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1942年に竣工した前川国男の自邸を見に行った。戦間期に完成した数少ない「建築」の一つである。戦前戦後をつなぐ建築理論を探している僕としては貴重な建物である。
この建物は武蔵境の江戸東京たてもの園の中にあるが前川自邸の横には堀口捨己の小出邸(1925)三井道男の大川邸(1925)が並んでいる。
3つの平面を見比べると時代の流れとともに前川の個性が際立つ。堀口の平面は和洋折衷で西側の玄関はいると南にすぐ食堂そして和風の座敷が南に面してあり北側は応接や女中部屋である。大川邸はやはり西側玄関はいると南にすぐ応接奥は居間食堂である。その北側には台所がある。
一方それらから約20年後に作られた前川自邸は北側から入ると居間兼食堂が建物真ん中を南北に貫通しその両脇に書斎、寝室などがある。この南北の貫通と幾何学的な分割が特徴的。そしてもう一つ驚くのはその配置。南の庭より、北の庭の方が大きいこと。南北を貫通した平面にとって北庭は重要な要素だったに違いない。それにしても大胆。
早朝ジョギングで外堀の土手を赤坂の方に向かって上智大学の終わりのあたりに来ると向こうに鹿島のビルが見える。一方手前はジャングルのような場所がありそこから赤プリの前のお堀へと繋がっているのが見える。あれそうだったんだ。知らなかった。「上智大学のグラウンドは赤プリ前の池につながっている」。四ツ谷とか赤坂とかは自宅周辺とはいうものの地理的な繋がりが全く分かっていない。これって何故か?
理由1:地下鉄駅周辺は地上に上がったところは知っているのだが隣駅との関係は分かりづらい。
理由2:僕は車に乗らないので道路を介した地上のつながりが視覚的に記憶されていない。
これはおそらく車に乗らない都心居住者には一般的に言えることなのだろうと思っていたら宇野常寛『日本文化の論点』ちくま新書2013で著者が同様なことを言っていた。著者は高田馬場に住んでいるが近くの護国寺や目白台とかあまり知らないと言う。その大きな理由は東京の都心部は車が渋滞するので、人は電車で移動することが多く、そういう人にとって(著者もその一人)町は鉄道で分断され、東京マップが表象されないというわけである。
こういう問題(問題であるかどうかは分からないが)を違った視点から見るとすると、王立アカデミーのレネに言われたように、自転車移動によって表象される町とは何かというテーマが浮上する。確かに毎朝ジョギングの代わりに自転車で一回りすることもあるのだがジョギングと自転車ではまただいぶ見える範囲もモノも違うものである。
本日をもちまして私は54歳になりました。ここ1年間毎朝散歩のようなジョギングをしているせいか体の調子はいいのですが、持病の足首の痛みは現れたり、消えたり。目はどんどん悪くなっているような気がします。大学の会議の資料など半分は見えません。まあ膨大な資料が何でも見えると脳みそがいくらあっても足りないので適度に見えない程度でいいかなと思いますが、下手すると新書の字も暗い場所だとおぼろげであります。肉体あっての精神とはよく言います。65までは更に体を鍛えて現状を維持し、65からの楽しい人生を送りたいものです(なにそんな先のことを考えているのかと怒られそうですが、、、、)たまさか本日お会いした昔のクライアントが美味しいケーキを娘からはカラフルな飴をいただきました。ありがとうございます。歳は取りたくありませんが、そんなこといくら言ったってとるのだからもうあきらめて素直に喜ぼうと思います。
今年の4年前期の設計製図は先ずヨーロッパのコンペ分析をやることにした。名前を忘れたがヨーロッパのコンペとその入賞案ばかりを掲載した雑誌がある。その雑誌の中から3人一チームの学生に一つのコンペを渡し、その趣旨、入賞案の分析をさせる。もちろん内容は全て英語なので英語のお勉強も兼ねている。
コンペ案は再開発、インフラ提案、公営住宅、美術館、文化センター、高層ビル、住宅までさまざまである。学生たちは先ずは設計趣旨を解読して、敷地を読み取り、次に、提出案に目を移し、なぜこの案が一番なのかを解析する。そこで重要なのは入賞者が主催者の欲しい何に食いついたのか?そしてそれをどのように伝えたのか?
この二点を分析したうえで前期後半ではこれをもとにして自らプロジェクトを立ち上げてもらおうと考えている。
『多木浩二と建築』長島昭夫2013に収められた石堂さんの文章を読む。ここにはその昔新建築でのとある事件が書かれている。それは新建築が多木浩二の撮った篠原一男の写真を使った話である。
そもそも事件の発端は篠原の未完の家を取材に行った編集部がその作品にピンとこなかったことに端を発する。それまでの「白の家」に代表される伝統の読み替えから大きくスタイルを変えたことに編集部はいささか鈍感だったのだろう。
そこで篠原は二袋の未完の家の写真を持って編集部に登場。一袋は建築写真家の撮った写真。一袋は多木の撮った写真だそうだ。建築写真家の撮った写真は未完の家の新たな空間を鮮明にはできなかったが、多木のそれには一同理解を示した。多木は未完の家の良き理解者であり、読解者であり、解説者であることを理解した編集部は多木の写真を新建築に掲載したのだが、35ミリブレボケ写真を建築専門誌が採用したことに、写真部をはじめ、外部の写真家からもかなりの批判があったとのこと。
今でも写真部以外の写真はめったに使わない新建築。5月号の私の作品では懇願して、私の撮った写真を2枚使ってもらったが、、、
山下祐介『限界集落の真実―過疎の村は消えるか』ちくま新書2012を読む。限界集落論とは80年代末に登場した。その骨子は大野晃『山村環境社会序説』2005にまとめられているという。
それによれば、集落は3つに分類される。存続集落(55歳未満人口が半数を超え後継ぎが確保される)、準限界集落(55歳以上の人口が半数を超え近い将来後つぎが途絶える)、限界集落(65歳以上人口が半数を超え独居老人が多い)。そして集落は存続集落から限界集落に変容し消滅につながるというストーリーが限界集落論である。
これに対して著者はこのような経緯で消滅した集落は極めて少ないことを調べ上げる。集落消滅の原因は年齢増ではなく、様々な理由による引っ越し。高年齢の集落も楽しく健康的に生活しているところは多々あると報告し、限界集落論はメディアが作り上げた幻想だとする。
このての問題は難しい。人の生活かかっているし。はたから適当なこと言うことは憚られる。その場所に行ってその人たちと会わないことには机上で勝手なことを言ったり考えたりするわけにはいかない。
新しい金町キャンパスは裏の方に駐輪場があるのだが、さっそく講義棟や研究室棟の1階の庇下に自転車が止められている。信大でキャンパス計画していてもこの自転車の氾濫には手を焼いた。なぜここにたくさん自転車あるかと言えば、もちろん自分が行くべきところに近いからである。わざわざ遠くに止めて歩きたくないというのが信条。しかし理由はそれだけではない。この庇下の外壁が3m起きくらいに柱型のようなもの(柱型ではないので予備の外壁沿いのパイプスペースかもしれない)がついている。柱型(のようなもの)の奥行きは80センチくらい。つまりこの柱間はちょっとしたアルコーブのようなものなので自転車をおいても庇下の歩行空間を邪魔することが少ないわけである。人が自転車止める時はあまり邪魔にならないようにと思うもので、こういう窪みはその意味で好都合に見えるわけである。設計者の意図がここにあったのならアフォーダブルなデザインの典型であろう。しかし駐輪場は別にあるのだからこれは想定外ということである
連日金町に行く用事ができて金町、神楽坂を行ったり来たりしている。金町に行くときは我が家からJRでお茶の水まで行き、千代田線に乗り換える。千代田線で綾瀬まで行き常磐線に乗り入れて二つ目が金町。千代田線はだいたい二本に一本が綾瀬止まりでこれがくるとアンラッキーということになる。ところが今日は綾瀬行きが3つ連続でやってきた。時刻表を見ると一日の内にここしかない。なんということ。おみくじで凶をひくようなものだ。
昨日は心身ともに最悪で、こういう時も人生にはあるのだなとじっと耐え忍んだのでいた。だいたい体調が悪い、加えて自分では解決しずらい人の問題で悩むことが二つ発生。つまり3つ悪いことがいっぺんに来たりするとガクッと来る。日がずれてやって来るとまだそれぞれ少しずつ対処して先が見えるのものだが一遍に来るとパニックになる。こういう時にどれかに手を付けると失敗するので先ずはじっと耐え忍んで、精神的な台風がとりあえず通り過ぎるのを待って(まあだいたい一日)次の日に考えるのが良い。幸い昨日は別にやることがあったので気が紛れてよかった。そしてそれを終えてさっさと寝床に入りとにかく一度忘れる。今日はいろいろと一気に考える。そうすると少しこのパニックから脱出できるものである。もちろん全面脱出ではないので未だに精神状態は回復しないのだが、それは建設的な思考に基づき論理的に少しずつ解決されていくのである(と期待する)。そしてゼミや、授業をやりながら頭をフル回転させてそしてやっと少し平穏な精神状態に戻ってきた。こういう時はゆっくり番茶など飲むとよい。
お昼から翻訳読み合わせ会。数週間前にやった作業をセーブできていないことが今朝発覚参った。
最近コンピューター上でのトラブルが多い。セーブのし忘れと最終確認ボタンの押し忘れである。これによって作業がぱーになったり、予約がとれていなかったりという危うい事態が発生する。この原因はいくつかあろうが一番大きなものは画面上で一度にたくさんのことをしようとすることに起因する。つまり多くのウインドウを一遍に開き、閉じる時にセーブすべきものとそうでないものが的確に判断できていないのである。
記憶力が低下しているということなのだろうか?困ったな。
早稲田の文化構想学部での演習初日。半年ぶりに訪れる文学部キャンパスには新しい講義棟が建ちあがっていた。昔村野さんの建物が建っていたところに鹿島デザインの建物が建ちあがっていた。けっこう細身のプロポーション。べたっとした公団住宅みたいなものができるのかと危惧していたがそんなことはない。そしてけっこう高い建物だが打ち放し。グリットを浮き彫りにしたデザインはその昔の遅ればせながらのシカゴトリビューンという展覧会で安藤忠雄が出したような案と似ている。他の部分がどうなるのか分からないけれどいいキャンパスになりそうな予感も。でも何でもかんでも壊さないで欲しいと言う気持ちは前と変わらず。
さて授業を始めると狭い教室は満杯。最初のイントロを聞いて来週は10名くらい減ってくると丁度いいのだが、なんと講義開始前に履修登録は終わっていて、演習は取り消しができないそうである。これってなかなか学生には厳しいシステム(というか先生にも厳しい)。理科大は少なくとも登録機関は4月後半である。これでいいのだろうか?先生と生徒の相性というのもあるだろううに、、、、、
書類に追われ、授業に追われ、設計に追われ、あっち行ったりこっち行ったりで合間に必死に書類作って、電話して、メールして、さすがに葛飾、神楽坂二拠点体制は結構参るな。そんなの分かっていたことなのだが、やってみたらやっぱり大変である。
今日は大学院の製図の第一回目の講義でフジワラボの藤原鉄平さんが神楽坂に来られて製図のオリエンテーション。藤原さんが「建築家になりたい人」と聞いて誰も手をあげなかったのには参ったな。理科大大学院1年生30人、一応計画系の研究室に所属する学生だけなのに。ちょっと教育の仕方変えないと。一緒に食事したかったが明日が早稲田の最初の講義で北欧の話など少ししたかったのでその準備がしたく、お先に失礼した。
先月卒業式を武道館で行い、今日は入学式を武道館で行う。娘の入学式には大隈講堂まで行って建物を見て帰ってきたのだが今日はきちんと最初から最後まで式に出てそのあとご父母の方とも懇談会を行った。
式と懇談会の間にだいぶ時間があり根本祐二『「豊かな地域」はどこが違うのか―地域間競争の時代』ちくま新書2013を読んだ。この中に僕の知らなかった人口分析グラフが登場する。コーホート図というもので、ある期間(たとえば5年間)の年代ごと(たとえば5歳ごと)の人口の増減を示した折れ線グラフである。単純なグラフだけれど面白い。例えば過疎な地域では20代の年代がぐっと減少し(皆都市に行ってしまう)、新宿などはそのあたりがぐっと増加する。大学が多いからである。この図とその地域のありようはイメージとしてかなり相関する。
夕方金町に移動して新年度初めての一部、二部合同の会議を行った。新しい校舎は天井を張っておらず、ダクトやスラブが見えている。いやだという先生もいるが、僕はあまり気にならない。むしろ天井が高いし爽快だ。ただ一つ欠点がある。吸音材がないので会議の声が反響してよく聞こえない。壁を少し斜めにでもしてくれるとだいぶ違うのだろうが、、、、、
時差ボケもやっと少し直ってきたか?午前中共同研究プロジェクトの原案を練り、午後久しぶりにジム行って、その足で(ちゃりんこ)国立新美術館に行く。
カリフォルニアデザイン展を見る。30分で駆け足見学。「知らないデザイナーがいっぱいいるものだ」と改めてミッドセンチュリーデザインの形成過程の理解が深まった。カリフォルニアデザインはいろいろな説明のされ方がなされる。曰く、戦前の移民たちのデザインの集合。曰く、戦中の多くの軍事産業の生活産業への転換。曰く、戦後の飛行機産業、船舶産業に集まった人々と経済の活況がデザインを消費できた、などなど。どれもきっとそれぞれ正しい。ただ今回僕が最も再認識したのはカリフォルニアが「新世界であった」という点である。ここに集結したデザイナーにはこの場所を創造する自覚と自由があったということである。上に示した写真は1922年に撮影されたもの。現在のロサンゼルスの中心であるウィルシャーとフェアファックスの交差点あたりである。なんと道路以外ほとんど何もない。ここから10分くらい南に住んでいた僕としては驚愕である。半世紀前には何もなかった場所であることを改めて知った。これからほぼ30年の間にミッドセンチュリーデザインは生まれたわけである。0からの出発である。
ある一人のデザイナーのインタビューが流れていたが、彼ら(当時のデザイナーたち)には不思議と競争意識などなかったそうである。すべてのデザイナーがそれぞれカリフォルニアをしょってたつ強い信念を持っていたとのこと。いい場所と時代だったのである。
爆弾低気圧接近で空模様も不安定な中、新一年生のガイダンス。会場にはいくつかの試験面接でお会いした顔も散見される。
主任挨拶を最初にする。二つのことを話す。一つは常に自分は将来何をして生きていくのかイメージを持ってほしいと言うこと。二つ目は働く場所は日本とは限らないこと。
デンマークに比べれば人口比で三倍以上も建築を教える大学がある。建築に偏りがあるわけでもないのだろうから、その理由は進学率の高さによる。
このことは社会に出てからの競争率の高さにつながる。であるならば、必ずしも自分を生かす場所はこの日本の島の中とは限らない。世界を相手に生きて欲しいと僕は思う。
コペンからチューリッヒ着いたら、東京行きは4時間遅れ。仕方なく市内を散歩。久しぶりのスイスの町はクールでクリーン。高台に見えるETHの建築家たちが作るものはやはりこの町あってだなあと感じた。飛行機ではぐっすり寝て帰宅して風呂に入ってたまっていた新聞を見る。東大における留学生積極受け入れを狙った改革が5つ書いてあった。秋始業、英語授業、一年生の海外派遣、インターネット授業、推薦入試。
朝日新聞のデーターによると93年から18歳人口は半分になったが、進学率が倍近くまで増えた。なので受験をとりまく状況は変わらなさそうだが、大学の数が300近く増えたことで定員割れ大学が登場する。こうなりゃいい人材は世界に求めようというのがトップ大学の発想である。そこで冒頭の策などが各大学で練られ始めている。
しかし海外から呼ぶからにはこちらからも行かなければバランスがとれない。2000年当初は8万人いた留学生が現在は3分の2程度に落ち込んでおり、文科省も、私大の理事たちも頭を痛めている。理科大も英語教育に力をいれよと号令がかかっている。しかし英語力をあげるには英語の授業をたくさん開講するよりも、優秀な留学生をたくさん受け入れ、日本の学生が彼らと対等に英語で議論できるようにすることではないか?そしてその優秀な留学生から劣等感を味わい、カルチャラルギャップに驚き、心から海外留学の動機づけを得ることではないかと考える。
東大の真似というわけではなく、そのためには英語で授業をすることは必須である。日本の留学生が相手先の授業を英語でやってくれるか確認するのと同様に、海外の学生も日本の大学に来るとき、英語で授業をしてくれるかどうかを最初に確認するのである。
さあ錆びついた英語力をブラッシュアップしょう。
去年理科大からオーフス建築大学マスターコースに留学した太田寛君のコーディネートで、ここでのレクチャー、クリティークをすることなった。
デンマークにはオーフスとコペンハーゲン(ロイアルアカデミー)にしか建築を学べる大学はない。たった二つである。日本はと言うと150以上はある。人口比約24倍を考えても日本は多すぎかもしれない?ここでもアルゼンチン同様、マスターの学位がそのまま建築家の資格となる。それが理由かどうかはわからないが、とてもプラクティカルで実際にものを作る教育がなされている。工房の充実ぶりは日本のどんな美大もかなわないだろう(もちろん工学部の建築学科は論外である)。木工、金工、3Dプリンター、レーザーカッター、ウォーターカッター、などなど、聞いたことしかないような器具がすべてそろっているし、場所も十分広い。学生は電子キーでそれらを自由に使える(課金されるそうだが)。こんな大学がEU圏内なら学費無料というのが信じられない。でもこれが世界標準である。世界の大学行くたびに日本政府って何もしないのだなと思って結構へこむ。
●本を読みたくなる図書室
●左がアナス教授。バイキングである
お昼にアナス、カール両教授とランチをとってから、アナス教授が持っているスタジオ学生に対して、テクトニクスについてのレクチャー、ディスカッションを行う。彼らは既にインターンシップなどで働いた経験もあり、構造、ディテールに突っ込んだ質問をしてくる。そのあとアナス教授とハーバーを散歩。彼は家具デザイナーであり、彫刻家でもあり、もはやマルチな芸術家である。海岸沿いの乱開発を非難していた。日本に是非来たいと言っており、来た際には理科大でワークショプ、レクチャーなどをしてもらうことを約束した。
●二階席も満席。理解されているかどうは分からないけれど話しがいがある。
夕方全学年に公開のレクチャーを行う。500人ほど入る オーディトリアムがほぼ満席になった。連休明けのこんな時期に満席は珍しいし、この手のレクチャーは来ない時は閑古鳥が鳴くし、来てもつまらなければ皆帰ってしまうそうだ。日本人建築家は人気があるようだ。
●M1のプロジェクトコルビュジエ空間を応用するのがテーマ
夜は2年生、3年生、M1、M2のプロジェクトを一つずつ選んでクリティークとディスカッションを30分ずつ行う。日本の学生と比べるとプレゼンはデンマークの方が上手、考えていることは日本の方が少し上?まあ4つ見て何が言えるという感じではあるが。
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フィンランドの首都ヘルシンキから、飛行機を乗り継ぎ、デンマーク第二の都市オーフスへ。空港からバスで市内へ。食糧需給率200(?300)%を誇る広大な畑と牧場の中を突き抜ける。ブエノスアイレスでもそう思ったけれど食べ物が沢山あるところは生活が豊かである。コペンもヘルシンキも50万人くらいの都市で、オーフスは30万。長野市よりちょっと小さいくらいの町だがヴァイキングがこのあたりを制覇していたころの拠点都市で中世の面影が随所に残る。
オーフス建築大学のゲストハウスへ向かう。この建物もかなり古そうである。町の一角の4階建てのアパートの2階を大学が借り上げているのだろう。中は20畳くらいのリビングダイニングに10畳くらいの個室が3つ、キッチン、バスルームがついている。インテリアはご覧のとおり真白。暖房はこちらに来てどこもそうだが、電気で沸かす温水パネルヒーター。実に快適。