« 60年代の学生を駆り立てたものは肉体? | メイン | チェンマイ大学の豊かさ »

皮膚感覚の知性

歳をとるからそう思うのか? 時代が急速に進むからそう思うのか? 僕の建築的思考の枠組みによってそう思うのかわからないけれど、昨今世の中の「現実味」がどんどん薄れていくのを感じる。上記以外の言葉にできる理由をあげるなら、様々な情報の信憑性の希薄さとでも言える。
マトリックスやインセプションの如く自分の目の前で起こっていることまでフィクションであるとは思わないが、それ以外のことの多くはフィクションであってもおかしくないと思うのである。
昨晩、東大法学部院生、佐藤信の書いた『60年代のリアル』ミネルヴァ書房2011の後半を読んだ。すると彼も世の中はフィクションであると感じている(その理由は書かれていないが)。そしてそんなフィクションの中で生きる糧として「リアル」が必要なのだと書いていた。そしてその「リアル」とは「現実」ではなく、「現実に起こりそうなこと」でもない。それは自分たちの「生」に「さざ波」を与えてくれるものだと言う。そしてその「さざ波」とは60年代の肉体性(昨日のブログ参照)に通ずる皮膚感覚のようなものだというのである。
身体、肉体、皮膚、ざらざら、べとべと、触覚などなど。この本には現代美学のキーワードが沢山登場する。デザインをやる建築学科の学生にとってこんな言葉は必須である。だから院生ともなると(いや学部でも)「触覚優先の身体的建築」なんてオウムのように言い始めるわけだけれど、そうした感覚を普通の学生(東大法学部院生を普通と呼んでいいかどうかはさておき)も共有しているというのはちょっと驚きであり、ちょっと嬉しい。

こんな気分(これを皮膚感覚の知性と呼ぼう)を今の若い人の多くが共有しているのなら僕らの建築的射程は少し長くなるかもしれない。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://ofda.jp/lab/mt/mt-tb.cgi/5620

コメントを投稿