物への切り込み方
とある方から勧められたグレアム・ハーマンの「代替因果」(『現代思想』2014、1月号)を読んでみた。カント的認識論から再度新たな存在論への回帰を目論み、哲学が自然科学に対して守勢に回ってしまった理由を対象に対する思弁を放棄し、人間的事象(ことば、テクスト、政治)へと目を向け過ぎたことに求めている。そして科学が求める「因果」に変わる新たな物の「因果」を求め、それはアリストテレス言うところの「形相因」に近いと述べる。そしてモノの本質に迫る方法が述べられるのだが、そこで興味深いのは「人間の知覚対象は常に人間の知覚の範囲を超えている」という認識である。それはあまりに当たり前ながらあまり口にしない内容でもある。そこで、そんなことは当たり前でそれいいじゃやないかと今までは思い過ごされていたのをハーマンは(というかハーマンと意識を同じくする人たちは)そこでその物へもう少し肉迫するためのメカニズムを考えているのである。
それは一体何のために?と思いたくもなるのだが、その転回の意義はどこにあるのか?どうもそれは一つにやはり近代への反省なのではなかろうか?そもそもカント的な美学への私の批判は形式主義批判であり、質料の再評価なのだが、それも近代批判であるし、、、
Concrete and culture 翻訳の「はじめに」を考えながらハーマンを読み、物あるいは自然への切り込み方が今大事なのだと思うに至る。