システマティックな過剰はいつ終わる?
ハル・フォスターの新訳2冊斜め読み。一冊は中野勉訳『第一ポップ時代』河出書房(2011)2014。もう一冊は瀧本雅志訳『アート建築複合態』鹿島出版会(2011)2014。
原書が同じ年に書かれているので内容の関係性もあるのだろうと読んでみると確かにある。著者の中ではポップアートあるいはポピュリズムは建築にかなりの影響を与え(ヴェンチューリなどのポストモダニスト)その(消費主義、増強された視覚、システマティックな過剰)延長線上にコールハース、ゲーリー、ザッハを見ているのである。一方ミニマリズムの延長上にヘルツォーグたちを見て、コンセプチャルアートなどの延長上にディラー・スコフィディオを置いている。多くのとは言えないけれど、世界のスター建築家のかなりの部分がアートと渾然一体の建築を作っているという分析をしている。
一方『第一ポップ時代』においてはポップアーティスト(ハミルトン、リキテンシュタイン、ウォーホール、リヒター、ルシェー)たちは世の中のゴミ(彼らの素材)を全面肯定もしなければ否定もしないアイロニカルな肯定をしていたのだと言う。
資本主義が建築やアートの境界を投資の対象としてメルトダウンさせている現状において、お互いが投資価値を求めて過剰なヴィジュアリティを奪い合うむごたらしい状況が露呈されている。たまさかフォスターの二冊の本を一度に読んでみて、せめて第一ポップ時代のアイロニカルな視線が現代のポップアーキテクトの中にあればと願うのは季節外れのたわごとなのだろうか?システマティックな過剰はどこまで続くのだろうか?