プロセスが見えること
岩波ブックレットという60ページ程度の小冊子がある。数冊買って放っておいた一冊に偶然近著を二冊ほど読んだ福岡伸一氏のものがあった。タイトルは『生命と食』(2008)。その中にこんな話がある。氏が好む京料理の一つにすりおろした蓮根を握ってあつあつの椀にひたす料理がある。その料理のルーツを京都吉兆の当主から教えてもらったとき当主はこう言ったと言う。「でも、練りものというのは、料理としては本質的に「逃げ」なんですよ」と。それを受けて氏は現代の食物はファーストフードを筆頭に製作のプロセスが見えない練りものだらけ。練りものは何がどれほど混入しているのか全く分からない危険状態なのだと言う。そして食物ばかりか経済にしてもサブプライムも立派な練ものだと言う。不良債権になるかもしれないローンを他のさまざまな債権と練り混ぜ見えないようにして売りさばき、その危険なローンが発病したのだから問題の一端は練りまぜにあると主張する。先日お会いした女性社長もサブプライムは世界を相手取った一大詐欺だと言っていた。彼女もブラックボックス化にことの原因をおいている。
そう言われて我々の周りを見れば、建築におけるスケルトンとブラックボックスという問題に気が付く。建築は透明化と同時にブラックボックス化もしている。そしてそのブラックボックスが竣工後、誰も分からぬ困ったことを引き越す。故柳田博明氏は「昔のテレビは自分で直せたのに今のテレビは捨てるしかない」と昨今の家電ブラックボックス化を嘆いた。数万のテレビは捨てられても数千万の建築を捨てるわけにはいかない。やはりプロセスが明瞭であることはすべてにおいて望まれることである。因みに僕は食の練りものもあまり好みではない。昔かまぼこやのそばに住んでいたからだろうか。煉りものを見ると練り混ぜ機械の中でぐるぐる回る生臭い魚肉が頭に浮かぶ。