年末に理科大でWSを行うエンリクが参考書としてあげている本の著者がハンビュンチョル(Byung-Chul Han)。ベルリン芸術大学の哲学の教授である。サウォル号が沈没した時に韓国大統領の言葉に反し、殺人者は船長ではなく新自由主義だと語り一躍世界に名を馳せた。彼の本は残念ながら英語も日本語もないのだが、ネットを渉猟すると彼の主著疲弊社会(Fatigue Society)のサマリーが転がっていたので読んでみることにした。
現代社会は病理学のアナロジーで語ることができる。病理学では細菌性の病、ウィルス性の病、そして神経性の病と病は進行し現代にいたる。細菌は抗生物質学が、ウィルスは免疫学が退治した。しかし精神性の病は特効薬がない。それは敵が見えないからである。社会も似ている。ここ100年、社会の敵は侵入者であった。侵入者は退治すれば社会の平穏は保てた、しかし現代は敵が見えない。退治する敵は実は社会に外在するのではなく、社会に内在するのである。ではその敵はどこにどのように内在するのか?
フーコーが言うようにこれまでの近代社会は規律社会であり、そこではしてはいけないことが決まっていた。一方で現代社会は達成社会(achievement society)であり肯定が前提にあり常に生産性を高め何かができることを重要視する社会である。そこでは肩書ではなく個人の人格と能力が重んじられ、それゆえに個の全人格的な熱情が解放される。そしてその解放が個々の精神を疲弊する。そして鬱病などの神経性の病理が蔓延する。
ハンはこう言う「「できることが何も無い」と鬱病患者の不満が生まれ得るのは「できないことは何も無い」肯定性を信じる社会においてのみである」
達成社会は個を孤立させて疲弊し、社会は疲弊する。そこから抜け出る可能性の一つは社会の無意識の中で駆動する生産性を克服し、何かをしない、見ない能力を向上することではないか?とハンは主張する。
このしない見ない能力の一つとして、例えばIPHONEに光る着信、着メールを無視する力などをハンは挙げていた。
疲弊社会というのは無意識に知らぬまに走り、止まるきっかけを感じさせないそういう社会のことであろう。話をWSショップに戻すと、つまり、僕らの周りは走る空間だけではないかという疑いの目を養うところから始まる。走らない、と公言して憚らない、走らないでも奇異の目で見られない。そんな空間はあるのだろうか?無ければ作ろうというのがこのWSの狙いになるということなのだろう。詳しくはエンリクに会って聞いてみよう。