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June 30, 2007

打ち上げ

6月29日
3週間ぶりで東大の授業。金曜日に学内で委員会が続いため2週休講にしていた。久しぶりのせいか学生の出も悪い。授業後事務所に戻り土曜日の現場打ち合わせ内容を確認。夕刻日建に行く。久しぶりにY氏、A氏に会う。しばし打ち合わせの後、超高層プロジェクトpreliminary designの打ち上げ。飯田橋のレモンというモダン焼き屋に行く。日建時代はよく来た。懐かしい。その後1杯のみに神楽坂へ向かう。昔の記憶をたどりながら裏道に入る。bar olizaが未だあった。バーテンも昔のままだ。懐かしい。ウイスキーとカクテルを一杯づつ飲む。体調も悪いし明日は朝一現場なので9時半頃帰宅。

June 28, 2007

白の家


午前中リーテム打ち合わせ。7月第三週に中国で第一回めのワークショップをすることに決めた。僕はいけそうも無いが、2回目には行こうと思う。8月は中国、イタリア、コンペと少し忙しそうである。午後篠原一男設計の白の家に行く。白の家の敷地は計画道路にかかっておりいつか引越さざるを得ないと言われていた。それがついに現実のものとなるとのこと。しかしdocomomoの選定を受けており家ごと引っ越すとのこと。つまり移築するのである。その前に見納めで見学会を開いていただいた。依然一度だけ見たことがあったがその時どうしても見せていただけなかった部屋があった。それはクライアントの意思だったのか先生の意思だったのか不明だが。広間の逆側の一階部分である。ここは雑誌などにも一度も現れたことが無い。今回はそこも見ることができた。どんなに窮屈な部屋なのだろうかと予想して入ってみると実に良い部屋なのだ。多木浩二は先生の住宅を評して、建物を分割して見せ場の広い部屋とそうでない個室群を作ると書いているがそうでない個室群もとてもよくできていると思う。と言う感想を近くにいた長谷川逸子さんに言うと。そうですよとてもよく作ってますよとおっしゃられていた。

ロイズのパーティー

6月27日
午前中持病が再発し日赤に行く。なんという幸運だろう。月火水と長野にいて時間が空いているのは水曜の朝だけ。そこで病気になるなんてあまりにできすぎ。治療し検査し午後の製図に滑り込み。製図ももうエスキスの段階ではないので少し早く終わる。
東京に戻り夜目黒でかみさんと待ち合わせ。ロイズ・アンティークhttp://www.lloyds.co.jp/碑文谷のオープニングパーティーに行く。ロイズの社長夫人とかみさんは同級生。なかなか盛大である。しばらくパーティ会場を歩いていると「サカウシさん」と声をかけてきた人がいる。建築家の井上さんである。僕らにするが幼稚園の施工者石井組を紹介してくれた人である。「なんでここにいるの」と聞くと社長邸の内装リニューアルをしたという。ビックリである。なんとも世界は狭い。パーティは途中ダンスパフォーマンスが行なわれる。最近パーティーイベントにダンスは多い。帰り際またまた知り合いにあう。もと浜研の楠林さんと杉浦夫妻。かれらも自分の店にロイズの家具を入れているようだ。

June 26, 2007

キャンパス計画

キャンパス計画の理事への説明に松本に出向く。パワポを使って40分。やっと2キャンパスの説明を終える。5キャンパスからなる信大では5つの計画を作らなければならない。関連性はまるでないから5大学分の量である。地元の協力建築家sさんや、院生のy君とのチームワーク無くしてとてもできない。またキャンパス計画は大学の施設課との合作である。施設課の協力なくしていい計画にはならない。その点4月から東工大の施設にいらっしゃった山田さんが来られ力強い。安田さんのファサード改修やデッキ整備を担当してこられた方である。今後の共同作業が楽しみである。
大学に戻ると夕刻である。製図の授業に出られなかったが果たして上手く進んでいるのかどうか気がかりである。夜中に製図室を覗く。4年も3年もそろそろ追い込みである。

June 25, 2007

喉が痛い

会議、会議の合間を縫って、午後の講義の予習。現場から設計変更の見積もりが上がってくる。嘘でしょう?3万円。おかしいだろうと原価の差を提示すると、3千円の間違いでしたとの返事。どうもこう言うミスをされると疑心暗鬼になる。言いたかないけれど、施工者はハイエナだ。
午後の講義の後ゼミ。今日は椹木野衣シミュレーショニズム。そろそろこの本の内容もコンテンポラリーのものから歴史へと変化してきている。時の流れを感じる。どうもゼミの時から元気が無い。腹が減っているからかと思っていたが食事をしても元気が出ない。風邪だろうか??ちょっと喉が痛い。机の中に風邪薬発見。

日曜日

6月24日
午前中事務所でリーテム中国プロジェクトの打ち合わせ、なんとも時間のかかる作業である。帰宅後昼食をとり一休み。かみさんの作品選びに付き合う。娘と私で作品を一枚ずつ掲げそれをかみさんが二者択一で選んでいく。数十枚あるなかから数点を選んでいる。近代美術館でアンリ・カルチエ=ブレッソンを見てから国立新美術館で書象展を見る。会場は広いが作品数が膨大なので所狭しと展示されている。かみさんの作品はかな作品なのに上のほうに展示されていてよく見えない。残念である。上条信山の作品の回りには長老弟子たちのすばらしい作品がここだけは間隔もしっかり空けて展示されている。その作者の一人市沢先生にばったり出会う。彼は今年の春まで信大教養学部の教授だった。同時開催されている「日本の書展」にも出品している日本の10人に数えられる書家である。信大のこと、この美術館のことなどしばらくお話し別れる。東京駅に向かい丸善で買い物をして新幹線に飛び乗り長野へ。

June 24, 2007

A0

6月23日
午後A0の翻訳読み合わせ。原文と訳文の上に目をすばやく移動させなければならないのだが、さすがに2時からはじめ6時くらいになると目が動かなくなる。目の筋肉が疲労困憊。翻訳も一種のスポーツである。しかし坂牛班はなんとかbiological fallacy (生物学的誤謬)の章を終わらせる。終了後今後のスケジュール確認する。秋には翻訳メンバーの一人が留学先のロンドンから帰国することを聞き喜んだのだが、昨日出席していた一人が現在働いている会社を退社してロンドンに留学することを告白。喜ばしいやら悲しいやら。
久しぶりに家族で夕食。近くの牛たん屋に行ったら研究室の学生に遭遇。向こうこちらもビックリ。帰宅後『死刑のすべて』文芸春秋2005を読みながら就寝。

June 22, 2007

授業参観

朝一で娘の学校の授業参観に行く。好きな時間に好きな授業を勝手に見に行けるシステム。とは言え遅い時間にはいけないので選択の余地はなく、朝一のホームルームを参観。早いせいか父母の姿は少ない。自らの記憶をたどればホームルームほどつまらない時間は無かったし、なんともしらけた時間が続いたものだ。しかし、どうしてどうして、彼女らのホームルームは文化祭の準備とか、臨海学校の遊びの時間の過ごし方とか議題ごとに委員が前にでて意見を引き出す。賛成意見も反対意見も上手く聞きそれを手際よくまとめる。いやはや大学の会議よりも建設的である。小雨降る中早稲田文学部の坂を下り東西線で大手町から東京駅に抜け新幹線に飛び乗る。車中山崎正和の『装飾とデザイン』中央公論新社2007を読み始める。午後の大学の会議に出席。終わり会議を受けての書類を作り、新幹線に飛び乗り東京へ。

June 21, 2007

コンクリ打ち

朝一現場のコンクリート打ち。久しぶりのコンクリート。コンクリート打ちは緊張するがわくわくする。金箱事務所の上田さんのチェックが丁寧である。スペーサーやアンカーボルトの追加など細かく指示。足しげく現場に通ってくれて本当に感謝である。ポンプ車やバイブレーターの音に興奮する。物ができていく臨場感が伝わってくる。午後事務所に戻り、雑務。web上に提出された講義レポートのチェックをして感想を書く。夜ロンドン転勤になる友人の送別会。某大手広告代理店のヨーロッパのcfoとして転勤する。数年前日本に帰ってきたばかりなのにまたかという感じである。「帰ったら社長だな」などと周囲は勝手なことを言って茶化して楽しんでいた。今日は早々に帰宅し雑務の続き。明日はまた大学の会議に日帰りで行かねばならない。

June 20, 2007

帰宅

先週は例外的に金土と大学で用事があり一週間長野にいた。久しぶりに東京に戻ってきた。帰りの新幹線の車中で岡田温司『もうひとつのルネサンス』平凡社2007を読む。途中まで読んだら知らぬ間に寝込み気が付いたら高崎だった。今週は急激に気温が上がったせいか眠い。東京駅で丸善により気になる本を3冊ほど購入。最近美術のコーナーに行くと装飾とルネサンスが気になる。昔はそんなものにはまるで興味が無かったのに不思議なものである。帰宅すると郵便物とamazonがたまっていた。娘がうちに来る郵便物の半分はamazonだと言っていた。一週間ぶりにテレビを見たら松涛の爆破騒ぎが映し出された。建築ってこんな簡単に吹っ飛ぶものなのか?

zga

June 19, 2007

くらくら

朝一でコンペの打ち合わせ。そしてゼミ。他大学から僕の研究室に修士受験するかもしれない見学者一名。ポートフォリオを見せてもらう。なんとスタジオの指導者は柳沢潤とのこと。世の中狭い。午後製図。うーん皆頑張っているのだがもう1つ。夕刻本部へマスタープランの資料を送るのだが、なんと100メガ、メールでは無理。学内fttpサイトに乗せようと頑張るのだがやり方が分からず四苦八苦。夜某プロジェクトのスケッチ。情報収集。エクスノレッジのゲラチェック。なんと図のキャプションがまったく意味を成していない。写真と図版が整合していない。こんなゲラは初めてである????最近朝五時くらいから明るくて目が覚めるせいか寝不足である。変なゲラ見てたら頭がくらくらしてきた。今日中に帰宅せねば。

99.9%は仮説

6月18日
昨晩駅前の平安堂に平積みになっていた『99.9%は仮説』竹内薫光文社新書2006を買って風呂で読んだ。大学で疲れると夜平安堂に来て手ごろな読み物を買ってその下の蕎麦やで蕎麦を食べながらその本を読み家に戻り風呂で読むというのが習慣になっている。新書を読みきるのには丁度良い。
竹内薫が高校の一級後輩だということを誰かが教えてくれた。しかし高校時代に彼の記憶はない。今では方々で名を見るなかなかの売れっ子のようである。
この本は仮説という言葉をある時代の常識あるいはエピステーメーという意味で使い、その仮説に侵された頭がおこす様々な科学の事例を教えてくれる。科学音痴の私にも楽しめた。一番おもしろかったのはピエール・デュエム(1861~1916)の言う「仮説を倒すことができるのは仮説だけである」という言葉である。一般には仮説を倒すのはデーターなのだが、データー自体がある仮説のもとに集められている(バイアスがかかっている)のでそのデーターでその仮説を倒すことは出来ないという話である。もうひとつおもしろかったのはノーベル賞をとったミリカンの実験。彼は電気素を発見した実験データー170のうち自分の仮説にのらない112のデーターは無視したそうだ。112は実験が上手くいかなかったから間違ったデーターとなったと決めたのである。もちろんそれは誰にもわからないことだが結果はその通りだった。
どちらの例も論理性のない判断が道を開くといことを示唆していておもしろい。それも科学の分野でである。科学にしてこれなのだから、そうじゃない分野では言うまでも無い。

June 17, 2007

天気のいい日曜日

土曜日が松本だったので今年初めて日曜日に長野にいる。休みに長野に一人でいるというのは実に退屈である。しかし実に生産的でもある。車が無いので行くところは大学しかない。研究室の自分の部屋で本読んだり、スケッチ描いたり、メール打ったりする以外何もできない。まあ一種の軟禁状態である。

June 16, 2007

松井さんの新著

年に一回土曜日の授業がある、1年生を連れての建築見学。信大の一年生は松本にいるから松本の建物を見に行くことになる。伊東さんの市民芸術館と宮本さんの美術館を見る。去年は芸術館のシアターに入れなかったが今年は公演の合間で見ることが出来た。色と言い形といい本当によく練られている。また、館の方の説明ではじめて知ったことだが、この芸術館のホワイエはシアターパークという名が付いている。どうしてかというと、もともとこの敷地は公園だったのでこの建物を公園の如く市民が自由に使用できる公共空間にしようという発想だからだそうだ。朝9時から夜10時までホテルのロビーのように自由に出入りしていいということで今日も近隣住民がロビーでくつろいでいた。
帰りがけ美術館のほうのミュージアムショップを覗いたら松井みどりの新刊『マイクロポップの時代』パルコ2007 が出ており買って読んだ。90年代を語る前著『アート:芸術が終わった後のアート』に続き21世紀を語る批評であり興味深い(カタログなのでたいした量ではないが)。前著でフィーチャーされたセルトーに加え今回はドゥルーズの『カフカ:マイナー文学のために』が批評の根底にある。今度読んでみよう。

June 15, 2007

ルネサンス音楽

建築とか文学のルネサンスは近しい存在なのだが、どうも音楽のルネサンスというのは馴染みが薄い。小さいときから音楽をやっていたが音楽はバロックから始まるものだと思っていた(もちろんそんなことはあり得ないのだが)。そもそもルネサンス音楽のレコードなど僕が幼少の頃レコード屋には置いてないし、一般の楽器演奏者が弾くルネサンス音楽の楽譜など無かった。古くともヴィバルディである。そしてバッハ、古典主義のモーツァルト、ハイドン、ロマン派のヴェートーヴェン、シューベルト、なんて進む。もちろん今でこそ何かの機会にルネサンス宗教音楽を聴くことはあるのだが、(ルネサンス音楽と言ってもギリシアローマ時代の再現ではない)、何を聞いても同じように聴こえる(というのは言い過ぎか?)。先日ゼミで、ルネサンスもバロックもほとんど同じに見えると学生が言っていたが、僕も昔はそうだった。余り勉強もせずにローマに行き、なんだかどれも同じだなあと思った記憶がある。ルネサンス音楽と同じである。しかしそれも経験のせいか少なくともルネサンスとバロックの違いが明瞭になり、昨今ルネサンス建築の本を読み続けているとルネサンスの中でも微妙なニュアンスの差が明瞭に見えてくるようになった。きっとルネサンス音楽も相当量聞くとそれぞれ違う音に聴こえてくるのだろうが。

現場やら打ち合わせやら

6月14日
午前中、昔の現場と今進行中の現場と回り、途中ヨドバシカメラで新しい電子辞書を購入。娘の電子辞書が急に動かなくなったため。sony製である。名刺サイズでとても軽いその上、日、独、伊、仏、中、韓と入った優れものだったので娘はポケットに入れて持ち歩いていた。是非直したいと思ったのだが、回答は直らないので2万円差し上げるというもの。その上sonyは電子辞書から撤退してしまった。仕方なくセイコーの同じサイズのを買うが、遥かに重く英語のみである。
事務所に戻り中国プロジェクト打ち合わせ、いやはや過去の記憶を蘇らせるために2年分の打ち合わせ記録を読み返す。去年の年始から何も進んでいないことがよくわかる。今度は本当に進むのだろうか??ドイツからメール。アーヘン工科大学の学生がインドからドイツに戻りやっとポートフォリオを送ってきた。堅実でまじめな設計をしているようである。インドでのワークショップの集合住宅は興味深い。来日を認めるメールを打つ。最終で長野に。車中長谷川逸子の『生活の装置』住まいの図書館出版局1999を読む。篠原研を出てから70年代はとても観念的な設計をしているのが80年代に入り生活者の受容に対する思いが強くなる様がとてもよく分かる。建築家のマニフェストをたまに読むのは自らを律する上で気持ちが洗われる。

June 13, 2007

エイドリアン

夕刻、長野から青山塔の家に駆けつける。講義の都合で来られるどうかぎりぎりのところだったが何とか間に合う。ここでA+Uの津久井さんとエイドリアンと会うことになっていた。到着すると既に一行は家の中。東利恵さんに会うのは大小の窓の学会選集審査以来である。東さんもうろ覚えだったが、「どっかでお会いしていると思った」と再度確認の名刺交換。塔の家を見学するチャンスは後にも先にももう無いだろうと必死で駆けつけたかいがあった。6坪の空間は思った以上に迫力があった。最上階のロフトはとてもコージーな場所であった。そしてそのコンクリートのブルータルなテクスチャはこれまで見てきたコンクリート建築の中でも随一である。東さんの話ではこの家を使いこなした母はすごいとのこと。想像に難くない。竣工後30年たつと歴史となり、また最近月に一度は見学者が訪れるそうである。
見学後お定まりのコースではあるが表参道tod`s、を見て、そしてヒルズ。僕がここに来たのは初めてだと言ったら、津久井さんもme tooと言ったのには驚いた。その後ギャルソン、プラダを見る。夕食を食べながら、言葉と建築の話に、彼がよくあの本を訳したねと言うので、10人がかりで2年だよと答えたら、そうだろうと納得していた。しかしフランプトンを蹴っ飛ばしてあなたの本を訳し、それが1ヶ月で重版になったと言ったら喜んでいた。また欲望のオブジェの日本での評判を教えたらまた喜んでいた。また現在翻訳中のジョフリースコットの話をしたら、彼はとても興味深そうに彼のことを教えてくれた。

June 12, 2007

自由の恐怖

前回の東大の講義で「重箱と平皿」という講義をした。つまりヒエラルキーの高い空間とフラットな空間の対比、言い換えると目的性の低い原っぱ空間と高い遊園地の差異とその歴史について話をした。そしてその講義のレポートのテーマとして「目的性のゆるい原っぱ的平皿空間を身の回りに発見しその是非を論ぜよ」を提示した。レポートの中にはいくつかの興味深い観点があったのだが、その1つとして、原っぱは怖いという視点があった。そしてそう言った人は二人いて異なる対象をあげていた。一人は自ら働く野外博物館をあげる。そこには遊具のある遊園地的な場所と遊具の無い文字通り原っぱのような場所があるそうだ。そして前者で遊んでいる子供たちはその行動の目的が見えている一方、後者でうろうろしている人はその目的意思が読み取れないので不気味に感じることがあるというのである。もう一人原っぱは怖いと述べた学生の対象は、ブログである。ネット上で幸か不幸かブログやらその類の場所に紛れ込んだとき、「今日○○しました」風に垂れ流される私生活情報には(垂れ流す相手の心をつかみきれず)不気味さを覚えるというのである。
なるほど。平皿の有効性を使う側から考えたことはあるものの、それを端から見ている側の心理に気をまわしたことはなかった。確かに自由な人間を見ていると恐怖を感じることはあるものだ。

講義とゼミ

月曜日の午後は空間論の院生の講義。『言葉と建築』の第二部が教材。今日は記憶の章である。エイドリアンの説明にはロックの『人間知性論』など登場するので、簡単な哲学史として大陸合理論とイギリス経験論、そしてそれを調停したドイツ観念論を概説した。そんな話をするつもりはなかったのだが、ふと思いついて最初に説明した。不思議なもので、その後3時からの研究室のゼミでヴァーノン・ハイド・マイナーの『美術史の歴史』を輪読していると、まったく同じような話が登場する。学生の発表を聞いているとさきほど自分が話していることとまったく同じことが語られている。もちろん僕の概説は定説を語っているだけだから不思議なことでもなんでもないのだが。
最近講義の内容とゼミの内容が様々にオーバーラップするのではっとする。学生にとっては効果的な勉強になると思うが。

June 10, 2007

ロウ

久しぶりに雨。娘は英検の試験に行き、妻は大学の同窓会に行き私は家で大学の書類を作っていたが終わったので国立新美術館に行く。この建物本当に何時来ても混んでいる。もちろん平日に来たことはないが、土日はどこかのターミナル駅のようである。やはり公募展が3つくらいと企画展が行なわれているからだろう。それは上野の都美も同じだ。なんだか騒がしい美術館である。乃木坂きたからついでに何か見ようか、買おうかとも思ったが、さっさと帰宅。コリン・ロウ&レオン・ザトコウスキ稲川直樹訳『イタリア十六世紀の建築』を読む。ロウはロンドン大学のヴァールブルグ研究所に学び、ウィットカウワーとゴンブリッチと出会っているとは知らなかった。やはりアメリカの理論派ももとを質せばロンドンとは。知らなかった。

June 9, 2007

塔の家

東孝光+節子+利恵『「塔の家」白書』住まいの図書館出版局1988を読んだ。東一家の建築に対するおおらかさを感じる。あまり細かいことにこだわらず、決めず、使いながらさらに作りこんでいこうという姿勢と仕上げの大雑把さはとても共感してしまう。しかし日本のローンのシステムは使いながら直すのにお金貸すようになっていないからそうしたことができないと嘆いている。それもそうだ。

現場

6月8日
T邸の捨てコン上墨確認に現場へ行く。久しぶりの現場は心躍る。それにしても今年の入梅は少し遅い。来週はまだ晴れの日が続きそうである。現場の進行を考えれば天気が続くにこしたことはない。まあ暑いというのも辛いものだが、さっさと上棟して屋根さえかかればその下は快適だろう。

June 7, 2007

暑い

夏のような天気。リーテムで打ち合わせ、中国プロジェクトを本格的にスタートさせるために今月中に行なうべき点を確認。始まるまでが大変だが始まると早いだろう。まったく予想できないことがおこりそうで怖いのだが、あまり考え過ぎると進めない。岡田温司『もうひとつのルネサンス』を読み始める。

設計のスピード

設計のやり方は人によってもちろん異なる。一つ一つの案をそれぞれかなり具体的につめるタイプの人、案一つ一つは抽象的な段階で止めておく人。後者のタイプは確信できるものになっていない段階で具体的につめてしまうとそれで出来た気になってしまうことを恐れるのである。学生にもそういう個人差があるようだが、僕は学生のうちは前者のやり方で、一つ一つ具体的につめてダメなら次を考えるという方法をとるべきだと思っている。抽象的なスケッチで良し悪しを判断できるほど経験をつんでいないのだから。
今日製図第五(四年)課題の中間講評会を聞きながらそんなことを感じた。皆、手が動かない。一日一案作るぐらいのスピードが無いと設計者にはなれないと思うのだが。

June 5, 2007

山田守

先日東海大学の岩岡さんから山田守作品集なるものをいただいた。その中に青木淳の言葉がある。青木さんは山田守のデザインをこう言う。ディテールや空間の完成度を求めていない。それは普通のものである。標準仕様である。こう言うのは一般的にデザインとは呼ばない。デザインとはディテールから全体形までをも含めて建築家の意思のもとにある完成度を創ることであり、そうした観点からこれはデザインではないと断定する。一方で山田には不思議な雰囲気が漂っている。その全体形には独特の山田流がみなぎっている。しかしそれは全体形を含めたある別種の空気だとする。因みにこの論考のタイトルは「もうひとつの『デザイン』のあり方」である。つまり山田のデザインは細部から全体にわたる完成度を求める一般に言うところのデザインではなく、形にならぬ空気を作るようなもうひとつのデザインだと言うのである。うんうんそうかなあと思いつつもやはりちょっと無理があるか?雰囲気とはいえどもそれは山田流の未完成の形に頼っているからである。
しかし気分としては青木さんの言いたいことは分かる。確かに現代の建築が求めていることのひとつを山田が無意識に体現していたのかもしれない。山田のデザインした代々木の東海大にしばらく通った身にはある不思議な空気が感じられた。

June 4, 2007

フォーティー来日

今村さんもブログで書いていらっしゃいますが、われわれが翻訳をした『言葉と建築』の著者エィドリアンフォーティーが来日し下記のとおり東京で講義をすることとなりました。僕は残念ながらその日も次の日も大学で仕事があり参加できませんが、もしこの本に少しでも関心のある方は足を運ぶことをお勧めします。
テーマ:アーキテクチュラル・インパーフェクション
日時:6月15日(金)18:00~
会場:東京大学工学部1号館15番教室
当日先着順・定員150名
フォーティーのこの本は今更宣伝するのもなんですが、極端に言えば建築が社会構築的な産物であることを言葉と言う視点から分析した本であります。こうした分析が日本では今まで無かったといっていいでしょうし、これからもなかなか登場しないと思われます。しかし建築は明らかにこうした側面を持っており、そのことに建築家は気づかなければならないであろうし、それを自らの実践の下地とせねばならないであろうことは僕が言うまでもないと感じます。

ルネサンスの現代的意味

6月3日
ブルクハルトの名著『イタリア・ルネサンスの文化』を車中で読む。文化にこだわる本なので、美術が出てくるとそれは美術史にお任せしようとなるし、科学が出てくるとそれは科学史にお任せしようとなる。しかしそうした美術や科学が沸き起こる文化的基盤については徹底して論述しているというのがこの本の1つの特徴である。ルネサンスという概念を最初に正確に規定した本というだけありその内容はとても丁寧である。目次の大項目だけ見てもそれは見えてくる。Ⅰ芸術作品としての国家、Ⅱ個人の発展、Ⅲ古代の復活、Ⅳ世界と人間の発見、Ⅴ社交と祝祭、Ⅵ風俗と宗教。この中でもⅣ世界と人間の発見こそ本書の最も有名な章と言われている。そしてその内容の中でもなかなか面白いのはこの時代は階級制度は有名無実となり、世の中はフラットに変化し、教養と体力こそが人を図る価値だったという点である。さらに世界を発見するとともに風景美を発見したのも、風景画に先立ちこの時代だったというのも興味深い。神から開放され人間は神さえも人間にとってのものとしていくうえで俗化したというのもルネサンス絵画を読み解く重要な示唆であろう。
さて読み終えてふと現代のことを考えるとコルビュジエを近代のルネサンス建築家と呼んだ南條史夫氏の言葉が蘇る。近代の神たる機械と合理主義の呪縛の海に身を投じ、そこから這い上がるコルビュジエが現代を暗示していたというその言葉である。21世紀が期せずして、作るから使う、機械から人、建築から環境(風景)へとそのベクトルの向きを転じているその状況はまさにルネサンスと二重写しに見えてくる。

June 2, 2007

論文

先日香山先生からお手紙をいただいた。博士論文を送付したことへの御礼の手紙である。社交辞令だとしてもお褒めの言葉をもらうのは悪い気がしない。香山先生の評は、サブタイトルにあった。僕の論文サブタイトルは、「多様性と置換性を内包した設計原理としての設計指標の提案」というものであるが、この多様性と置換性、さらにこの置換性を導くための建築固有の原理としての暫定性を指摘していることが秀逸であると書かれている。ありがたいことである。
ところで、実は以前に桐敷先生からもお褒めの言葉をいただいた。よく丹念に様々な文献にあたっていることをお褒めいただいた。先日坂本先生はむしろもっと書きたいことだけ書いたら?とおっしゃっていた。そりゃそうかもしれないが、建築論としての全体性が必要なのではと反論したくなった。しかし論文なるもの、もっと個人的でも許されるなら、そのほうがはるかに楽である。

地鎮祭

信州大学は本日開学記念日でお休みである。東大の講義を朝一で終えてからT邸の地鎮祭に向かう。久しぶりである。http://www.ofda.jp/sakaushi/construction/type/01house/02/index.html今日の神主さんのイントネーションはちょっと変わっている。祝詞の声が響く中、お供え物のするめがぷーんと香る。昨晩大雨だったが今日は一点快晴で暑い。午後事務所で原稿校正、雑用。夜久しぶりに事務所スタッフとちょっと一杯。

June 1, 2007

東京で講評会

5月31日
午後東工大の3年生の製図課題の講評会にゲストで行く。少し早めに坂本先生を訪ねる。私の論文について様々なご意見をいただく。その後、坂本先生のドイツのプロジェクト、大学のプロジェクトを拝見。3時半から講評会。安田先生、八木先生、金箱さん、の担当で課題は表参道の企業美術館である。既に選ばれた17人が発表。私以外に山口さんがゲスト。途中坂本先生、塚本先生が参加。クリティークだけで6人いるのだから豪華である。レベルはかなり高い。図面も模型もかなり出来ている。ただちょっと企業の美術館という割にはそのソフトの構成がない。そこが問題。終わってから奥山先生に僕の研究室の学生の論文にアドバイスをもらう。建築メディア論の内容の深め方について話を聞く。