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February 28, 2010

更生工事

『日本辺境論』を読み始める。午後かみさんとジムへ行ってヨガをやる。受講者が結構多い。楽だからだろうか?ポイントは深い呼吸。これは体(心?)に良さそうである。帰宅後また辺境論を読み続ける。うーん新書大賞をもらうほど面白いだろうか?夕方マンションの理事会。遂に今年は排水管の更生工事を行う。排水管を取り替える(更新)のではなく、中の洗浄を行ったうえで、樹脂を噴霧してライニングするという工事である。こういうのは更正工事というのだそうだ。全体で1億を越える工事だから、見積もりをチェックするように理事長から依頼された。既に3社合い見積後にネゴッて安くなったものだから、もはやチェックのしようもないのだが、、、、

janaina

午前中に伊藤君のオープンハウスに行く予定にしていたのだが、急用ができて行けなくなってしまった。それにしても2週連続オープンハウスとは恐れ入る。午後A0勉強会。本当にゆっくり進むけれど、こういう英語の読み方もいいものだ。夏には終わるかな?勉強会後、僕のポーとフォリオに載せるスチュワート氏のエッセイの日本語訳を読み合わせ。『言葉と建築』を一緒に監訳したH君が訳してくれている。彼は僕の数倍英語ができる(というか半分アメリカ人)。スチュワート氏の英語はとにかく難しいので僕では歯が立たない。僕が声を出して読みながら、分からない所を「分からない」と言うと彼はきちんと説明してくれる。そこで多少日本語をいじくる。一か所だけ彼にも分からない所があり、スチュワート氏に電話をして真意を尋ねる。なるほど、日本人にはピンとこないような、ブッシュやオバマの演説の常套句にひっかけた言葉だったりするわけだ。ラムズフェルドがイラク奇襲で使った‘Shock and Awe`なんていうことばでリーテムを説明されても日本人にはなかなか高級過ぎる表現である。終って研修生Janainaの送別会に駆けつける。彼女のソルボンヌでの修士論文のテーマを聞いたら、中世フランス文学だった。言語は古典フランス語。アーサー王が好きで中世文学に興味をもったようである。来年はスチュワート氏の薦めでサンパウロ大学に留学予定。是非ブラジルで再開したい。

February 27, 2010

信州一

信州大学の(というか僕の研究室の)卒業設計と修士設計の講評ディスカッションの会をしたいと学生に言われた。名付けて「信州一」。まあやってみてもいいかなと思い。今日行った。東京から僕の事務所にいた中島壮君と、彼の芸大の後背で青木事務所にいた西澤徹夫君、僕の研究室OBの中尾君、研究生の武智君の4人をゲストにして一人20分かけて6人の作品を議論した。修士も学部もいっしょくたで行うところが面白い。議論を終えて、ゲスト一人二つずつ優秀作をあげてもらい、それをまた議論。最後二つに絞り投票を行った。一等は内堀の高層長屋、二等は小倉の廃墟だった。同時に学生の投票も行い、学生賞は西浦の屋根なみ。様々な視点が提示され、僕としてもとても刺激をもらう企画だった。来年も続けてみたい。帰りの電車で中島君、西澤君と建築談議に花が咲く。

February 25, 2010

吉本隆明1968

今日は国立大学前期日程入試が行われる日である。建築学科の倍率は5倍と大きく。試験の監督も教員総出だった。午前中数学、午後物理。2時間ずつの試験が行われた。
試験後、昨日読み始めた『吉本隆明1968』を読み終えた。ところでタイトル中の1968とは著者である鹿島が大学に入学した年号である。そしてその年に改めて読みなおした吉本から受けた衝撃(それを鹿島は吉本の偉さと呼ぶのだが)がこの本の主題である。つまりこの本は単なる吉本の解説本ではなく、吉本の偉大さを現代人に分からせる本である。
その「偉さ」を一言で言えば、戦後のインテリ左派を徹底批判した冷徹な批評眼ということになる。しかしこう書いてもその「偉さ」は分かるまい。つまりインテリの条件のように存在した左の思想を鋭利な刃物で解剖出来たのが彼だけだったということである。敗戦、貧困日本においてインテリたちは、封建的泥臭い日本臭さを心の奥底に持ち合わせていたとしても、ひとまずそれを棚上げして、マルクスに溺れたのである。吉本が批判したのは、まさにこの「棚上げ」という事実である。そして棚上げされた泥臭い日本を象徴する大衆の存在を重視し、大衆から乖離する知識人を批判したのである。
さてこういわれると何かを思い出す。そう『生きられた家』における多木浩二の指摘である。大衆の家があり、知識人となった(本来が往々にして大衆なのだが)建築家がなんとか彼らを洗脳しようとするのだがそこには埋めきれない溝があるという指摘である。多木と吉本は同時代人として、かなりの共通感覚を持ち合わせていたと想像される。大衆の生活を飛び越えた戦後の欧米志向(それは政治的にであれ、建築的にであれ)への冷徹な批判精神を共有しているはずである。もちろんフランス哲学を追求し、徹底して日本的なものから遠ざかった多木と日本的泥臭さにへばりついた吉本とは大きな差があるものの、吉本的に言えば多木の強烈なヨーロッパ志向は内在する日本的封建制の逆説的表出なのかもしれない。
ところで鹿島によれば吉本時代の知識人をその出自によって分類することに意味があると言う。それは大きく3つあり、地方の富裕(インテリ)階級、都会の中産階級、そして都会の富裕(インテリ)階級である。このマトリクスだと地方の中産階級というのもあるのだがその階級出身者は当時は大学へ進むことなどなかったと言う。そしてこれら3つの内、最初の二つの出身者はインテリとしての欧米性を志向しながら日本性(日本的土俗性や封建性)を内在させ、それを抑圧しながら生きている。鹿島はこれを半日本人と呼ぶ。一方3つ目の分類類ら出てくるものは往々にしてその環境が既に日本性を捨象しており、インテリとしての欧米性に充溢している。鹿島はこ子から生まれた人種を無日本人と呼んでいる。この分類は少々血液型的いい加減さも孕んでいるが、建築家にあてはめてみても面白い。例えば無日本人の典型は磯崎であり、半日本人のそれは篠原というのはどうだろうか。二人はどちらも地方の富裕層出身であり鹿島の分析では両方とも半日本人と成りそうなものだが、磯崎は徹底してその日本性を殺した。一方篠原は日本の伝統を出発点とした。もちろんそれは日本を消していくための出発点であり、伝統的な建築を作るための出発点ではなかったのだが。しかしそれでも彼に内在する日本性はその日本性を消すという行為が強くなればなるほど目立つように思われる。彼が刺身を嫌い、ワインを好み、ダンディにふるまっていても、やはり酔えば昔はバケツで日本酒を飲んだという日本性がぽろりと顔を出す。
吉本1924生まれの半日本人、篠原1925生まれの半日本人、多木1928生まれの無日本人、磯崎1931生まれの無日本人。篠原が生前対談の相手に吉本の名をあげたことを思い出す。ブルデュー的分析をしてみたくなるサンプルである。

February 24, 2010

今村君の集合住宅

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なんとかやりくりして午前中に今村創平君の集合住宅を見に行った。オープンハウスの日には行けず、別途案内していただいた。大井町の小住宅が密集する旗竿敷地に4階建ての打ち放しが建っていた。最初に窓先空地の説明を受けた。それを聞くだけでこの計画の法的制限の厳しさがよく分かる。続いて施工のために隣地を借りたことを聞いた。前面道路が細すぎて使いもにならない条件下での施工の厳しさがよく分かった。施工はコンクリートで有名な前川建設。見事な出来である。中に入るとメゾネット、3層メゾネットなど構成が多彩である。奇をてらわず、生活に密着した好感の持てる建物だった。
午後事務所で打ち合わせ。出版社と打ち合わせ。今週で研修を終えるjanainaとインターンシップ修了の書類作成。そして30分ほどトーク。研修の感想を聞くと、もう少し僕と話をする時間が欲しかった、、けどとても面白かったとのこと。ポートフォリオにサインをして渡した。
久しぶりに鈴新で夕食。店に入るなり、僕のブログの話題。読んでいただき恥ずかしいやら嬉しいやら。ゆっくり夕食をとったからか、東京駅に着くとアサマが出たばかり。40分あるので丸善に寄る。『新書大賞』が出ていた。めくると昨年の新書ベスト20と識者30人の一押し新書が掲載されていた。ベスト20は、書店員、書評家、編集長、新聞記者など計52名の投票によるもの。20のうちじぶんの読んだ本を探す。3位に『音楽の聴き方』、9位に『日本の難点』、14位に『コミュニティを問いなおす』、20位に『ヤンキー進化論』を発見。因みに1位は内田樹の『日本辺境論』である。さて30人の識者の選ぶ一押しで2冊が二人以上の一押しになっていた。一冊は内田の『日本辺境論』で、今谷明、加藤典洋が推している。もう一冊は鹿島茂『吉本隆明1968』でこちらは何と竹内洋、大澤真幸、鷲尾賢也、3人の一押しであった。因みに僕の一押しは岡田暁生『音楽の聴き方』でありファンである井上章一が一押しにしていた。思わずニンマリ。この本の編集をした中公新書編集長である松室氏の年賀状の言葉「この本を最後に単行本に移った。未だやれることはありそうだ」からこの本へかけたものを感じた。さて、一押しだからではなく、推しているのが加藤、大澤、竹内など、好きな識者なので、『日本辺境論』と『吉本隆明1968』を買ってアサマに乗り吉本から読み始めた。なるほどこれは分かりやすい。初めて吉本が本当に分かりそうである。

合同セッション

午前中のテレビ会議に出てから東京へ。車中印象派の本を読み続ける。重い荷物を一度家に置いてから、事務所へ。30分ほど打ち合わせをしてから金箱事務所へ向かう。長野の事務所スタッフと体育館コンペの構造打ち合わせ、もう少し時間をかけたいところだが、もうひとつ別件の打ち合わせがあり1時間で終わらせ、次の甲府の住宅の打ち合わせ。全体概要を説明したところで、残りはスタッフのT君に委ねて、渋谷へ向かう。東大、東工大、芸大三大学合同の修士論文、設計の公開ディスカッション。ちょっと面白い企画。芸大は構造金田研の家具的スケールの2作品。東工大は八木研の都市的論文と設計。東大はフラーと妹島論。これに対して、ゲストは建築家、アートディレクター、ファッションデザイナー、アーティスト、映像作家。発表内容の幅も、講評者の幅もかなり広い。これで横断的な議論をしようと言うのもかなり無理がある。全体を串刺ししようとすれば何かを捨象せざるを得ないわけで、こういう場合は徹底して局所的な議論の集積をしないと発表者がかわいそうである。妹島論は篠原、坂本、伊東とつらなる日本の屋台骨のような建築家の生血を吸って生まれた妹島和世を浮き上がらせた。もう少し突っ込んだ議論をしたいところだったが、なかなかディテールの話ができる状態でもなく、10秒で雑感を話、終わってしまい残念だった。またの機会にぜひ話してみたい。東工大は都市的なセンスと言っても少し概念的過ぎる。もう少し個人の実感として語っていかないと。芸大の形の習作はどう建築へ展開するのかがまだ見えない。いずれにしても時間が足りないというのが正直な感想である。
会場は満員で入れない人が数十人いたようだ。信大からも二人やってきていた。何とかは入れてよかった。ゲストの建築家である松原慈と有山宙が「先生覚えていますか」と言うので驚いた。なんと1999年に東大で最初に講義をした時の学生だった。そうかもう10年たつわけだ。彼らがもういっぱしの建築家になっているのが驚きである。松原はバラガンに感動して建築を始めたとレポートに書いてあったのを今でも覚えている。懐かしい。あれからバートレットに行ったという。相変わらず元気はつらつで頼もしい。

February 22, 2010

ファッションと絵画

週明けにやらねばとメモっておいた雑用をこなす。こういう時は「一番いやなことからやれ」とものの本には書いてある。嫌なことが先に終わると気分が晴れて次が効率的に運ぶからだそうだ。もちろんそれで問題のすべてが解決するとは限らない、相手から投げられた問題は打ち返してもたいてい打ち返される。しかし返しておくことが重要である。空振りは禁物。そうやって8つくらいの球を打ち終えて昼食。午後昨晩読みかけの深井晃子『ファッションから名画を読む』php新書2009を読む。服飾にもロココから新古典への移行があったことを知る。煌びやかなマリーアントワネットの肖像(例えばルブランのそれ1783)からダヴィッドの『レカミエ夫人』(1801)などの質素なドレスへの変化があった。素材は絹から木綿である。やはり建築とファッションには相同性がある。金があれば服も建築も派手になるし、無ければ質素になる。当たり前のことである。更に印象派の時代になると肖像画はモードの担い手でもあるという記述が目を引く。ルノワールはウォルトからポワレまで描き続けたようだ。ファッションとアートはこの頃から密接な関係を持ったようだ。会議を挟んで、フィリップ・フック(Hook, P)中山ゆかり訳『印象派はこうして世界を征服した』白水社(2009)2009を読む。ルノワールが密接に当時の社会状況(モード)に関連しながら自らを売り込んでいったように、近代の画家たちには(それ以前のパトロンのもとで絵を描くのとはわけが違い)絵画を売りこむ方法と市場が必要であった。画家のニーズは市場を整備する画商を生む。ポール・デュラン=リュエルなる名前が登場する。近代芸術(絵が売れる仕組み作り)がここに始まるようである。

February 21, 2010

中国開平

中国広東省開平には現在1800余りの4~5階建の鉄筋コンクリートの楼閣が立ち並ぶ。作られたのは1900年から1930年頃のことだという。客家と本地人の争いでアメリカに移住した華僑が排華制作で中国に戻り、稼いだ金で作られたという。もともとは盗賊から身を守る避難所であったが徐々にその性格も消え、欧米文化への憧れの形態化ともなった。中国の自然な村の中に突如現れたる、西洋様式建築のボキャブラリーが実に奇妙なプロポーションと組み合わせで結実したこの楼閣は謎である。2007年に世界遺産に登録されテレビで放映されていた。日本でいう開智学校のような西洋を模した日本建築:擬洋風建築と呼ばれる西洋への憧れに類似する。もちろんその一つ一つの建築も謎であるが、それが1000以上も並んでいる都市の姿はさぞかし不気味であろう。一度見に行きたいものである。

研究室合宿

毎年研究室の春休み合宿を戸隠で行っている。信大に来てからずっとやっているのだが一度しか参加できなかったので、今年はなんとか都合をつけてくるこにした。昨晩甲府から長野に入りさっさと寝たのだが、考えることがいろいろあって3時ころ目が覚めた、布団の中でまどろみながらしばし考えごと。さて寝ようかなと思ったが眠れず、本を読んだり、you tubeを見たりして、結局世が明けた。明け方風呂に入りながら本を読む。8時に迎えのバスが来て戸隠へ。今日は気温も低く、天気もよく、吹雪くこともなく。絶好のコンディションである。4年ぶりの戸隠、気持ち良かった。昼食を食べていたら、日建設計の米田さんに偶然お会いする。飯縄山荘に泊まっているとのこと。戸隠には何度か来ているが、周囲の山頂がすべて見渡せるという経験は初めてである。改めて長野周辺の山を見た。今まであまり意識していなかった急峻な山も近くにあることを初めて知った。戸隠JRのちびっこチームがワンピーを来てポールをくぐりぬけていた。大学時代はこういう地元の飛ばし屋を見ると大人げなく闘争心が湧いたものだが、年をとった(当たり前だ)せいかカワイイ飛ばし屋が愛らしい。頑張れ未来のオリンピック選手。

February 19, 2010

地方性

住宅の打ち合わせで甲府へ。幾つかのチャレンジングな提案をしたのだが、大きな問題もなく了承された。住宅設計はクライアントのそれまでの生活習慣の延長上にあるわけで、設計者側が理解されるかどうか心配に思うようなことがすんなり理解され、あれっと思うことがクライアントには不満だったりする。例えば廊下が多いことは都市住宅では「無駄」スペースとして排除されがちだけれど地方では当たり前。一方玄関が小さいことは都市住宅では比較的当たり前だけれど、地方では気になることのようである。些細なことだけれど、こんなところにも建物の地方性があるのかもしれない。打ち合わせを終り帰ろうとするとクライアントのお母さんがティッシュに包んだお菓子をくれた。僕の母親もよくそういうことをした。昔が懐かしい。甲府駅で少し打ち合わせをして僕は長野へT君は新宿へ向かう。
車中『モードの社会学』を読み終える。イタリアンファッションのグローバリティを支えるローカルな職人技という話が面白い。イタリア人は自らをコスモポリタンであると同時にイタリア人であるという国民意識を同居させるアンビバレントな精神構造を持つ国民だそうだ。アンケート調査がそれを示していると言う。グローバリズムの中でのローカリティを考えていく上で地産地消とはよく言われるものの、その時の地方での産物はやはり世界的規模で通用するものでなければならない。そうであればこそ住民がそこへの信頼と帰属意識を持つのであろう。

February 18, 2010

モードへの介入

土屋淳二『モードの社会学(下)』学芸社2009を読む。下巻の最初はモードと社会秩序と題して、モードを規定してくる外圧の話である。その外圧としてあげられるのは習俗と権力。そして国家がモードに介入してきた例として戦争時の制服のようなものがあげられる。まあ戦争時と言わなくとも、制服には常にその手の力が浮かび上がる。それが国立だと国家ということになろう。その上その制服がもと海軍の制服だったりするとこれは戦争の匂いまでしてしまう(我が母校はそうだった)。まあセーラー服と言われてそんな臭さも吹き飛んだキッチュならもはや結構だが。そんな制服を着ていても対して文句を言わなかった僕らは政治音痴だったのだろうか?学帽はポマード付けてフライパンで焼けと先輩に教わったが制服はそのまま着ていた。
そんな制服という権力に対してそれへの反発が生じるのは極めて正常な事態であり、それに文句も言わず従順に従う姿は滑稽でさえあると著者は言う。同感である。そう考えると國保選手の姿は権力に対する自然な反発と見えてくる。むしろ従順に制服を律義に着こなし、一糸乱れぬ部行進でもされようものなら、隣国のファッショを想像しないだろうか?まあ文科省の大臣が騒ぎ立てたが、そんな馬鹿な発言はさっさと撤回した方が利口だと僕には思えるのだが。

February 17, 2010

コンペと英語と

昨晩David Stewartからメールをもらい、添削に意見があれば送り返しなさい、recheckする。またポートフォリオにスペルミスが沢山あるので一度チェックしなさいとの指示。数十年前の学生時代に戻った。しかしそんなにミスあるのか?自分でチェックしていないだけに慌てる。?どのくらいありますか?と恐る恐る聞いたのだが、そんなこと聞いた自分が馬鹿だった。長野に来るアサマで初めてきちんと英文を読んでみると、まあ、あるわあるわ各ページ一つか二つは見つかる「恥ずかしい!!」。人任せはどこかでつけが回ってくる。車中昼食をとり1時に研究室に駆け込む。1時半にD設計事務所来研。壁に貼ったスケッチで建物の配置と空間と構造の考え方を説明する。なんだか分かったのだか、分からないのだが分からないが、なんとなくこの案の方向を検討したいとのこと。ついては良い構造事務所を紹介してほしいと言われる。金箱さんに電話をして、コンペの概要を説明し参加を打診。乗り気なので来週打ち合わせへ行くことにした。D設計には、僕の考えが難しそうで、普通の陸屋根にするようなら構造打ち合わせには行きませんからと伝える。
その後市原のコンペの打ち合わせ、どうにもプレゼンが詰まっていかない。ここ1週間くらい同じものを見ているようだ。信大にきて最初にやった立川のコンペを思い出す。夕方のアサマで東京へ。載ったところでDavid Stewartの僕の作品集へのessayが届いた。読みはじめた。たかだか1500wordsのエッセイなのだが、これが難解である。今翻訳中の英文に匹敵する難解さである。車中ずっと辞書片手に読み続け家に帰っても読み続け、やっとおぼろげに全体に言いたいことが分かった。でもまだ分からない重要なところが数か所ある。

February 16, 2010

千葉大の卒計

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午前中事務所で軽く打ち合わせをして、千葉大学にでかける。卒計の講評会に呼ばれた。千葉大には初めて行った。千葉にあると思っていたら隣の西千葉という駅にある。四谷からでも小一時間かかるのだが、駅の目の前にあるのが嬉しい。キャンパスはここが本部で医学部と園芸学部が別の場所にある(しかしその二つが千葉大の看板学部らしい)。とはいえども広くて雰囲気がある。うちのようにタコあしでキャンパスが5つにも分かれていると本部と言っても今一つ淋しいし。工学部などは専門学校のようである。千葉も信大と同じく創立60周年なのだが樹木の育ち方が全然違うのには驚いた。欅の大木がここかしこに植わっていて落ち着いた雰囲気を醸し出している。そのことを岡田哲史さんに言うと「暖かいからじゃない?」と言われた。そんなものだろうか?
卒計講評会は学生が企画しているとのこと。栗生さん、岡田さんをはじめ、構造の先生、非常勤の先生など先生だけで7人も参加しているのがすごい。200人はいるホールに学生は1年生から4年生まで満員と言うのもまた立派。
4年で卒計をとっているのが45人いると言う(一学年75人)そのうちから選ばれた10名がプレゼンをする。人の大学で講評するのは気が楽である。今までエスキスしてないからしがらみもなく好きなことが言える。なかなか素敵な作品を発見。集合住宅の家がすべてタブローになっている。模型の大きさも横4メートル縦1メートルはあるだろうか?木箱の中にドールハウス風の部屋がランダムに重ねられていた(写真の4倍くらいの大きさ)。生活が風景であるというのがコンセプト。

February 15, 2010

China

頭の痛い打ち合わせで朝から資料作り。原因は中国プロジェクト、中国設計者やプロマネがなかなか動こうとせず困ったものである。午後この件でクライアントと打ち合わせ、我々の立場と中国設計者との責任分担を明確にし、対処法を説明し理解を得た。しかし中国側に是正させるための要求書類の作成を依頼される。これが手間である。理詰めで責めるにはクライアントと中国側の契約書を分析し、どこに彼らの責任があるかを明らかにせねばならず時間を食う。しかし一番の問題はそうした正攻法が通じる相手ではないというところのようだ。中国にももちろんきちんとした人もいるのだろうが、理屈の通らない人たちも未だ大勢いるようである。
夜janaiaに今取り組んでいる住宅のプロジェクトの考えた方を説明してほしいと言われ、少し話す。今まで来た研修生の中では一番英語が苦手のようで、こちらの話すことは理解できているようだが、それに対してなかなかリアクションが来ない。なかなか話が深まらない。まあ少しずつやるしかない。
夜懐かしい昔のクライアントである某生保の方から電話をもらう。とあるセミナー講師をお願いしたいとのこと。時間が合えばお受けしますと伝える。

February 14, 2010

ファッション

朝ジムに行き少し走る。帰宅して昼を食べながモーグルを見ていたら上村が4位になった。4回オリンピックに出て一度も転倒しないのが先ず凄い。次に7位、6位、5位、4位と毎回成績が上がっていることに驚く。そしてもちろん16年間も自分の肉体を維持してきたことには頭が下がる
午後土屋淳二『モードの社会学(上)』学文社2009を読み終え同下巻を読み始める。世の中の多様に変化するモノゴトを「アイテム」と呼び、それらの存在のあり方を「モード」と呼ぶ。そして「モード」の要素として「形」「機能」「意味」を抽出する。さらに「ファッション」とはこのアイテムのモードを集合的に操作するプロセスと定義している。この定義に従うならばおよそデザインと呼ばれるような行為のすべては建築を含めて明らかにファッションと呼べるものになろう。
夕方事務所に行き雑務。明日必要な資料を探すが、一昨年のコンピュータークラッシュで見当たらない。まあ仕方ない。入試などでしばらく手を付けていなかった建築の条件原稿を書く。溜まったメモを再読し、頭を活性化させながら書き始める。どうも資料をためてから書くまでの時間があくと思い出すのに時間がかかり効率的じゃない。そんなことは分かっちゃいるのだが、うまくいなかい。

テレビ

10時から研究生のT君とコンペの打ち合わせ。既存建物の皮を剥ぐようなイメージとそこに空けられた開口部が視界を大きく展開してくれそうである。既にできている材料をA1にレイアウトしてみる。あいたところに構造、設備、採光、セキュリティ計画などを作り張りこむ。大きな方向はほぼ固まった。あとはモケイ写真がどれだけ訴求力をもって撮れるかにかかっている。しかしキュリティ計画なんて聞いてくるってなんのためなのだろう?遅めの昼食を食べてから、もう一つのコンぺのスケッチを進める。夕刻研究室を出ようとすると院生がポートフォリオを見せてくれた(見てくれと頼まれた)うーんものの配置はいいのだが、内容の濃いところ薄いところの差が多すぎるのと色味に流れがない。夕方の(結局この時間)アサマに乗り昨日から読み続けていた真山仁『虚像の砦』講談社2007を読み続ける。最後の護送船団と言われる(なんてこの小説を読むまで知らなかったけれど)テレビ局の裏を暴くものである。ついに四谷までに読み終らず、駅ビルのベンチに座って読み切る。帰宅後面白いよと皆に進めると「真山仁ってハゲタカの人でしょ?」と言われ調べるとなるほどそうであった。元読売の記者だけあってなかなかしっかり調べてあるように思われた。まあとにかく面白い。のだが、これを読むともうテレビは嘘八百で見る気が失せるし、そこでの政治家の発言なんて余りに空しく響きそうである。

February 13, 2010

ダイヤの乱れ

午前中の電車で甲府に向かう。架線凍結で大月から河口湖方面が一部不通。小淵沢から塩尻が不通。車窓から見える木々が霧氷で白く凍りついている。今年の冬は突如大寒波である。甲府の打ち合わせ後長野に向かう予定だが復旧しなかったらどうしよう?甲府に泊まるか?
午後一杯ゆっくりと打ち合わせ。2回目の打ち合わせは多少緊張も解ける。お互い手の内は明かした後なので、和やかである。絞られた二つの案を前にそれぞれに意見をもらう。甲府は寒く暑いところなので必ずしも南向きだけがいい部屋とは限らないという感覚が面白い。
5時半ころ甲府に着き、スタッフのT君は新宿へ。長野方面ぼちぼち動き出したようだがまだダイヤは大幅に乱れている、先週あった特急が無い。次の電車はだいぶ先の各駅。松本からの乗り継ぎも各駅。「止まるかもしれませんから」と脅された。こうなればのんびり行こう。駅ビルの本屋で時間をつぶし、文庫の小説を買ってくる。長野まで各駅に揺られのんびり読書。長野に着いたのはもうかなり遅い。夕食をとってマンションへ。メールをチェック。2月26日行う、信大での修了、卒業設計のレビューに元青木事務所の西沢徹夫君が来てくれるとのこと。彼はなんたってかなり辛口だから、こりゃ楽しみである。まあ皆さん涙腺に栓をしていらっしゃい。風呂につかりながら文庫本の続きを読む。

February 11, 2010

久しぶり東京

昨晩は修論が終わり、修士設計、卒業設計を手伝った2年生3年生を含め、4年生m1 m2数十人が集まり、僕の帰った2時ころまでまだ店にいた。僕は今日のことがあり、一足先に店を出た。昨晩の長野は雹。帰宅してシャワーを浴びあっという間に眠りに着いた。朝は8時ころ目覚め9時ころのアサマで東京へ。久しぶりである。事務所に戻りとある昔の資料を読みこむ。午後、昨晩届いていたS先生の序文を英文に翻訳する。もちろん後日David Stewartに見てもらうつもりである。それにしても難解なS先生の文章だが、見事に英語にできる。つまりとてもロジカルな文章だと言うわけだ。主語の不明なところは一つもなかった。Janaiaがやってきて僕がオフィスにいるのは金曜日だけかと聞く。最近は卒業を控えイレギュラースケジュール。来週はいるよというと、いろいろ質問をしたいという。そう言えば日本の大学に少し来たがっていたことを思い出し、どこか行きたい大学はあるかと聞くと、東工大の名前がでた。Janaiaのラビレット建築大学から東工大に現在留学中の学生がいるようだ。そこでStewartさんを紹介する。メールするように言う。明日の打ち合わせの模型ができたところで帰宅。久しぶりに家で夕食。

February 10, 2010

修論発表会

この四日間信大の一番大きな会議室で合同会社説明会が行われている。順番で回ってきた就職委員として今日の午前中の挨拶など行う。数十社集まっていたが8割は東京の会社である。日本経済を象徴している。こういう日に限って電話が数回鳴る。電話なんて昨今かける時しか使わない。だいたい仕事の話は事務所にかかる。僕あてならメールが大半。だから電話の用件は緊急を要すること。そして緊急と言う場合だいたい、いいことか悪いことのどっちか。今日の場合一つは悪く、一つは良いことだった。あーあー。なんか悪いことの方が勝っていて憂鬱である。午後は修士論文の発表会。悪いことは続く。僕の研究室の学生による「建築家の言説における形容詞の研究」という論文がとある先生によって血祭りにされた。曰く「どこが工学的な論文なのか?文学部の論文である。形容詞の数を数えているだけではないか?建築とどんな関係があるのか?」などなど。この先生は相手を徹底して追い詰めていく。この言葉を聞いていてふと、昔東工大のとある先生が言っていたことを思い出した。言説研究で有名なこの研究室の学生論文の発表会後、判定会議で当時まだ在職していた某先生が徹底して批判したそうだ、曰く「そんな論文は設計の何の役にも立たない」。この時は言われた先生が切れて、これまた別のある先生が仲裁にはいったとか。まあ役に立つか立たないかはその建築家次第であり、この批判はあたらない。戻って工学的な論文かどうかを審査の基準とする意味は薄い。そもそも昨今工学とは何かは再定義されるべきだろうし、文学部的で悪いと言う理由はましてない。まあそこまで言われると『言葉と建築』なんて言う本を訳している僕としては立つ瀬がない。ただも少しこういう研究の意味や意義はよく伝えないとエンジニア系の先生には分からないだろうと少し反省。判定会議でそのあたりを説明したら「そんなもんですかねえ」とにこにこしていた。やはり日本の建築は以前エンジニアリング強しというところだろうか。

卒論発表会

今日は9時から夕方まで卒論発表会。発表を聞きながら、頭の半分は週末の住宅のプランが蠢く。その上体育館コンペの構造と雪問題も頭を浮遊する。最近はタイトルを聞くと何研の話でどんな内容か察しがつくようになってきた。と思っていたら、誰がやっているのか分からない新鮮なテーマが登場した。夜間電力を使った躯体蓄熱冷暖房システム。とある電力会社の委託研究らしい。すぐにでも実際に使えそうなアイデアである。コンペの設備計画にいれてもいいかもしれない。発表会は大きなミスをする学生もなく無事終了。判定会議の後、構造のI先生に長径50mのポストテンションのお皿を細い柱で浮かす案を説明。可能性を問う。ワイヤーで下から束立てはいるだろうとのこと。やはり雪が3メートルあるからシザのようにはいかないか。しかし細い柱をたくさん建てるのなら耐震壁はいらないかもしれないと言われた。設備の先生に帯雪方法が妥当か問う。滞雪はいいがやはりキャンチの軒先は融雪ヒーターがいるとのこと150メートル60センチ幅で90㎡。100Wで9kW。1時間18円。けっこう安い?計算間違いか?夕食後別のコンペの打ち合わせ。模型を切った張ったしながらプランを調整し、立面を変えていく。なんとなくの方向性は見えてきた。これでいけるだろうか?時間はあと一週間である。うーそれにしても人出がない。3年生はもう先輩の手伝いもないのだろうに、、、、12時ころ終えて事務所から送られてきた図面を見ながらカウンタースケッチを書いて送る。打ち合わせは金曜日。しんどいなあ。

February 8, 2010

雪問題

朝から研究室所属のガイダンス、希望調査をとったら今年の希望者は比較的少ない。選考は少し楽になりそう。午後は住宅のスケッチをしていたがなかなかうまくいかない。時間切れで会議。会議をしながら考えていたらまったく違う案が思い浮かぶ。人事案件が多くて終わったら夕方。急いで夕食をとり研究室に戻る。市内の某設計事務所来研。とあるコンペを共同で考えましょうと誘われ、今日が第一回目のミーティング。ものは体育館。雪国の大空間で常に問題になるのが屋根の形。長岡のコンペもそうだった。雪と言えば信大のA先生はオーソリティ。過去に日建を始めはるばる相談に来られる建築家がけっこういる。その先生の話を聞くと滞雪型(屋根に雪を載せたままにしておく方法)に分がありそうである。融雪型はランニングコストがかかるし、落雪型は周囲に安全な落雪スペースが必要になる。もちろん3メートルくらいの重い雪に耐えるのだから構造が大変にはなるのだが。長岡の時も密集市街地でとても落雪スペースなどとれず結局陸屋根(滞雪型)だった。そのおかげで梁せい1メートルのトラス梁をかけた。しかし今回は公園の中。屋根の形はよく見える。ここで陸屋根はちょっと考えにくい。滞雪型のdでも陸屋根だけとは限らない。大きなお皿が浮いているようなイメージはどうだろうか?しかも防水を考えるとRCでやりたい。軽いRCである。東工大の建築学科のキャノピーで安田さんがとんでもなく薄いRCのキャノピーを作っていたが、あれを使いたい。学生に「丸い体育館、皿のような屋根、薄いRC知らない?」と問うと、シザのプールの屋根を探し出してきた。これRCだろうか?かなり美しい。しかしポルトガルで雪って降るのだろうか?
打ち合わせ中に携帯が鳴っていた。S先生からだった。電話をしてみるとポートフォリオが届き、見たら思っていたものとかなり違ったとのこと。これは作品集というものとは少し違い、情報空間だ。とおっしゃる。「情報空間」その意味が即座にはよくわからなかったが、建築と言う実体をメディアの中で操作して作り上げた「情報」だという意味だと少し間をおいて理解した。そうかもしれない。コルの作品集のように実体とは別の水準の世界を作り上げていると言う。大学で建築とメディアの研究をしているとこうなるのだろうか?簡単に言えば、ある種のヴァーチャルな世界を構築しているということである。しかしメディアとは本来そう言うものである。コルと同格に扱われるのは身に余る光栄であるが、、、、で実体はどうなのだろうか?

February 7, 2010

甲府から長野

午前中の電車で甲府に向かう。住宅設計の最初の打ち合わせ。「住宅の仕事では往々にして、クライアント側にプランのイメージが出来ているもので、それとのずれが最初は問題になる」と、打ち合わせ前にスタッフのT君に言っていたら、案の定駐車場のとり方がクライアントの予想とは全く逆で我々の案は却下となった。急遽プランをその場で書き替えて反転。原型のゾーニングが出来たところで今日の打ち合わせは終了。
甲府からT君は東京、僕は長野に向かう。今日はなぜだか知らないがかなり疲れた。松本までは、ぼーっと過ごし少し眠る。松本からは鈍行で車両がぼろいせいか隙間風がすごく寒い。寝ていられない。仕方なく読書。土屋淳二『モードの社会学(上)』学文社2009を読む。ファッションと言う概念をかなり厳密に取り扱おうとしている本だと、ある人から聞いていたが、確かにそのようだ。でも疲れた頭には面倒臭い。
8時ころ長野に着き自転車で研究室へ、この数日連日雪だったようで、道がバリバリに凍っている。研究室でコンペの打ち合わせ。想定外のことがいくつか起こる。

February 6, 2010

女子美

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新校舎のサイン。素敵なロゴとテクスチャ

朝、とある出版社の方と打ち合わせ。一月に作ったポートフォリオの出版の打ち合わせ。何と言っても部数と定価が問題なのだが、だいたい満足いく条件で出せそうなので、お願いする方向とした。ついてはintroductionを書いて欲しく、数名の方にお願いをする。快諾いただきほっとする。早速試作品を郵送する。
土曜日の朝はジムが定例化した。12時のエアロビクスに出られるように打ち合わせ後自転車を飛ばす。エアロビクスの前に、ランニングマシンで心拍数を150まであげようとしたが、体が馴れてきた成果、必死にやっても上がらない。先週は軽く150になったのだが、心肺に最大負荷をかける前に腿が動かなくなった。
午後かみさんと東高円寺の女子美に行く。東工大同期の桑原の設計した新校舎のオープンハウス。行ったら同期の稲葉尚人や西村博司に会う。建物は住宅地の中に静かに建っていた。PCのレンガ色のルーバーが以前の建物イメージを継承しているようだった。
帰宅後久しぶりにS先生と電話でお話。設計製図第五の講評会のゲストクリティークと講演会のお願いをする。だいぶ先だが、早くお願いした。今年は第五での成果を期待したいしなんとかいいモノを作らせたい。自分にプレッシャーをかけ、本気にさせるために、本気にさせる人にクリティークを頼むことにした。そして快諾戴いた。こりゃ大変だ。酷い物を見せられない。

February 5, 2010

目に見えないもの

早稲田の講義の作り替えをするために去年のパワポを全部見ていたらなんだかかなりひどいものである。これでも一昨年講義前に徹底して作り替えたつもりだったが、2年たってみると酷い。こんなこと教えていたかと思うと赤面である。繋がりが支離滅裂で分かりづらい。内容がひどく希薄。これを直すのは大変だなあ。最初から全部一人で作った方が結局は早くていいモノができたのだろう。でも今さらそんなこと嘆いても仕方ない。
講義の一つに「視覚の変容」がある。建築は写真に撮られたものを通して知ることが多いけれど、写真には写しきれない何かが重要である。それは一言で言えば体感性のようなことだが、写真家という人たちも写真に写せない何かを写したいと言う自己矛盾をかかえているはずだと勝手に思っていたらやはりそういう人がいた。笠原美智子は『写真、時代に抗するもの』青弓社2002の中で「見えるものと見えないもの」について書いていた。そこでは米田知子の「Between Visible and Invisible」という写真をとりあげている。この写真集には例えばこんな写真がある。反戦家ヘルマン・ヘッセの愛用したメガネを通して兵士の写真を見る写真。もちろんここに視覚的に見えない何かが見えるわけではない。視覚表象と記憶表象が融合しながら目に見えない何かが形作られることを意図しているわけである。このメカニズムは建築でも時折見られることである。
事務所でフランスのインターンシップの学生Janaiaに初めて会う。今までの研修生の中で最も静かで寡黙な人である。文学を学んでいたせいか?日本の血が入っているせいか?もくもくと10時まで日曜日のプレゼン用模型を作っていた。

February 4, 2010

大雪

8時の鈍行電車で直江津へ。そこから北陸線で金沢へ向かう。ところが、また信越線が止まった。大雪のためロータリー車が出ているというアナウンスが車内に流れる。「ロータリー車」というこの響きが妙に懐かしい。幼稚園児の時に眺めていた電車図鑑の絵が蘇る。あんなものが本当に動いているなんて!と思ったら本物を見た。まるで生きたシーラカンスを見るような衝撃である。屋根の上に1メートル、屋根の下に3メートルの雪が積もっている。電車の音は雪に吸われ、車内は薄気味悪いほどの静寂である。読書するにはちょうど良い。神林恒道・仲間裕子『美術史をつくった女性たち―モダニズムの歩みのなかで』勁草書房2003を読む。女性は古来アートの創作対象にはなっても創作主体にはならなかった。というのが一般的な言われ方である。しかしそれは本当なのか?「いるだろうこういう人も」。と歴史を再探索したのがフェミニズ美術史の始まりのようだ。しかしどうもその問いには限界があった。例えばエコール・デ・ ボザールは19世紀の終わりころまで女性の入学を禁じていたそうだ。その理由は笑っちゃうが、男性裸体デッサンがあるから。しかも女子学生が男性裸体を見ることが問題なのではなく、男性裸体を見る女子学生を見る男子学生がいると言うことが問題だったようだ。とまあその滑稽(と思える)な理由はさておき、女子が偉大な芸術家になる登竜門を通過できなかったことから考えても、女性芸術家の絶対数に限りがあったのは事実のようである。そこで本書は20世紀になってからやっと前線で活躍できるようになったアーティストからディーラーからパトロンまでおよそ女性であれば論考の対象として、彼女らの苦悩やら変革やら読み解き方を考察している。最近ジェンダーものを意識的に読んでいるが、日本ばかりか「ヨーロッパもそうなのね!」ということを再認識させられる。6時間電車と待合室を往来し、なんとか金沢に着いた。融雪装置で溶けたびしゃびしゃの雪の中を学会へ向かう。1時間遅れて北陸建築文化賞の審査に加わる。来月は現地審査。この支部は広くて不便な場所が多く車の無い私のようなものは最悪である。審査場所まで東京から行っても、長野から行っても4時間かかる。しかもボランティア活動である。そう言えば今日の交通費も出ていない。6時ころ学会を後にして駅へ。なんとか最終のはくたかに乗れた。今日はもう金沢に缶詰かと思ったが電車は動いていた。帰りは疲れたので内田樹の本を読む。阪神震災時の話が書かれている。内田氏は神戸の大学の先生をしているので大学は地震直撃だったようだ。彼は復旧のため1カ月土方作業に明け暮れた。教員の中には土方は教員の契約に入っていないと言って休講=お休みを決め込む人もいて、そういう人に限って、とりあえず大学が使えるようになるとばりっとネクタイを締めて教授会の席で「この震災から何を学ぶか」などと発言した。彼はそういう発言をまじめに聞く気になれなかったと言う。なるほど人間には土方型とネクタイ型がいるわけだ。はなはだ単純な二分法だがこの切り口で分けられた二種の人種の差異は鮮明である。もし僕も同じ状況になったらきっと土方型だろうなあと思う。恐らく、土方型はネクタイ型ほど功を成すことはないだろうから(内田氏は成しているが)、理性が働けば僕もネクタイ型になるかもしれない。でも理性の前に体が動くのだと思う。なんて書くと坂牛はなんて熱い奴なんだ、なんて思われても困るのでやっぱり僕はどう行動するか不明ということにしておこう。でも心の中は内田的である。その意味ではこの人けっこう気が合うかも、と思うのである(この本全部読んでいると、余りに同じことの繰り返しと、彼特有の言い回しが最後のころには鼻につくのだが、、、)。

February 3, 2010

じわっと大学

昨日はべたっと大学の仕事に浸かっていたが、今日もどっぷりである。誰かが大学の先生が働くのはこの時期(だけ)だと言っていたが正しい。9時に学生がインターンシップの相談。大学にいるときはなるべく対応してあげようと、知っている事務所に電話。しかし9時に来ている奴はそういない。携帯かけてもまあ出ない。組織の人は通勤途中。アトリエの人は睡眠中。やっとつかまったW君に快諾いただき助かった。10時に別の学生が進路相談。人生相談なんだか、精神カウンセラーなんだか?能力の限界を超える。昼まで電話。昼食後博士入試。最近は社会人博士が実に多い。今日の受験生も全員そうである。会社は偉いものだ。やっと少し空いた時間でやっと金箱さん確保。中国現場での中国設計院の設計方法について質問。それをクライアントに伝えたいのだが時間が無い。土木修士学生の副査を頼まれ研究室を出て雪の中会場へ。歩きながら電話。やっと出たクライアントは羽田空港飛び立つ直前。話せたのはものの3分。綱渡り伝言ゲーム。1時間かけて一人の修士審査とは土木の方式はなかなか濃密。でも院生が少ないからできること。建築でこれをやったらパンクする。部屋に戻り早めの夕食。食後m2の発表練習。彼らの準備がいいからなのか、疲れて頭が回らないからなのか、もはやこの時期にという達観からなのか、問題なく終わる。それから副査を頼まれている5本の修士論文に目を通し始める。「もう今日は論文は読みたくない」と頭がだだをこねている。仕方なく梗概だけをさっと認知して(読むのではない、読字である)概略を抑え今日のところは終り。さあもうないなと思いきや、来週頭のガイダンスのことを今日やっておく必要があることに気付く。気付かねば良かった。いそいそと去年の資料に目を通しながら、いいアイデアを探るが浮かばない。とりあえず書類は作る。事務所から今日の図面と模型写真が届く。うーんいいような悪いような。

先ほどメールで来た情報を載せておこう。信大の2,3年生で興味ある人は是非おいで。坂牛はゲストで両方に顔出している。

① 2月16日13時 千葉大学卒業設計講評会 13時~17時 西千葉

② 2月23日18時 東大、東工大、芸大修士有志の論文や作品についてのセッション

タイトル>
『6Q ~6の問いから始まる即興建築トーク~』

内容>
新しい建築のトークイベントを二部構成にて開催します。

●第一部:プレゼンテーション
東大・東工大・藝大の三大学院の修士論文・制作を基に、各発表者が一つずつ「問いかけ」を行い、計「6つの問い」を会場に投げかけます。

●第二部:ディスカッション
ディスカッションに関するテーマは決めないという方式を取ります。第一部で挙がった「6つの問い」に対して会場と共にディスカッションを行い、即興で本イベントの全体テーマを浮かび上がせるという新しい試みを行います。

日程> 2010年2月23日(火)
時間> 18:00~21:30 [16:45~(受付) 17:45~(開場)]
場所> Uplink Factory (渋谷)
料金> 500 yen (1 drink)
定員> 80名程度

発表者(敬称略)>
東大院---- 服部一晃(論文) 林盛(論文)
東工大院-- 中川大起(論文) 岩間直哉(制作)
藝大院---- 秋田亮平(制作) 中村紗惟子(制作)

③ 前田紀貞さんのバーオープン以下前田さんからのメール抜粋(許可なく載せてすいません。でも宣伝なので)

さて、突然だが、僕の狛江オフィスの半分を改造してバーがでた。
名前はTENZO(典座)といいます。

これは、今の建築界の一部にある いたって表層的な動向を危惧するからであって、僕が今年50歳になることを契機に、若い建築家や学生たちと本気で語り合う場を持ってみたいと考えた。TENZO(典座)を基地にして、これからの人生賭けて、建築界のひ弱で腐った部分を命賭けて壊してやろうと思っている。
その第一弾が昨年からスタートしました「建築塾」であり、このTENZO(典座)は第二段です。

店内は、「建築コーナー」「バイク/自動車コーナー」「書籍コーナー」「音楽コーナー」と4つのコーナー席に別れていて、殆どがゆったりとした大型のソファー席で構成されているよ。
デザインは、狛江アトリエ(天井高4m)をモダニズム初期の荒々しい空間に近づけてみた。

あと、店の運営は、すべてアトリエのスタッフたちが行う。これも、事務所の若衆たちの建築の精進のひとつだから。料理は、20年間のアトリエの宴で出していたメニューをパワーアップしたもので、とても美味しく提供できていると思うよ。
僕も、殆ど毎日、夜は店にいるから、是非、寄ってみてな。

待ってます(^_^)v


TENZO(典座) HP
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/TENZO/00TENZO_toppage.html

February 2, 2010

べたっと大学

朝、学科会議。来季の役職決め。難を逃れる!昼まで、たまった事務処理で納品物の検品。段ボールを抱え庶務と研究室を往来。このシステム簡素化できないものか?昼食をとりながら地元設計事務所長さんと懇談。20人クラスの事務所を長野で35年続けている。立派なもの!午後市役所の審議会。今日は実に平穏。審議する内容がほぼ0で拍子抜け!戻ってきて夕食までコンペの打ち合わせ。徐々に煮詰まり人出が欲しい。いっしょにやろうと声をかけてものってくる学生が少ないのは淋しい限り!夜4年生の発表練習。初めて聞いたにしては珍しく理解可能なものが半分。分からないものは分からない。分からないことをしゃべる罪は軽い。分かられていないことを分からないのは重罪!終わって2年生のデザイン論のレポートを読む。とある建物を現地見学させた上で批評させた。恐ろしいことに39のレポートはたかだか4つくらいの主題に類型化された。ピロティ、ルーバー、ランドスケープ、照明。感性が陳腐、凡庸。一人だけずば抜けて面白い子がいる。まるで美学にいそうな語り口。

読字

最近、ブエノス・アイレス大学に旅立った修士の学生からメールが届く。時差があるのでいいタイミングで返事が出せる。これがアメリカだと異国情緒も薄いのだが、antipodas(地球の裏側)からのメールだと思うと感慨深い。午後事務所でスケッチ、打ち合わせ、スケッチ、打ち合わせ。3日空ける事務所での作業の方向性と、明日から来るインターンシップの学生にやらせることを考えていたら夜になった。外はみぞれ。オー寒。終電のアサマで長野へ向かう。車中内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ㈱2009を読む。邪悪という言葉にひかれて買った本だが、なんのことはない、彼のブログの中から邪悪に関係する文章を抜いて並べた読み物だった。しかし売れっ子というのはブログも金になるのだからたいしたものだ。その中に文科省が推奨する小中高向けの「朝の読書運動」についての文章があった。朝の10分程度の読書が何の意味があるのかとバカにしていた著者だったが、学生の指摘を受けて目から鱗だったとか。それはこの運動の意味は読書させることではなく、読字にあるという指摘だったそうだ。人間は字をいきなりシークエンシャルな意味の流れとして捉えるのではなく、先ず絵として認識する。そしてその次の瞬間にそれらの絵を意味の列として理解する。なるほど。そうかもしれない。そしてこの絵としての認識能力が極点に達すると、絵は一瞬にして意味の体系へすり替わるところまで行くのだと言う。速読とはそういうことのようだ。ゆえにこの読書運動は読字訓練と考えると意味がある。というのが著者の結論。それを読んで、先日ネット上で遭遇した我が親父のことを語るある文章を思い出した。それによると彼(親父)はとんでもないスピードで本を読むのだそうだ(そんなことは50年間一度も聞いたことはなかった)。その時はへーそうかと思っていただけだったが、今日の読字の話を読んで、昔親父も似たようなことを言っていたのを思いだした。曰く「読まなくても見れば分かる」。その頃は冗談だろうと思っていたが、半分くらい本当のことなのかもしれない。