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自由の恐怖

前回の東大の講義で「重箱と平皿」という講義をした。つまりヒエラルキーの高い空間とフラットな空間の対比、言い換えると目的性の低い原っぱ空間と高い遊園地の差異とその歴史について話をした。そしてその講義のレポートのテーマとして「目的性のゆるい原っぱ的平皿空間を身の回りに発見しその是非を論ぜよ」を提示した。レポートの中にはいくつかの興味深い観点があったのだが、その1つとして、原っぱは怖いという視点があった。そしてそう言った人は二人いて異なる対象をあげていた。一人は自ら働く野外博物館をあげる。そこには遊具のある遊園地的な場所と遊具の無い文字通り原っぱのような場所があるそうだ。そして前者で遊んでいる子供たちはその行動の目的が見えている一方、後者でうろうろしている人はその目的意思が読み取れないので不気味に感じることがあるというのである。もう一人原っぱは怖いと述べた学生の対象は、ブログである。ネット上で幸か不幸かブログやらその類の場所に紛れ込んだとき、「今日○○しました」風に垂れ流される私生活情報には(垂れ流す相手の心をつかみきれず)不気味さを覚えるというのである。
なるほど。平皿の有効性を使う側から考えたことはあるものの、それを端から見ている側の心理に気をまわしたことはなかった。確かに自由な人間を見ていると恐怖を感じることはあるものだ。

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