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制度にからめ捕られない生き方

先日吉本隆明が他界した。吉本隆明と言っても若い人は知らないだろう。僕のいる理科大建築学科700人くらいに聞いて知っている人は5%いるだろうか?東大文学部で聞いたって果たしてどうか?まあ皆名前くらいは知っているかもしれないが(それも怪しい)読んだことのある人間が何人いるだろうか?

しかし僕にとってはどうにも気になる思想家であり、もちろん本屋に行けば彼の死を悼み吉本コーナーができている。そんな中にこんな一冊があった。藤生京子『吉本隆明のDNA』朝日新聞出版2009。姜 尚中、上野千鶴子、宮台真司、茂木健一郎、中沢新一、糸井重里の中で吉本とはどういう存在であったか?在り続けているかを描いた本である。
面倒くさい話を抜きにして、彼らの語る吉本すべてに共通し、そして僕の中でもそう感じることは唯一点。吉本の思想が彼の心からの実感と常識に支えられているという点である。こんな思想家は恐らく日本に彼以外にはいない。吉本の文章は、場合によってはとんでもなく晦渋で、ムードしか分からないことも多いのだが、人の意見に安易に立脚したり、時流に流されていないことだけはよく分かる。

こういう時にいつも例に出す吉本の言葉がある。それは脳死問題に対する吉本の言葉。「脳死を語る医者や評論家に欠けていて、そして最も重要な視点は近親者の気持ちである」。こんな普通の視点を科学、倫理、哲学的な議論が蠢く新聞紙面に発見した時の安堵感は忘れられない。

どうして吉本は常に実感と常識という発言の軸をぶらさずに一生を終えられたのだろうか、なんとなく気になっていたこの問いに今日この本を読みながら一つの答えが閃いた。それは吉本が意識的か無意識的かは別にして「制度」から距離を置いていたからではないか?世界が堅固な「制度」であることを熟知していた彼だからこそ彼はそこにからめ捕られないように生きてこられたのである。「制度にからめ捕られない」。言うは易し行うは難し。そんな人はまあそうはいない。

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