年2月末まで4年間にわたって共同で運営したニュースサイト「あらたにす」の人気コラム「新聞案内人」の執筆陣の提言集である。26人の提言者の中に高校の一つ先輩がいた。早稲田大学教授の川本裕子さん。彼女の提言は極めて真っ当である。これからの世の中は公的支出の公正な分配のために「健全な議論」が必要である。そのためには正確な情報が不可欠であり、その主役はメディア。つまりこれからの20年ますますメディアの質向上が求められると言うのである。もっともだ。しかし正確性もさることながら、彼らは数多ある情報を取捨選択しているわけで、彼らに必要なのは選球眼なのではないかと感じている。
これを伝えないでこちらを伝えるその責任は大きい。

輪読本

輪読本のリストを作ろうと思って過去のリストを眺めて驚く。量が多い。2005年に信大に赴任した最初年のリストはこうだ。
1 2005.4.27 words and buildings Adrian Forty
2 2005.5.10 生きられた家 経験と象徴多木浩二岩波書店2001
3 2005.5.19 テクトニックカルチャーケネス・フランプトンTOTO出版2002
4 2005.5.26 ハイデガーの思想木田元岩波新書1993
5 2005.5.26 マニエリスムと近代建築コーリン・ロウ彰国社1981
6 2005.6.2 建築・夢の軌跡多木浩二青土社1998
7 2005.6.7 対話・建築の思考坂本一成・多木浩二住まいの図書館出版1996
8 2005.6.7 【参考】坂本一成 住宅 日常の詩学坂本一成TOTO出版2001
9 2005.6.14 建築を思考するディメンション 坂本一成との対話坂本一成TOTO出版2002
10 2005.6.21 インフォーマルセシル・バルモンドTOTO出版2005
11 2005.6.21 電子テクノロジー社会と建築 伊東豊雄「せんだいメディアテーク」多木浩二ユリイカ2001.8
12 2005.6.21 日常性と世界性 坂本一成の「House SA」と「Hut T」多木浩二ユリイカ2001.9
13 2005.6.21 そこに風景があった 山本理顕『埼玉県立大学』について多木浩二ユリイカ2001.10
14 2005.6.21 ノイズレス・ワールド 妹島和世『岐阜県営住宅ハイタウン北方 南
ブロック妹島棟』
多木浩二ユリイカ2001.11
15 2005.6.28 増補 シミュレーショニズム椹木野依筑摩書房2001
16 2005.7.5 疑問符としての芸術千住浩 宮島達男美術年鑑社1999
17 2005.7.13 消費社会の神話と構造ボードリヤール紀伊国屋書店1995
18 2005.7.21 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会東浩紀講談社現代新書2001
19 2005.7.21 【参考】オタク学入門岡田斗司夫新潮OH!文庫2000
20 2005.7.26 美術史の基礎概念ハインリッヒ・ヴェルフリ慶應義塾大学出版会2000
21 2005.8.11 抽象と感情移入ヴォリンゲル岩波書店1953
22 2005.8.30 建築美論の歩み井上充夫鹿島出版会1991
23 2005.9.8 建築と言語土居義岳建築技術1997
24 2005.9.13 インターナショナル・スタイルH-R・ヒッチコック、P・
ジョンソン
鹿島出版会1978
25 2005.9.20 建築の多様性と対立性R.ヴェンチューリ鹿島出版会1982
26 2005.9.27 ラスベガスR.ヴェンチューリ鹿島出版会1978
27 2005.10.4 現代建築史ケネス・フランプトン青土社2003
2005.10.11 現代建築史ケネス・フランプトン青土社2003
28 2005.10.18 情報様式論マーク・ポスター岩波現代文庫2001
29 2005.10.25 古典主義建築の系譜サマーソン中央公論美術出版1988
30 2005.11.1 ミースという神話八束はじめ彰国社2001
31 2005.11.8 ルドゥーからル・コルビュジェまでエミール・カウフマン中央公論美術出版1992
32 2005.11.15 美学の逆説谷川渥筑摩書房2003
33 2005.11.22テクノデモクラシー宣言柳田博明
34 2005.11.29色彩の哲学村田純一
35 2005.12.6メタボリズム八束はじめ、吉松秀樹
36 2005.12.13 住宅論篠原一男
37 2005.12.20象徴形式としての遠近法パノフスキー
2005.12.27
2006.1.3
38 2006.1.10巨匠ミースの遺産山本学治
39 2006.1.17経験としての建築ラスムッセン
40 2006.1.24実存空間建築ノベルグシュルツ
41 2006.1.31the function of the oblique Paul Virilio
2006.2.7the function of the oblique Paul Virilio
42 2006.2.14エコロジカルマインド三嶋博之
43 2006.2.21隠喩としての建築柄谷行人
44 2006.2.28美学への招待佐々木健一__
本当にこれだけ読んだのだろうか?だいたい夏休み無いし。
一番最初にwords and buildingsとある。これは原書を読んだのではなく、出版寸前の翻訳ゲラを読ませた。『言葉と建築』の膨大なゲラを一週間で読んで来いと言ったのだから無茶苦茶だった。それもコンペやりながら。脳ミソを体育会的に鍛えていた。でもその効果はあったと思う。信大の学生は寝る時以外は大学にいたからこういう特訓が簡単にできた。理科大ではちょっと無理かな。

March 25, 2012

リトルピープル建築のシステム

宇野常寛、濱野智史『希望論―2010年代の文化と社会』NHK 出版2012の中で宇野は昨今の政治の在り方として、リーダー(ビッグ・ブラザー)が必要なのでは無くて、リーダーなしで回るシステムが必要なのだと言う。それは飛び抜けたリーダーが無くても回るAKB48のようなものだと説く。
建築もそんなところがある。街中で一つだけ飛びぬけたデザインが必要なわけでもない(いやあった方がそれはそれに越したことはないが)むしろ沢山のリトル・ピープル的建築がうごめくシステムが求められている。それは恐らく我々も参画しているような街づくり運動の中で生み出すべきことなのであろう。

March 24, 2012

ディテールは二種類ある


理科大二部のC入試の論文審査を行った後、真鍋先生の退官記念最終講義を聞いた。真鍋先生の幅の広さに感服。理科大に来て一年目の僕は真鍋研の論文を発表会で初めて聞いて、結構批判的な意見をした。その批判に対する回答を今日みっちり聞けた気がした。
夕方学士会館で退官記念パーティーが行われた。何百人いたのだろうか?退官記念でこんな出席者の数にお目にかかったのは初めてである。
真鍋さんは内田先生の弟子であり構法の人である。広義のディテールの研究者。この歳になってもまだまだ分からないディーテールについて時々読むディーテール解説書が真鍋著だったりする。
ディテールというと僕の中では二つに分類される。一つは建築を作る「いろは」のようなもの。音楽で言えば音階である。つまり「ドレミファソラシド」である。音程を作る楽器をやった人ならだれでも分かると思うが、そういう楽器の練習の3分の1は音階である。何も面白味もないドレミがちゃんと引けるようになるまでひたすらマシンのようにひかなければ次の練習には進めない。建築も同じである。建築の最低性能を担保するこのドレミディテールはひたすらその原理と一般的手法を暗記して初めて図面が描けるものだ。僕はカードにこれらドレミディテールを書き写して暗記した。
そしてもう一つのディーテールは意匠ディテールである。これはできなくても雨漏りするわけでもないし、隙間風が入るわけでもない。しかしこれを知らないとカッコいい建築は作れない。音楽で言えば練習曲である。音階が終わったら練習曲をひたすら練習してやっと曲に進める。このディテールは原理があるわけではない。一つの場所に対して無数の方法がある。だから設計者はこれらのディテールを自分の好みで数多く暗記していないと図面は描けない。その意味でこれは作文する時の言い換えのボキャブラリーのようなものである。「多分」と表現するのにprobably, presumably, certainly,などのいろいろな表現があるのと同様である。
「ドレミ」ディテールと「言い換え」ディテール。これらを覚えてやっと図面は描ける。そしてさらに言い換えを自らの言葉で置き換えられるようになって初めて自分のデザインになっていく。
真鍋先生のディテールの体系化は設計プロになるための最低限学ぶための最適なテキストだろうと思う。

建築と取り結ぶ無為の共同性

その昔フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーの『遠くの都市』と言う本に解題を書いた。その折にナンシーの主著『無為の共同体』という本を読み、たいそう感動した。無為には二つの意味がある。一つは何もしないでぶらぶらしているということ。もう一つは作為の無いことである。無為の共同体の無為は後者の意味である。つまり人間社会は意図せずとも共同性を持つ運命にある。その理由は人間とは死ぬものであり、他者の死に直面した周囲の人間はそれを悼みあうことで繋がるからだと言う。
これを読んだ時ああ人間だけではなく、人は身の回りの建築環境、自然環境とも無為の共同体を作っているだろうと思った。周囲の環境の好き嫌いにかかわらず、それらが死に至らしめられたら人は命なきそうした環境にさえ悼む気持ちを持つはずだから。
それは震災の過酷な映像に登場してきた人々の姿が実証した。しかし一方で我々は悼む気持ちなどさらさらなく平気で環境を死に追いやる風景を目のあたりにしている。往々にしてそういう風景の演出者は政治と資本である。
僕らはそろそろそういう風景に終止符を打ち、自らの建築環境との間にも無為の共同性が生まれることを求めていかなければいけない。

March 22, 2012

もっと自然に生きることに気づく時

昨日紹介した末木文美士(すえき・ふみひこ)東大名誉教授は東日本震災について、「人間の世界を超えたもっと大きな力の発動」があったのではないかと論じたところ多くの批判を招いたそうだ。しかしそれでも彼は再度そうした力―自然の底で抑圧された何者かが怒って暴れる―を認めるべきだと論じている。
こういう話を聞くと最初はなんだか胡散臭いと思うものである。
しかし今日三浦展・藤村龍二編『3.11後の建築と社会デザイン』平凡社新書2011を読んでいたら似たようなことを三浦氏が言っている。神はいないとしてもこれを単なる自然災害と思えば防波堤作って建物を鉄筋にするで終ってしまう。でも神の怒りだと思えばもっと本質的な我々の暮らしを見直すはずだ。
2人には揃って今回の災害の中に人間・科学・あるいは自然を超越した力が働いていたという認識がある。
僕は普通の唯物論者なので末木氏の考えにはちょっと距離を置いてしまうが、でも僕らの生活が近代科学で培われたデーターだけを元に紡ぎだされていると考える時代はもう終わったと思っている。もっと直観や偶然や勘や言い伝えなどに導かれて自然に生きる部分があるはずだと思っている。それは別にこんな大震災が起こったからそう思っているわけではない。おそらく今から30年くらい前に大学に入ったころからそう思っている。そしてそれは多くの僕の学友もそうだった。
しかし僕も彼らも社会に入り変ってしまった。幸い建築デザインなんてやっていた僕は比較的個性を破壊されずに生きてきたけれど、合理性や経済性優先の価値観で動く場所に行った人間は変らざるを得なかったと思う。
でも今僕らは再度昔の自分を思い出し、こんな超越した力を省みてそれを基盤として生きる部分も大事にしなくてはいけないと気付く時なのだと思う。

March 21, 2012

箱は空だから意味がある


現場への往復で末木文美士『哲学の現場―日本で考えると言うこと』トランスビュー2011を読み終える。西洋哲学と東洋哲学を接ぎ木しながら日本の哲学を教えてくれる。日本の哲学は東西の思想の混合である。そして東洋思想の根源の一つは老荘思想でありその大事な概念に『無』がある。この言葉昔からちょっと惹かれる。というのも中学時代、今から40年近く前に、漢字学者の諸橋轍次が招待講演でその本質を教えてくれたからだ。今でも鮮明に覚えいているが、彼はこう言った。「箱でも棚でも鞄でも空の時ほど意味がある」。子供の常識で言えば、本棚には本が一杯入っていてこそ意味がある。なんだってものが一杯入っていなければただの空であって意味が無いと思うのが普通だ。しかし諸橋さんはそんな常識をころっと覆してくれたわけだ。それ以来馬鹿の一つ覚えのように、ものは空(無)でこそ意味があると思うようになった。
ノートはなるべく空白を沢山とる。本棚はなるべく空きスペースをとって不要なものは何でも捨てる。鞄はなるべく大きいものとしていくらでも入るようにする。やたらなんでも暗記すると頭が一杯になるので不要なことは覚えない(これは失敗だった)。
などなど。そして今でもその習性は変らない。なるべく捨てられるものは捨てる。コンピュータの中もどんどん捨てる。(これでいつも失敗をする。でも気にしない)。捨てるか捨てないか悩む時間の方がもったいない。
そしてそれはついに建築の考え方にも無意識に影響を与え「建築はフレーム」であって大事なのはそこに飛び込んでくるものだと言う境地になっている。中学時代の教えに忍び込んでいた老子が建築に生きづいているということである。
 
関係あるかどうか分からないがオルジャッティのプランなど見ていると空箱の思想を強く感じる。

March 20, 2012

右翼対策

最近我が家周辺での右翼街宣車騒音が激しくなっている。新宿通りに韓国大使館が引っ越してきたのが発端。竹島問題で右翼が抗議しにくるのだが、最近4丁目の大使館に行った後3丁目も回って帰るようだ。
先日大使館傍のハンバーガー屋で食事していたら数十台の街宣車がやって来てとんでもない言葉づかいで大騒ぎしていた。警察の機動隊がやって来てボス同士の話し合いで右翼は撤退した。
今日同じハンバーガー屋に行ったら店の前に標識が立っていた。それには騒音防止(規制?)条例によって違法な拡声器で騒音を発すると罰せられますと書いてあった。こんな法律で取り締まれるのかとちょっと驚いた。違法な拡声器とは一体どういうものだろうか?選挙演説と街宣車はどう区別できるものだろうか?表現内容で捕まえることは難しいだろうから。
ストリートビューでみるとその標識は無いのでやはり最近の街宣車のエスカレートに対抗する措置なのだろう。

顔合わせ

昨日卒業式やったばかりだが、今日は研究室新4年とm1の顔合わせ。新4年は一部生4人、二部生13人、院生7人。そしてPD研究者、研究生、助手、私をいれると総勢28人の大所帯である。
一部は論文と設計両方やらないといけない。二部は設計と論文が選択で論文組が2人、設計が11人である。
前も書いたが働いている者がいれば、働いていない者もいる。他大の院試を受ける者がいれば僕の研究室の院に残る者もいる。論文ゼミ、輪読ゼミ、1時間設計、「建築の規則」講義、新しく開講した「建築の条件」講義、ワークショップ、トークイン、コンペ、アートフェスタなどやることは盛りだくさんだがそれぞれの忙しさに合わせて作業を選択していけば良いと思う。

March 19, 2012

卒業式

武道館で卒業式を終えた学生たちが大学に戻り学科毎に学位を授与された。2部建築学科は約80名。1人ずつ名前を読みあげて学科長から卒業証書が手渡された。
自分の時を振り返ると学部卒業式の記憶が全くない。修士の時はアフリカ旅行から式の前日帰国した記憶があるけれど式の記憶は無い。それに比べるとUCLAでの卒業式は友達とはしゃいだ記憶が鮮明にあるし、写真も残っている。やっぱり異国の地で必死にもがいて修了できた喜びがあったのかもしれない。
大学の勉強は専門学校と違って明日から即役立つようなことではないかもしれない。僕もそうだった。コンセプチャルなことばかり学びプラクティカルなことを学ばなかった当時の建築学徒は事務所行っても「使えない」輩が多かった。僕もそんな一人だったと思う。でも今でも大学で学んだ内容がずしんと腹の底の方に溜まっていて、それが全ての原動力になっているように思う。
これから巣立つ80名にとっても大学で学んだことがどう生かされるかは分からない。卒業証書なんてただの紙切れだと思うこともあるかもしれない。でも4年かけて学んだこと、特に卒業論文、設計を完遂したことはきっと体に染みついた力になっているはずである。そんな力を発揮する姿を見ることを楽しみにしたい。
good luck!

March 18, 2012

うんざり


早朝の新幹線で新潟へ向かう。長野新幹線も上越新幹線も、高崎までは関東平野を走るがそこから長いトンネルをくぐりぬけると銀世界である。トンネルは抜けた時のワープ感覚が好きだけれど中にいる間は真っ暗で単調でつまらない。そのせいか車中本を読もうと思ったが、すっかり眠ってしまった。新潟も冷たい雨である。こんな日に限って雨は降るものだ。うんざり。

March 16, 2012

思考のオフが感情をオンにする

人はものを認識する仕組みを皆同じように持っていると言ったのはカントである。人は心の中に空間、時間と言う枠組みを持ち、その中に見たものを放りこみ、次に量、質、関係、様相という観点から理解しようとするのである。

しかし場合によってはそんな仕組みに放りこまれてもこいつらがうまく機能しなくて、あるいは機能する必要が無い状態ってある。

ピラミッドを僕は見たことないけれど、もし見たらあまりの大きさにきっと思考が停止するような気がする。バラガンの黄色い教会見た時も思考が停止した。近いところではシーザを見た時もややそれに似た状態になった。

思考が停止するとはどういうことか?例えば大友良英は高橋悠治のワークショップで目をつぶって音を聞き、それが何の音かを判断しないでひたすら音だけを聞くという訓練をさせられたと言う。

五感を通じて何かを感じた人間はそれを理解しようとする。そういう行動を分節化するとも言うのだが、聴覚なら「何の音?つまり音の発信源」味覚なら「何の味?つまりその味を醸す料理の名であったり、その味を表現する形容詞だったり」触覚や嗅覚なら「そのさわり心地や匂いを表現する形容詞」、そして視覚はというとここには他と比べ物にならないほどの情報量があるため様々な分節化がおこる。「見えているものは何かに始まり、それらを要素に分解して、それぞれの名詞を見つけ、色、風合い、形を見極め、、、、、ときりがない」

話を戻すと思考が停止すると言うのはどの感覚器官においても上のような分節化が止まるということである。もちろんそれは意識的に止めるといういよりかは、外界、あるいは主体の様々条件がそろった時に起こるスイッチオフなのである。

一般に外界の刺激によってそれを理解する主体が経ち現われ、それによって外界は客体となる。思考停止状態では外界の刺激は入り続けながら、それを理解する主体というものが経ち現われないのである。よってそこには主体と客体の分離が現れない。こんな経験を「主客未分離の純粋経験」と名付けその経験にこそ実在があると言ったのは西田幾多郎であった。

おそらくほとんどの人がこんな純粋経験をしたことはあるだろう。そしてそんな停止状態の次には往々にして大きな感動、悲しみ、喜び、驚きという感情の変化が現れる。そんな感情変化のスイッチとなるのがこの思考のスイッチオフなのである。

これから撮影するリーテム東京工場の5分の映像を作るにあたって撮影クルーにお願いしたのはこんな思考停止を生む映像を作ることだった。

ダンスによる異文化交流

午前中久しぶりにリーテム東京工場に行く。映像作家二瓶さんの提案で数か所にビデオカメラを置いて工場の定点撮影をすることになった。そのカメラの設置場所を打ち合わせる。年度末は搬入物が多く。ヤードは解体待ちの製品であふれていた。
午後大学に行き会議。夜は森下で北村さんのダンスを見る。去年の1月に鎌倉近代美術館中庭で踊ったのを見た時以来である。あの時コラボしていたマルチナス・ミロトに加え若いダンサー2人(三東瑠璃 ・リアント)が加わった。
講演のタイトルであるto belongとは異文化の混在状態における帰属の曖昧性への認識である。ジャワの民族的な踊りをコンテンポラリーダンスの動きで脱構築しているように見える。そこにおける彼らのぶつかり合いが面白い。それを見せるために最初の1時間くらいは練習風景の公開という形をとる、ぶっつけでいろいろな動きを練習し言葉で説明した。後半の1時間は谷川渥さんが加わってその踊りに対するトークである。今日から四日行うステージの中で踊りを進化させ完成形は4月末にインドネシア9月に世田谷で行う予定である。
終わって美学者谷川渥さん(あい変わらず若い)舞踏家和栗由紀夫さん(なんとこんな巨匠が)ダンサーミロトさん(英語が上手だと思ったらUCLAでダンスの修士を取得していた)企画をやられた土屋さん(東工大の桑子研卒。東工大出身の文系の人と初めて会った)光岡君(A0仲間。久しぶりにリアル光岡に会った)たちと夕食。

March 14, 2012

ゼミのやり方


●地下が打ち上がった。まるでボックスカルバートだなこりゃ

現場の行き帰りに来年度のゼミスケジュールを考えた。信大に居た時これは難儀だった。大学に居られる日数が少ないというのがその理由。だが理科大では難儀の質が違う。学生の状況がばらばらというのがその理由。働いている人、働いていない人。他(自)大学院を受験する人、推薦で上がれる人など人によって研究室活動にコミットできる時間が異なるのである。
信大の時は学生それぞれの個性がどうであれそんなの一旦クリアして俺の価値観にドップリつかってみろと言えた。それは彼らが高校卒業とともにこの大学に来てまだ無垢な頭脳を持ち、潤沢な時間を有し、受験勉強をせずに大学院に行けたから(6年教育を標榜し、面接だけで決定するから)。
しかし理科大ではそうは行かない。人生経験豊富な輩を前に価値観改造しようなんて野暮というもの。仕事に追われなかなか大学に来られない輩を相手に自分にドップリ浸かれなど無理な相談。受験勉強に明け暮れる輩にゼミをやっても暖簾に腕押し。
そこで一年の経験を経て来年はやり方を変えることに決めた。多様性を尊重することにした。メニューは作る。でも一部(中間部)の無受験組以外は基本的に輪読、ワークショップ、コンペ等の参加を強制しない。自分の生活と興味に合わせてやりたいものをやれるようにしたい。もちろんこれは単なる状況に対するイージーな解決法ではない、個の尊重である。いろいろな人間がいることを認めることで面白い場にできるだろうと思うからだ。前にも書いたけれど欧米諸国(アジアもそうかもしれないが)に研究室なんてないのである。これは日本独特の大家族主義のようなものである。こんなシステムが果たしていいものなのか自分でもよく分からない。大家族の親父よろしく「俺の背中を見て育て」なんてここでは無理だ。学生が僕から欲しいものを得て自ら育つしかあるまい。
もちろん背中を見たい人はついてくればいい。それはそれ。

テルマエロマエ的感性はいつまで続く

谷川渥『肉体の迷宮』東京書籍2009は高村光太郎、谷崎潤一郎、黒田清輝の肉体観を「日本人離れ」というキーワードで描く。乱暴にまとめれば彼らの彫刻、文学、絵画に現れる肉体像は日本人のそれではなく、理想化された西洋の肉塊への羨望に基礎づけられたものだったということである。
これを100年くらい前に生まれた人たちの話といってあっさり片付けることはできない。今から30年くらい前に大学院一年で初めて行った外国バーゼルの設計事務所で僕は夏休み働いた。事務所のボスはイタリア系スイス人。カラフルなシャツの前をはだけでぶ厚い胸板に金のネックレスがとてもよく似合っていた。背丈は同じくらいだったけれど映画スターのようなオーラが漂っていた。次のボスはドイツ系スイス人190センチくらいの八頭身。プロポーションがもはや異星人である。漱石はロンドンのショーウィンドウに映る自分の姿を「妙な顔色をした一寸法師」と言ったわけだが自分も同じだった。
そして最近売れている漫画『テルマエロマエ』では現代の日本にワープしてくるローマ人が日本人を見て「平たい顔」の民族と言って驚いている。そんなシーンに日本人は自虐的に腹を抱えて笑う。
1世紀経っても日本人離れに打ち勝てない日本人のコンプレックスとはなんだろうか?日本人は生まれた瞬間に西洋のプロポーションや肉体形状や顔の作りを至高の美と思っているわけではない。黄金比と言うものも作られたものに過ぎない。我々はただただ後天的にそれらが美しいことになっている世界に巻き込まれているのに過ぎない。そしてそれが1世紀以上続いているというもの面白い。
ギリシア美術が作り上げた肉体美が崩壊し日本的肉体がそれを凌駕する時代はいつか来るだろう。それは浅田真央がすらりとスリムで欧米のグラマラスな選手より美しく見えるようになったからではない。2000年以上かけて作り上げられたユーロセントリシズム美学がもはや一方的に世界を支配できなくなるであろうと思うからである。世界の感性はフラット化しつつある。そんな時代になれば建築のいかがわしいプロポーションという言葉の内実もそれに合わせて変るはずである。八頭身建築が美しいなんて昔の話となる時代が来る。

March 13, 2012

1985年に日建は画期的な建築を作るチャンスを逸した

その昔西武の社長だった堤清二は「つかしん」という名前の商業施設を作った。できたものはさておき、その建物のコンセプトはデパートやスーパーではなく新宿の小便横丁のような、あるいはアメ横のような、そんな物販飲食の入り乱れたカオス的場の創造である。
僕が日建に入社する1年前、シルバーハットができた頃に竣工した建物である。僕は日建入社後そのコンセプト聞いてこりゃすごいと思った。入社前に北アフリカ旅行をしてイスラムのメディナの迷路のような町を見た後だっただけにこのコンセプトに興味しんしんだった。しかし竣工写真を雑誌で見て愕然とした。全然面白くない。アルジェのカスバのような姿を想像してたのに、ただの箱型スーパーの脇にちょろっと路地がくっついているだけじゃないかと落胆した。
堤清二と三浦展が書いた『無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉』中公新書2009を読むとその失敗の理由が二つ書いてあった。一つはデパートやっていた人をトップにつけたから。もう一つは設計者の問題。設計者は巨大スタジアムのような案を最初に持って来たらしい。しかし堤はその反対のものを作りたいと抵抗。ところが設計者は巨大構造物に固執したそうだ。そこで堤は「今度頼む時は一流の設計事務所にする」と言ったそうだ。すると設計者は「私のところは一流です」と怒ったとのこと。
設計は日建設計。この経過がどれだけ正しい話か分からない。デパートやってた人がトップにいてデパートみたいな建物しか頭になく日建にそういう指示を出していたのかもしれない。そこに急に最高統括のような人がふらりやってきて好き勝手言った一幕かもしれない。しかしそんなことはどうでもよく、1985年に、堤のコンセプトを本当に形に出来ていればそれは画期的な商業空間を創れたはずである。そう思うととても残念である。
この仕事したかったなああ。

March 12, 2012

やしおのツカイカタ


八潮市での一年間のワーク総集編として、市民フォーラムが行われた。今年は住宅、公園の設計など実際のものに繋がり、それとは別に水が枯れた用水路の上に小さな休憩小屋を作った。会場には半分出来た小屋を展示した。
我々五大学(神戸大、神奈川大、理科大、茨城大、日工大)とは別に筑波大の渡先生チーム、東京農大チームもそれぞれユニークな一年間の活動報告があり、市民からの質疑も積極的に行われた。理科大チームは今年度は寂しく1人だったが、4月からは少し人数を増やしたい。八潮のツカイカタ第二弾と昨年度行われた家づくりスクールのホンキ版が行われる予定なので学生もやりがいがあるだろう。
フォーラムが終わると東洋大の藤村研の院生とその友達の東工大の建築の2年生が挨拶に来た。勉強熱心と思いきや、市民なのだそうだ。なるほど考えて見れば市民の中にも沢山の建築学徒がいるはずで、市民として我々の活動に参加したらそれも面白いのではと思った。あの時名刺などをお渡しできなかったので、もしこのブログを見ていたらメールください。sakaushi@ofda.jpです。

March 11, 2012

金正男(ジョンナン)擁立はあるか?

五味洋冶『父・金正日と私』文藝春秋2012を読む。金正日(ジョンイル)は3人の妻に4人の子供を宿した。最初の妻との子が長男、金正男(ジョンナン)、次の妻との子が長女、金雪松、そして3人目の妻との子が次男、金正哲そして三男、金正恩(ジョンウン)である。正日を継いだのは三男正恩であり日本のディズニーランドに来たところを不法入国で捕まり強制送還されたのが長男正男である。
著者がこの長男と太いパイプを作り数百のメールと数時間の独占インタビューをマカオと北京で行ってこの本にまとめた。なかなかのスクープである。
長男が後継ぎとならなかったのはスイスで教育を受けた彼の中にかなりの自由思想が芽生えてしまったからなのかもしれない。しかしわが子をそんな可能性のある資本主義国で教育させた正日と言う人は一体何を考えていたのだろうか?これだけのスクープの中でもそれは明らかにならない。正男は父正日のことと、自らの仕事のことは決して語らない。
正男は北京に住み中国の強力なバックアップを受けている。もし正恩がガヴァナンスを発揮できずそれによって北朝鮮がうまく機能しなくなった場合どうなるだろうか?中国は西側諸国との橋頭保として北朝鮮を守らざるを得ないと言われている。その時正男が送り込まれるのではないかというのが著者の読みである。そうなるとアジアのパワーダイナミクスはかなり変わる。

March 9, 2012

チェンマイ大学の豊かさ


タイ国立チェンマイ大学建築学科ディーンのエカチャイ教授が理科大に来られ、今後の大学間交流についてお話をした。チェンマイ大学のパンフレットを頂くと東京の区二つ半ぐらいの広大なキャンパスに素敵な建築学部棟がある。アメリカ同様タイでは建築学科は独立した学部でありエンジニアリングは別部門である。学生数は一学年100人大学院生が50人。理科大とほぼ同じ規模で、先生は40名。一昨日理科大建築学科ファカルティの歓送迎会をしたけれど40名はいなかったと思う。
エカチャイ先生はタイの東大チュラーロンコーン大学を卒業し、アメリカのフロリダ大とハーバードのGSDを修了しイリノイ工科大学でPh D.を取得という超エリートである。どうも現在の東南アジア、中国のエリート大学の教授陣の多くが欧米で勉強している。先日来られた上海同済大学や東南大学の教授陣もそうである。日本の大学で勉強したという人は少ないと思う。
それには理由がある。ここ数十年日本のエリート大学はアジアの留学生を欧米の留学生に比べて無視してきたからなのである。僕が学生の頃篠原研に在籍していた留学生はエール、ハーバード、パリ、イリノイ工科大学、などなど欧米のエリート大学ばかりでアジアは0、そして今でも東工大はとんでもない量の留学生を受け入れているがそのほとんどは欧米人である。
一方例えばETH(スイス連邦工科大学)では数十年前から意図的に中国の留学生を受け入れてきたそうだ。いずれ先進国の仲間入りをする大国中国の学生を程度が低くても積極的に受け入れてきた。そして彼らは今では国家の枢軸たる教育機関、政府の要職に就き国を動かす存在となっているのである。
そんな彼らがいまさら留学生を日本に送り込むわけはない。中国のトップエリートは殆どン日本に勉強しに来ないのはそんな理由からである。そして恐らく東南アジアも同じなのではなかろうか。
今からでも遅くはない。せっかく来てくれたチェンマイ大学と交流しよう。おそらくただみたいな学費とただみたいな生活費で日本よりはるかに豊かな生活が送れるだろうこの場所に多くの可能性が眠っている。経済的理由で日本の大学院に行けない学生も1カ月必死にバイトすればチェンマイで1年は過ごせるはずである。アルゼンチン以上である。

March 8, 2012

皮膚感覚の知性

歳をとるからそう思うのか? 時代が急速に進むからそう思うのか? 僕の建築的思考の枠組みによってそう思うのかわからないけれど、昨今世の中の「現実味」がどんどん薄れていくのを感じる。上記以外の言葉にできる理由をあげるなら、様々な情報の信憑性の希薄さとでも言える。
マトリックスやインセプションの如く自分の目の前で起こっていることまでフィクションであるとは思わないが、それ以外のことの多くはフィクションであってもおかしくないと思うのである。
昨晩、東大法学部院生、佐藤信の書いた『60年代のリアル』ミネルヴァ書房2011の後半を読んだ。すると彼も世の中はフィクションであると感じている(その理由は書かれていないが)。そしてそんなフィクションの中で生きる糧として「リアル」が必要なのだと書いていた。そしてその「リアル」とは「現実」ではなく、「現実に起こりそうなこと」でもない。それは自分たちの「生」に「さざ波」を与えてくれるものだと言う。そしてその「さざ波」とは60年代の肉体性(昨日のブログ参照)に通ずる皮膚感覚のようなものだというのである。
身体、肉体、皮膚、ざらざら、べとべと、触覚などなど。この本には現代美学のキーワードが沢山登場する。デザインをやる建築学科の学生にとってこんな言葉は必須である。だから院生ともなると(いや学部でも)「触覚優先の身体的建築」なんてオウムのように言い始めるわけだけれど、そうした感覚を普通の学生(東大法学部院生を普通と呼んでいいかどうかはさておき)も共有しているというのはちょっと驚きであり、ちょっと嬉しい。

こんな気分(これを皮膚感覚の知性と呼ぼう)を今の若い人の多くが共有しているのなら僕らの建築的射程は少し長くなるかもしれない。

March 7, 2012

60年代の学生を駆り立てたものは肉体?

現場への往復で佐藤信『60年代のリアル』ミネルヴァ書房2011を半分読んだ。著者は88年生まれの東大法学部の院生である。88年生まれの学生が60年代=安保闘争、全共闘の時代を描こうというのが先ず興味深い。加えてその描き方は別に法学部だから法的視点から描くのではない。26歳の一学生の視点で60年代のリアリティを見定めようとしておりその点が次に興味深い。一体なぜ草食男子と言われる、乾いて冷めた(と言われている)現代の学生が血を流すことを本望だと思っていたような60年代学生のリアリティに迫りたいのだろうか?
もちろんある種の異星人でも観察するかのごとく描くのであればそれは分かる。しかし著者の動機はその逆である種の共感を探す旅に出ようとしているのである。本書の前半は60年代のリアルと称して60年代の闘いになぜ学生がこれほどまでに駆り立てられたのかを分析している。そしてその結論は肉体性である。デモで肩を組み肉体が接触し、警官をぶん殴りぶん殴られ肉体が接触し、バリケードの中でひしめき合いながら肉体が接触する。その中に精神を高揚させる何かが生まれた。更に言えばバリケードの中には一つのコミュニティが生まれ、主義主張などどうでもよくそのコミュニティの連帯感に彼らは酔いしれていたというのである。
安保闘争は生まれてすぐでよく知らないが東大全共闘が安田講堂で陥落した映像をテレビで見ていた私の世代はこの分析を正しいとも正しくないとも言えない。彼らの思想の一端を少しは知りつつ闘いを見ていたわけでそれが単なる運動部の連帯感と同じだと言われても「はいそうですか」とは言えないし、一方でその闘いに実際に参加していた人々の証言には著者の言葉を裏付けるものが多くあり、最前線の人がそういうならそれは正しいとも思うわけである。

後半で著者は10年代のリアルと題して今の学生の気持ちと60年代の学生の気持ちの重なりを語る。果たしてそこに重なりはあるのだろうか?

松本は中央線的「ゆるさ」のターミナル

今日は3年生の研究室配属に向けた面接。1部(昼)4名、2部(夜)13名が今年の定員。それに対しそれぞれ5名、18名の希望者。
4時から1部の面接。今年は女性2名、男性3名、女性陣のポートフォリオのヴォリュームが男性陣の3倍くらいあってびっくり。信大時代を思い出す。あの頃は毎年研究室を仕切る女傑がいたもんだ。理科大もそんな時代に突入か?
終わってすぐに6時から2部の面接。2部は基本的に夜学だから様々な人たちがいて楽しい。単なる受験勝ち抜き組では無い。かといってもちろん受験脱落組でもない。
例えば
4大を卒業したけれど建築やりたくて編入した人
・・・こういう人は建築おたくにはない幅広い知識を持つ(場合もある)。
建築の専門学校あるいは高専を卒業したけれど再度大学で勉強したく編入した人
・・・・こういう人は専門学校でも上位者なので既にかなりの力を持っている。
設計事務所などで働いているけれどもっと勉強したいという人
・・・・こういう人はもうプロである。4年生のレベルは超えている。
既に一般の企業や役所で働いているけれど出来れば転職したい人
・・・こういう人は社会常識を兼ね備えており、発想が大人である。また、僕も行ったことの無いような世界中を渡り歩いておりこっちが学びたいくらいである。

まあいずれの方たちも現代の社会のごくごく一般的な普通の生き方からすこーしだけ逸脱してしてある意味ちょっとゆるーく生きようと一生懸命頑張っているのである。あれ?それって昨日ブログに記した中央線的生き方というやつによく似ている。(飯田橋を中央線的というのは無理があるかもしれないが、、、、)
昨日のブログを読んだ松本在住の建築家山田さんからメールをいただいた。松本は中央線文化のターミナル。松本とは高円寺、吉祥寺のアングラ文化を背負った輩が漂流し辿り着きそんな文化を根付かせた場所なのだと書いてあった。へーーーそーーーなのか!!
理科大からもそんな風に、にゆるーい文化を各地に送り届ける逞し輩が育つのではと期待したいものである。

March 6, 2012

中央線的なゆるい感覚

先日友達に勧められた山田詠美の『無銭優雅』幻冬文庫2007を読んだ。山田詠美は「うまい」と言われて読み始めた。しかし「うまい」は2番目の推薦理由で、一番目の理由はこれが「中央線」を舞台にした小説だったからであることを思い出した。
なるほど先日高円寺に行っても思ったが人々はそれほどあくせくすることなく、金は無いけれど、ゆるーく、楽しそうに、生きていると感じた。この小説のタイトル(銭は無いけど優雅)の通りである。
そんな彼らには一種の厭世感が漂う。たとえばこの小説の主人公である慈雨(花屋の女主人40歳ちょっと)とその彼、栄(予備校教師、歳は同じくらい)はお互いが人生で大きな褒美をもらったことが無いことを語り始める。そしてそのことは自分たちが世界から期待されていない=自分たちが自由に生きていく資格を持っていると解釈する。
高円寺あたりのカフェやギャラリーの女主人ってちょっとそんな自由さを醸し出している。
そしてその厭世感は暗くじめじめしていない。つまり能天気。しかし根っからの能天気かと言うとそうでもない。主人公慈雨は高二の姪に「慈雨ちゃんまじで能天気!」と言われ心の中で反論する、「でもね、自分を能天気のまま保つのには、才覚がいるのである。根性もいるのである。実は私にはそうではない自分を見つけてしまうのが恐くてならない」
世間様の常識からすこーしだけずれてゆるーく生きているのが中央線的(と言われる)生き方なのかもしれない。その生き方には少なからず厭世感や能天気が登場する。でもそうしたゆるい精神は放っておけばどんどん育つというわけでもない。それを維持するための努力が必要なのである。自分がゆるい部類だと思ってそちらに足を踏み入れれば主人公慈雨の心境の通り、そうではない自分を見出すのは恐いことなのであり、そうならないようにゆるい自分を常に演じ正当化しなければならない。
これってどんな生き方にも多かれ少なかれおこることだけれど。

March 4, 2012

高円寺カフェめぐり

昨日林さんの会の後坂本先生とお茶をした。その時三浦展が坂本先生と同じ主張をしていますよとお伝えした。三浦展の『高円寺』という著書には、高円寺には外部階段が多い。共用部を通らず直接部屋にアクセスする建築が沢山あると書かれている。共用部を通らなければ部屋に行けない建物は中央集権的、ダイレクトアクセスできる建物は個人の自由を保証すると言うのである。坂本先生わが意を得たりという顔で喜んでいた。
というわけで今日はかみさんと個人の自由を保証する町高円寺探検に出かけた。なるほどあるある。外部階段、高円寺なんて夜飲みにしか来たことはない。昼ふらふら探検している50代の夫婦はちょっと浮いている。
でも都心の若者の町と違って排除感がない。昼の雰囲気はガーリーではあるけれど親父やパンクや、ヘンなアーティストなんかも湧き出てきそうな匂いがする。この包容感はいいもんだ。普通の家を改造したカフェで昼食べて、木賃アパート改造したカフェでお茶。片方は一度店内に入り二階に行くタイプ。もう一つは外部から二階にダイレクトアクセスするタイプ。二階へのダイレクトアクセスはこういう風にお店に改装されると自由を感ずるよりは都市の立体性を視覚化する装置へと変化する。

●パンクの風が漂うギャラリ―


●藤村建築と遭遇


●内部階段タイプのカフェ二階屋根裏にも客席


●外部階段タイプのカフェ入口


●昔は木造アパートだったそうだ

パレスサイドビルと林昌二

「林昌二さんの会」と言う名の会があった。もちろん林さんを偲ぶ会なのだが、「偲ぶ」などというのは林さんらしくないと言うことでこの名になったと司会の安田さんが言っていた。
葬儀もごく少数の関係者で行われたので今日の会もごく少数の方だけで行われるものと思って行ったら150人くらい来られていた。パレスサイドビルの9階アラスカが人で埋まっていた。殆どの方がご挨拶も恐れ多い大先輩ばかりである。高橋てい一さん、長谷川逸子さん、坂本一成さん、木下庸子さん、と建築家の面々に加え、大学教員も大勢。理科大の先生もいらっしゃる、真鍋さん、宇野さんの顔も見える
最初に発起人代表の三栖邦博さん(元日建設計社長)のご挨拶。続いて来賓の内田祥哉さん(東大名誉教授)と池田武邦さん(元日本設計社長)がお話された。林昌二の作品は日建の本道ではなく日建に毒を撒くような仕事だった。それを後ろか着いて行く人が踏まないように慎重に進むことで日建が成長したと内田さんはおっしゃった。林さんの仕事が毒を撒いたかどうかは別にして、林さんの仕事が日建の本道ではないというのは全く同感である。日建はパレスサイドビルのような建物ばかり作っている事務所ではない。もっと地道にお金を稼ぐ仕事を多くしている。林さんが凄かったのはそういう会社の中で自分がパレスサイドビルのような仕事しかしないでいい仕組みを作ってしまったことである。
この建物に、特にこのアラスカに来るといつも思う。天井高が異様に低い。パレスサイドは基準階階高が3600しかない。アラスカのある9階は3400である。天井高は2300~2400である。今時の常識からすれば驚異的に低い。でもこの低さがこの場所の親密感を作っている。会の最後に皆で屋上に上がった。日建に入ったころはただの緑の眺望だったが、あれから約30年、広大な緑(皇居)は高層ビル群に取り巻かれた。こんな壮大な都市の風景は世界中見てもそうはない。
視界の両翼にはパレスサイド特有の二本の円筒形コアが聳え立つ。屋上階から16メートル突き出ている。その中には機械室が3段重ねで入っている。機械室をコアに集約させたことで広大な屋上庭園が可能となった。今時こんなきれいな屋上も少ない。そして背の高いコアは外観のプロポーションにも寄与している。日建の建物は中から考えるから外観のプロポーションに無頓着と言われる。でもこの建物はこの太ったコアを突出させることでスレンダーに見せ、ガラスの水平性のエンドにアクセントを与えている。基準階のコア内部も毎度思うが良く出来ている。丸いエレベーターホールの周りにトイレがありPCのスリットから自然光が入ってくる。丸い平面形なので複雑なクランク無く中の見えないドアレストイレが可能である。エレベーターホールには9台のエレベーターに対し呼びボタンはホール中央に二組あるだけ。人の行動を読んだ設計である。いつまでたっても古びないデザインというのはこういうものを言うのだろう。
やはりパレスサイドは林昌二の(日建のではなく)代表作である。

March 2, 2012

夫婦中庸路線

サラリーマン家庭での専業主婦の家事労働に対する年間評価額は276万だそうだ(立岩真也『家族性分業論前哨』生活書院2011)。と言っても1996年の経企庁の数字だから今はもっと少ないかもしれない。専業主婦なんて言葉はもはや現代では死語のようにも聞こえるが統計的には未だに世帯数の7割くらいはいる。
そもそも良妻賢母の標語の下に女性を家庭に閉じ込めたのは日本近代の産物。かといってこれが日本特有のことだったかと言えば否。ナポレオン法典でも「夫は妻を保護し妻は夫に服従せよ」と謳われた。
日本の特徴的なところは良妻よりも賢母に重点がおかれていたこと。日本国のために命をかけ、学歴社会の中での識者養成が母親には求められた。良妻賢母は近代日本の国策に組み込まれていた。しかし100年以上経ってもそのあたりの事情はあまり変わらない。
今の日本でも相変わらず子育ては母の役目。そして受験勉強をさせるのも母親。そして母の知性が子に伝わるらしく両者の学力には相関関係があるという調査結果もある。母親も大変である。
しかし母親の愛情も仇になることがある。過剰な愛と支援は子供をスポイルする。親の愛は適量がいい。そこで専業主婦も少し働くのがいいだろう。旦那が社会で500万稼ぐなら主婦もがんばって230万稼ぐとよい。そうすれば主婦は家内労働の270万を加えトータル500万の稼ぎで旦那とイーブン。加えて適度な労働は子への愛情も適量とする。
夫婦の在り方は多様で良い。専業主婦も否定はしない。男女全く同権もあり。でもこの不況下、子供をうまく育てながら生活の質もあげるとなればこんな中庸路線も悪くない。

March 1, 2012

もっと民意を


井上勝生『シリーズ日本近現代史①幕末・維新』岩波新書2006をやっと読み終え、牧原憲夫『シリーズ日本近現代史②民権と憲法』岩波新書2006を読み始めた。この時代は戦争と内乱(一揆も含めて)で埋め尽くされる。もちろんそんなこと以外にも沢山の出来事があったはずだが、そんなこと書いていたらとても新書には納まらない。
これがフランス革命に約1世紀遅れてやってきた日本の近代化の始まり。時代が変わるというのは(革命)どこでも物騒なものである。大昔の話とは言え同じ国の出来事とは思いづらい。現代はいきなり後ろから刺されるなんて言うことの無い(少ない)安全な世の中。幕末・開化の時代とは異なる。でもそれもいつまで続くのやらと不安な今日この頃。開国当時ほどとは言わないまでも不満をぶちまけたいことは現在進行形で増加中である。それなのに不満の噴出が形にならない。選挙で選ばれたことを盾にカリスマ気どりで強引なことをやるのも問題である。自由民権運動とは言わぬがもう少し民意を吸い上げる方法論が語られても良いのでは。
やはり『一般意志2.0』がリアリティを持つのだろうか?

顔写真入りタンブラー

今日は2月29日。うるう日。大雪(別に因果関係はないだろうけれど)。これは早めに出ないと現場にたどり着かないと思いいつもより2時間くらい前に事務所を出る。
このところ連日現場から図面が送られてくるが、何度指示しても総合図が上手く描けない。少々イライラ。総合図とはおそらく日建設計があみだした現場での施工図の一つ。平面詳細図の上に床、天井、壁の設備、点検口などを全部落とし込んだ図。これによって描き分けられていた電気、空調、衛生、防災、意匠の整合が図られる。現場に着くと総合図は一応できていた。一安心。打合せ後現場を見る。今日は一面真っ白。地下の壁配筋が終わったところはブルーシートがかけられて養生中。週末のコンクリート打ちができますように。
夜は坂牛研納会。お店貸切で16人の卒制をプロジェクターで映し一つずつ講評。お花と皆の顔写真が入ったタンブラーを頂いた。ありがとう。