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『コンフォルト』で新作を浅川敏さんに撮っていただいた。その昔ホタルイカという神田のイタリアンレストランを撮って頂いて以来である。撮影の日は北欧から帰る日と重なりお会いできなかったので彼が撮った写真全部持って事務所に来てくれた。来られたのはそれだけではなく僕が最近近所の不可思議な写真をFBに載せているのが面白いらしくお話をしたいということでもあった。彼は僕と同い年。
夕方浅川さんが事務所に来るよと隣の木島さんに言ったら弧風院も浅川さんに撮って頂いたというわけで、三人で荒木町で一杯ということになった。鈴新(とんかつや)に行こうとしたらなんと浅川さんは肉を食わないとのこと。というわけでそのもう少し向こうの有名な野菜鍋屋に行く。そこで鍋をつまんでいたら荒木町の流しのしんちゃんがふらりと入ってきた。そしたらなんと浅川さんが素敵な歌声で歌いはじめしんちゃんのギターがそれにハモッタ。久しぶりに素敵な音の時間を楽しませていただいた。そしていつもように「四ツ谷こくている」でもう一杯。
写真の話は面白い。撮る傍から違うアングルが思い浮かびシャッターを切る瞬間まで悩むらしい。そして浅川さんが気になった写真家は浅井慎平だとか、、、、
自分の書いた日本語を英語にしようと思って困ることがある。英語にならないのである。理由は論理的ではないからである。文章に主語が無かったり、文と文の関係が順接なのか逆説なのか分からなかったりするからである。しかし自分の日本語だからそこでまず自問して日本語を直せばとりあえず英語は作れる。
マーク・ピーターセン『実践日本人の英語』岩波新書2013に似たようなことが書いてあった。この新書は外人の書く日本人英語の欠点を指摘した本の中では出色の出来映えである。なかなか参考になることが多い。この本の11章は、こんな英語は子供英語だと注意喚起をしている。それは不完全なセンテンスとぶつ切りだそうだ。ぶつ切り英語とはとにかく文章が接続詞無に羅列されている英語である。外人の話す日本語もそう聞こえるけれど同じである。それでそれをどう直せばいいかというと接続詞を入れて行けばいいのだが、問題はその次である。そもそも日本語でものを考える時僕らはあまり論理的ではないのである。僕自身そうであるようにだらだらと思いついたことが羅列されがちなのである。だから接続詞をいれようにも入らない。つまり文章があって接続詞をいれるのではもう遅い。先ず文章全体の論理構造を考えてから書き始めないと接続詞などはいらない。入らないと子供の独り言みたいになってしまうわけである。
既述の通り自分の文章でさえこうなので、学生の文章はもっとひどい独り言である。というわけで坂牛研ではPD天内君が翻訳勉強会をして英語の論理構造に馴れさせようとしている。是非英語でも日本でも接続詞に自覚的になって文章を作って欲しいところである。
国際交流基金の助成金が下りることとなり建築家のロベルト・ブスネリと建築博物館館長のヘルナン・ビスマンが来日することになった。それは良かったが、彼らがアルゼンチンのとある国家プロジェクトの設計者に指名され予定の3月に来られなくなり、1月のしかも2日ころに来ることになった。下手をすると今年の大晦日である。まあ年越しを一緒にするのも楽しいなあなんて呑気な気持ちでいたのだが、さて飛行機やホテルのことを考え始めてはたと焦る。24万と予算組していた航空券はハイシーズンと円安でおおよそ30万である。加えて正月のホテルはもちろん高い。やれやれ!!日程変更をしたのは彼らだから、多少は自腹を切ることになっても怒らないでねとメールを打ちながら、うまい手はないものかと気を揉む。
先日ある方からたいそう立派な桐箱をいただいた。しばらく開けずに机の上に置いておいたのだが。先日開けてみて驚いた。なかなか素敵な加賀友禅の風呂敷が入っていた。加えて色が僕好みの薄いあずき色。なぜこの色が好きかと言うとその昔祖母が着ていた鮫小紋の着物の色だからである。しかしその色が好きだったのかその色の着物を着た祖母が好きだったのかは覚えていない。いずれにしてもそれ以来薄いあずき色の反物は好みになった。
さてそれからまたその桐箱にふたをしてしばらく事務所の机の上に放っておいたのだがまたふたを開けてみて驚いた。名が入っている。しかもなかなかいい字である。更に制作者の履歴を見るとこれまたたいそう立派な人(人間国宝)である。あれあれ返礼に返礼しなければ。
今日のゼミで建築の自律性とそこからの違反、あるいは「ずれ」を考えたいという学生がいた。こうしたずれを建築制作の方法論に置く人は少なからずいるだろうけれど、そのことを明示する建築家はそれほど多くもない。坂本一成もその一人である。その昔東大文学部の学生15人くらいを連れてHOUSE SAを見学させていただき、全員に5000字程度のレポートを書かせて先生に優秀作を選んでいただいた。その時優秀賞に選ばれた文章が若宮和男「HOUSE SAの詩学」というタイトルで、異化効果について触れていた。
http://www.ofda.jp/lecture/main/02visit/01/02.html
およそ異化効果(のようなもの)ほど表現として効果的なものはないだろうと僕は思っている。その昔とある建築家が建築表現の最も効果的な方法はコントラストだと言っていたがコントラストと異化効果(のようなもの)には通じるところがある。つい最近読んでいた高崎卓馬『表現の技術』dentsu2013 には広告表現の効果的手法として「ズレ」をあげていた。これもコンテクストの反転であり一つの異化効果(のようなもの)だろうと僕には思える。
午後八潮ワークショップ。本年度のキックオフミーティング。今年は公園工事の監修、八潮のツカイカタ釣りバーの制作、T邸茶室デザインと施工、昨年ワークショップのまとめ、そして新たな杜の庭造りプロジェクトである。駅前の会議室で打ち合わせした後、駅の逆側の公園工事現場へ。既に高圧線鉄塔回りの蔦を這わせるワイアーの下地が出来上がっていた。八潮からの帰り北千住から上野に出てラファエロ展に立ち寄る。ラファエロはマリアを多く描いたことで有名だが、その殆どは背景が淡い色。ところがこの「大公の聖母」は背景が真っ黒である。ウフィッチで見たときに不思議だなあと思っていたらこれは後で誰かが(あるいは本人が)黒く塗ったのだそうだ。最近のX線検査で分かったこと。
午後『住宅特集』の近作訪問で京都の建築家魚谷繁礼さんが編集部の藤田さんといっしょに「内の家」に来られた。この家には竣工後数回来ているのでその使われ方は分かっており、何のてらいもなくお二人を案内はできるのだが、やはり少々気恥ずかしい。
中を一通り見ていただいた後の魚谷さんの感想が面白かった。「結構施工が粗いですね、でもその粗さがこの建物にはあっているような、、、、」その後彼は僕にいくつかの質問をした。主として窓周りのディテールと、インテリアの随所に出てくるアールの処理について。
それに対して僕は少し考えた。一体僕はどこまでディテールのルールを考えているのだろうか?そしてこう答えた。ディテールのルールはある程度決めているけれど、その場その場で「いい加減」に変えていますと。彼はそれに対してこう言った、「よく言えば、施工も設計も適当なところがいいですね。そしてそれはとても予想外でした」と。
なるほどそう見えるんだ。それはとても新鮮だった。そして彼に言われて自分の設計スタンスも分かった。かなり厳格にいろいろなことを考えながらそんな自分を自分で裏切っている。自分の思い通りできない自分を自覚するのが建築だと言いたげな自分がここにいるようである。
大学院の製図の中間発表。藤原鉄平さんと構造の小西泰孝さんによるスタジオである。課題は藤原さんが横国の学部でも出しているという「アーキ・ファニチャー」。家具のような建築である。大学院生20名強が参加している。
動くもの、線材、棚、テンション材、面、曲面、建築と家具の定義を問うもの、等など、とりあえず分類してグループごとに発表してもらった。
僕の中では家具は触ることを誘発するものであり、建築とは誘発しないものととりあえず定義してみる。さて問題は、触ることを誘発する(アフォーダンス)とは何かということになる。
そのアフォーダンスはいろいろあるのだろうが例えば人を誘う家具とはどんなものがあるだろうかと思いを巡らしてみた。ビーズ玉が無数に入っていて座ると座った人の形状に変わるサッコという家具がある。これは廉価版が無印良品でも売られている。またパントーンチェアのようにプラスティック一体成型で座るとグニャグニャ動く家具もある。探せばこういう家具はいろいろある。これらに共通するのは座る前からこれはなんとなくグニャグニャしているというのが視覚的に感じられるということである。つまり構造的な不安定感を視覚情報として発しているのである。もちろんその情報は裏切られることもあるし想定内であることもある。
このあやふやな情報が人を誘っていると思われる。つまり構造的な不安定性情報を多く発するものが人を誘うのではないかと思うのである。この不安定性を持ちながら建築的な安定性が融合するところにアーキ・ファニチャのヒントがあるように思われる。
さてこうした一瞬のうちにアフォーダンス情報を発する物に対して、人が動く中でアフォーダンス情報が変化するような物というのもありそうである。一つのシステムが使う人のポジションで変化するというもの。今日はそんな面白いものがいくつかあった。もちろんまだまだあるのだろう、、、、、、、さあ後半頑張ってみよう。
仲正昌樹『ヴァルター・ベンヤミン』作品社2011の中に「翻訳者の課題」というテキストが解題されている。昨今翻訳をすることが多いので読んでみた。そもそも文学とはどんなものかというところから始まるのだが、それは人々の生活の連関(時間的な生活習慣の継承など)の表出なのである。そしてその表出の目的地は個々の作家の意図を超え、超越的に規定された「生の本質」あるいは「生の意義」に向いていると言う。
さてでは翻訳とはどんな作業か?それはある生活連関から異国の生活連関への移動なのである。翻訳は、よって、単なる単語の置き換えにとどまる作業ではなく、新たな場における「生の本質・意義」へ向けた創造なのである。さらに、後にベンヤミンは生活連関の表出は様々な場所で起こることを認めている。もちろんそこには建築も含まれる。上記翻訳を建築で考えるなら、さしずめ竣工時の生活連関がもはや薄れた後年におけるリニューアルのようなものである。それをベンヤミンに引き寄せて考えるなら、リニューアルすべき既存の建築にはその昔の「生の本質・意義」があってしかるべきであり、そして新たな操作にはこの時代の「生の本質・意義」を刻んだ創造でなければならず、このせめぎ合いこそが創造的翻訳(リニューアル)の成立条件なのであろう。
4月からゼミが始まり、学生の発表を聞いていると何を言っているのか理解できないことが多い。特に論文付き設計を行う学生にはこちらも杓子定規にやると面白いものにならないだろうと気を使い論理性を欠いても注意をしない傾向がある。しかしそうして放っておくと手が付けられない。どんどん意味不明度が加速する。
論文を書く学生にはそれなりに厳しく接しているのでまだたががはまっているのだが、これも注意をしないととんでもないことになる。
そもそも彼らが最も分かってないことは、彼らは自分の興味を文章にすれば論文になると誤解している点である。「私はこういうことに興味があります」というだけのプレゼンを聞いてこちらは何と答えればいいのだろうか?「どうぞご自由に」としか言いようがない。
論文書くなら論文とは何かくらい自分で先ず勉強してきてほしいのだが、そういうことをしているようには見えない。仕方ない。推薦ハウツー本くらい探して読ませないと駄目なのかと思い佐藤望編著『アカデミック・スキルズ―大学生のための知的技法入門』慶応大学出版会2012を買ってきた。
そこにも書いてあるとおり、論文書くには少なからず情報収集が必要である。現代は多くの方法があるけれどそれでも本の数十冊くらい読むのは当たり前である。そしてそれを整理するために文献カードを作るのもいろはのいである。自分のカードを引っ張り出してみると、学部時代70冊、院時代は100冊くらいである。もちろんそのすべての本を精読などしていないがその程度は目を通さないといくらフィールド調査ものでも考察の厚みや客観性を持ちえないのである。
自分のお気に入り情報にとり憑かれて、硬直した思考をするのではなく、多くの意見を吸収して自らを相対化してほしいものだ!!!
友達が佐々木圭一というコピーライターの書いた『伝え方が9割』ダイヤモンド社2013という本を貸してくれた。最近売れているらしい。この本にはちょっと驚くことがある。一番最初に全体の要約がA4一枚程度にまとめられていてこれを切り離して手帳にはさんで持ち歩けと書いてあるのだ。そしてこの要約が見事である。これを読むと中身を読む必要が全然ない。いやあ本ってこんなものだよ200ページの本の重要なことなど2ページにまとめられるものなのだと痛感した。
いや待てよ?しかしそれではちょっとまずかろう。僕がいつも思うことはある本の内容の自分にとって重要と思うことは確かに1ページ程度にまとめられる。しかし全文の内容が1ページでは少々内容が薄っぺらだよなとも思う。1400円の内容がA4一枚というのだとさて?買う価値があるのだろうか?と少々疑問でもある。
でもまあそれを差し引いても売れているのにはそれなりの理由がある。そう思ってもう一度さらっと読み返すと、良いコピーが生まれるのは才能では無なくテクニックであるという著者の実体験に基づく確信が吐露されているのである。およそ才能が無ければできないという職能の半分以上は才能の問題ではないと僕には思える。だから著者の確信には共感する。じゃあだれでもA4一枚の指南書を携えていれば名コピーが書けるのかと言えばそれは無理である。問題はその指南書をもとに努力(練習)できるかどうかである。
建築版『伝え方が9割』を今書こうとしている。でもその本を携えていれば誰でも優秀な設計者に成れるのかというとそれは無理である。それをもとに才能に頼らず努力(練習)できるかどうかの問題である。
高校の先輩でサッカー部の先輩でもあるSさんが金町キャンパスに遊びに来た。きっかけはFBである。FBで理科大が引っ越したことを知り、新キャンパスを見たいと言い来校することとなった。来校することをFB上で知った大学の先輩先生UさんがSさんを良く知っているとおっしゃり、では自分も会おうということになった。するとそれをやはりFB上で見た理科大OBで僕の高校の先輩でもありこの3人を知っているIさんがSさんとUさんが知り合いとは知らなかった、自分も是非合流しましょうということになった。そしてSさん、Sさんの奥様、Uさん、Iさん、私の5人で食事をした。FB恐るべし!
朝から読書三昧。
一冊目
佐藤直樹『なぜ日本人は世間と寝たがるのかー空気を読む家族』春秋社2013
世間とは①お返しの世界であり、②年齢や職業の身分を尊び、③「皆同じ」を尊重し、④習慣を重んじる。そんな日本には欧米型の近代家族とは少々異なり公私があいまいで世間が混入した家族が出来上がる。そんな家族には空気を読むのが好きな人間が生産される。我が家も僕以外は空気読むのが好きである。まあそれはそれで悪いことだけではないのだが。
二冊目
高橋秀実『男は邪魔!「性差」をめぐる探求』光文社新書2013
いやはや最初から最後まで男は役に立たない一点張り。一冊目の世間体の話が少々古臭い話題なら男蔑視は超今的な話である。確かに冷静で素直で賢い女性陣がこれからはもっと社会で活躍すべきだとはつくづく思う。「おれがおれが」と口だけの五月蠅い男性陣はもうすぐ総入れ替えであろう。
三冊目
古市憲寿『僕たちの前途』講談社2012
若者に未来はないという話はもう山のように本屋に並んでいる。そこで未来のある、かと言ってホリエモンのように派手ではない、地道な若い起業家の実態をデーターに基づき調査しようとした本である。著者自身が大学のドクターに在籍しながら3名程度のベンチャー企業を立ち上げている。これからの時代起業も金のためではなく、やりたいことをやるためのものだから大人数にはしない。ただし少人数で金を稼ぐには付加価値の高いこと(他の人ではできないこと)をするべきだと提唱する。その通り。
理科大工学部二部は建築と電気の研究室は葛飾にあり経営工学と教養は神楽に研究室がある。加えて建築と電気は3年まで神楽坂で授業。考えてみればかなり複雑。そもそも一つの学部が二つのキャンパスで活動しているなんてあまりあるものではない。そこで教授総会もどちらでやるかということになり、結局テレビ会議をすることとした。今日はその初回。両方でやるため、資料の用意など煩雑になるので次回からはペーパーレス化することとなった。
ペーパーレスと言えば、今朝、壊れかけてきた事務所のコピー機をどうするかという話し合いがあり、今後コピー機と言うものはどれほど必要になるだろうかという議論があった。これからの時代、人にものを見せるにしても見る側がタブレットを持っていて、紙を渡すのではなく、データーを渡す時代がもうそこまで来ている。重要なのは情報であって、それがうまく伝わり間違いなく保管できれば十分。紙が必要なのは紙が最も効果的な時だけでいい。
話は理科大にもどるが、建築は葛飾に研究室はあるのだが、神楽での授業が多いので、神楽にも教員室を作っていただきようやく家具も入り完成。先日とある人に、大学の先生は給料は安いかもしれないが、ランニングコストのかからない別荘を無償で貸与されているようなもの、加えてその別荘にはカフェもあれば図書館もあるのだからこんな贅沢なことはないと言われた。確かに神楽と葛飾の二重生活は大変だけれど、都心と郊外に別荘を貸与されていると思えばそれを有効に使わない手はない。