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そして信大最後の日が終わる

4年生担任の僕は朝学務でもらってきた学位記を学位授与式で学科長に渡す係である。一枚ずつ渡し、ふり仮名の入った名簿を見ながら小声で名前の読み方をつぶやく。学部と修士あわせて80人くらい。およそ30分。これで僕の信大での公務は終わった。3月31日までの残りの日は有給休暇をいただくので今日が最後の日である。
信大で教えた6年間いろいろな経験をさせてもらった。印象深い3つのことを記しておく。
先ずは学科内の話。僕が来るまで意匠の教員のいなかった建築学科は、僕の赴任後、意匠を設備、構造、歴史計画と並ぶ4番目の建築学科の柱に据え、それを全面的に僕に一任してくれたこと。それは結果的にとてもありがたいことだった。やっている時は少々負荷が大きく大変だとぼやきもしたが、考えてみればそれによって良くも悪しくも一貫した教育が可能となった。2年3年4年の製図を見て院も見るのだから完全な一貫教育である。加えてゲストクリティークの人選からその審査まで全てをやっているのだから、他者の入る余地は無い。それがある一定の成果の原因であることは明らかである。もちろんそれによる弊害もあるとは思うが。
二つ目は長野という場所に身が晒されたこと。市民を連れて建築見学ツアーを毎年3回やったし、長野市のデザイン関係の委員をさまざま行い、大町、塩尻、佐久などでコンペの審査もした。こんなことをしていくうちに長野という場所の持つ建築的状況、市民と建築の関係、グローバルとローカル、こうしたことを嫌でも考えることになった。このことはかなりの程度僕の建築観を動かすものとなったことは間違い無い。
そして最後は東京長野を往復するという状態。これは精神的にかなりの負担を強いられた。どっちかにいるとどっちかが心配になる。当初1、2年は本当にうつになりそうだった。何冊うつ病の本を買ったことか。何度附属病院のカウンセリングを受けようと思ったことか。しかし結局受けずに6年間が終わった。もちろん時間的な制約もかなりのものになった。しかしこのできた時間によって博士論文が書けた。車内は動く書斎でありその時間が貴重となった。読書量もドラスティックに増えたのはこのおかげである。

6年が終わり今日あたり涙でも出るかと思ったがそうでもなくとても晴れやかな気持である。6年間の間に本を3冊(もうすぐ4冊目の訳書もでる)上梓し、学生も急成長し、そして自らの建築観もとても伸びやかになった。その分事務所の仕事がちょっとおろそかになったのだがそれは仕方ない。6年は調度いい期間だったかもしれない。天に感謝である。
謝恩会の席でとある先生が「信州大学の建築学科がここまでになったのは坂牛先生のおかげであり、一時いい夢を見させていただいた」と言ってくれた。嬉しくもあり淋しくもある言葉だった。悔いが残る。そして文字通り返す言葉が無い。

信大建築学科の素晴らしい先輩後輩の先生方、そして素敵な学生に心から感謝の気持ちでいっぱいである。そしてわが子のように可愛い坂牛研究室のすべての学生には最後にしてしかし最小ではなく御礼したい。ありがとう。

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コメント

6年間お疲れ様でした。現役信大先生の「一時のいい夢…」ではなく、坂牛先生の蒔いた種を育て、素晴らしい花を咲かせていただけることを期待してやみません。

ありがとうございます。それは学生の熱意にかかっていると思います。がんばってください。

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