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中央線的なゆるい感覚

先日友達に勧められた山田詠美の『無銭優雅』幻冬文庫2007を読んだ。山田詠美は「うまい」と言われて読み始めた。しかし「うまい」は2番目の推薦理由で、一番目の理由はこれが「中央線」を舞台にした小説だったからであることを思い出した。
なるほど先日高円寺に行っても思ったが人々はそれほどあくせくすることなく、金は無いけれど、ゆるーく、楽しそうに、生きていると感じた。この小説のタイトル(銭は無いけど優雅)の通りである。
そんな彼らには一種の厭世感が漂う。たとえばこの小説の主人公である慈雨(花屋の女主人40歳ちょっと)とその彼、栄(予備校教師、歳は同じくらい)はお互いが人生で大きな褒美をもらったことが無いことを語り始める。そしてそのことは自分たちが世界から期待されていない=自分たちが自由に生きていく資格を持っていると解釈する。
高円寺あたりのカフェやギャラリーの女主人ってちょっとそんな自由さを醸し出している。
そしてその厭世感は暗くじめじめしていない。つまり能天気。しかし根っからの能天気かと言うとそうでもない。主人公慈雨は高二の姪に「慈雨ちゃんまじで能天気!」と言われ心の中で反論する、「でもね、自分を能天気のまま保つのには、才覚がいるのである。根性もいるのである。実は私にはそうではない自分を見つけてしまうのが恐くてならない」
世間様の常識からすこーしだけずれてゆるーく生きているのが中央線的(と言われる)生き方なのかもしれない。その生き方には少なからず厭世感や能天気が登場する。でもそうしたゆるい精神は放っておけばどんどん育つというわけでもない。それを維持するための努力が必要なのである。自分がゆるい部類だと思ってそちらに足を踏み入れれば主人公慈雨の心境の通り、そうではない自分を見出すのは恐いことなのであり、そうならないようにゆるい自分を常に演じ正当化しなければならない。
これってどんな生き方にも多かれ少なかれおこることだけれど。

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コメント

お久しぶりです。
中央線つながりで松本から・・・
私が高校生の頃、新宿・中野・高円寺・荻窪・吉祥寺を経て、終着駅の松本に「根性の座ったゆるい人」が、何人も流れついて、私は、彼らから色々と影響を受けました。
彼らは、ジャズ喫茶や、オーガニックな食料品店や、クラフトショップを始めて、アンダーグラウンド文化を松本に根付かせました。
今では、彼らが持って来たアングラ文化は、松本の大切なコンテンツに育っています。
丁度偶然にも、地方都市デザインの論文で、それについて書いていたところです。

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