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60年代の学生を駆り立てたものは肉体?

現場への往復で佐藤信『60年代のリアル』ミネルヴァ書房2011を半分読んだ。著者は88年生まれの東大法学部の院生である。88年生まれの学生が60年代=安保闘争、全共闘の時代を描こうというのが先ず興味深い。加えてその描き方は別に法学部だから法的視点から描くのではない。26歳の一学生の視点で60年代のリアリティを見定めようとしておりその点が次に興味深い。一体なぜ草食男子と言われる、乾いて冷めた(と言われている)現代の学生が血を流すことを本望だと思っていたような60年代学生のリアリティに迫りたいのだろうか?
もちろんある種の異星人でも観察するかのごとく描くのであればそれは分かる。しかし著者の動機はその逆である種の共感を探す旅に出ようとしているのである。本書の前半は60年代のリアルと称して60年代の闘いになぜ学生がこれほどまでに駆り立てられたのかを分析している。そしてその結論は肉体性である。デモで肩を組み肉体が接触し、警官をぶん殴りぶん殴られ肉体が接触し、バリケードの中でひしめき合いながら肉体が接触する。その中に精神を高揚させる何かが生まれた。更に言えばバリケードの中には一つのコミュニティが生まれ、主義主張などどうでもよくそのコミュニティの連帯感に彼らは酔いしれていたというのである。
安保闘争は生まれてすぐでよく知らないが東大全共闘が安田講堂で陥落した映像をテレビで見ていた私の世代はこの分析を正しいとも正しくないとも言えない。彼らの思想の一端を少しは知りつつ闘いを見ていたわけでそれが単なる運動部の連帯感と同じだと言われても「はいそうですか」とは言えないし、一方でその闘いに実際に参加していた人々の証言には著者の言葉を裏付けるものが多くあり、最前線の人がそういうならそれは正しいとも思うわけである。

後半で著者は10年代のリアルと題して今の学生の気持ちと60年代の学生の気持ちの重なりを語る。果たしてそこに重なりはあるのだろうか?

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