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June 30, 2011

初めて聞く母のこと

病院にいると朝早く目が覚める。というか寝ているのか起きているのかよく分からないうちに朝となる。うつろな意識のお袋に「おはよう」というと「うー」と唸る。担当医が来て病状の説明をしてくれた。相変わらず危篤状況は変わらないということである。しかし医者と言うのもきっと安全率200%くらいで話すのだろうと高をくくり、可能性はあると勝手に確信する。
早稲田大学の建築学科に通う甥っ子が模型材料を世界堂の袋にどっさり持って部屋に入ってきた。僕は入れ替わりで帰宅する。シャワーを浴びて昼食をとって事務所に行き進捗状況を聞いてから大学へ。昨日の模型を撮影しておくように指示してから会議へ。明後日の院試の内容を確認。終わって発達障害の講習会。現代の自閉症であるLDとアスペルガーの話。信大でも全く同じ講習会があった。
夕方病院へ。オフクロが目を開けずにひたすら語っていた。
母:小さい、、、頃、、は高円寺の、、出窓の、、ある、瀟洒な、、、文化住宅に住んで、、いた
私:ええええ?青森にいたんじゃないの????
母:うー、、高円寺、、、、である
私:おじいちゃんは何してた?(若くして死んだので会ったことが無い)
母:おじい、、、ちゃんは、、、教師、、、、ったがそ、、、れは仮、、、の姿で本当は小説家を目指していた
私:小説家???????
母:その、、、、、、、小説、、、は早稲、、、田文庫、、、、、に入っている
母:喉が、、、、からからで、、、、アクエリアス、、、、、を飲みたい(誤飲して肺炎を起こす可能性があるので飲ませられないのだが)
私:ダメだってずっと言っているでしょう!!
母:喉の奥が乾燥して、、、喉が要求しているのだ、、、せとやませんせいは、、、、それが分かっていない、、、、、、、、私の所有物は、、、、、は、、、、ひそやかに、、、、、存在、、、、し、、、、ては、、、いない、、、、、

目をつぶりとり憑かれたように、酸素マスクでからからになった声帯をがらがらに震わせて延々としゃべっている。こちらが反応しようとしまいとである。恐ろしいことに母の若いころの話など今の今まで全く知らなかった。東京に住んでいたなんて50年間聞いたことも無かった。もちろん子供が親のことをすべて知っている必然など何処にもないのではあるが、、、、

なんだかよく分からないもの

朝一で病院から帰宅。シャワーを浴びて研究室へ。あるプロジェクトの委託者が来研。以前トンネルのような建築を創りたいとこのブログで書いたが、そんなコンセプトで作った5つのモデルを見せて議論。トンネルのようなというときそのトンネル自体はなんだかよく分からないものであってほしいのだが、、、果たしてそうなっただろうか?
夜また病院へ。昨晩同様付き添いで隣のベッドに横になる。岡田温司『半透明の美学』岩波書店2010を読む。透明でもない不透明でもない、2項対立の中庸を掬い上げようと言うそのコンセプトは僕の建築の規則と同じである。そしてそうした中庸は絵画の色で言えばグレーである。そしてグレーを追求したアーティストとして、ゲルハルト・リヒターが挙げられる。僕はリヒターのグレーシリーズは知らないが、彼の描こうとするものがAでもなくBでもないものであることはよく分かる。
今朝プレゼンしたトンネルのような部分を「なんだかよく分からないもの」にするためにリヒターは参考になるかもしれない。ホワイトシリーズの白のような白では無い色、淡い雪のような綿のような白の上によく分からない色が乗っかった全体の色。これを使ってみるか?

June 29, 2011

何をやるかではなく、何をやらないか!

朝一で栃木のクライアントと打ち合わせ。往復の車中で楠木健『ストーリーとしての競争戦略』東洋経済新聞社2009を読む。ビジネス本に興味は無いのだが帯に12万部突破、ビジネス大賞2011受賞と書いてあるのでつい読んでみたくなった。著者は一橋大学の教授である。学者など実際のビジネス成功者の経験談に比べれば何の役にも立たないと謙遜するが、様々な企業の戦略家と会って話をしていると語ることが分析に終わり戦略になっていないと言う。戦略とは「他と違うことをすること(doing different)」だという。そのためには「何をするかではなく、何をしないか」を考えなければならないという。これは名言である。「やりたくないことをやってはいけない」というのは僕の座右の銘でもある。しかしこれは残念ながら戦略にはなっていない。戦略の場合は本能の入る隙間は無いからである。僕のそれは残念ながら本能的なものである。篠原一男は住宅以外はやらないと決めて自分のSP(strategic positioning)を明確にした。実は住宅以外の設計依頼もあったのだがそれは弟子にやらせて自分は横で見ていたのである(晩年はそのSPを崩したわけであるが)。これは戦略だったのか本能だったのかそれは定かではない。
夕方研究室で研究プロジェクトの打ち合わせ。助手のT君にいろいろと注文。設計のリズムを覚えてもらうにはいくつかやっていくしかない。夜4年の製図エスキス。始まるころに電話。オフクロ入院。おっとあせるなあ。とりあえずエスキスを全員してから病院へ駆けつける。お茶の水のS病院。僕が浪人中も彼女はここに1年間入院していた。あれから30年以上よく生きていきたものである。東京に移るなりこんなことになるとは!オフクロに呼び戻されたのかもしれない。今日は病院で寝よう。

June 27, 2011

建築も文章も時間切れで決まる

10+1の原稿を朝から推敲する。毎度のことながら締め切りの日になっても納得いくものにならない。建築も文章も同じだが最後の最後まで胃が痛い。日建の先輩だった加藤隆久さんが丹下事務所時代に丹下さんからこう言われたそうだ「建築は最初のアイデアで決まるか、時間切れで決まるかどちらかだ」。「最初のアイデアで決まったのは何ですか?」と聞いたらそれは目白のカテドラルだそうで他にはないとのこと。天才丹下にして最初のアイデアで決まるのは一つなのだから凡才たちは時間切れで決まるのだと言われた。というわけで加藤さんには最後の最後の最後まで「これでいい」とは言われなかった。そのせいかどうか分からないけれど自分で作っていても何時まで経っても現場に入ってもこれでいいと言う気持ちにはなれないし、文章も全く同じで何処まで直してもこれでいいとは思えない。八束さんが何かの本のあとがきで本と言うのは脱稿したその瞬間に最初から書き直したくなると書いていた。八束さんにしてそうならばもはや私などがそうでないはずもない。

June 26, 2011

九段会館はファシズム建築か?

理科大は靖国神社の鳥居の前にある。そばには3.11の時に天井が落ちた「九段会館」がある。この建物は1934年に竣工し、当時は軍人会館と呼ばれ退役軍人が靖国神社へまいった後に集い泊まる施設だったそうだ。この建物のデザインの特徴である瓦屋根は国立博物館などとともに20年代後半から30年代の典型的なナショナルデザインだった。しかしそれをファシズムの統制下の建築と見るかどうかでは井上章一と八束はじめで意見が割れている。井上はモダニズムの白亜の大阪軍人会館を例に出しながら瓦はファシズムの統制ではなかったとし、八束はファシズムにつながると言う。そして八束のこだわりを推測した井上はそこにドゥルーズとガタリのリゾームがファシズムの理由として挙げられていることを指摘。本当かどうかはよく分からないが、ファシズムがリゾーム的な抑圧の権力関係の中に生まれるのであろうことは想像に難くないし、一方世の中は全てリゾーム的な権力関係の中にあるわけでそれをファシズムの因果にしたらすべてがファシズムになってしまうと言う井上の言うこともその通りである。どちらに分があるのかは全くわからないしでも面白そうな論争である。(井上章一『夢と魅惑の全体主義』文春新書20

近代の超克とポストモダニズム

朝から原稿を書くための最後の参考書、子安宣邦『「近代の超克」とは何か』青土社2008を読む。「近代の超克」とは昭和17年に行われた座談会のタイトルでありそこでは当時のグローバリズムに対するアジア的共同体の提言がなされた。これには前段があり、大東亜戦争の理念的標語である(日本の)「世界史的立場」(日本は世界史の舞台に立つ使命がある)という哲学的言説(世界史の哲学)が京都の若い哲学者によって語られ、世界にもそれを認める発言があったという。そして建築もそうした言説に右往左往しながら、世界史の建築を作らんとしたわけである。誰かが言っていたが、日本はこの時期すでにポストモダニズムを通過してしまったのでポストモダニズムの時期にはもはやその運動が盛り上がらなかったと。そんな気はしないでもない。しかしそれを言うならイタリアでもドイツでもそんなことがちょっとは起こっていたわけである。
読み終わって原稿執筆。当初4,000字と言われてそれは時間的にも内容的にもつらいということで2,400字としてもらったのだが、、、書いたら限りなく4,000字に近くなってしまった。計画能力が無い自分に呆れる。

June 25, 2011

なぜモダニズム建築は保存されないのか?

午前中早稲田の発表。消費性がテーマ。消費社会におけるデザインはその差異性だけが問題となる。しかるにその差異は瞬く間に類似デザインによって埋められ陳腐化する。
とある学生はこんな発表をした。
世の中には惜しまれつつも解体されていく建物と大事に保存活用されていくものがある。例えば前者は旧都庁で後者は東京駅。前者が解体に追い込まれたのは一般の世論がついてこないからだと言う。つまり保存されるかどうかは建築に内在する価値で決まるのではなく、人々が決めると言うわけである。
ではこうした民意が巻き起こるためには何が必要か?それはスタイルの視覚的差異性。つまり和風、擬洋風、モダン、ポストモダンという日本の建築様式の流れの中で、現在がポストモダンなら民意を巻き起こすヴィジュアルギャップは2つ以上前のスタイルでなければならない。すなわち洋風以前でなければならない。一つ前(モダン)は差異が少なく数多ある建築の中でそれが保存すべきものとして選ばれる理由が見つけられない。だから現在叫ばれる(専門家の中で)モダニズム建築の保存が可能となるためには、ポストモダニズムネクストが生まれなければならない。そうしてモダニズムが二つ前のスタイルとなり、同時代の中での差異性を獲得できた時、それは保存すべき権利を得るというわけだ。
笑いながら聞いていたけれどこれが事実だと思わざるを得ない。
だからこの仕組みを覆す方法こそが必要なのである。

June 24, 2011

短パンTシャツ

信大修士の学生とゼミをした。修士論文の進捗と概要を聞く。相変わらずノロマである。変らねえなあ。でも自分が教育してきたのだから文句は言えない。指導教員が変わったからって急にやることがてきぱきとするわけもない。
東京は暑い。節電なんだか冷房の効きがそもそも悪いのか分からないけれど部屋の温度は下がらない。30度近い部屋に缶詰になって額に汗して頑張る姿は「微笑ましい」を通り越して「痛々しい」。
実は我が家も最近冷房が壊れた。うちは古いマンションなので屋上にクーリングタワーがあり、各戸のチラーと繋がり、そこでできた冷水を各室のファンコイルにポンプで送る方式。そのポンプが最近焼き切れた。節電にいいから耐えられなくなるまで放っておいている。なので家に帰っても額に汗である。せめて扇風機を買おうかと思い例のダイソンのと思ったが売り切れのようである。
しばらくは我慢大会の様相である。というわけでこれからは30度越えたら短パンTシャツで行動しますがこれは自己防衛手段ですので御容赦。

June 22, 2011

槇さんの群造形が相手にしたもの

槇文彦が1964年に編んだinvestigations in collective formというタイトルの出版物がある。ワシントン大学で出版されたものである。アーバンデザインの教科書として優れたものと言われながら公式な日本語訳はない(槇の群造形と言われることはよくあるが)。丹下論の中で60年代の「東京計画1960」、メタボリストの活動を読みながら、メタボリスト槇を正確に知るにはこの論考を読まないわけにはいかないと感じた。昔なら、そうはいっても手に入れるのは容易では無かったが、この時代、ネットをちょっと探せばどこかに落ちている。
この出版物には二つの論文が載っており一つが槇によるcollective form three paradigmというものである。タイトル通り現代の都市の視覚的環境を以下のように3つにカテゴライズしている。
① Compositional form:個がそれぞれはっきりと認識されつつその平面的な布置が構成的に一つのまとまりを持つもの。例えば法隆寺の伽藍配置。
② Mega-structure form:巨大な構造を持った連続体である。例えば60年代の丹下のユートピア的なメガストラクチャ。
③ Group form:恐らく槇が最も興味を持つものであり、個がシークエンシャルに連続し、一つ一つの独立性が低く、連続体として認識されるようなもの。例えばギリシャの白いヴィレッジ。
この3分類は恐らく世の中の物理環境のすべてを包含してはいない。規範となる可能性のある3つである。そしてヒルサイドテラスが③を規範として参照していることは明らかである。しかし東京のようなカオスの群れはこの3つには含まれてはいない。やはり60年代とは他のメタボリスト同様槇も理想に燃えてモデルを作った時代だったのかもしれない。都市の暗部に目を向ける(ダーティ・リアリズム)時代はもう少し遅れてやってきたというわけである。

June 21, 2011

竣工写真を売るという話

竣工写真をアルバムに貼るということをずっとしてきた。しかし最近は写真を貼る必要がなくなりそうだ。設計主旨から、プラン、セクションから、設計データ―から全部入れて本(雑誌)のように仕上げてくれるらしい。加えてISBNもとって本当の本にしてついでに売っちゃおうなんていうことまでしてくれるらしい。しかも本だけではなくPDFまで売ろうと考えている人もいるようだ。すでにエルクロのデーター販売がある時代だからそうした考えは自然ではあろうが。誰の作品でも売れるかどうかは別問題だが。

June 20, 2011

トンネルのような建築が作れれば、、、

トンネルの面白さを感ずる時がある。雪国という小説がそれを端的に表している。ノーベル賞作家川端康成の小説である。「国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」。入るところと出たところの風景の差が驚きとなっている。
そんな建築を作りたいとよく思う。建築自体はどうでもよく、抜けて出たところに違う世界が広がっているという建築である。そう言う操作は実は別に目新しいものではない。例えば北入りの住宅で玄関を入るとパッと南の庭が広がる建築というのはそいう類である。例えば林昌二の自邸などはまさにそんな建築だ。僕はこの住宅が好きではあるが、くぐりぬけていく感じがちょっと希薄である。もう少し無であるトンネル空間があったらなあと思う。フューチャーシステムのコムデギャルソンのトンネルもいい。でもあのインテリはどうなっているのだろうか?くぐりぬけた後何も無ければいいのだが。その先を知らない。手前と奥のその差だけが問題になるようなそんな建築にお目にかかりたい。

June 19, 2011

骨董屋の丁稚

国立新美術館で書の展覧会を見る。膨大な数が並んでいるのだが、とりあえず配偶者とその弟子、そして先生の作品などを見る。字の意味も形式もさほど分からないけれど良い悪いを見分ける目は多少ある。それはなんのことはない30年間くらい見続けてきたから。骨董屋の丁稚のようなものである。
偉い先生の1人に元信州大学の教育学部の教授がいらっしゃる。ある一時は先輩教員だった。その方とコーヒーを飲みながらお話をする。海外の建築家から書道を自国で紹介したいというメールをもらったので相談する。既にアメリカでそういう展覧会をされたことがあるということで、掛け軸を送るのが一番やりやすいだろうとおっしゃってくれた。

多木浩二とディビッド・スチュワート

恩師ディビッド・スチュワート夫妻らと二子玉川でお会いし食事をした。10+1ウエッブサイト上の八束はじめによる多木浩二追悼文にスチュワートさんのことが書かれていたので持っていった。それによれば多木浩二はポストメタボリズムの批評家であり、70年代の磯崎、篠原を切り口に建築評論を始める。しかし最後まで彼らに的を絞り、それ以外では篠原スクールの伊東、坂本、長谷川程度までしかつきあわなかった。そんな風に、磯崎・篠原をトップアーキテクトとして描いたのは多木さん以外にはスチュワートさんがいた(The Making of Japanese Modern Architecture 講談社インターナショナル1987)。しかし多木さんとスチュワートさん2人の見方は異なっており一方多木さんは2人の観念と詩学の連動のメカニズムに関心があり、他方スチュワートさんは2人の中に古典主義的な骨格―建築性―があることを重視していた。それゆえスチュワートさんは篠原スクールの方にはさして関心がなかったようだと述べている。という意味を伝えると「そんなことはない坂本さんにも関心はある」とぼやいていた。

June 18, 2011

震災復興と構造的右傾化

早稲田の講義を終えてあゆみbooksに寄る。大澤真幸の『近代日本のナショナリズム』講談社2011を買って2階のカフェで昼をとりながら読む。
何故現代は右傾化するのか?
曰く多文化主義の時代には世界的な普遍性は受け入れられず、仕方なく局地的な普遍をその代理として対象化する。
という内容が昨今の多くの現象とリンクさせながら巧妙に書かれている。でもそんなにリンクするのだろうかと疑問に思うところもある。簡単に言えばグローバリズムの反動ではないのだろうか?(というのは短絡的過ぎか?)
それにしてもこうした構造的右傾化と震災復興なんていうことを簡単に結びつけてまたオリンピックやろうなどという安易な発言は悪い冗談である。そんなお金があったら民間の復興専業会社でも作った方がいい。ことさらインフラの時代だと叫ぶのは躊躇するけれど今村創平さんが言うように、今度の震災が阪神淡路と大きく異なるのは戻すべき姿が未だできていないという所にある。そのための見取り図は誰かが描かなければならないのは事実なのである。

June 16, 2011

丹下健三と篠原一男をつなぐもの

一日図面と睨めっこ。分棟で異なるデザインだと結局棟の数だけプロジェクトをやっているようなものである。もうへろへろである。
丹下健三シリーズ第二弾。
丹下さんの論考の一つに「現代建築の創造と日本建築の伝統」1956というものがある。ここには「美しいもののみが機能的である」という有名な一句が含まれている。都庁が出来る1年前である。伝統論争の渦中である。丹下の後輩である池辺などが合理主義を高らかにうたっていた時代である。丹下は桂、伊勢を自らの建築の基盤として伝統への志向を示し、それが導火線に火をつけ建築界全体を伝統論に巻き込んだ。丹下は近代合理性への舵を力いっぱい「美」に向けて切り返そうとしたのである。
藤森照信によればこの論文が若い建築家に大きな影響を与えたと記されている。そう考えると恐らくこの言葉にもっとも影響を受けたのは篠原一男ではなかろうかと思わないではいられない。当時篠原は30歳。処女作久我山の家の設計を終えたころである。住宅は芸術であるという言葉を使うのはそれから10年近く後ではあるものの、その気持ちは既にこの頃芽生えたに違いない。篠原が唯一尊敬する建築家と言って憚らなかったのは丹下健三だと聞いていただけに、この論考こそが篠原を住宅芸術へ導いた導火線だったのではなかろうかと邪推したくなる。そして久我山の家が丹下自邸と相似形にあるのもその延長線上にあるのではなかろうか?

June 15, 2011

丹下健三こそ批判的地域主義

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とある理由から丹下健三の分厚い本を読んでいる。読みながら丹下さんの往年の名作の写真をまじまじと見る。そしてツォーニス&ルフェーブルが丹下さんを批判的地域主義者としてととりあげたのは的を射ていると感ずる。
フランプトンは批判的地域主義の定義として 
・普遍性と個別性のあいだの弁証法的プロセス 
・啓蒙主義的進歩の神話からもノスタルジックな過去へ回帰する反動からも距離を置く
・視覚優位からの解放と触覚の重視
・キッチュに陥らない反中心主義的地域主義
というような言い方をしているのだが一言で言いかえれば「グローバリズムとローカリズムの中庸を行け」ということである。これを建築的に言いかえれば「ローカルヴォキャブラリーを徹底して抽象化して用いよ」と言うことにでもなろう。とすれば丹下さんの梁と柱のRC(あるいは都庁のような鉄骨の)デザインはまさに日本というローカルの抽象化の極みである。この抽象度は現在で言えば伊東豊雄のトッヅビルと言ってもいい(伊東さんのは表参道ケヤキの抽象化と少々スケールは小さいものの)。
きっと香川県庁舎などが出来た時の鮮烈な印象はトッヅを凌ぐものであったに違いない。

June 14, 2011

人間主義の建築

『言葉と建築』を訳したメンバーによる2冊目の翻訳書がやっと完成。ジェフリースコット著『人間主義の建築』SD選書2011.本日送られてきた。共訳者の天内大樹君は分離派の専門家。井上亮君はウェッブデザインをやっている。英語の読解力は天下一品。星野太君は美学から表象に移り「崇高」の専門家となった。天野剛君はロンドンのアートスクールに留学中。光岡寿郎君はミュージアム研究をしながら早稲田の研究助手をしている。建築を専門としているのは僕と天内君ともう一人の監訳者である辺見浩久氏だけ。違う分野の方と4年間勉強会が出来たことを本当に幸福だと思う。皆に感謝したい。「一体いつこんなことしているんだ?」と先日恩師坂本一成に言われたがまあ月一回4年やっていましたというのが正直なところ。しかし4年間例外なく毎月やっていた。とにかく何があろうと毎月やる。そうすると何時か終わると言うものである。止めないこと。終わらせるにはそれしか方法は無い(4年もかかっておいて偉そうなことは言えないが)。

June 13, 2011

基本構想者の権利と責任

遠路はるばる研究室に来客である。基本構想を描いた建物が地元の設計事務所による基本設計段階でかなりの変更が出そうだと報告に来られた。組織の長を含めて4名。地元の事務所が基本設計をすることが決まった時点でもはや設計のクレジットを主張する気も無くなり変更はどうぞご自由にという気になっていた。建物の半分は賃貸する建物であり、このエンドユーザーの意見が大きく具体化され、それらを聞かずに設計を進められなくなり、その結果大幅な変更を余儀なくされているようである。もちろんそうはいっても自分たちが設計を継続していればそれに対する対処法もあるだろうが、異なる事務所がやる以上我々はそれにどうのこうの言いずらい。もちろん基本構想の路線を作ったのは我々なのだからそれに対するの役割、つまりは自分のやったことに対する権利、責任のようなものがあるのだろうが、、、、

みやした公園に行ってきた

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昨日から丹下健三の厚い本の藤森さんのテキストを読んでいる。八束さんのメタボリズムを読むための予習である。丹下さんのことなど知っているつもりで結構しらないんだということがよく分かる(へんな分かり方だが、、、)。
吉田徹『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』NHKブックス2011を読む。なぜ小泉のようなポピュリストが登場してしまうのか?そしてなぜそれが民主主義の必然なのかがよく分かる。でもそれをどうしたらいいのかは書かれていない。
夕刻渋谷の宮下公園に行く。紆余曲折がありながらナイキにネーミングライツを売ってスポーツパークに生まれ変わり4月にオープンした。設計者の塚本さんから直に説明を聞いた。そもそも駐車場の上に土を入れてできた公園なのでその上に建物を作ると申請上ややこしくなると言うことで建物は無い。作ったのは全て柵か壁かパーゴラか床である。あの公園には巨木もあるけれどあれは駐車場の屋根の上に1.5メートルの土がありそこに植わっているのだそうだ。全然知らなかった。ウォールクライミング、フットサル、スケートボード場が新たにできた。昔バートレットのプログラムヘッドのイアン・ボーデンと渋谷を歩いて彼の行きたかった有名なスケートボード屋に行ったのを思い出す。もしこんな場所があの時あれば彼は絶対滑ったに違いない。今度来たら是非ここに連れてこよう。

June 12, 2011

日常を発見したのは写真家である

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神田明神の脇にgallery bauhausという写真専門のギャラリーがある。間口10メートル程度の打ち放しのビルである。中央にかなり大きな樹木が植えられている。こんな場所にこんなギャラリーがあるとは知らなかった。ロバート・フランクの展覧会が行われておりオリジナルプリントが並ぶ(http://ofda.jp/column/)あの有名な写真集「アメリカ人」のネガべた焼があった。赤ペンで写真集に載せる写真選びがされているのを見ると。ああこういうなかからこういうものを選ぶのだという写真家のセレクトの過程が追体験できる。
フランクは「決定的瞬間」を計算された構図で撮影するアンリ・カルティエ=ブレッソンの流儀を否定して人間の自然な視線を追求し、ありのままの「普通」を撮影しようとした。言いかえればそれまでの「非日常的視線」ではなく「日常的視線」を希求したのである。それにしてもその写真集がでたのは1958年僕が生まれる1年前である。建築で日常なんていう概念がテーマ化されるのは少なくとも多木浩二が1978年に『生きられた家』を書いた後であろう。この20年は何を意味するのだろうか?

June 10, 2011

本の読み方

 ユニクロの柳井正社長が自分の経営の教科書だと推奨する本がある。ハロルド・ジェニーン田中融二訳『プロフェッショナルマネージャー―58四半期連続増益の男』プレジデント社2004がそれである。その中に本は最初から読むものだがビジネスは終わりから始めてそこへ到達するためにできる限りのことをするのだということが書かれていた。それを読みながらはて?本も実は最初から読むものばかりではなかろうと思ったし、実際僕は本を後ろから読むことも結構ある。あとがき読んで結論読んでそこへ来るための材料を最初の方に探すわけである。
そう思っていたら井上ひさしも同じことをしていることを知った。まあ井上ひさしが僕と同じことをしているというより、僕が井上ひさしと同じことをしていたと言うべきだろうが。井上ひさし『創作の原点ふかいことをおもしろく』PHP研究所2011の中に本の読み方が書かれている。彼は蔵書20万冊あり1日30冊読むそうだ。松岡正剛も凄いと思ったが井上ひさしもとんでもない人である。
曰く「本で何かを調べるときには、先ず目次を読んでその本で著者が言いたいことを探ります。日本の学者は、たいてい結論を最後にもってきますから、まず最後の方から見るのです。そこに思ったほどのことが書かれていなければ、その本は前半もそれほどではないだろうと勝手に考えます」。
僕はもちろん30冊も読まないけれど短い時間で内容をすくいとるためには必要不可欠な方法だと思う。

June 9, 2011

森の別荘

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昨日は2年生の製図「森の別荘」合評会だった。磯さんにゲストで来てもらってレクチャーそして講評をお願いした。非常勤メンバーは三戸 淳さん、古見 演良さん、清水 貞博さん、石川 淳さん、新堀 学さん、中島 壮さん。2年生の前期の成果としてはまあまあだろうか?どうも最後の詰めが甘いというところはあるが、、、、次に期待しよう。
磯さんの最初のレクチャーは「別荘」日経アーキ時代を含めて自分の目で見て面白いと思ったものを提示してその理由を述べてくれた。分かりづらい言葉は無く極めて明快。また講評に先立ち、一つの操作で二つ以上の効果が上がればそれを評価すると宣言していた。なるほどこれも明快である。
合評会の後に磯さんは批評家?と聞いたら自分は良い建築を人に紹介して見に行ってもらうようにしむける人だと言っていた。なるほど言っていることと目指していることが整合している。
磯さんが日経に勤め始めた年に僕が最初に作った別荘が日経アーキに掲載された。勤め始めた年であり、帰宅後設計してSDレビューに入れてもらった建物である。「別荘特集でしたね」と覚えていてくれたのには驚いた。こうやって改めて見ると気恥ずかしくもあり、懐かしくもある。

June 8, 2011

偉大な建築家は転身する?

高木修『経験のスナップショット』美術出版社2011の中にこんなことが書いてあった。現代芸術の作家は時代との距離の取り方で2分できる。一つは芸術の潮流に乗って浮いたり沈んだりしながら潮流の流れに逆らわないグループ。もう一つは潮位に関係なく常にある高さを保ち時代との距離感を常に保ちぶれないでいるグループである。そう言われるとそう言うことはおよそ表現と言う分野には多かれ少なかれすべてに当てはまるものだと感ずる。どっちがいいかと言うことではない。前者は常にトレンドを追いながら時代にへばりついている。あるいはその時代の一歩先を必死で追う。後者は時代を追わないのだが、しかし時代との正確な距離を測っている。それは自分勝手とは違う。単なるマイウェイでもない。こういうと後者の方が清清しくも思えるが、果たしてこんな態度は可能なのだろうかと思わなくもない。最初の一歩を踏み間違えれば一生浮かばれないではないか?一か八かの賭けのようにも思えるわけである。
そう考えると前者も後者もどうもうまくない。前者は自分が無いようで情けないし、後者は博打のようである。一番いいのは人生に2~3回転身することである。ピカソのような生き方は恐らく芸術家の理想である。まあ偉大な建築家も多かれ少なかれそうである。コルビュジエなどなど、、、

June 7, 2011

現代の美を考える

秋庭史典『あたらしい美学をつくる』みすず書房2011を読んでみた。カントに端を発する美学の基盤がもはや現代では意味を持たず現代のそれは自然科学に依拠したものであることを解く。なぜ自然科学かと言えば「自然に目を見開かせる」のが現代における「美」の役割であるからだと言う。よってこの本には芸術はほとんど登場しない。感性や直観に基づく認識論も相手にしない。必要なのは情報を取得する認識論となる。
よって眼前に現れるフォルムよりそれを成り立たせているアルゴリズムに重点がおかれ、唯一アートらしき話として電子音楽、メディアアートには言及される。逆に言えばこんなコンピューティングアートがなぜ意味を持つのかを伝統的美学から始めそのあるべき変遷の姿を描くことによって説明した書でもある。

June 6, 2011

日建はやっぱ箱だった?

先週は木島さんに図面チェックをしてもらった。彼女は福祉施設のプロなので。今日は玉川さんの所に行って図面をチェックしてもらった。玉川さんは児童養護施設のプロなので。やはりプロはいろいろと知っているし、言うことに説得力がある。ありがたい。午後屋根屋さんと打ち合わせ。切妻とマンサードが合体した三ツ矢平面なので複雑。そう言えば日建時代に屋根のある建物を設計したことは一度だけ。それもパビリオンだったからただの折板。独立してからは陸屋根は4つしかない。やはり日建はモダニズムだったということか?夕方九段でゼミ。講義。

June 5, 2011

括弧・絵文字・カタカナ

朝かみさんと御苑まで散歩。帰り韓国大使館の前に10台近い右翼宣伝カーがやってきて竹島返せと大騒音。警察のバリケードで新宿通りは閉鎖状態。最近この辺りに警官が多いのはこのせいか。
木村大冶『括弧の意味論』NTT出版2011を読む。( )や「 」は近年その使用量が増えているという。それは強調であり引用であり所謂であり判断停止である。言葉の中から著者の一義的な意味性を取り除き文章の意図を宙吊りにする道具である。著者と文章の一体一対応の欠如という現代的文章の傾向を括弧は作っている。絵文字も、カタカナも同類である。
夕方事務所へ。S君が1人で図面を描いていた。頑張れ。少し話をして、模型を眺めながら考える。ああ難しい。

June 4, 2011

父兄会

浦和のホテルで学生父兄との懇談会。こうした懇談会が日本全国で行われるのだからびっくりである。主催するのは父兄の側でそこに教職員が呼ばれて大学、学生の状況を報告する。加えて父兄たちと個別に面談をしながら相談を受ける。昼から6時までスケジュールはびっしり。信大でも父兄会はあったが場所は大学で父母がわざわざ遠方からやってきていた。こうして全国に出向いていくというサービスは私立故のことか、理科大の結束力なのか?そもそも相談を受けてもまだ新米の僕では答えきれないことも多く、分からなくなると事務の方を呼んで助けてもらって難なく終えた。終わって某新聞社の埼玉総支局長をしている友を呼びだし夕食をとる。原発話で盛り上がる。20年ほど前に某電力会社の原発取材をしていた彼は当時からその危険性を指摘していたが会社側は絶対安全の一点張りだったという。

理科大3年生合評会

今日は3年生の製図の合評会。若松均さん、宮晶子さん、木島千嘉さん、塩田能也さん、高橋堅さんの講師陣に加え五十嵐淳さんと蜂屋景二さんがゲストで来てくれた。理科大に来てから最初の講評会。そしてこの豪華な顔ぶれでやるまえからわくわくしていた。各先生の班から選ばれた二つ三つの案がプレゼンされていく。社会人が多いこの学科では。稚拙なものからプロのようなものまで多彩である。それぞれの班から出てくるものは当然それを担当している講師のカラーが反映されているわけで、講評は生徒の作品を通して講師同士の立場を批評しあうという側面も現れる。昔石井和紘の本にイェール大学でのスターリング講評会の様子が書かれていた。ゲストにマイヤー、ヘイダック、グワスミー、ジョハンセンが来てグワスミーがとヘイダックがジョハンセンやスターリングとやりあうのである。学生はもはや蚊帳の外で建築家の論戦が繰り広げられると言うわけである。こういうのも楽しい。そんな風景も楽しいと思うのだがなにせ時間が少ない。五十嵐さんのレクチャー、講評は彼の作品そのものである。素直で正直でとても清清しい。

June 3, 2011

何処で何を作るのか?

何処を目指して何を作るのかと言うヴィジョンが建築を勉強するにあたっては重要なことだと思う。世界を目指して世界に通用する建築をつくるのか、日本全国で作るのか、長野県で作るのか?もちろんそれぞれのフェーズで作られる建築が違うフェーズで通用する場合も多々ある。しかし多くの場合それらは少し違う、あるいは違ったほうがいいいのかもしれない。グローバリズムとローカリズムがせめぎ合う今日では特にそうである。建築だけではない、洋服も食べ物もそうである。作る者には相手がある。相手をどこに見据えるかで作るものも変わる、変わらざるを得ない。
県大会か国体かオリンピックかというスポーツの世界と少し似ている。でもスポーツの場合は明確な序列で世界に行くほど強くなる。表現はそうとは限らない。世界で活躍する方が華やかではあるかもしれないが、それは必ずしも豊かであると言うことを意味しない。建築を本質論的にとらえればもちろん何処で何を作ろうともそのエッセンスは同じである。しかしもはやそれは建築の一部でしかないように思う。何処で何を作るのかそのコンテクストを捕まえないことには、就職一つ決められない。加えて社会に出てから戸惑うことになるのではないだろうか?

June 2, 2011

さすがに眩暈が

大学の雑務。書類づくり。コンヴァージョンプロジェクトの案を一つ固める。模型を作らねばならないのだが、、、夕方から図面チェック。まだまだ先は長いなあ。うーんお腹が空いた。帰宅後ヴィデオにとっておいたサッカーの試合を見ながら夕食。今日は午前中の10時ころにブランチをとって14時間何も食べなかった。さすがに眩暈が、、、

June 1, 2011

4年製図の中間発表

午後木島さんに図面チェックをしてもらう。やはり第三者に見てもらうと出てくる出てくる気がつかなかった気付くべきことが。地盤調査が遅れていて基礎周りの設計が暫定的になっている。
夕方大学へ。4年生の製図の中間発表会。このクラスは3年生までと違って選択クラスで受講者は30名弱。常勤の先生だけで見ている。中間発表は常勤の7人の意匠・計画系の先生が講評する。助教までいれると7人いるのは頼もしい。当たり前だけれど選定されている敷地は殆どが東京である。街路の物質性意味性、空間の分節、東京の水辺、歌舞伎町農場、東京の限界集落、水辺倉庫のコンヴァージョン、高速の高架下ギャラリー、高架上農場、山谷への住宅供給、雑多性の保存、日暮里の繊維街復興、調布の飛行場再興、均質性VS固有性、幼稚園+老人ホーム、僕の研究室の学生だけでもこれだけ多彩なテーマ。講評で宇野さんが東京にはいろんな場所があるものだと感慨深げに言っていたけれど確かにそうだ。加えてこれだけ多彩なテーマが出てくると言うのもやはり都市だからである。