ホンマタカシB
美術手帳の4月号がホンマタカシによる金沢21世紀美術館での展覧会を特集している。そこに平倉圭さんが批評を書いているのを発見。彼はアーティストであり教育者でもある。リーテムのアートイベントではアーティストとして参加してくれた。最近『ゴダール的方法』という注目の本も上梓した(いただいたが未だ読めないでいる)。そんな彼の論考は本間の2重人格に触れそのタイトルは「ホンマタカシB」である。もちろんそこにはホンマタカシAが登場する。理性的なAと狂気のBが交叉することを平倉は読み取ろうとしている。そして狂気とはここでは「真と偽の区別あるいは事物の同一性がたんに本当に消えること」と規定している。つまり真と偽の区別が消えるホンマを消えないホンマが受け取るという複雑な構造を平倉は読み取っている。写真は真を写すと書きながら一般にそうならないと言われる。特にホンマのそれはそうならないとは美術館で行われた対談で椹木 野衣も指摘する。しかし一方で妹島和世はこう言っている「ホンマさんは人があるとき、ある場所にふつうに出かけていって体験すること、本来見るモノを・・・写している・・・その時にあるものを撮ってくれる」妹島の感覚ではホンマは真なのである。しかし所謂真実とは違う。普遍的真実ではなく、ある時間のある人にとっての実存的な真である。このある時間のある人にとっての真が平倉の言い方を借りれば狂気のホンマとそうでないホンマの交叉点に現れると言えるのであろう。
しかしそうした概念的な言い方とは別に僕にはもっと技術論に興味がある。一体どういう風に写真を撮ればそういう風になるのだろうか?昨日上田さんと一緒に僕もいろんな写真を撮っていた。それはもちろん建築写真である。しかも設計者がこうありたいと思って撮っているわけである。だからもちろん真実ではありえない。しかも妹島言うところの「ある場所に普通に出かけていって体験する本来見るモノ」でもあり得ない。そう思いながら昨日撮った写真を見直した。駄目だなあ全然。いつかは自分でもそんな虚心坦懐な写真が撮れたらなあと思うのだが、、、
●こういう建築写真が無意識に陥っている嘘
その①構図。こんなフェンスが優美に曲線を描いて見える場所はある一点である。
その②こんな風にフェンスが光り輝いて見えることは肉眼ではない
その③そもそも冬の寒空のこんな時間にこんな場所に人はあまりいない