« March 2011 | メイン | May 2011 »

April 29, 2011

ヨージ

朝早く目が覚めた。山本耀司、満田愛『MY DEAR BOMB』岩波書店2011を読む。どういうわけか暁星高校から慶応に行ってしまった若い学生は大学が嫌になって母親の洋裁店を手伝おうとした。すると縫製の勉強をしてこいと言われて文化服装学院へ行った。それが服飾の道へ進むきっかけ。旅に出てローマに着き、町ごと全体が美術館のようで胸やけがしたという。創作へのエネルギーが垣間見られる。僕も最初に行った外国の都市がローマであり、その重厚さに辟易した。若いエネルギーにローマは意味が重すぎる。
物を創る人が書いた本の中では数少ない共感できる本である。やっぱり生まれ変わったらこっちの世界に行きたいな?
以下気に言ったフレーズ
・その頃の日本の女性は、当たり前のようにとてもフェミニンな輸入服を着ていて、それがどうにもいやだった。
・パンクはどこまで行っても餓鬼である。
・わたしは真珠も嫌いである。貝を割って、中から形のよいものだけを選別して、歪んだものはダメ、などというのは醜い
・イヤリングなどしていようものなら、その人にはまず近づかない。
・創作行為の重要な部分は、一生懸命見ること
・どんな分野であろうと、生きることに疑問をもつ人間でなければ、ものは作れない。
・ダメなときはダメでよい。
・女を売りものにしているような人にはまったく、まったくセクシュアリティを感じない。

April 28, 2011

1989年

竹内修司『1989年』平凡社新書2011を読む。1989年とは天皇が崩御し、天安門事件が起こりそしてゴルバチョフとブッシュがマルタ島で冷戦の終わりを宣言した年である。大喪の礼には世界の首相、大統領クラスが出席したもののソ連と中国は外相クラス以下しかよこさなかった。天皇の共産主義へのトラウマは逆の形で現れたのだが、その同じ年に冷戦は終結したと言うのはなんとも歴史の皮肉と言うべきである。
冷戦は終結しても世界には未だ共産主義は残存している。何と言っても世界の最強国の一つである中国がそうであることはある意味不思議でもある。たとえ完全な計画経済の体をなしていないとは言え共産党一党独裁の形で存在しているこの大国はいつまでこの姿を維持するのだろうか?中国に民主化は訪れないのだろうか?

April 27, 2011

リーテムの敷地が10センチ以上沈下している?

午前中事務所で打ち合わせ。午後リーテム東京工場に行きいくつかの改修要望を聞く。先日の地震時に何か問題が起こったか聞いたが何もなかったようである。液状化を心配していたが城南島ではそういう個所は無かったようである。ただ敷地全体の地盤沈下が結構大きいのが気になった。そしてそれは今回の地震が原因でもなく。今までにじわじわと下がっているようである。リーテムではシュレッダーを置いている基礎だけが支持杭。建屋は摩擦杭。機械周りのカバーは杭無。ヤードは地盤改良。そこにおいてシュレッダー基礎だけが周囲のコンクリートから10センチ程度高くなっている。そう言う個所は他には全くない。ということはシュレッダー基礎以外が10センチ程度下がっているとしか思えないのである。もちろん道路もである。でもそんなことって本当にあるのだろうか?

装苑賞

%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%94%EF%BC%92%EF%BC%97%E8%A3%85%E8%8B%91%E8%B3%9E%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg
信大の教え子が装苑賞の最終審査に残り、彼らの作品が文化服装学院での最終審査で公開されることになった。装苑賞は数多ある服飾の賞の中でも最も歴史が古い。今年は第85回である。第8回で高田賢三が、第21回で山本寛斎が、第25回で山本耀司が受賞してきた賞である。今年の応募総数は1500以上あり2回の審査を通過して16作品に絞られている。そこに残っているのは服飾の学校の在校生か卒業生であり建築学科の学生が残るのは奇跡に見える。と言うわけで今日のショーには万難を排してやってきた。16人のファイナリストがそれぞれ3つの作品を作る。それらを3人のモデルが着て3分くらいずつステージをウォークする。モデル、ヘアメークも超一流なので若手の登竜門とは言え見ごたえがある。
一体どういう作品が1等賞になるのだろうか興味深かった。審査委員は岩谷俊和、コシノジュンコ、田山淳朗、津森千里、菱沼良樹、丸山啓太、皆川明、山本里美である。自分なりに採点はしたものの、結果は大きく異なった。建築屋(僕)は造形とディテールを見たのだが、審査員はそうでもないようである。菱沼良樹は「造形の時代は終わったと思う」と言っていた。まるで建築家みたいなことを言う「フランクゲーリーを面白いと思っていた時もあったけれど、今はもうつまらない」とも言っていた。と言うわけで形より、考え方が面白い服が二つの賞を独占した(親戚の顔が沢山描かれたブラウス)。しかしやはり一等賞は造形的な服だった。竹串を曲げて入れ込んだ鳥のような服だった。

April 25, 2011

死に至る病

tanjyoubiR0011390.jpg
午前中教室会議。たっぷり午前中いっぱいかかる。午後事務所で打ち合わせ。昨日はいった泥湯の泥の色を再現して欲しいとスタッフに指示。3時からのコンペ打ち合わせが大幅に遅れて4時半からになる。その後ゼミ。6時から講義。終わってから部屋で雑用していたら学生部屋に呼ばれる。ショートケーキが用意されていた。おっと今日は誕生日。みなさんありがとう。いやだね。一歩一歩死に近づいていく。誕生日プレゼントは、霧箱入りしぼりたて原酒。死に至る病の予感。

お湯体験

kakegawaraonsen77.jpg
●別府市内の竹瓦温泉。道後温泉のような風格

別府には沢山の温泉がある。玉川さんに3つの温泉を案内してもらう。最初は道後温泉のような大正時代のお屋敷シェルターがついたもの。特徴は内部空間の荘厳さ。特に天井が高い。二つ目は主として露天の泥湯。お湯の中にも泥が溶け込み、加えて底に粘土質の泥が沈殿している。歩くと足に吸いつき不安定なので、つい爬虫類のように4足歩行になる。また自然の妙で深さが70センチくらいあるだろうか普通にお尻をつけてはいると口のあたりまで湯があり正座すると調度いい。3つ目は現代的なスパのようなもの。様々なお湯(蒸し湯、砂湯、歩行湯、うたせ湯、檜風呂、ひょうたん湯)がチョイスできるようになっている。砂湯に入り体に砂をかけて10分体中から汗が噴き出してきた。
理科大3年最初の課題を「スパ」としたので自らお湯体験に挑戦。いろいろと得ることがあった。

April 24, 2011

東京物理学校は篠原一男の母校

考えてみれば、恩師篠原一男の母校東京物理学校に僕は赴任した。これもなんかの縁かもしれない。学長に読めと言われた馬場錬成の『物理学校』中公新書クラレ2006を大分への機中に読んだ。この学校の理学部上位の環境が理解できる。東京理科大の前身東京物理学校は日本初の理学士たちが身銭を切って作った学校であることを知らされた。未だに理学部支配が続くこの学校の環境はその延長にあるわけである。昼、大分空港に着いて児童養護施設光の園を見学。施設長さんの説明を聞き約4時間。熱が入る。夜も食事をしながら話を聞き。現段階の栃木の建築計画を見せた。これは自分たちの考え方ととても似ていると言われホッとした。

April 23, 2011

日建ナイトフォーラム

夕方大学に行き新しく入ったプロッターを見る。なかなか立派。徐々に研究室の設備が整ってきた。夕方製図の授業。5つの製図室に分かれてのエスキス。大きな部屋は3グループが集まってやるので少し煩い。先生の声が学生に届いているのか少々心配になる。各班を見ながら様子を見る。コンセプトシートはそれぞれ作って来ているようだが未だ駄目である。もうひと頑張り。夜日建ナイトフォーラムでシンポジウム。五十嵐さん、中川さん、僕で20分ずつ話をして質問を浴びる。来ているのは日建の若い社員。一生懸命企画して頑張ってやっている。日建設計もますます大きくなって体質も少しずつ時代のニーズに併せて変化しているようである。終わって懇親会。五十嵐さんは「矩形の森」という建築を作るくらいだし、篠原一男を意識しているのかと聞いてみたら、大好きな建築家だと言っていた。合点がいく。日建では被災した大学の学生を1カ月ほど預かってオープンデスクをし、今日が最終日。彼らも参加。学生の面倒を見ている福屋さんも来る予定だと聞いたが明日が早いので先に失礼した。体調は未だすぐれず。

April 21, 2011

kawaiiは女子文化の象徴か?

『上野千鶴子に挑む』所収の宮本直美の論考「「二流の国民」と「かわいい」という規範」で著者は「かわいい」とはそのラベルを張り付けた対象が決して他の存在を脅かさないものであると定義する。それゆえ「かわいい」に憧れる日本の女性とは他の存在(すなわち男)に屈服することを暗に認めているわけであり、それは自らの自律を放棄した「二流の国民」であると切り捨てる。なるほどそうかもしれないと思う一方、昨今の若い女性が「かわいい」の呪縛されているのだろうかと少々疑う。確かに「かわいい」は多かれ少なかれ現代日本文化に表出する一つの価値観であることは疑う余地が無いのだが、ではそれは女子文化特有のものかというとそうとは思えないからである。繰り返しになるがそれは日本全体に蔓延する風邪のようなものであり、女子特有とは言い難い。これは自分の指導してきた学生を見てもそう思うし、女子高生の娘を見ていると更にその感は強くなる。

April 20, 2011

If it can happen, it will happen

今日はとても大事な仕事があったのだが、昨晩急遽キャンセルした。6つの設計事務所と面接してとある建物の設計者を決めなければならなかった。しかも審査する側は僕も含めて3人。これだけ多くの人のスケジュールを御破算にしてしまったのは始めてである。申し訳ない。よりによってこんな日にこんなことになるなんてと思うことが増えている。マーフィーの法則(If it can happen, it will happen)は正しい。一日寝て起きてシャツを替えるを繰り返す。普通の風邪ならだいたいこれで直るのだけれど今回のはしぶとい。

April 19, 2011

うううう苦しい

昨日といい今日といいスケジューリングが悪い。午前中八潮市の方、先生方が研究室来室今年の作業方針を検討する。理科大は結節点にあり皆さん便利なようである。昼をとってから事務所に戻る。2時から設備の打ち合わせ。3時間かけてシステムを概ね決める。打ち合わせ中急激に体調が悪くなる。設備設計者の声が虚ろに聞こえる。この後6時から製図なのだがどうしょうかと「ウーウー唸っていたがとにかく大学にタクシーを飛ばす。研究室の体温計で計ると「ゲッ39度4分」補主の田谷君が「インフルエンザですよ」と言う。これはエスキスやるとまずいよなあ、皆にうつる可能性高い。さっさと逓信病院に行って救急外来でみてもらう。インフルエンザである。明日はキャンセル。もう寝る。

人文的知と建築

朝事務所に寄って週末描かれた矩計図を見てから大学へ。10時半の教室会議に出るつもりが一週間延期になっていた。僕にもメールまわしてくれよ、、、、トホホ。事務所に戻り打ち合わせ。屋根屋さんの打ち合わせに参加して3時ころまたゼミで大学に戻る。恐ろしいことに簡単に行ったり来たりできてしまう。自転車で往復していると空気が悪いせいか花粉が飛んでいるせいか分からないが気管支炎症状が治らない。コンペのゼミをして、卒論のゼミをして、6時から講義。4人くらい寝ている学生が見える。この数が少しずつ増えていくのだろうか?夕食後研究室にいたら彰国社の富重さんがいらっしゃった。現代建築の講義を二コマお願いしている。10年ぶりにお会いし懐かしかった。夕食をご一緒した。よくよく聞くと富重さんは東大の独文出てから理科大で建築を学んだとのこと。東大の文学部で建築を教えるとそういう人がたまに現れたものだ。人文的知の持主にとって建築は興味深い対象なのであろう。

April 17, 2011

レベルを落とさず教育する難しさ

yanakaginnzaR0024825.jpg
朝ジムに行って走る。帰宅後読書。先ず西和夫『二畳で豊かに住む』集英社新書2011を手にする。現在設計中の児童養護施設の個室が狭い狭いと施設長に言われるのだが、そう簡単に延べ床を大きくできないし、、、、狭さ克服のために先人の知恵を追う。しかし先人の二畳は概ね戸建。マンションのような建物の中の二畳とは大違いである。次は古郡延治『あなたの表現はなぜ伝わらないのか―論理と作法』中公新書2011。これはタイトルに偽りありだな。それを見抜けない読者が悪いとも言えるけれど、この問いに対する答えが書いてある本ではない。午後かみさんと千駄木散歩。谷中銀座でお茶をする。細長いドーナツがおいしい。凄い人。天気がいいからだろうか。帰宅後千田有紀編『上野千鶴子に挑む』勁草書房2011を読み始めた。熱い風呂で汗垂らしながら読む。先日この本の編者である千田有紀さんの『日本型近代家族』を読み、なかなか面白かったのでこの上野千鶴子退官に際して弟子たちが作り上げた上野批判論文集を買ってみた。さすが上野。通り一遍の退官論文集などつくらなせないところが見習える。内容も濃い。最後に千田が上野にインタビューしている中で上野はこんなことを言っていた。教員の仕事は研究と教育だが、自らの研究レベルのままで教育できる大学は数少ない。上野はその幸運に恵まれたという。僕もそれは痛感する。そして僕もなるべくそれをやろうとしてきた。しかし知らぬ間に複雑なことを簡単にし過ぎていたり、難しそうな内容をはしょってしまう自分に気づく時がある。

April 16, 2011

東京人

朝一で古河に行くつもりが高崎へ行く電車に乗っていた。大宮まで戻って宇都宮行に乗り直し古河へ。忘れ物を取ってから上野へ向かう。上野寸前で乗客の携帯が一斉に成り始めた。と思ったら電車ががたがた揺れ車内灯が消えて停まった。しばらく動かなかったがほどなく上野に着く。せっかく上野を通るので西洋美術館に寄りレンブラント展を覗く。観終わって東京駅からこだまに乗り熱海へ向かう。木島さんのオープンハウスに行く。駅からバスで20分くらい。伊豆山の中腹。三角形平面の別荘である。昔設計した連窓の家#3を思い出す。帰りは竹内君の車で東京まで送ってもらう。東名を降りて環八にはいり八幡山から京王線で曙橋に戻る。今日はあっち行ったりこっち行ったり長旅だった。お腹が空いたのでかみさんを呼んで鈴新へ行く。お店にいた『東京人』の編集長を紹介される。『東京人』は1986年創刊。最初の十数年は東京都から発行されていたそうだ。その後民間に移されて今に至る。それにしてもよく今まで休刊しなかったですねと聞くと、「やはり東京だからでしょうね」と言う。実は大阪人という雑誌は東京人より古くから出ているのだが大阪市が半分費用負担しているそうだ。最新号は写楽特集。見せてもらったが広告が少ない。「最近は広告とれなくて個人広告でもいいから欲しいです」と言って笑っていた。

家族という幻想

午前中湘南ライナーで古賀へ向かう。車中千田有紀『日本型近代家族』勁草書房2011を読み始める。著者は上野千鶴子研究室一期生。なるほど上野の家族論を受け継ぐ匂いを感ずる。「美」とは近代の幻想(作られたもの)とはよく言われるが、「家族」もそれに近い。つまり我々は近代に作られた概念をアプリオリで自明なものと錯覚しているケースが多々あると言うことだ。美や家族に限らず、多くの疑いの無いと思われている概念は近代に作られた幻想であるケースが多い。そしてそうした自明性が有効な場合もあれば無効な場合もある。
午後事務所に戻り打ち合わせ、夕方大学。最初の製図。今日はガイダンスで非常勤の先生の自己紹介スライドを楽しむ。塩田さん、高橋堅さん、木島さん、宮さん、若松さん。熱の入った5人の建築家の話を連続して聞く。いろいろな建築があるものだ。いずれにしてもこんな豪華な顔触れで授業ができるのは都会の大学の特権である。

April 14, 2011

知恵袋入試を予言していた本に遭遇

高崎で学生と待ち合わせて上州富岡へ向かう。向かう電車の中で橋本元明『メディアと日本人―変わりゆく日常』岩波新書2011.3.18を読む。ネット利用の「マタイの法則」という聞きなれない言葉が目に入る。それはネット利用によって外向的な人は更に外向的に、内向的な人は更に内向的になるという調査結果のことである。富裕な人は更に富裕になるというマタイの言葉があてはまると言うことである。次にネット世代のメンタリティ分析に入るのだが、世代が4分類される。76年以前に生まれた人たちはデジタルイミグラント(移民)、76年から20年間はデジタルネィティブ、96年以降はネオ・デジタルネィティブと命名されている。僕はもちろんイミグラントで学生たちはネィティブ、娘はネオである。確かに娘のネットの使い方はもはや僕らのそれとはかけ離れている。アイポッドにお気に入りのユーチューブをダウンロードさせて友達と見せ合って喜んでいる。漫画を見る感覚で動画を見ている。最後にネットの未来を語る中で昨今のクラウドコンピューティング志向(自分の頭の中に知識をためないで必要な時に必要なサーバーに取りに行く)の高まりを前提に著者はこう述べる。「通常、大学入試でも持ち込みはできない。しかし、やがてネット接続が可能な条件下で、何を参照してもいいから、与えられた問題をいかに短時間に解決できるかと言うスキルが・・・・重要な学力判定の一つになる時代がくるに違いない」。この本が出版された時には既にそういうことが逸脱として現実のものとなっていたのは何とも皮肉である。

April 13, 2011

日建の若い人と話す

朝から事務所で実施に入らんとするプロジェクトのスタディ。一日ゆっくりスケッチが描ける日があるというのが嬉しい。
夕方日建設計の若い人たちが4人来所。彼らが企画しているシンポジウムシリーズへの出席依頼。年に三回行うナイトフォーラムの最終回だそうだ。題して「建築家の与条件シリーズ」。第一回は『建築×女性』というタイトルで永山祐子さん他2名、二回目は『建築×人数』というタイトルで藤原徹平さん、亀井さん他2名、そして今回は『建築×系譜』ということで五十嵐淳さん、中川純さん、そして僕が呼ばれてなにやら自らの系譜と作品の関係を語らねばならないらしい。
4人の若い彼らにいろいろと調べ尽くされて質問されると少々気恥ずかしい。まあ恥ずかしくても自分のことを語るのはそんなに面倒臭いことではないし、正直にありのままを語ることはできる。しかし困るのは日建の若い人たちを相手に彼らを鼓舞する言葉を見つけるのに苦労する。日建の社会的な意義や、その強みを語ることはいくらでもできるのだが、そういうことにそれほど価値を感じていないからそこにいることを止めているのである。となると有能な彼らに何をお勧めしたらいいのか?何が言えるのか?少々不安になってしまう。

April 12, 2011

手探りで研究室始動

午前中これから始まる実施設計の図面リストとそのスケジュールを見る。80枚あまりの意匠図になりそうなのだが、2人で描くには期間が短すぎる。もう一人どうにかしないと。午後矩計図をチェック。そうこうしているうちに夕方になって大学へ。今日もちゃりんこで行ってみる。昨日と違い道が分かると早い。事務所からきっちり10分である。いいロケーションだなあとつくづく思う。2年後に金町に引っ越すのが残念である。
宇野先生、山名先生と製図第三(4年生の前期課題)前のプレミーティング。24人が受講して先生は助教も含めて7人。毎回全員出てくるわけでもないのだが豪華な布陣である。8時ころ終えて坂牛研のゼミオリエンテーション。輪読本のタイトルとそのスケジュール、1時間設計のやり方、富岡駅のコンペ、八潮ワークショップ、などの話をする。学生のレベルもモーチベーションも分からないので手探りである。6年前に信大に来た時のことを思い出す。とりあえず前期ゼミ本は以下のような簡単な基礎的な本を選んでみた。

木田元/反哲学入門/新潮社
東浩紀/動物化するポストモダン/講談社現代新書
佐々木健一/美学への招待/中公新書
松井みどり/アート:“芸術”が終わった後の“アート”/朝日出版社
井上充夫/建築美論の歩み/鹿島出版会
ヴォリンゲル/抽象と感情移入/岩波書店
P.ジョンソン/インターナショナル・スタイル/鹿島出版会
R.ヴェンチューリ/ラスベガス/鹿島出版会
篠原一男/ 住宅論/鹿島出版会
ケネス・フランプトン/テクトニック・カルチャー/TOTO出版

April 11, 2011

授業スタート

kenkyuushitu%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg
●少し整理された研究室

理科大講義初日。うわっ100人近い。細長い部屋なのでプロジェクターの画面が後ろじゃあ見えない。後部座席用のモニターが後ろの方の天井から吊り下がっているのだが、これが壊れている。「なんてぇこった!!」加えてマイクの調子が悪い。仕方ないマイクは使わず地声でがなる。初日から少々面食らう。
しかし嬉しいこともある。誰1人寝ていない。信大を思い返すとはるかにやる気が見られる。さすが夜間だなあ。モーチベーションの高さには敬意を表する。まあ高い授業料払ってくるのだから当然かもしれない。
夕方から突然の雨。晴れだと思って自転車で来たのだが。これで千鳥が淵の桜も散っただろうか?と思って外を見たら雨が止んだ。守衛さんが回って来て「11時で閉めますよ」と言って出て言った。今日は素直に帰るか。自転車に揺られ夜桜でも見ながら。

April 10, 2011

根津近辺散策

yanakaIMG_0638.jpg
●普通の家がちょっと改良されてブティックに
yanakaIMG_0641.jpg
●全開するギャラリー

午後早めに今日締め切りの原稿を片づけた。よかった。夕方四谷小学校へ選挙にでかけその足で根津散策に行く。谷中のあたりを歩く。この辺りは寺が密集している。カップルや外国の観光客と思しき人も結構いる。ギャラリーやカフェも多く裏原宿のような雰囲気のところもある。根津から地下鉄で広尾へ向かう。Kさんの御尊父の通夜。帰宅後河田恵昭『津波災害―減災社会を築く』岩波新書2010を読む。津波、高波、高潮と潮位が上がる現象はいろいろあるがどうも津波は波と考えてはいけないことが分かった。津波は流れなのである。水が移動しているということである。津波の映像で岸壁にぶつかってとんでもなく波が上昇するシーンがあったと思うが、あれは海底付近で岸壁にぶつかった海水の運動エネルギーが位置エネルギーに変わったことの表れなのである。それにしても昨年こんな本を書いた著者にとってこの災害はどう映っただろうか?

国立と私立の違い その2

昼に大学の教授会。信大は完全週休二日制だったが私大では土曜日は普通に平日のようである。
学部長が司会をしながら議事が進む。一般に公立大学において最終決定権を握るのは学長でありその下に各学部の学部長がいる。学部長は中間管理職であり、たいてい学長寄りで教員からの批判はとりあえず学部長へ集中する。会議で学部長はよく攻撃されていた。しかし理科大の場合(私大の多くは)最終決定権は理事長にある。学長というのは理事長が連れてきた理事長補佐のようなものでしかない。よって普通の大学ではあまり顕在化しない理事会と教員という二つの集団間に想反する利害関係が発生する。そのせいか学部長は教員の信頼が厚いように見える。
先日は予算やスペースにおける国立と私立の差を感じたが今日は経営の差を見た。
夜上野公園内にある寛永寺清水観音堂の庫裡で花見。だれかのつてで滅多に入れないところに入れていただいた。上野の夜桜は節電で拝めないのだが、この観音堂の前だけは何故かライトアップされて大勢の人が訪れていた。この庫裡は伊東忠太の設計。理科大の学生先生など集まり夜桜を楽しむ。
ssssssssssssssss%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG

April 9, 2011

「生まれてきて良かった」

一昨日の竣工式で学園の方からこんな話を聞いた。園では既に子供たちが引っ越しを完了させていて学校に通い始めている。新しい園舎で子供たちは大喜び。今まで大暴れして喧嘩ばかりしていた子供たちがいたって静かに落ち着いて暮らし始めた。皆が新しい建物を大事に使おうと蹴っ飛ばしたり殴ったりはしなくなった。そしてちょっと泣ける話。札付きの悪で自傷行為に走り物を壊し余り話さない女子高校生がぽつりと言った「生まれて来て良かった」って。
そんな話を聞いて僕はじーんとなり、一体何が子供たちの心を安寧にしているのだろうか?と考えた。最初の内はきれいで広い場所に移れたから。自分たちが社会に大事にされているという安心感がここから芽生えたのだろうと思った。でもそれなら彼らを新品のマンションに住まわせたら同じ効果があるのだろうか?と考えてみた。きっとそれほど上手くいかないのではないかと思った。
では何が子供心に訴えたのだろうか?きっと丹念に丹念に子供たちの生活を考えて考え抜かれたデザインがそこにあるからだと思った。既成の何かを「さあ使え」というのではなく。あなたたちのことを考えあなたたちのために作ったのだよという苦労の跡を感じ取れるからなのではないかと考えた。
建築は人の気持ちを変えることなどできないと半ば諦観していたのだが、そんな心を動かされ少し熱くなる一言だった。

うれしい感謝状

7時半のあずさで塩山へ。クローバー学園の竣工式。そう言えば信大に赴任した年の4月にリーテムの竣工式があり、理科大に赴任した4月にこの竣工式だから6年ぶりである。市長や県の役人、近隣の方など招いてプレイルームで行われた。生まれて初めて感謝状なるものを頂戴した。普通はこんな紙きれは形式的なものなのだろうが、今回はクライアントの正直な気持ちが書かれているようでとてもうれしかった。
昼のあずさで東京へ戻る。往復の車中、大朏博善『放射線の話』ワック2002を読む。昔物理で習ったようなことの復習みたいな本である。核分裂、核融合、レントゲン、キュリー夫人、放射線が体内で起こす電離作用、それは遺伝するのか、チェルノブイリとスリーマイルの決定的な違い、放射線漏れと放射能漏れの決定的な差、などなどよく分かった。知っているつもりのことを沢山忘れているものである。午後事務所に戻り打ち合わせ、そして大学へ。会議、会議、そして歓送迎会。

April 7, 2011

プレゼンばっちり

%E5%B0%8F%E8%AB%B8%E5%A4%9A%E7%9B%AE%E7%9A%84%E6%96%BD%E8%A8%AD%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%A7%8B%E6%83%B3%E8%A8%88%E7%94%BB%E6%9B%B8%28%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E6%B8%88%EF%BC%89.jpg
●緩やかに傾斜のついた公園の上端に位置する多目的施設 コンセプトは「町の顔」 デザインボキャブラリーは1,マウンテンエレベーション、2,パークシークエンス、3,ビッグピロティ 
ひどくべたなコピーだが、このくらいにしないと素人には伝わらない

久しぶりに乗る長野新幹線。このプロジェクトは一生忘れられない。前回の打ち合わせ中に地震が来てテレビにかじりついていたのだから。2時前についてぶらぶら歩いて商工会議所へ。最後の打ち合わせにして最初の会頭へのプレゼンである。40分ほど資料をもとに説明をした。さてどんな反応か?「素晴らしい。これを新しくできた景観条例のモデル建築にして商店街もこれを見習ってデザインさせよう。できるのが楽しみだ」と大絶賛。建築のプレゼンをしてこれほど喜ばれたのは初めてである。分かりやすい資料と分かりやすいコピーが効いた。
夕方のアサマで東京へ戻る。車中、井上章一『夢と魅惑の全体主義』文春新書2006を読む。ムッソリーニもヒトラーも建築もさることながら凄い道を作ったことがよく分かる。道による権力の景観を作ったのである。
長野通勤が無くなったせいか本屋(丸善)に行く機会が減ってしまった。久しぶりに丸善に行ったせいか読みたいものが山とある。カートに一杯お買い上げ。信大では最初の内は公費で本を買っていたがある時期から研究費が少ないので全部自費で買うようになっていた。理科大ではもはやその必要はなさそうなのだが、まだ買い方が分からないので今日は自費。宅配を頼んで事務所に戻る。

April 6, 2011

ICカードで出欠チェック

朝一で事務所。明日持っていく基本構想書のゲラに赤入れてから大学へ。補手の田谷君が大量の書類をメールボックスから運んできてくれた。これをすぐに全部読むのはとても無理。とりあえず分類してパンチしてバインダーに閉じる。サンドイッチを買ってきてもらい食べながら書類に目を通す。食後、製図助教の呉君と製図課題の打ち合わせ。延々話していたらICカード説明会の時刻を過ぎている。あわてて会場へ。あれあれ人が少ないね。このICカードなるもの結構凄い。ICカードと言っても学生証、職員証のプラスティックカードのことだが、授業の出席をこれでとるというのである。教室にはすべて駅の改札のようなタッチパネルがあり学生は授業に来るとこのパネルにタッチする。そうすると出席だけではなく何時にその教室に入室したかまでが集計されてウェッブ上で一覧できると言う仕組みである。便利と言えば便利だが、不気味と言えば不気味である。しかし代返ならぬ代タッチを食い止める方策は無いとのこと。
研究室に戻り本棚の整理、購入すべきもののリストアップ。事務に行ってものの買い方の指導を受ける。すべては紙で行うのが理科大方式。こういうアナログは楽でいい。信大時代はなんでもコンピューター入力。入力中に分からないことが多発したり、フリーズしたりでストレスがたまったものである。紙で楽ですと申し上げると、「私がコンピューター入力するのですよ」と事務の女性に言われた。うーんそれは大変である。しかしありがたい。

April 5, 2011

図式の強度

玉川さんと上野で待ち合わせ。古河まで快速ラビットに乗る。車中設計の考え方を延々と話し続ける。
今回の設計はとても図式的である。三ツ矢サイダーのような平面形の棟が二つとその矢の一本を切り落としたような平面形の棟が一つ。そして三角形の管理棟である。玉川さんはそれが学生の設計のようだと言う。僕もそう思う。学生が課題で出して来たらきっと幼稚なプランだと言うかもしれない。玉川さんはこの三ツ矢サイダーをもっと敷地になじませながら三ツ矢の方向を自由な角度にした方がいいと言う。つまりY字にしたり、T字にしたりと言う。僕もそう思う所もある。しかしこうした図式的な形の持つ強さもあるはずである。確かに三ツ矢サイダー1棟しか建てないのならきっとやらないだろう。原アークミュージアムのようである。シンボリック過ぎる。でもここでは4つの棟が関係し合っているのだから、これは雪の結晶がパラパラと舞い降りたようなものだと説明する。
なんとなく理解してもらったのだが、結晶は溶けて流れ出る部分もあるはずだと切り返してきた。まあそういうこともあるかもしれないとお茶を濁す。
しゃべり続け気が付いたら古河。午前中クライアントと施設長になる某大学の先生と打ち合わせ。細かな要望が続く。打ち合わせ後古河で蕎麦を食べて事務所に戻る。早速細かな要望に応えるべくスケッチ。なかなかいい案が思い浮かぶ。その後某施主と海沿いの新しい土地に何ができるかを電話で延々と話す。今すぐ動けないので敷地写真をメールしてもらい、こちらのイメージをメールで送り、メール電話会議である。ある程度イメージが伝わったので電話を切る。その後塩山の設計主旨を送ってほしいとの要望に10分でまとめて送る。お腹が減った。今日は帰る。

April 4, 2011

archiaid

一日バタバタしている。日建設計に行ったら福屋粧子さんに会った。震災にあった東北の学生を引き連れて日建で何かしているらしい。時間が無くあまり細かなことは聞けなかったが、今朝槻橋さんから東北の震災に建築家仲間で手を差し伸べよう(アーキエイド)という誘いが来たところだったので「アーキエイドにはご協力します」と申し上げて別れた。
震災義援金はそれ相応にしてはいるものの世界中からそして日本からも巨額の寄付をしている方がいて頭が下がる。しかしこれからこれらの金の有効な使い道が明らかになり、更に足りないもの、必要なものが見えてくるのだと思う。その段階でさらなる支援をしなければと思っている。

April 3, 2011

上北沢の家

朝雑用してから事務所へ。週末出す基本構想書のドラフトに赤を入れる。2時ころ事務所を出て上北沢へ。貸している親族の家へ行く。借りていた人が3月で出たので内装のリフォームをどの程度するか見に来た。1年ぶりだがこの街も変わらない。建物もあまり変わらない。築35年の木造日本家屋。先日の地震でクラックも入っていない。さすが耐震補強しただけのことはある。瓦が一枚落ちただけである。しかし隣の敷地に落ちたのだから冷や冷やである。内装は少々痛んできたので畳、カーペットは全部張り替え、壁の漆喰もどきも猫にかなりやられたので塗装せねば。不動産屋さんに見積もりを頼んで家を出る。
帰宅途中伊勢丹による。半年ぶりにデパートに来た。いつもは10時くらいまでやっているのに震災後は7時で終わりである。もっとひっそりとしているかと思いきや。いつもと同じですごい人である。
帰宅後河野稠果『人口学への招待』中公新書2007を読む。昨日に続き少子化問題理解の助けと思って読み始めたが、これはちょっと苦手系の本

少子社会日本

昼から九段で会議。今日は天気も良く気温も高く桜もちらほら開花。軒並み入学式は中止なので(理科大も)隣の武道館の周りに学生の姿は見えないが花見客が佇んでいる。会議後神楽坂までぶらぶら歩き新入生ガイダンス。教務担当の先生が履修のガイダンス。1時間徹底した説明。理科大二部は卒業するのが大変難しいということがよく分かった。1年から2年になるところで約3割、3年から4年になるところで約4割落第するのが最近の統計だそうだ。ということは4年で卒業できる人は全体の半分と言うことになる。
先生がそれぞれ自己紹介しながら一言。震災に触れない先生はいなかった。僕も震災に触れざるを得なかった。そして震災は日本が日本を根底から見直すきっかけとなっているだろうけれど、この見直しはたとえ震災が無くてもやらなければならないことだった。逆に震災がきっかけとなることで見えにくくなることも多い。大戦後に日本は急速な復興を遂げたがその急速さが弊害を生んだ部分もあった。よくよく考えて手をつけないと同じ轍を踏むことになる。そんな問題を僕らは一緒に考えたいという主旨のことを述べた。
夜山田昌弘『少子社会日本』岩波新書2007を読む。なんだか前に読んだような気になったがそれは上野千鶴子と辻本清美対談本『世代間連帯』岩波新書で上野が頻繁に引用していたからだと気がついた。著者の結論は明確だ。少子化は二つの要因の抱き合わせでおこる。一つは「若年男性の収入不安定化」。二つ目は「パラサイトシングル現象」だそうだ。つまり大学卒業しても独り身だと親と同居し続け、そして収入が少ないと男は結婚をひるみ、女は親が結婚に行かせない。これが欧米だと収入不安定の条件は同じでも親に依存するパラサイトシングル状態を文化的コンテクストが許さないので独立する。収入が不安定なので結婚して二人の収入で暮らすことになる。日本の出生率の低さは深刻である。僕は常々大学出たら家から出ていくように娘には言っているが、僕と同世代の人でも子供をずっと受け入れようとする人が多いのには驚く。
少なくとも理科大の学生は自立心を持って卒業したら親から独立して生きてほしい。しかしそのためには働く場所を確保していかなければならない。経済と少子化もまた連動する話である。

April 2, 2011

理科大辞令、理工の先生と会う

朝理科大に行き辞令式。1号館と言われるお堀端の最上階14階。座っていたら岩岡さんが来た。1年ぶりくらいである。彼は野田の理工学部。僕は神楽坂の工学部に赴任。学長の挨拶がある。学長は光触媒の発見者。科学の絵本も作り、子供科学図書ギャラリーを神楽坂に作ったそうだ。また新しくできた建物の地下には新書図書館も建設中。なかなか発想が豊かな方である。昼は理工の小島さんの後任となった安原さんを紹介してもらった。初めてだと思って名刺をもらいsalhasuという事務所名を見て会ったことがあることに気づく。塩尻のエンパークを見た時横にいて自己紹介してくれた人である。楽しくなりそうである。事務所に戻り打ち合わせ。夕方九段研究室に行く。学生が集まっており掃除と席決め、段ボールの開封。その後食事